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パリで聴くワーグナー

 第一次世界大戦が勃発した直後、ドイツ軍による空襲の様子を描写しながら、戦闘機の編隊の機能美やけたたましいサイレンの響きを、まるでワーグナーのオペラ『ワルキューレ』のひと幕のようだ、と讃えたのは、『失われた時を求めて』の語り手の友人であるロベール・ド・サン=ルーだった。ワーグナーを愛したヒトラーは当時まだドイツ軍の一兵卒に過ぎなかったが、敵国の作曲家の作品をパリで聴くことは難しかっただろう。

 いま、キーウの国立博物館には、ウクライナ領内で戦死したロシア兵の遺品が展示されているという。ボロボロになった軍靴や母親宛の手紙。私は小学生のころ、修学旅行で広島の原爆記念館を訪れたことがある。戦争の遺品が展示されているのを見たのはその一度だけだ。もう薄れきった記憶を頼りに、土地も時代も、その遺品の持ち主(だった人)の境遇もまるで違う、キーウの博物館の展示を思い浮かべる。その場に自分がいれば何を思うかを考えながら、ジャーナリストの証言を読み進める。

 

 僕は学芸員の女性に、思わず話しかけた。「敵味方を問わず、命の重さは同じですね」と。「その通りです。だから、ロシアは戦争をやめるべきです」というような答えを、内心期待していたのかもしれない。

 ところが、学芸員は厳しい表情を浮かべると、「私たちは、侵略者の持ち物を展示しているのです」と短く言い切った。

大越健介『ニュースのあとがき』(小学館)P.316

 

 戦争について一市民の立場で考えるとき、どうしても、命を脅かされる恐怖や身近な人を失う悲しみ、災禍に巻き込まれた苦しみのことを思い浮かべる。だからこの学芸員の、敵国に対する怒りを、著者とともに驚きをもって読んだ。

 ロシアがウクライナに侵攻したあとしばらくは、この列島でもロシアにまつわるものごとを排除する風潮があった。神保町のロシア料理店のスタッフは駅で突き飛ばされ、ロシア兵の死体の写真を送りつけられた。JRの駅では利用者の「不快だ」という声に応じてロシア語の案内看板を一時的に覆い隠した。遡れば、八十年前には〈ツーストライク〉を〈よし二本〉と言い換えていた国なので、その反応には驚きはない。

 

 ロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』は一九二二年から一九四〇年にかけて発表された。最終巻は一九三九年二月に完成し、翌年二月に刊行された。第二次世界大戦が勃発したのは一九三九年九月。

 白水社から刊行された五巻本の第四巻は、第七部〈一九一四年夏〉の一部にあたる。一九一四年の夏は第一次世界大戦のはじまった季節だ。今から百十年前のこと。本巻ではその夏の、七月二十五日から八月二日の九日間の出来事が描かれている。

 世界史に明るくない私は、この期間中のヨーロッパで何が起きたのかをよく知らなかった。だから、前巻でオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント暗殺の報に触れてはじめて、これから第一次世界大戦がはじまるのか、とわかったのだった。戦間期に本作を書いていた著者はおそらく、〈一九一四年夏〉という第七部の題だけで、一次大戦を取り扱うのだと理解されることを想定していた。遅ればせながら時代のうねりに乗っかったような気持ちで、チボー家の弟ジャックが社会主義運動に邁進する──しだいに引き返せないほどのめり込んでいく様子を描いた本巻を読んだ。

 ジャックは良心的兵役拒否を主張している。第一次大戦当時のフランスでそれが可能だったかは知らないが、理念として、彼は絶対的に戦争に反対しているし、何らかのかたちで戦争に加担することを忌避している。社会主義組織の仲間も同調してくれるはず、と彼は信じていたが、同志たちは口々に、はじまってしまった戦争への参加を支持する。〈「(…)今日のミリタリスムは、きのうのそれとはちがっている。今日のミリタリスム、それはフランスの救いなんだ。いや、それだけではない。危機に瀕したデモクラシーを救うところのものでもある。だから、おれはしばらくつめをかくす。そして、仲間の連中とおなじ行動をとろうと思うんだ。銃を取って、国を守ろう。それから先は、いずれあとでの話なんだ!」〉(P.310-311)同志の一人ラッブの言葉だ。すでに戦争に反対する時期は過ぎたのだ、と彼は言った。だからひとまず、この戦争を終わらせる。たしかに、デモや通常の政治運動では、はじまってしまった戦争を終わらせるのは難しい。

 同志たちと決裂したジャックは、軍医として動員されたアントワーヌの見送りに駅に向かった。軍医が最前線で銃を握ることは滅多にないだろうが、生きて帰れる保証はない。抱擁を交わし、握手をして兄を見送ったジャックは、その帰路である家族を見かける。

 

 ジャックが近づいていった人道のところでは、いましもひと組の男女が、別れをつげているところだった。ふたりは、これを最後にじっと顔を見かわしていた。母親のまわりでは、四歳ばかりの男の子がふざけていた。スカートにとりついて、何か歌いながら、片足ずつでとびはねていた。男は、身をかがめて子供をつかむと、高くだきあげてキスしてやった。あまりきつくキスしたので、子供は、気ちがいのように身をもがいた。男は、子供を下におろした。女は、じっとしたまま、何ひとこといわなかった。そして前掛けのまま、髪をふり乱し、涙に頰をよごしながら、気の狂ったような目をすえて、男をみつめて立っていた。男は、女が自分にとびかかり、二度と身を引き放すことができなくなるのをおそれてでもいるように、女をだこうとするかわりに、じっと女から目を放さず、一足うしろに身を引いた。と思うと、男はとつぜん身をひるがえし、停車場さして駆けだした。女は、男をよびとめようともせず、目でその跡を追おうともせず、とつぜんくるりと向きなおると駆けだした。子供は、母親にひきずられて、ちょっとつまずいてころびかけた。女はやおら腕をのばしてだきあげると、走りながら肩に背負った。早く駆けたい一心から、そして一刻も早く誰もいない家へ帰り、そこでひとりぼっちで、戸をとざし、心ゆくばかり泣きたいと思ったにちがいなかった。

P.329

 

 ジャックの同志たちが戦争を正当化する饒舌さと対比的な、一家の沈黙。たぶんこのころ、ヨーロッパ中でこういう場面が演じられていたのだろう。戦争というのはそういうことだ。

 実際にはたぶん、夫婦はこれが最後になるかもしれない言葉を交わしていただろう。子供は両親のただならない様子に動揺して、歌うだけではなく何か言っていたかもしれない。でもデュ・ガールは、彼らが口にした言葉を、この、名前も与えられない家族を描くにはやや長い描写のなかで、ひとつも書かなかった。効果的だ、と感心しながらこの一節を書き写せる私は、彼らの別れを他人事として読めるほど戦争から離れて過ごしている。

 同志の誰とも相容れない思想を抱いたジャックは、ひとりこう決意する。〈《そうだ! 自分が心の底から否定していることを受け入れるよりは、むしろ自分は死をえらぼう! 節を屈するよりは、むしろすすんで死をえらぼう!》〉(P.312)命を賭して、と自ら口にする人は往々にして、ほんとうに自分が死ぬとは思っていない。ラッブもきっと、自分が戦争のあとも生き残ることを疑っていなかった。戦争ということに対するリアリティの差、は、いつどこの国にもある。

 戦争を続けても死者が増えるだけだからウクライナはとっとと降伏するべきだ、と言う親ロの国会議員がいた。ウクライナ人はいったん国外退去して、プーチンが死んだら戻って国を再建させればいいと元府知事が言っていた。与党が軍事費を大幅に増大させようとする国にいても、ただちに自分たちが戦争に巻き込まれることはない、と確信しているのだろう。彼らを批判的にみることは簡単だが、じゃあどうするのがいちばんよいのか、私にもわからない。もしウクライナに生まれ育っていれば今ごろ、三十四歳の私は国外に出ることを禁じられ、徴兵されていたはずだ。

 第一次世界大戦のころ、現在のウクライナの大部分がロシア領だった。フランス人の視点から書かれた『チボー家の人々』のなかで当時の彼の地が描かれることはないだろうが、東部戦線の南端に位置する地域では激しい戦闘が行われたという。そのあとにはボロボロの軍靴や届かなかった手紙がいくつも残されていただろう。

『失われた時を求めて』のロベールは、のちに最前線で仲間の身を守って命を落とす。語り手は病弱のために動員されなかったから、作中でその死が描写されることはなかったが、きっとその瞬間、ロベールは『ワルキューレ』のことを思い出しもしなかった。サイレンの音にワーグナーを聴くことができるのは、安全な場所にいる者だけだ。

 ふと思い立って検索してみると、私がこの原稿を書きはじめた日からちょうど百十年前、一九一四年八月三十日には、当時イギリスの自治領だったニュージーランド軍がドイツ領サモアに上陸、占領している。戦闘は行われなかったようだが、第一次世界大戦はヨーロッパの戦争、というイメージをもっていたので、何か虚を衝かれたような気がした。両軍はどんな感情で対峙したのだろう。Wikipediaによると、独領サモアの総督が、降伏はしないが抵抗もしない、と無線で通達したのだという。はるか遠くの本国同士の対立でおれたちが血を流すことはない、と考えたのだろうか。そんなナイーヴな理由ではないか。



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