11月7日(日)晴。三連休の最終日。今日は夕方から岡田睦『明日なき身』(講談社文芸文庫)の読書会。へんな小説が読みたい、という友人に私が薦めた、ら、その友人がいたく気に入り、読書会やりたい!と言い出したもの。ということで朝から再読。ふだんの読みと読書会用の読みはやっぱり違っている、のか、二度目だからなのか、こまかな文章技術の高さに目が行く。
半日作業をして、夕方、シェアサイクルで要町のカフェに行く。参加者は私を含めて五人で、うち二人に会うのは三年ぶりくらい。冒頭一時間はお互いの近況報告(いろいろあった!)でぜんぜん本の話をせず。それからようやく読書会がはじまる。楽しい。最後に読書会をしたのはいつだったか……と遠い目をしそうになって、イヤおれ群像の創作合評に出たわ、と思い出す。二十時すぎに解散、歩いて帰宅。よい三連休だった。
11月8日(月)曇。昼休みに古井由吉『書く、読む、生きる』を進読。退勤後、直接ジムに行くつもりだったのに、会員証を忘れたことに気づく。運動用の服とか靴とかを、ただ職場に持ってって持って帰っただけの日。会員証を持って出直すほどの元気もなく、帰宅後はシチューを作ってふて寝。
11月9日(火)雨。朝から低気圧。傘なくてもいいかな、くらいの小雨だったのが、歩いているうちに本降りになる。
昼休みにプルースト『失われた時を求めて』の三巻を起読。『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』。いま〈おとめ〉と入力して変換すると最初に漢字ではなくカタカナの〈オトメ〉と出てきた、のは、鴻池留衣「わがままロマンサー」の主人公の妻の名前だ。群像の創作合評であの作品のあらすじ紹介を担当したので、その下書きをしたときの変換履歴が残っていたらしい。オトメちゃんは大人気BL漫画家で、ふとスワンと〈私〉のBLのことを考えてしまう。かなわんなあ。『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』の表紙絵は緑色のインクで描かれたなんか木?テント?みたいなモヤモヤしたなにかで、「ヴェルレーヌの詩句にもとづくプルーストのいたずら書き」であるらしい。プルーストくらいになるといたずら書きが装画になる……。まだ冒頭五十ページ程度で、物語のホリゾントを描いているところ。登場人物紹介に〈アルベルチーヌ〉の名前があったが、今日のところは登場せず。七巻でいまいち気乗りしないかんじの〈私〉といちゃつくアルベルチーヌ! しかし本巻では、「ボンタン夫人の姪。高級官僚の夫人相手に辛辣な皮肉をとばす」と紹介されていて、辛辣な皮肉で象徴されてしまうってどんな人物なんだ。
一日勤務、ちょっと良いスイーツを買って帰宅。『読む、書く、生きる』を読了。51/495
11月10日(水)晴。職場のビルが二日間閉鎖になるため、二連休。神保町まで朝の散歩、遠出しすぎたのでシェアサイクルで帰って作業。並行して書いてる長篇ふたつの見直し。片方は四百枚くらい、もう片方は百五十枚くらいになっていて、一日仕事になる。
昼に三十分ほど散歩、帰りにセブンで惣菜を買って昼食。腹が落ち着くまで『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』。『フェードル』の観劇を終えた主人公がノルポワ氏と話す。ノルポワ氏、巻頭の登場人物紹介で、「ラ・ベルマを見に行くことを勧め、文学の道を推奨するが、「私」の自信作を酷評。」とあり、自信作を酷評されることのつらさを私はけっこう知っているので、登場前から印象が悪い。実際に、「ところがそれ(引用者註・語り手が書いた文章の昂揚感)はノルポワ氏には伝わらなかったらしく、氏はひとことも言わずにそれを私につき返した」などと描写されていて、感じワルーイ、となった。とはいえ、たぶんこれはまだ〈酷評〉の場面ではないのだろう。
午後も長篇の見直しの続き。自分の文章が好きなので、あまり仕事という感じでもなく楽しく読む。というかおれは長篇ふたつを同時に書いてるのか、なんでそんなことしてるんだ。夕方、再びシェアサイクルで、今度は飯田橋へ。用事を済まして、京樽で割引のちらし寿司を買って帰る。そのあとはやや疲れていたのではやめに入浴、レイモンド・カーヴァー『夜になると鮭は‥‥』を起読。「羽根」、とても良い。ちょっとサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」を思い出す。ティーンエイジャーのころに読んでたらかなり影響を受けてたかもしれない。80/493
11月11日(木)晴。三連休のち二連勤のち二連休、身体への負荷が少なくてたいへんに良く、作業が捗る。三月書房が〈週休七日〉の札を掲げてたことを思い出す。週休七日なら仕事がたらふくできるだろうな。四百枚の長篇、昨日プリントして読みかえしながら書き込んだものをデータに反映させて、つづきを書きはじめる。昼は神楽坂まで出て、たれ焼肉のんき。千円前後で焼肉ランチのセットが食べられる。やや食い足りないくらいで肉を追加注文したいな、と感じるくらいがちょうどよいのだ。スタバの甘い飲み物とケーキを買って帰り、飲みながら作業の続き。捗る。四時ごろにおやつを食べ、さらにご機嫌になる。六時ごろに外出、夜の散歩。この時間になると暗い。夜も外食、カキフライ定食。これも美味い。作業を進め、美味いものを外食してばかりの日で、今日の私はもう優勝。たいへんご機嫌になる。しめくくりに風呂でカーヴァーを二篇読んで寝る。80/493
11月12日(金)晴。勤務中、今日は妙に電話応対が多い。
昼休みにプルースト。「われわれとある人とを結びつける絆が神聖なものとなるのは、その人がこちらと同じ視点に立ってこちらの重大な欠陥を判断してくれるときである」。これはスワンとオデットの関係についての言及だが、たしか前巻では、ある程度の年齢に達すれば、相手のことを愛しているというだけで十分に幸福を感じられるのだから、相手に愛される必要などない、というようなことが書いてあった。恋愛という感情はきわめて主観的なもので、ほんとうに神聖な関係というのは、もはや恋愛なんていう凡庸な言葉で表せるものではないのだろう。
そしてノルポワ氏、あんのじょう、と言うべきか、まる三ページ以上にわたって、〈私〉(と〈私〉が私淑するベルゴット)の作品を酷評しまくる。立て板に水、というべき語り(本作の登場人物はだいたいそうだ、朴訥な人間なんて存在しない)で、しかし、酷評もここまで明瞭だと気持ちが良い。実際に面と向かってこれをやられたらたまらんなあ、と思いつつ、ノルポワ氏に好感を持ってしまった。
退勤後、図書館で友人に頼まれた資料をコピー、帰路にセブンでスキャン。それからシェアサイクルで帰宅し、フードパンダの中華を食べる。床暖房をして寝転がり、関取花が出演したオードリーの番組をTVerで観る。めちゃくちゃ笑ってそのままごろごろしてたら寝てた。四時前、悪夢を見て目覚めてベッドまで這いずり気絶するように寝直す。128/493
11月13日(土)晴。悪夢の残滓か、起きたときからずっと手が痺れていた。今日は旧部署でヘルプ勤務。三十分ほど働くうちにようやく痺れが引いてきた。
昼休みにプルースト。「ねえ、よかったら、もうすこし取っ組みあいをつづけてもいいわよ。」というジルベルトの台詞になんか胸を打たれてしまう。大江の『芽むしり 仔撃ち』にもこういう台詞があった。「「あんたが見たかったら」と少女が喉にからむ、うわずって幼ない声でいった。「私のおなかを見てもいい」」。私はこういう、少年の性が少女に肯定されるシーンを記憶に留めがちで、もしかして、無垢な少女に母性を求めているのか? それは処女信仰となにが違うのか。参ったな。
退勤後、今日もシェアサイクルで帰宅し、読み仕事の下準備。書評系の仕事は、対象となる作品以外にも読まないといけない(ことはないけど、私は関連する文献に一通り目を通さないと落ち着かない)ので、けっこうたいへんだ。175/493
11月14日(日)晴。六時ごろ起きる。この日記を自サイトで公開するために調整しはじめ、終わらないままに出勤、労働。プルーストを読む日常のエッセイを毎月七日、プルースト日記を十四日に公開する、と決めたので、今日中に日記を仕上げなければならない(日記を仕上げる、というのはなんかヘンな表現だな)。昼休みもスマホでずっと作業。勤務中も、トイレとかのスキマ時間に数行ずつ作業を進めてようやく完成、そのままサイトを更新。勤務中にやっつけられてよかった。
退勤、今日もシェアサイクルで帰る。親戚から届いたすき焼き用の松阪牛を食う。美味すぎる。しかし食べ過ぎて胃もたれしつつ、床でごろごろしながら緑川信之『本を分類する』。半日プルーストのことを考え続けていたのだが、そういえば今日は『失われた時を求めて』を読んでない。175/493
11月15日(月)晴。昼休みに読んだプルーストのなかに、「すでに見たようにそもそもスワンには昔から、自分の社交界での地位を利用してある種の状況下でさらに自分に都合のいい地位を手に入れるという趣味があった(いまやその趣味をもっと永続的に適用しているだけの話である)。」という一節があり、そこに、「スワンには社交界の地位を利用してさまざまな女をものにする趣味があり(本訳②三二─三五頁参照)、その趣味の永続化がオデットとの結婚だという意味。」と註が附されている。語り手のスワンに対する辛辣な皮肉、を、訳者が後ろでさらに囃したてている感じで、なんというか楽しそうだ。
しかし、〈本訳②三二─三五頁〉に何が書いてあったか、ぜんぜん憶えてない。ディテールは抜け落ちていくものだ。『蒼天航路』で、曹操が修業にやった側近の荀彧が、帰ってくるなり「あらゆるものを見聞し頭の中に天下を収めて、しかもそれらをすっかり忘れてまいりました!」と叫び、曹操は興奮して、「よくぞ最高の状態で戻ってきた!」と言う。何かを憶え、すべて忘れたとき、その知識は消え去るわけではない。特定の場所や経験に紐付けられたかたちで思い出されることがないから忘れてしまった気がしているだけで、ほんとうは深く内面化されている。だから、ディテールを憶えている必要はなく、むしろ忘れていくことに価値がある……!と私はこのやりとりに感銘を受けたものだが、しかし〈本訳②三二─三五頁〉に関しては、べつにぜんぜん内面化してるとかではないな。
我が家の隣のブロックで九月にオープンしたインド・ネパールレストランで夕食。カレーとチーズナンとモモとカレーラーメン、と書き出してみると頼みすぎ! 案の定食べきれず、カレーはテイクアウト容器に入れてもらう。たいへんに美味しく、これはリピートする店だ。近いし。
満腹でごろごろしながら松永K三蔵「カメオ」、けっこう好きだった。動物を、最初から最後までぜんぜん可愛くなく、しかし魅力的に描く、という、だいぶ難しいことをやっている。そのあと『夜になると鮭は‥‥』読了、グレイソン・ペリー『みんなの現代アート』を起読。こういうキャッチーに中指立てる系のエッセイ、私はそろそろ卒業してもいい。やたらとあれこれ読み進めた日で、さすがに脳がしおしおになり、ベッドにたどり着けない。213/493
11月16日(火)曇。床で目覚める。腰をバキバキ鳴らしてシャワーを浴びる。しかし床で寝たからか、低気圧のせいか、単に昨日食べすぎたのか、朝から具合が悪い。今日は退勤後に大塚で同僚とアラサー会の予定なのだが、ちょっと無理かもしれない。ふらふら出勤、流しながら労働。
昼休み、胃薬を飲んでプルースト。スワン夫人がヴァントゥイユのソナタを弾く。前巻の「スワンの恋」で、スワンとオデットの〈恋の国歌〉として描かれたソナタを聴きながら、語り手が、天才について考える。「ベートーヴェンの四重奏曲(…)それ自体が、五十年の歳月をかけてベートーヴェンの四重奏曲の聴衆を生み出し、増やしてきたのであり、あらゆる傑作と同様、そのようにして芸術家たちの価値を進歩させたとはいわないまでも少なくともそれを受容する聴衆を進歩させたのである」。真に優れた作品は鑑賞者にアップデートを促す。既存の枠組みのなかで評価が完結できるような作品は、けっきょく、百年先にも届かない。
具合が良くならないので、アラサー会欠席の連絡を入れてまっすぐ帰宅。薬を飲んで横になる。ベッドのなかで『みんなの現代アート』読了。卒業してもいい、と思いつつ、読んだら感じ入ってしまうのだよな。それから光文社文庫の『松本清張短編全集』六巻を起読。読みふける。ストーリーやトリックが主題になっていて、作品全体がそこに奉仕している。そのため文章が、なんというか単線的でふくらみがない。この書きかたなら量産できそう、と思いつつ、あまりやりたい仕事ではない、のだが、ひとりの読者としては松本清張の作品はめっちゃ好きだ。うーむ。252/493
11月17日(水)晴。今日は非番で朝から入浴、『松本清張短編全集』を進読。
昼食後に一時間弱プルースト。スワン夫妻は〈私〉のことをどう思っているのだろう。当初はあまり好ましくなく、しかし、やがて歓迎して、時には対等な友人のように語りかけさえする。娘に恋をする少年。私がスワンの恋のことを思い起こさずに〈私〉とジルベルトの恋を読めなかったように、スワン夫妻も、自分たちの、清廉とはとうてい言えない恋愛遍歴のことを思いながら幼い娘とその恋人を眺めていたのだろうか。
そのあと読み仕事。読むべきものが山のようにあって、ぜんぜん終わりが見えない。298/493
11月18日(木)曇。朝から頭痛がひどく、仕事を休む。作業を進めねばならないのだが、あまり集中できず。昼食にすき焼きを作り、かっ食らって寝。夕方起きたころにはかなり楽になっている。それから宝島新書『史実としての三国志』を読みはじめる。そもそも『三国志演義』を読んでない私の『三国志』観は『蒼天航路』につちかわれたもので、たぶん実際とはぜんぜん違うのだろうな。そろそろ『演義』、読まねば。不調にかまけて一日だらだら過ごしてしまった。298/493
11月19日(金)曇。朝からやたらと喉が乾き、水をたくさん飲みながら作業をして出勤。朝の水が身体のなかを通り抜け、勤務中に何度もトイレに立ってしまう。
昼休みにプルースト。「スワンは、長いあいだ恋に幻想をいだいて生きてきたせいで、多くの女性に安楽な暮らしをさせてその幸福が増大するのを見てきたが、相手からはなんの感謝も愛情も示してもらえなかった男のひとりである」。かなしい……。そして〈私〉はどうやら本腰を入れて小説を書こうとしはじめる、が、なんだかんだ理由をつけて作業に着手しない。この、起筆前のグダグダ、たいへん身に覚えがあります。と思っていたら祖母が、「おやおや、あの仕事とやらはもう話題にもならないの?」と京都人みたいな皮肉でケツを叩いてくれる。祖母、ありがとう……。と思ったら〈私〉はヘソを曲げてしまった。なんなんだこいつは。
退勤後、図書館に寄って制限冊数いっぱいまで借り、ついでに廃棄本のなかから奥泉光『虫樹小説集』を拾って帰る。帰宅後、『史実としての三国志』と『松本清張短編全集』六巻を読了。風呂にも入らずに寝る。340/493
11月20日(土)晴。今日は非番。朝遅い時間に起きる。疲労がぜんぜん回復してない。RPGの主人公たちは若いから宿屋で一泊すれば体力が全回復する、でももう私は三十二歳で、一泊くらいじゃ回復しない、と思ったが、FFⅤのガラフなんかはもう孫もいるおじいちゃんなのに一泊で回復する。そういえばFFⅨのスタイナーは三十三歳だ。私は来年、おっさん呼ばわりされてた彼と同い年になる……。
今日は瀬戸内寂聴『97歳の悩み相談』を、こないだ著者が九十九歳で逝去(夭逝という感じがする)したので、追悼読書。誰に何と思われるとか気にせずに心の望むままに行動する、ということ。そしてこれをやっていられれば他人にどう思われようとええわ、と思えることこそが好きなことで、才能もそこにある。やりたいことがやりたいからこのように迷惑をかけながら転職してきた、と編集者の竹田純が、ジョブホッパーとしてNHKの取材を受けたときに言っていたのを、竹田がツイートした画像で見たことがあって、私は四年経った今もその台詞を暗唱できる。彼があの日のままに九十九まで生きれば寂聴さんになれるのか。なれないか。
そしてなにより寂聴さんの私性が、論理とか超越して彼女の言葉にいいしれぬ説得力を与えている。「私は小説を書き始めたころ、周りからすごくいじめられたの。評論家たちに、ひどい悪口を言われたんです。でも、そこでやめていたら今の私はありません。そのとき私は、「こんちくしょう、今に見てろ」と思ったのよ。そのころはまだ出家してなかったから、人を呪ってもいいの(笑)。「あんなやつら、みんな死んでしまえ」と思ったけど、私が長生きしたから、今はみんな死んでしまいました。」こういうことをニコニコしながら言っとるんだろうなあ。毎日何本もドクターペッパーを飲んでるのに健康に百歳を超えたおばあちゃんが、「長生きしたければそんなもの飲むなと私に忠告した医者はみんな死んだ」と言っていたことも思い出した。
このての人生相談は鼻白んでしまうのだが、そしてそういうたぐいのテキストと同じような主旨のことを言ってるのに、やたらと魅了されてしまった。午後、これが今年のクリスマスプレゼントや!と言って買ったブルーレイレコーダーが届く。さっそく接続していろいろ動かし、今夜の世界さまぁリゾートを録画予約した。そのあと、読み仕事に戻り、夕食後にはzoomでミーティングをして、なかなか脳がしおしおになる。340/493
11月21日(日)曇。朝、樋口恭介「BV-47」を読み、ボリス・ヴィアンをまた読みたくなる。どの訳で読んだんだったかな。日中ぐんぐん気圧が下がっていき、それに伴って具合が悪くなっていく。
弁当を買うのを忘れてたので、近所の、BGMをじっくり聴いてほしいから会話は禁止、というタイプのカフェへ。コンポの横にはいま流れているCDのジャケットが飾られていた。村治佳織。専門家に頼んでサウンドシステムを組んだ顛末、みたいなことがメニューの冊子に書かれていて、なんか熟読してしまう。オムライスを食べながらプルースト。〈私〉の恋が終わっていく……。失恋の描写には『アランフェス協奏曲』が合う。しかしCDが終わっても〈私〉の失恋が終わらない。
午後の勤務を終え、帰宅時には小雨が降り出していた。傘を持っていなかったので、激しくなる前に帰ろうとして今日もシェアサイクル。身体の前面だけが濡れる。スーパーの半額の寿司を食って『ささやかだけれど、役に立つこと』に収録されてた村上春樹のカーヴァー追悼文。悲しみを悲しみきること。発表から三十数年の時を経て、ちょっともらい泣きしてしまう。気分転換に大林公子『アフリカの「小さな国」』。ちとエキゾチズムですがたいへん興味ぶかい。コートジヴォワールのクーデターに居合わせた人の証言は貴重。不調を無視して読みつづけていたが、さすがにしんどく、心身ともに消尽した。358/493
11月22日(月)雨。朝から低気圧で具合が悪い。サラ・ヴォーンのレコードをかけて森泉岳土『村上春樹の「螢」、オーウェルの「一九八四年」』。良い。中国のテニスプレイヤーが、政府高官に性的関係を強要されたことを暴露したあとしばらく行方不明になり、一週間ほどあとに、あの暴露(や報道)はフェイクだ、というメールを出したり、自宅らしいところで猫を抱いて笑顔を見せる写真(猫がだらーんと伸びてるのは良かった)を公開したりしていた。『一九八四年』のラストの主人公の笑顔を見て、あのテニスプレイヤーの笑顔を思い出してしまう。ビッグ・ブラザー・シー・ジンピン。無事でいてほしい。
雨がぱらつくなか出勤。傘を差しはしたが、靴のなかまで濡れるほどではなし。
昼休みはプルースト。恋の終わりに際して見苦しく振る舞ってしまうのは何も珍しいことではなく、語り手は、「ジルベルトに手紙を書くなり口で言うなりして何度こう警告しかけたことか。「用心したまえ、もう決心はついて、ぼくがとるのは最後の行動だ。きみに会うのはこれが最後だ。そのうちきみのことはもう愛さなくなるよ!」」などと述懐し、間髪入れずに続ける。「だが、そんなことをしてどうなるというのか?」ほんとにそうだよ。
図書館で調べものをして帰宅、『村上朝日堂の逆襲』を起読。三十代半ばの村上春樹、とにかく健康のことを考えていて、私も三十二歳なので、健康であらねば、と思うなどする。週刊朝日連載で、『村上朝日堂』よりも一篇一篇が長く、楽しく読める。半分くらい読んでから松尾スズキ『矢印』。『クワイエットルームにようこそ』はめちゃくちゃ好きだったんだけどな。自己模倣は作家の毒だ。そのあと録画してた世界ネコ歩きを観、満ち足りた心で布団に入る。430/493
11月23日(火)晴。今日は祝日で、職場も休業日。文フリの日だが、私は親戚の三回忌。朝遅めに起き、五反田の寺へ。ほとんどが初対面の親族たち、そして法事のあとは品川のホテルに移動して食事、ということで、パニックの発作が予想されるので、鎮静剤を飲んで家を出た。電車を乗り継いで行くと遠回りになって五十分くらいかかる、ので、シェアサイクルで家を出る。アップダウンが激しく、ちょっと今日のシェアサイクルはガタがきてるやつだったようであまりアシストが効かず、ややつらい。それでも時間ぎりぎりに着。
総勢十八人。小説家ということでみなさんチヤホヤしてくださる。チヤホヤしてよ、ねえチヤホヤしてよ、とソニンが歌っていたことを、小説家としてチヤホヤされるたびに思い出すのだが、今日も頭のなかでソニンがチヤホヤしてよと歌った。日蓮宗の法要は、私の実家の浄土真宗とはかなり違っていた。浄土真宗だとお経の最後に住職が「それではみなさまご唱和ください」と言って、参列者みんなで「なーむあーみだーぶなーむあーみだーぶなーむあーみだーぶーつー」とやるのですが、今日はそれがなく、なんというか拍子抜ける。それから墓の前でみんなで記念撮影。記念撮影とかするんだなあ。宗派の違いによるものか、参列者たちの気質によるものか。新鮮で楽しい。
それからタクシーに乗って品川プリンスホテル。エレベーターで最上階(三十九階!)へ。階数表示がひとつずつ増えていくのを見ているとややパニックの予兆を感じ、目をそらす。エレベーターがだめなようだ。眺めのよいレストランでコース料理。ここでも小説家としてチヤホヤされ、またソニンが歌った。しかしソニンの歌はたしかチヤホヤされなくてさみしい、みたいな歌詞だったな。
解散後、少人数で品川駅ちかくのフレッシュネスバーガーに移動して一時間弱おしゃべり、今度こそ解散して帰路。一時間ほど歩き、ちょうど品川と家の中間地点あたりの、でかいビルのなかの火鍋屋で火鍋ではないものを食べて栄養補給。さらに一時間歩いて、さすがに疲れ切って帰宅。いまからプルーストを読む元気はなく、風呂で小池百合子『発電する家「エコだハウス」入門』を起読。なんでこんな本が家にあるんだ。430/493
11月24日(水)晴。冷える朝。昨日だいたい二万七千歩くらい歩いて、きっとこのくらい毎日歩くよ、という人もいるのだとは思うが、私にとってはけっこうな運動量で、もう三十二歳ということもあり、一晩寝ても筋肉痛にはなっておらず、まだ疲れ切っている。ゆっくり歩いて出勤。ゆっくり歩くのが気持ち良い季節ではある。
昼休みにプルースト。ようやく本文を読了した。メモをいろいろ見返していると、職場の上役に話しかけられる。「飛砂」を読んでくれたらしく、感想を話してくださる。ありがたい。自作のおすすめを訊かれ、すこし迷って「井戸」と答える。あれは(私の作品がだいたいそうであるように)たいして評価されなかったが、とても良い短篇です。
午後の勤務中、やや大きなトラブルが起き、対応に追われる。私は末端バイトなので、何かあると矢面に立たされがちで、それが仕事だからべつにいいのですが、心身が消耗する。
職場近くのシェアサイクルがすべて出払っていて、久しぶりに歩いて帰宅。スーパーで軟骨が安くなってたのを買って炒めて食った。軟骨が安くなってるとついつい買ってしまうな。そのあと床でしばらくごろごろし、目黒裕佳子「きりんの青い目」。ちょっと私とは相性が悪い。チューニングが合わないままに読み終わり、米麺をすすって風呂で『「エコだハウス」入門』進読。なんでおれはこの本を読んでるんだろう。458/493
11月25日(木)晴。出勤、労働、昼休みにプルースト。訳者が、私が十一月十六日に引用してたのと同じところを引用している。「このあたりの数ページは、自分が望むほどの評価を得られなかったプルーストが自分に言い聞かせた文言にも聞こえる。芸術の独創性を語る『失われた時を求めて』のなかで、もっとも美しい一節のひとつであろう」ほんとうにそうだ。信頼する読み手が、自分と同じところに注目している、というのはちょっと嬉しい。
それから星野龍夫・押川典昭・青山南「現代アジア小説の魅力」(すばる一九八八年九月号)。星野・押川の専門がタイとインドネシアの文学なので、東南アジア文学の話が中心。言及される固有名詞をひとつも知らず、ひとつも知らない、ということが、三十年以上経った現在でも日本でアジア小説があまり読まれていない、し、私がアジア小説をあまり読んでいない、というのを示しているな。しかし青山さんが若い!青年のようだ。一九四九年生まれだから当時三十代なのか。興味深かった。
午後の勤務を終え、図書館に寄って帰宅。近所のオーガニックな店で買った三割引の弁当を食べ、床暖房をつけてごろごろしながら『村上朝日堂の逆襲』を読了。「作家は批評を批評してはならない」という信条の話が心に残る。「悪い批評というのは、馬糞がたっぷりとつまった巨大な小屋に似ている。もし我々が道をあるいているときにそんな小屋を見かけたら、急いで通りすぎてしまうのが最良の対応法である。「どうしてこんなに臭いんだろう」といった疑問を抱いたりするべきではない。馬糞というのは臭いものだし、小屋の窓を開けたりしたらもっと臭くなることは目に見えているのだ」。村上くらいになると低レベルな批評も無数に投げつけられてきたのだろう。感じ入る。感じ入ったまま寝入りそうになったのをなんとかベッドに移動、すぐ寝る。493/493
11月26日(金)晴。昼休みに『「エコだハウス」入門』読了。小池のプロパガンダの本で、読む必要はぜんぜんなかった、が、とにかく家を建てるなら断熱が必要!ということは伝わってくる。私は天井が高く採光のよい部屋が好きなのだが、家を建てるときはそれに加えて断熱にも金をかけることにする。帰宅、おでんを食って床暖房をして、気がついたら寝てた。
11月27日(土)晴ときどき曇。今日は非番、しかし床で寝たので身体がバッキバキ。起きて全身の関節を鳴らしたりストレッチをしたりする。それから風呂で森川すいめい『感じるオープンダイアローグ』を起読。三十分ほどで出て、一昨日締め切りの地元紙のコラム。昼前に送稿、すぐに返事が来て、思いのほか好感触。私としてはけっこう苦し紛れに書いた文章で、やや戸惑う。いいんですが。
それから散歩。神楽坂のかもめブックスに行って、何も買わずにelm green coffeeへ。『感じるオープンダイアローグ』を読み進める。歩いて市ヶ谷へ向かい、文教堂書店で本を買う。帰宅して『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』の再読をはじめる。そのあとドミノピザの半額フェアが明日までなので注文して貪る。満腹。144/493
11月28日(日)晴。今日は昼休みに『村上朝日堂 はいほー!』を起読。午後の勤務を終え帰宅、キムチ鍋を作って食らい、プルースト。今月中に読み終わりたいところ。270/493
11月29日(月)曇。昼休みに『はいほー!』読了。やや愚痴っぽかったな。四十歳を前にして、小説家としての将来とか〈才能〉のこととかを考えているのが見て取れる。デビュー直後から四十数年後の現在まで大量のエッセイを書きつづけてるから、縦読みすると思考の変遷が見えそうだ。そのあとは休憩終わりまでプルーストを進読。
夜は昨日の残りのキムチで豚キム丼、床暖房をつけて『夜のくもざる』。ワンアイデアを作品化する手の跡がよく見える。やたら歩くのが速い女性とか、〈アンチテーゼ〉という日常的にあんまり聞かない語とかを、「あれってなんだったんだろう?」と考え、思考を意図的に逸脱させていく、その過程をフィクショナイズする、という感じか。こうしてまとめると簡単そうだが……。知名度と安定感と執筆速度の仕事。この本単体でどうこう、というより、村上春樹の年表に(『うさぎおいしーフランス人』とか『またたび浴びたタマ』とかと並んで)こういうポップな仕事があること、の意味は大きいような。ワンアイデアの掌篇を毎月書きつづける、なんて、仕事じゃないとできない。やってみたいな。
それからプルーストをもくもくと読む。379/493
11月30日(火)晴。朝からプルーストを読み、出勤、労働。
昼休みに村上春樹原作漫画『タイランド』を読む。この漫画シリーズでいちばん好きだ、というか私は『神の子どもたちはみな踊る』が好きなんだろうな。それから山野辺太郎「恐竜時代が終わらない」を起読。磯崎憲一郎「肝心の子供」は、なぜブッダ、というよくわからなさに引っ張られる作品だった記憶があるのだが、本作も、なぜ恐竜、とずっと考えてしまう。
十七時すぎに退勤、地面が濡れていたので置き傘を持って職場を出たが、けっきょく家に着くまで降られず。スーパーで焼きそばを買って啜りながら、「恐竜時代が終わらない」読了。タイトルに反して恐竜時代が終わる話だった。『僕の妹は漢字が読める』のことを考えるときついつい〈僕の妹は漢字が読めない〉と間違えてしまう、と円城塔がたしかツイートしていた、ことをふと思い出した。夜は嵐。雨と風の音を聞きながらプルーストを二度目の読了。しかし、プルーストのおともに、デカフェのつもりでカフェイン入りのコーヒーを淹れてしまい、律儀にぜんぶ飲んだもんだから二時ごろまで寝つけず。 493/493
12月1日(水)雨のち晴のち曇。気圧の乱高下。朝遅くまで寝、八時ごろ起きる。今日は非番で、グラコロの初日。雨上がりの朝を近所のマックまで散歩、グラコロを食べる。グラコロ、いつから朝マックでも食べられるようになったのか。すばらしいことです。アンガスビーフボロネーゼのグラコロが良かった。実質ビーフシチューである。最近マックはもっぱらウーバーイーツで食べていて、イートインはずいぶん久しぶりだった。揚げたてのハッシュポテトは良い。良いものばかりだ。マッククルーだったころはいつも夜十時から朝七時の勤務で、帰りに勤務先とはちがう店舗でグリドルのセットを買って帰り、ゲームをしながら食って寝ていた。そのころ朝マックへの帰属意識みたいなものが刷り込まれてしまったのか、というくらいに良い。まんぞくして店を出る。
そのまま散歩、でかい神社の端をかすめて大通りに出たところで腸がたいへんよく動き出し、地下鉄の駅のトイレを借りる。それからベローチェで葦原一正『日本のスポーツビジネスが世界に通用しない本当の理由』起読。興味ぶかい。帰宅、自サイトで公開するために、『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』についての文章を書きはじめる。
ひととおり作業を終え、風呂のなかで岩波文庫の『ロバート・キャパ写真集』。『すべての見えない光』の表紙もキャパだったのか……。
12月2日(木)晴。朝、出勤ぎりぎりまで寝ていた。ばたばた家を出る。
上役に、先日おすすめした「井戸」と、まちがえて小説すばるを買ってしまって手に入らなかったという「息もできない」の掲載誌を貸す。帰宅中に近所のオーガニックな店で買った半額の弁当を食らい、プルーストの作業を進める。やや難航、というか疲れが溜まっていてあまり頭が回らない。
12月3日(金)晴。朝から作業を続け、ひとまず最後まで書く。ひと息ついてから出勤。今日の勤務はずっと肉体労働、疲弊したのでシェアサイクルで帰宅。全体を見返して、今月のプルースト文章はひとまず完成。
それから夕飯にウーバーイーツの台湾屋台飯。五年ちかく前に台湾で食べた屋台飯の味がする!と嬉しかった、のだが、しかし台湾で食べた屋台飯の二倍以上のお値段だった。
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