ゆっくり終わっていった思慕

 語り手が、祖母といっしょに旅に出る。祖母は遠からず、翌々巻の末尾で死ぬ。そのことを、七巻を先に読んだ私は知っている。約束された祖母の死までのカウントダウン。『失われた時を求めて』四巻、『花咲く乙女たちのかげに Ⅱ』は、語り手が祖母とともにバカンスを過ごした避暑地バルベックでのひと夏が舞台だ。ゲルマントの一族の人々との出会い、堤防で見かけた〈乙女たち〉への思慕。

 本巻の冒頭で、前巻で描かれたジルベルトとの恋を振り返り、〈私〉はこう語り出す。「それから二年後、祖母とともにバルベックに発ったとき、私はジルベルトにほぼ完全に無関心になっていた」。前巻からはみ出してここに書き連ねられている時点で、ほとんど強がりみたいなものだ。事実、この長大な(前巻の一・五倍!)四巻で語られるバルベック滞在中に、〈私〉は何度もジルベルトのことを、ジルベルトと出会ったサンザシの生け垣のことを思い出す。あれは彼にとって初恋だった。恋は、たとえほんのすこし目の端に留めた程度で終わった思慕であっても、残り火のようなぬるい執着がいつまでも心をあたためつづけ、次の恋をはじめるときの、ささやかな火種のひとつになる。恋の記憶はそうやって蓄積し続けて、彼の最後の恋を生ぬるく縁取るのだろう。「ある女性を愛しているとき、われわれは相手に自分の心の状態を投影しているだけであ」る、と語り手はいう。ある程度の恋愛経験を積んだ者にとって、相手が自分を愛してくれるかどうかはもはや重要ではない、とも、第二巻『スワンの恋』のなかで書かれていた。幸福な恋の秘訣は、この人と一緒にいるときの自分が好きだと思える人と一緒にいることだ、とはよく言われることだが、相手に愛されるか否かより、自分自身の心の作用を重視している点で、語り手の恋愛観と近しい。

 第二巻『スワン家のほうへ Ⅱ』のなかで、語り手は、まだ見ぬバルベックという土地に、美しい夢想を抱いていた。しかし彼は、実際に訪れたバルベックの教会にがっかりしていた。本巻の末尾で印象的に描かれていたように、知らない土地への幻想は、女中がカーテンを引き開けるまでは美しい。実際に光が当たれば消滅してしまう幻影としての土地。一生訪れることがなければ、〈私〉はきっと、夢幻のなかのバルベックを永遠に愛していられた。心からその土地を愛することができれば、そこに身を置く必要すらなく、それは人が人を愛するときにも同じことがいえるのかもしれない。語り手は、目の色を間違えて憶えていたジルベルトに、ほかの乙女たちとあんまり見分けがつかず、ほくろの位置もうろ憶えだったアルベルチーヌ・シモネに、恋心を抱く。

 本巻の恋愛の相手はアルベルチーヌだが、彼女はあくまでも、〈乙女たち〉の一人として描かれる。〈調和のとれたうねり〉を描く〈曖昧模糊とした白い星団〉として認識される乙女たちへの印象が、次第にアルベルチーヌに収斂していき、こっぴどく袖にされたあと、彼の「夢想はいまはふたたび自由になり、アルベルチーヌの友だちのだれにでも向かうことができるようにな」る。彼は心からアルベルチーヌ(の感情)を欲していたわけではないのだ。「シモネ嬢はみなのなかできっといちばんきれいな娘にちがいなく、そのうえ私の恋人になる可能性を備えた娘だと、私には思えた」。これまでに私が読んできた四冊で、この語り手の人生で恋愛というものが重要な地位を占めていることはよくわかった。が、そうはいっても、ふつうは同世代の女性を見て、その人が自分の恋人になる可能性を考えることはあまりない。彼は二年前に味わった甘美な恋愛状態を再現したくて、その相手に〈乙女たち〉、そのなかでいちばんきれいなアルベルチーヌを当てはめているだけだ。恋に恋するこの語り手は、けっきょく二年前のジルベルトの恋の終わりを、いまだに終わりきれていない。

 そのかわりに、というべきか、終わったのは、祖母との密着的な関係性だ。〈私〉と祖母はバルベックのホテルで、隣同士の部屋に滞在していた。夜、ひとりで寝る〈私〉に、何か用があればいつでも壁をノックするように、と祖母は言う。〈私〉のノックに応じて駆けつけてきた祖母は、ちゃんと聞こえたか、自分だとわかってくれたか不安だった、とつぶやく〈私〉に、大きな(十代の、おそらく半ばから後半であろう〈私〉に語りかけるには過剰なほどにやさしい)愛でつつみこむような言葉をかける。

「かわいい子のノックをほかの人のと間違えるはずがないでしょ! どんなにたくさんのノックの音のなかからでも、おばあさんにはあなたのノックが聞き分けられますよ。あんなにおばかさんな、熱に浮かされたようなノックが、おまけに私の目を覚ますのではないかという心配と、わかってもらえないのではないかという心配とに引き裂かれたノックが、ほかの誰にできると思うの? だって、ちょっとひっかく音を聞いただけで、すぐに私のかわいいネズミさんだとわからないわけはないでしょう、とくに私のネズミさんは風変わりで、気の毒なネズミさんですからね。しばらく前から、ベッドのなかでもじもじとためらい、もぞもぞ身動きして、あれこれ策をめぐらしてるのが聞こえてましたよ。」

 私のかわいいネズミさん! もちろん、祖母にとっては、何歳だろうと孫は、とくにこの語り手のように病弱で甘ちゃんな孫は、いつまでも幼気な赤子だ。そして語り手も、祖母のその愛にこたえるように、別の箇所で、「お祖母さまがいなくては、ぼくは生きてゆけません。」という。

 ──ねえ、先輩。黙り込んだままの私に焦れて春花が言った。ほんとうに先輩が東京に行っちゃったら、わたし生きていけないかもしれない。

 と、「光の状況」という、私がかつて書いた中篇の、語り手の恋人が、雪の公園でいっていた。語り手はあのとき、「あんまりそうやって、自分を人質にするのはよくないよ。」と突き放したのだった。執筆から一年半ほどが過ぎたいま、私は、春花のことも語り手のことも忘れつつあり、彼がほんとうは何という言葉を返すべきだったのかわからない。執筆当時もきっとよくわかってはいなかった。「光の状況」の二人は、この会話のあとほどなくして別れを迎える。この短いやり取りがその契機だった、とまではいえないが、こうした些細な冷淡が重なって、二人の恋は消し止められてしまった。東京に引っ越していった語り手のなかの残り火のことを、私は小説に書かなかった。彼はその後、春花のことを思い返しただろうか。雪の公園での、短い、そして決定的な会話を、今も憶えているだろうか?

 プルーストの語り手の祖母は、孫の言葉に「それはいけません」とうろたえて、こう続ける。「私たちはもっと強い心を持たなくては」。彼女はここで〈あなた〉ではなく〈私たち〉という複数形をつかっている。自分自身の心のもろさにも言及したことは、主語によって動詞の活用がちがうフランス語では、日本語よりも強調されて読めるはずだ。祖母の動揺を感じた語り手は、彼女を安心させるために心にもないことを言いつのる。「ほら、ぼくってなんにでも慣れる人間でしょ。いちばん愛している人たちと別れると最初の数日は辛くて悲しいけれど、でも、ずっと変わりなく愛してはいても、だんだん慣れるし、生活だって落ち着いて穏やかになるんです。ぼくは堪えてゆけますよ、愛している人たちと別れても、何ヶ月でも、何年でも……」

 心理的な密着は、しかし、二人がバルベックで過ごす夏の間にゆっくりと終わっていく。彼はバルベックで多くの新しい友人と出会う。その一人であるサン=ルーと食事に行くときに、行った先で得られるだろう快楽のことを想像し、「この時点から私は新たな人間となっていた。もはや祖母の孫ではなく、祖母のことはここを出るときにしか想い出さ」ないとまで考える。決定的だったのはやはり〈乙女たち〉との出会いで、「この娘たちのせいで、今や祖母の影は薄くなっていた」と彼は述懐する。あれほどまでに密着していた祖母について、実際、乙女たちと出会ったあとはあまり書き込まれることはない。祖母の、七巻ではたいして顧みられることのなかった死。新しい友情と恋を通じて、祖母への〈私〉の思慕はゆっくりと終わっていった。

 とはいえ、〈私〉のこの変化は、「私たちはもっと強い心を持たなくては」という祖母の言葉に忠実に、自身を別れに慣れさせていった結果なのかもしれない。その手段として彼は恋に恋して、芸術におけるメンター的な役割を担うはずの画家エルスチールを乙女たちとの仲介役として機能させてしまうほどに、たまたま見かけただけの乙女たちに執着するようになる。祖母から離れるプロセスとしての恋だったから、アルベルチーヌに袖にされた〈私〉は、ほかの乙女たちの間を、「ますます官能を刺激されてさ迷」いはじめる。祖母とアルベルチーヌ、二人の女性への思慕から自由になった彼は、本巻のなかでいちばん楽しそうでさえある。

 私は祖母の死をモチーフに二作の中篇を書いた。しかし、私にとって、彼女は、人生においてずっと重要な地位を占めていたわけではなかった。死によって、死を予期させるいくつかの大病によって、彼女は私の人生に戻ってきた。

 戻ってきた? それなら、私は人生のどの段階で、彼女への思慕を忘れてしまったのだろう。そのことを、私はよく思い出せない。〈私〉のような恋だったかもしれないし、ほかの何かかもしれない。私はそのことをいつか、また小説にするかもしれない。