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2022年11月7日
まったくべつの本
文章を書くことが仕事ではあるが、書く文章がすべて仕事になるわけではない。小説を書こうとして小説を、エッセイを書こうとしてエッセイを書くこともあるし、何の気なしに書いていた文章がいつの間にか一定の輪郭をもちはじめ、そこでようやく自分が小説を書いていると気づくこともある。私がは...
2022年10月7日
四割のほう
祖父が肺を病んで死んだとき私は小学校の中学年で、彼のことを、やたらと背筋がしゃんとして厳格な、碁を打つときだけ笑顔になって、ルールもよくわかっとらん孫を打ち負かしては悦に入るじいちゃん、くらいに記憶している。彼がビルマの密林を歩いていたのはその五十年あまり前のことだ。陸軍に...
2022年9月13日
おなじさ桜!
大晦日に坂本冬美が「さくら さくら いつまで待っても来ぬひとと/死んだひととは おなじこと」と歌うのを観たのと、その歌詞のもとになった林あまりの歌を知ったのと、どちらが先だったかは思い出せないが、いずれにせよ恋の情念など知らない小学生、もしかしたら幼稚園児のころのことで、生...
2022年8月12日
発作
ヴェルサイユの庭園で過ごす長い昼間、語り手と恋人は〈スズメバチがぶんぶんいうような音〉を耳にする。語り手の祖母は、〈人間のつくる芸術でも自然のなかでも、偉大なものを愛して〉いた。この羽音のような音も、きっと祖母は好きになっただろう。恋人に指摘されてそれが飛行機の音だと気づき...
2022年7月12日
美しい牢獄
あなたが思いつくどんな奇抜なアイデアも、すでに星新一が書いている。小説の書きかた読本を渉猟していたころに目にした言葉だ。だから、発想に頼るのではなく、プロットを練り、文章を磨け、といったような意味だった。それで私は、小学生のころに親しんでいたきりだった星作品を、十年ぶりに読...
2022年6月7日
ロードノベル
世のなかの人はあんまり砂丘と砂漠の違いをわかっとらんらしい、と気づいたのは、砂丘を最大の観光名所とする郷里を出てからのことだ。私の郷里の砂丘には松林があり、季節によっては、ボランティアが除草作業をすることもある。起伏の大きい砂丘で、谷底には〈オアシス〉と呼ばれる湿地がある。...
2022年5月9日
生まれることのない子供に
あんたは作者だな!! このマンガとこのおれを作り出した男だな!! あんたに聞きたい なぜおれの体をこんなにした なぜ心身症にした? 断りもしないでひどいじゃないか!! 長篇『七色いんこ』の主人公にこう糾弾されるのは、台詞にあるとおり、作者である手塚治虫だ。手塚に限らず、作中...
2022年4月7日
受け渡される人生の時
スワンは遠からず死ぬ。『失われた時を求めて』七巻『ゲルマントのほう Ⅲ』は、死病を告白したスワンにむけてゲルマント公爵が投げかける台詞で幕を閉じる。「やあ、いいですか、そんな医者どものたわごとに打ちのめされていたらダメですよ、まったく! どれもこれも藪医者なんだ。あなたはピ...
2022年3月10日
優しい伏線
「人は誰しもひとりぼっちなのだ」。死にゆく祖母のまわりで狂乱する医師たちの戯画を描き出し、語り手はこう述懐する。しかしこのとき、彼は、誰を見てそう思ったのだろう。直接的にはたぶん、誰からもほんとうには悲しまれずに死んでゆく祖母だ。医師たちは、刻々と死体に近づいていく自分のこ...
2022年2月13日
最後の跳ね板
「で、仕事は、始めたかい? まだだって? 困った人だねえ! ぼくにあなたのような素質があったら、朝から夜まで執筆するだろうに。なにもしないほうが、もっと面白いのかねえ。なんて残念なことだろう、ぼくみたいな平凡な人間がいつでも仕事にかかる用意ができていて、立派な仕事のできる人...
2022年1月7日
ゆっくり終わっていった思慕
語り手が、祖母といっしょに旅に出る。祖母は遠からず、翌々巻の末尾で死ぬ。そのことを、七巻を先に読んだ私は知っている。約束された祖母の死までのカウントダウン。『失われた時を求めて』四巻、『花咲く乙女たちのかげに Ⅱ』は、語り手が祖母とともにバカンスを過ごした避暑地バルベックで...
2021年12月7日
二人のおばさんの死
バス停を降りた目の前にその店はあった。古い街道沿いには個人経営のこぢんまりした店が、商店街というほどのまとまりもなく並んでいた。家々は商いをしていたころのたたずまいを残したままシャッターを閉め切り、ひっそりとした生活臭をただよわせていた。営業を続けている店も、古い白熱灯の(...
2021年11月7日
恋について
鷲鼻で目は緑色、額は広く禿げつつあり、女好きの、中年にさしかかった独身男。一九八四年の映画では三十代半ばのジェレミー・アイアンズが演じていた。『失われた時を求めて』の語り手は、スワンの恋を語り起こすにあたってこう切り出している。「人生のこのような時期になると、人はすでに何度...
2021年10月7日
長い寝覚め
もう取り壊された実家に住んでいたころ、私の部屋は路地に面した二階にあった。軽でもすれ違えないほどの細い路地で、突き当たりまで左右に三、四軒ずつあり、すべて借家だったはずだが、私たちがそこに住んでいた十数年の間、住民が入れ替わることはなかった。向かいの家は我が家と同じ二階建て...
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