まったくべつの本

 文章を書くことが仕事ではあるが、書く文章がすべて仕事になるわけではない。小説を書こうとして小説を、エッセイを書こうとしてエッセイを書くこともあるし、何の気なしに書いていた文章がいつの間にか一定の輪郭をもちはじめ、そこでようやく自分が小説を書いていると気づくこともある。私がはじめて小説を書いたときはどうだっただろう。読むのが好きだったくせに、自分で書くことを想像もしていなかった私は、高校一年の冬、同人誌を立ち上げる友人に誘われて小説を書きはじめた。私が小説を選んだのは、内発的なものではなく、他人に促されてのことだ。こんどつくる同人誌、メンバーが短歌とか写真とか漫画だけで小説がいないからきみ、書いてよ、というのがそのときの誘い文句だった。あのとき、もし欠けているのが小説ではなかったら、私は違うことをやっていたかもしれない。

『失われた時を求めて』は、語り手が〈私の過去の人生〉を素材とする作品を執筆することを決意して終わる。ここで語り手が執筆を決意した作品こそが、私たちがここまでに読んできた『失われた時を求めて』である、というふうにひとまずは読める。いっぽうで、語り手は階段を降りるのにも苦労するほど年老いて、記憶の衰えも自覚しており、この作品が未完に終わる可能性も示唆されている。そして実際に、校正作業中にプルーストが没したことで、本作(第五篇〈囚われの女〉以降)は未完成のまま終わった。私が、そして世界中のあらゆる読者が読み、論拠としている記述は、本来であれば削除されるものだったのかもしれない。とはいえ、『失われた時を求めて』も、ひとまず最後まで書かれ、著者の没後に最終巻まで出版された。

 岩波文庫版(吉川一義訳)の最終巻『見出された時 Ⅱ』は、前巻にひきつづきゲルマント大公邸を舞台としている。午後のパーティのなかで語り手は、ここまでの長い長い作品中に登場したさまざまな人たちと再会する。歳を取って太り、母によく似た姿にかわったジルベルト、醜く老いさらばえたラシェル、以前とは違う人の妻になった女たち。サン=ルーやアルベルチーヌのようにすでに故人となった人、シャルリュス男爵のように失脚してこのパーティには不在の人もいる。

 そして〈私〉はひとりの少女と出会う。語り手によって〈森のなかにおいて、まるで異なる地点からやって来たさまざまな道が集まる「放射状(エトワル)」の交差点のようなもの〉と捉えられるこの少女は、ゲルマントの家系に連なるロベール・サン=ルー(語り手の戦死した親友)と、スワンの娘であるジルベルト(語り手の初恋の人)の娘だ。幼少期の語り手は、バカンスで滞在していたコンブレーの散歩道を〈ゲルマントのほう〉と〈スワン家のほう〉の二つにわけ、両者は絶対に混ざり合うことがない、と思っていた。前巻で語り手は、実はこの二つの道は近道で繋がっていたことを知ったが、その彼の前に彼女は、社交界の変容と語り手の認識の変容を象徴する存在として登場する。

 サン=ルー嬢は、〈とびきり若い娘たち〉と会って〈自分のうちに昔の夢想や悲哀をよみがえらせ〉たい、そこまでは叶わなくとも〈清らかな接吻をふたたび生じさせ〉たい、と語る〈私〉に応じたジルベルトによって、「わたしの娘を呼んできてご紹介しましょう。(…)きっとあなたのいいお友だちになりますわ」と連れてこられた。その両親とちがってサン=ルー嬢のファーストネームは明かされず、語り手の前に引き出されたあとはただにこやかに彼に見つめられるだけで、ひと言も発することはないし、彼のもとに歩み寄ってくる以外の動作が描写されることもない。いっさいの主体性を持たない人間として登場するサン=ルー嬢に対して語り手は、〈いまだ希望にあふれ、にこやかで、私が失った歳月そのもので形づくられたこの娘は、私の「青春」に似ていた。〉と感無量の体だ。プルーストはここまで、訛りや口癖、名前の響きで人物の出自や人間性を表現してきた。ここでサン=ルー嬢に名前や台詞を与えれば、彼女が何者かを規定してしまうことになる。象徴としての役割の大きさのあまり、彼女は人間性を剥奪されてしまったということだ。

 彼女との出会いで、大公邸でのパーティの場面は終わる。語り手がどこかの場に身を置いて描写するのはこれが最後だ。そのあとは、来たるべき作品を構想する語り手の思索がはじまる。

 まず自明のこととして、本作は小説作品であり、すべて言葉によってかたちづくられている(本訳を読んできた私は、いくつもの図版を目にしてきてはいるが、それは訳者が綿密な調査を通して選定したもので、プルーストが提示したものではない)。しかし、ひとくちに小説といっても、その語りのありようにはさまざまなパターンが考えられる。同じ〈私〉という一人称で書かれていても、誰かの心中のモノローグという体裁であったり、名前を与えられた聞き手に向かって口頭で語り聞かせていたり、人に見せるつもりのない手記や日記の場合もある。

 本作の場合、一巻『スワン家のほうへ Ⅰ』は、晩年の〈私〉による長い長い走馬灯として語りはじめられた。続巻でも、いずれこのことは明らかになるが、といったように、語り手が先々の展開を知っていることが示唆されていた。しかしいずれも、語り手の一人語りの域を出るものではなかった。それが変わったのは、八巻『ソドムとゴモラ Ⅰ』においてだ。語り手はそのなかで〈作者としては〉とか〈読者は憶えておられるかもしれないが〉と書き、私たちが読んでいるテキストを〈書物〉と呼んでいた。同じ巻のなかで語り手は、〈この本には虚構でないことがらはひとつもなく、「実在の人をモデルとする」人物はひとりも存在せず、すべては私が述作の必要に応じて創りだしたものである〉とも書いている。全十四巻におよぶ長篇も後半にさしかかったタイミングで本作は、〈私〉と名乗る〈作者〉によって書かれ、〈読者〉に読まれる〈本〉、〈書物〉として提示された。そして、語り手がこのテキストを〈作品〉と呼んだのは、ようやく十三巻でのことだ。

 一巻のなかに、〈ずっと後に私は本を書きはじめた〉という記述があり、十四巻のパーティのさなか語り手は、自分は〈まだいくつかの文章しか書いたことがなく習作しか発表していなかった〉と考えている。彼が本を起筆した〈ずっと後〉は十四巻の末尾で畢生の大作の執筆を決意したあとだ、とも考えられる。ただ、本巻には〈一時的な気晴らしなどには中断されぬほど決定的な軌道に乗った自分の作品に思いを馳せ〉る場面も描かれている。一巻で言及している〈本〉がどちらを指すのかはわからない。いずれにせよ、語り手が本作を〈作品〉と名指すには、十三巻におよぶ長大なテキストが必要だった。『失われた時を求めて』は、当初から〈作品〉として構想された──本巻末尾の決意によって起筆されたものではないということだ。

 だからこの〈作品〉は、まだ書かれていないのだ。

 本作が語り手の決意で終わり、〈作品〉そのものが示されないことを、訳者は、〈プルーストが「理想の作品」はけっして実現しないことを知り抜いていたからではないか〉と分析している。じっさい、〈自分の足の下にすでに遠く伸びているこの過去をなおも長いあいだわが身につなぎとめておく力が、私にまだ残されているとは思われない〉と考える語り手が、今から『失われた時を求めて』のような長大な小説を完成させられるとは、おそらく本人も思っていなかった。未完成を企図して構想される作品が〈理想の作品〉であるはずがない。この語り手は、自分には〈理想の作品〉など書き得ず、しかし理想を目指して筆を起こさずにはいられない、書き手の業のようなものとして決意を示した。

 本作は、「人間は、まるで歳月のなかに投げこまれた巨人のように、さまざまな時期に同時に触れているのだから、そして人間が生きてきたさまざまな時期はたがいに遠く離れており、そのあいだには多くの日々が配置されているのだから、人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだ──果てしない「時」のなかに。」という言葉で閉じられる。人間に、と一般化されてはいるが、これはここまでの生涯を生きてきた〈私〉の実感であり、そのテキストを読んできた私たちのことでもある。人は誰でも、次第にその高さを増し、やがては歩行を困難かつ危険なものにする〈竹馬〉に乗っているようなものだ、と彼は考える。プルーストは『失われた時を求めて』を完成させることなく転落してしまった。プルーストや語り手と同様に〈果てしない「時」のなか〉を竹馬に乗って歩んでいる私たちも、きっと彼と同様に、記憶と時間を主題とした、〈もしかすると『千夜一夜物語』ほど長い本になるかもしれないけれど、まったくべつの本〉を書きうる。本作の末尾で示される決意は、プルーストが、そして語り手が、自分自身を、さらには本作を読んで執筆を志す私たち読者をも鼓舞するために書きつけられた。〈理想の作品〉は、『失われた時を求めて』ほど長い本になるかもしれないけど、まったくべつの本になるだろう。そしてそれを完成させるのは、〈私〉ではなく、この決意とともに本作を読み終えた私たちだ。