おなじさ桜!

 大晦日に坂本冬美が「さくら さくら いつまで待っても来ぬひとと/死んだひととは おなじこと」と歌うのを観たのと、その歌詞のもとになった林あまりの歌を知ったのと、どちらが先だったかは思い出せないが、いずれにせよ恋の情念など知らない小学生、もしかしたら幼稚園児のころのことで、生まれてから三歳までを過ごした神戸の記憶が薄れつつあった私は、遠く離れた自分のことを、神戸時代の友人は、死人のようなものとして考えてるんだろうか、とふと思った。そう考える私自身、鳥取に越してからの友人のほうが多くなり、名前も思い出せない神戸の人たちとの時間を振り返ることはほとんどなく、街ですれ違っても気づかないだろう彼らは、もしかしたら、死んだ人より遠い存在になっていたかもしれない。「熱い唇 押しあててきた/あの日のあんた もういない」。誰にも触れられない唇のうそ寒さ。〈死んだひと〉と同じと断じられる〈あんた〉は、しかし、想念のなかではきわめて強い手触りをもって生きている。

『失われた時を求めて』十二巻、『消え去ったアルベルチーヌ』では、数ヶ月にわたって軟禁されていた語り手の家から出奔したアルベルチーヌが事故死し、その喪失を語り手が受け入れるまでの煩悶が、つぶさに描きとめられている。彼なりに、傍目には見苦しいほどのひたむきさで愛したアルベルチーヌが、和解の兆しも見える手紙をやりとりするさなか、馬から落ちてあっけなく死ぬ。語り手は、アルベルチーヌとの生活を仔細に記憶し、記述してきた。生前の彼女との時間を回想することは〈私〉にとって、単に頭のなかで思い出しているのではなく、〈わが身を元の瞬間の日付に置き直〉すことだ。アルベルチーヌとのあらゆる瞬間を再体験し、そしてあらゆる瞬間を、しかし彼女は死んでしまったのだ、と悲しみで染め直す。悲しみが尽きるまで悲しむには、関係の濃密さに比例して長い時間がかかる。〈私〉の祖母の、闘病の果てに力尽きるような、それだけに周囲も準備をととのえる時間を持てた死ですら、語り手は、その喪失に涙を流すまでに一年が必要だった。アルベルチーヌの出奔と死から、語り手が彼女に対する完全な〈無関心の状態へ到達〉することになるヴェネツィア旅行までの期間も、推敲中に著者が没したことで記述に混乱は見られるものの、おそらく五月から翌年の春までの約一年にわたっている。ヴェネツィアに同行した語り手の母が、今もまだ母親(語り手にとっての祖母)を悼みつづけているように、悲しみが持続する時間はそれぞれの関係性によって違うにせよ、本作の(つまり語り手にとっての)重要人物の死のあとには、それだけの喪の期間が必要だということだ。

 まだアルベルチーヌが生きていたころ、語り手は、かつて熱烈に恋した人──ゲルマント夫人やジルベルト──との失恋と、アルベルチーヌの出奔の衝撃を比較して、こう考える。「今度の苦痛がほかの苦痛と比較にならぬほど辛いものになった多くの原因のうち、いちばん重要な原因は、ゲルマント夫人やジルベルトとは官能の快楽を一度も味わわなかった点にあるのではなく、このふたりには毎日昼夜を問わず会っていたわけではなく、その可能性もなく、それゆえそんな欲求も持たなかったから、ふたりにたいする私の恋心には「習慣」の途方もない力が欠けていた点にあるのかもしれない。」もちろん、彼の言う〈習慣〉は、彼がアルベルチーヌを自宅に軟禁したことで成立したものだ。そしてその〈習慣〉こそが、語り手には愛する人とともに過ごすことのよろこびを忘れさせ、アルベルチーヌには〈私〉に何も告げずに出奔することを選ばせた。

 そのまま軟禁生活を続けていれば、外出時には誰かを監視につけていれば、アルベルチーヌは死ななかったかもしれない。あるいは、語り手の未練につきあって手紙のやりとりをしていなければ。生き残ってしまった人は、死んだ恋人との関係を逐一掘り返し、細かな選択の一つ一つに後悔の種を探し求める。語り手は、祖母の死とアルベルチーヌの死を思い、「わが生涯には、意気地のない世間のみが赦してくれる二重の殺人という汚点がついている」と考える。自分との関わりによって彼女は命を失ったのだと考えることは、彼女の人生の一大事に深く関与したいという欲望の表れだ。

 ここまでに語り手は、何度か(全体の長大さを思えば慎ましいほどの回数ではあるが)読者に語りかけ、その感想を勝手に代弁することすらあった。それが書かれた文章であることを明示した小説には二種類の時間が流れている。語り手がアルベルチーヌの死を体験した現在と、彼がそのできごとをテキストとして書いている現在。作中にはこの〈二重の殺人〉は、素直に読めば祖母とアルベルチーヌの死のことだが、語り手は、現実において死んだ二人を、いままさに書いているこのテキストのなかでさらに殺してしまったことを、〈二重の殺人〉と呼んでいるのかもしれない。

〈私〉の家の女中であるフランソワーズは、アルベルチーヌのことを好いていなかったが、いろいろと込み入った思惑(しかしそれはすべて語り手が邪推したことだ)がありつつも、とにかくこう慰めてくれた。

「お泣きになってはいけませんよ、旦那さま」とフランソワーズが今度はずっと穏やかな口調でそう言ったのは、私への同情を示すためというよりも、自分の炯眼を誇示せんとしたのだ。そして、こう言い添えた、「こうなる運命だったんです、あの娘は幸せすぎて、かわいそうに自分がどんなに幸せなのかわからなかったんですよ。」

 あなたに愛されてあの人は幸せだった、というのは、愛する誰かを亡くした人への慰めの常套句ではあるが、これほど残酷な言葉もない。〈私〉はもう、どれだけ愛しても、アルベルチーヌを幸せにすることはできない。彼女が本当に幸せだったかもわからない。ここでフランソワーズの言う〈幸せ〉は、アルベルチーヌが死に、もう会えない以上、決して検証され得ない、〈私〉にとってのみ意味のある感情だ。愛されたアルベルチーヌよりも、喪失から立ちなおるために祖母の死と同じほどに時間の必要なほどひたむきな愛の宛先を得られた〈私〉こそが幸せだった。フランソワーズのこの言葉は、〈あの娘〉を〈あなた〉に変えたほうが、より鋭い(そして辛辣)な炯眼を誇示できるのではないか。

 アルベルチーヌへの思慕に区切りをつけてヴェネツィアから戻ったあと、語り手は、本巻のなかでは名前を明かされない〈娘〉をひとり、〈パリで借りていた寓居〉に住まわせる。「当初の激しい不安が、愛する女をその住まいまで送っていったり、女を自分の家に住まわせたり、その女が外出するたびに自分や信頼するだれかがつき添うことを熱烈に念願させた結果、やがてそれは意味を忘れ去られた慣習のような決まりごととして定着した」。恋人の遇しかたが、一年に満たない期間とは言えアルベルチーヌに受け入れられたことで、語り手の執着──軟禁──はお墨付きを与えられてしまった。

 同じ愛しかたをすれば、語り手は、この新しい恋人との日々のなかでたびたび、同じ状況でのアルベルチーヌのことを思い出すだろう。しかし彼は、すでに、あらゆる瞬間のアルベルチーヌに、彼女の死の記憶を付与し終えている。こうして彼は喪を終えた。

 思慕、喪失、悲しみと強がり、否認、そして忘却、プルーストは本巻で、愛する人の死に際して人が感じうる感情を網羅的に描いた。語り手はかつて、初恋の人ではあるが長く会っていなかったジルベルトのことを、〈死んだも同然の存在〉だと考えていた。そして本巻でそのことを回想して、こう述懐する。「アルベルチーヌの場合には死が(…)、ジルベルトの場合に長い別離が果たしたのと同様の働きをしたのだ。死といえども、不在と同様の作用をもたらすにすぎない。それがすがたをあらわしたとき私の恋心が震えあがった怪物、つまり忘却は、私の予感どおり、最終的には恋心を食い尽くしたのである。」

 長く〈来ぬひと〉であったかつてのジルベルトと、〈死んだひと〉であるアルベルチーヌは、今では同じ場所にいる。回想することでその時間を生き直すほどに度外れた記憶力と描写力をもつ〈私〉は、そこから記憶を汲み出して、この長大な小説を書いている。「愛している女性はあまりにも過去のなかの存在であり、いっしょにすごして失われた時間から成り立っているから、人はもはや女性の全体など必要としない」。アルベルチーヌは、それほどの強い思慕と記憶を語り手に与えて去っていった。もはや語り手は彼女を愛するために、アルベルチーヌ本人の存在すら必要としない。だとしたら、自身ではもはやアルベルチーヌを愛していないと繰り返す語り手は、本巻においてこそようやく、ほんとうに彼女への愛を獲得できたのかもしれない。