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プルースト 2021.12.7~2022.1.4


12月7日(火)曇のち雨。今日はやたらと手間のかかる仕事を命じられ、ウンウン唸りながら作業する。昼休みに村上春樹『うずまき猫のみつけかた』を進読。村上が、ニューヨーカー誌の文芸特集号でほかの作家たちと一緒にモデルになった、という話を書いている。ニコルソン・ベイカー『U&I』(有好宏文訳、白水社)の訳者あとがきに引用されていた図版だ。あれは私が調達して白水社に渡したものなんですよ、誰も知らないけど。必要経費くらい出してくれよ、と言ってみたところ、有好が「おれの笑顔が報酬だ!」とニッコリ笑い、それはそれはいい笑顔だったので、なんかもうええわ、という気持ちになったのだった。

 小雨のなか歩いて帰宅、空腹がひどいので昨日の鍋の残りに具を追加して食べながらプルースト文章を自サイトに投稿。あとは『うずまき猫』を進読。春樹が車を盗まれた話、前もどこかで読んでゲラゲラ笑った記憶があるのに、また笑ってしまう。「それのいったいどこがとくに被害がないんだ」はずるい。私はあまり小説やエッセイで笑うことがなく、人生で声を出して笑っちゃったテキストは、『さまぁ〜ずの悲しい俳句』、『クワイエットルームへようこそ』、そしてこの章、「わざわざこんな忙しい年末に、車を盗まなくたっていいだろうに」(良い題だ)。村上春樹、面白いな。参った。


12月8日(水)雨。今日は非番で、朝から低気圧性の不調。しかし最近の私は村上春樹を固め読みしてて、その影響の色濃い時期なので、一に足腰、二に文体、と自分に言い聞かせるとちょっと楽になる。楽になるのかよ。自己暗示の力を感じる。

 コーヒーを飲んでゆっくり作業開始。プルースト日記の今月分を公開用に調整。七巻の日記は『花束みたいな恋をした』、一巻のときは同僚の恋、二巻のときはスワンの恋、とそれぞれ、全体を貫くテーマが決まっていた(しかしぜんぶ恋の話だな)のだが、今回はほんとにただ時系列を整えてネガティヴな文章を削るだけだった。十二時過ぎに昼食をとり、三十分ほど昼休みにしておくやまゆか『むかしこっぷり』。ちょっと『遠野物語』みたいで良い。あとがきがいちばん身に迫る……。

 そのあと作業再開、二時過ぎに完成。十四日の公開まで寝かせる。セブンのジャージャー麺となんか二郎インスパイア系のチンするラーメンを食って読み仕事。


12月9日(木)曇のち晴。出勤前に『うずまき猫』読了。実に良かった(最後の対談を除いて)。小説家は不健康でなんぼ、みたいなステレオタイプを打破したのが村上春樹だ、というのは知識としては知っていたけど、彼のエッセイを縦読みしていると、ほんとうにフィジカルの良さが滲み出している。なんか元気になっちゃうんだよな。

 ずんずん歩いて出勤。昼休みに百年文庫『鏡』を起読、しかし上司に話しかけられて、半分くらいしか読めず。

 近所のドラッグストアで吉野家の牛丼が売っていて、まだ十八時過ぎなのに半額になってたやつを買って帰り、かっ込んでから昼休みに上司が教えてくれたアーロ・ガスリーの、ウッドストックでの演奏の動画を見る。アーロ・ガスリーはウディ・ガスリーの息子で、ということは実質ボブ・ディランじゃん、などと思いながら聴いていていたら、ウッドストックに集うヒッピーたちがマリファナをうまそうに吸う姿が映し出される。そしてそのなかの一人が、カメラを見ながらおもむろに頭に手をやり、髪の毛を高くつまみ上げる。ハゲだ!とゲラゲラ笑ってしまった。カツラを頭に戻したあとのちょっと恥ずかしそうな表情がたまらなかった。風呂のなかで『鏡』読了。


12月10日(金)晴。早い時間にガバリと起きて読み仕事、捗る。機嫌が良くなって出勤。流して働く。

 昼休みにプルースト『失われた時を求めて』四巻を起読。装画はなんか、女性だと思うのだけどかたちが崩れて、バイオハザードの中盤くらいで出てくる進化したゾンビみたいな……。図版索引によるとこの巻『花咲く乙女たちのかげに Ⅱ』になった草稿に「プルーストが描いた乙女」とのこと。私はプルーストに、絵がへたで、「味があるね!」みたいな評を受けつづけている者として同情する。草稿に描いたからって発表するつもりだったとはかぎらないし、少なくともそのまま装画にするつもりなんてなかっただろうに。プルーストのラクガキを装画にする、というのは、いったいどういう経緯で決まった方針なんだろう?

 ジルベルトへの恋の要約、ノルマンディー海岸にあるというバルベックへの旅立ち。ジルベルトへの恋心、ほんとに終わったのだろうか。登場人物紹介に彼女の名はなく、七巻『ゲルマントのほう Ⅱ』で語り手は他の女性たちに熱を上げていて、ジルベルトとの恋はもう、この巻で描かれることはないし、七巻でもぜんぜん顧みられないことを知っている、のに、幼い恋がひとつ終わったことを私はずっと残念に思っている。

 午後も流して働いて、退勤後、同僚とりんごを食いながら歓談。親戚が中学生で、どんな本を贈ればよいか、と相談されるのだが、職場の人々は私が小説家の水原涼だと知っていて、なぞのプレッシャーを感じる。デイヴィッド・アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』、ロバート・A・ハインライン『夏への扉』やラッタウット・ラープチャルーンサップ(この名前をひと息に暗唱する、というのが私のかくし芸で、今日もひと盛り上がりした)『観光』、サリンジャー「笑い男」の話などをする。最近よく職場で村上春樹作品を読んでるからか、春樹なら何が好き?と訊かれたので、『使いみちのない風景』と答える。一時間ほどで歓談終わり、図書館に寄って歩いて帰宅、セブンの豚カルビ弁当を食って作業。脳がしおしおになって床でうとうとしてしまう。そういえば今日は朝が早かったんだった。53/703


12月11日(土)晴。八時過ぎまで寝ていた。爆速進捗を生み出す日、のはずだったのだが、ぜんぜん集中できないまま身支度をして外出。土曜の昼だけやってる喫茶店。コーヒーとケーキが美味い。三十分ほどで出、中華料理屋へ。そこで担々麺や羊肉などを頼む。前菜や羊肉を食い、次は担々麺、というあたりでとつぜんのパニック発作がくる。それまでは調子が良く、喫茶店でもあまりしんどくならなかった。飲食店でしんどくならなかったのは二、三年ぶりで、久しぶりに気持ちのよい日、と思っていたのだが。屋外を一、二分歩いたり、トイレに立ってみたりした、のだが、トイレ(わりと広い)のなかで目眩がしてしゃがみ込み、便器にたどり着けず。結局吐かずに席に戻る、が、座っているのもつらい。担々麺をキャンセルして店を出、ゆっくりゆっくり歩いて帰宅。ひどい迷惑をかけた。休日に散歩して飯を食う、程度のことすら満足にできないのか。気絶する感じで二十分ほど寝。起きたらちょっと楽になっていた。

 それから時雨沢恵一『キノの旅 ⅩⅥ』。小説としてのカタが強固に完成されている。実質水戸黄門だ。間髪入れずに瀬川至朗『カードの科学』を起読。途中でウーバーイーツ、昼に食べ損ねた担々麺(と麻婆豆腐)を昼とは別の店。YouTubeを観ながら食べる。瀬川至朗を再開、風呂のなかで読了。さすがに一九九三年のブルーバックスは情報が古く、実用的な意味ではすでに失効してるのだが、ちょっととぼけた人柄が感じられてほっこりした。風呂上がりに日記。昼の不調の復讐みたいにゴリゴリ読んだ午後だった。53/703


12月12日(日)晴。昨日のつづきのような不調。薬を飲んで二時間弱作業をしてから出勤。昼休みに鳥飼玖美子『異文化コミュニケーション学』を起読。帰宅後は、まいばすけっとのカツカレーをかっ食らって一時間ほど作業。それからりんごとたいめいけんのハンバーグ弁当を食べてもうひと息作業。夕食を二度食べた、のだが、自分でもなぜ二度食べたのかよくわからん。脳がしおしおになったので、ザッとシャワーを浴びて寝。腹が張って寝苦しい。53/703


12月13日(月)晴。胃もたれ。起きてすぐ机に向かい、集中してたら出発時間ぎりぎり。ばたばたと身繕いをして出勤。冬は寒さで身が引き締まるから好きだ。

 昼休みにプルースト。本巻ではけっこう、祖母がフューチャーされている予感。語り手が祖母の愛に包まれる描写が、ここまででもけっこう多い。私は六巻の末尾で祖母が死に、七巻ではその死があんまり顧みられない、ということを知っていて、四巻を読んでいるいま、彼女の死への折り返し地点を過ぎたのだ、と考えてしまう。

 五時過ぎに退勤、キレートレモンの炭酸と香港料理のテイクアウトを買って帰り、はやめの夕食をとってもくもくと資料読み。しかしだいぶ脳が疲れている。週休二日が二連休だと一日目を寝て潰してしまう、から、二勤一休三勤一休にして毎日作業時間を確保している、のだが、どうしても休息が少なくなって持久力が落ちる。床暖房をしてごろごろしながら『異文化コミュニケーション学』読了、すかさず木俣正剛『文春の流儀』を起読。元週刊文春・文藝春秋編集長で、東京新聞で連載してたものをたまに読んでいた。それがほかの原稿と合わせて一冊になってた、のをこないだ知って手に取った。そして序盤でわかったんだけどこの人は花田紀凱をリスペクトしている。そうですか。107/703


12月14日(火)雨。四時ごろ床で目覚め、洗濯乾燥機を回してベッドに移動、寝直す。うちの洗濯乾燥機は最新式なので、深夜に回してもいいのだ。七時ごろ起きて乾いたものを畳み、低気圧でややしんどいので薬を飲んで出勤まで作業。職場へ歩いてるうちにみぞれまじりの雨が降り出す。

 昼休みに『文春の流儀』を読了。『異文化コミュニケーション学』のなかで言及されていた、男性はリポート、女性はラポートを求めるのだ、という言語学の学説がここでも紹介されていた。男性に対してやや批判的な鳥飼と、まあ男と女ってそんなかんじでしょ、と良し悪しをジャッジしない木俣、という違いはありつつ、私は『異文化〜』を読むまでラポートという概念を知らなかったこともあり、この学説が、同時期に読んだ二冊で紹介されてるのがちょっと面白い。本を並行して立て続けに読むことによるよろこび。どっちもあまり私と相性の良い本ではなかったが……。というか木俣、帯には「名刺というパスポートがあれば、誰にでも会いに行ける」と文藝春秋の名刺の万能性を強調しつつ、本文では「事件取材には、名刺が全く通用しません」とか書いちゃってて、いいのか。

 それから村上春樹・安西水丸『日出る国の工場』を起読。工場見学ものはいい。村上はキャリア最初期からこういう、頭に浮かんだことを精査せずにそのまま書いてる(わけではないのでしょうがそういう風に読めちゃう)かんじのエッセイを書きつづけていて、これは精神衛生によい働きかただ。消しゴム工場でつかう「バンバリー・ミキサーというのはなんかよくわからないけど、焼却炉のような蒸気機関のようなわりに無骨な機械で、僕は比較的良い印象をもった。「わし、バンバリですけん」といったような飾らない純朴さが感じられる。こっちも「バンバッて下さい」なんて声をかけちゃったりしてね……。」なんて文章を書いててストレスが溜まるはずがない。こうありたいものだ。というかなんでおれは自分の日記にまでこのややスベってる一節を書き写しちゃったんだ。こういうユーモアは好きです。

 退勤後は雨が止んでいたがひどく寒い。震えながら歩いて帰り、韓国の辛い麺を啜って図書館へ。本を借り、廃棄本の棚からも一冊取って帰宅。そのあともうひと息作業、もうひと息といいつつ三時間くらい集中し、へたばる。ウーバーイーツで頼んだケンタッキーをむさぼって脳ばかりでなく腹まで限界にする。107/703


12月15日(水)晴。今日は職場の定休日で、爆速進捗を生み出す日、だが、昨日までの疲労で九時ちかくまで寝ていた。身支度し九時半くらいに家を出、神保町へ。古瀬戸に入る。コーヒーが来るまでの間にちょっと吐き気がしてくる。パニックの予兆なのか。土曜日のことがあって、飲食店にも苦手意識を持ってしまったのかもしれない。水をがぶがぶやり(客が少なかったからか、店員さんが頻繁に注ぎに来てくれた)、コーヒーを飲みながら資料読み。

 帰りしな、街のパン屋でサバサンドなどを買う。麦くんの「べつのパン屋で買えばいいじゃん」はほんとうにだめだった、と街のパン屋で何か買うたびに思い出す。

 それから今度は家の近くのタリーズに入り、コーヒーを飲みながらプルースト。バルベックの豪華ホテルで、語り手がひたすらに客や従業員を観察しつづける。小説の骨格は描写だ。骨格それ自体が肥大化して身体を食い破るような小説も、骨を欠いてぐにゃぐにゃした小説もあるが、本作は、その骨格こそがいちばんの読みどころで、語り手が新しい場所に赴いて腰を据えて周囲を見渡すときにこそ、彼の観察眼を堪能できる。ふと文庫から目を上げると、ちかくのテーブルで年老いた女性二人がスマホの画面に見入っており、会話(店の外を行き交う人──と思って店の前の通りを見やると、今から投函するのだろう年賀状の束を持った以外は手ぶらの老人がゆっくりと通り過ぎた──にも聞かせようとしているくらいの大声)を聞くかぎり、どうも二人が年末年始を過ごす熱海の高級旅館のホテルツアー動画を観ているらしい。店の反対側の席に座っていた女性が乱暴な感じで本を閉じ、カップを呷って立ち上がり、スマホの女性二人をひと睨みして店を出て行く。うるさかったのだろう。私もちょっと集中できそうにないので、紙のカップでもらったコーヒーを持って店を出、帰宅。外でプルーストを読んでいると、たまたまそこに居合わせた人、窓外を行き交う人をつい観察してしまい、いまいちはかどらない。

 パンをむしゃむしゃ食いながら『日出る国の工場』を一章読んで昼休みとする。それから夕方まで読み仕事。なんか移動以外はずっと読みつづけてたな。夕食に、ちょっと前にヨークフーズの北海道フェアで買ったいかめしをチンして食。美味しいがやや物足りず、さけるチーズとかアイスとかをバカバカ食う。

 満腹になったところで入浴、シェル・シルヴァスタイン『ぼくを探しに』を読む。『おおきな木』もそうだけど、洒落臭いくらいのヒューマニズムとちょっとした苦みが重要なんだな。しかしせっかくぴったりくる相手と出会えたのに放り出された〈かけら〉の気持ちは……。

 風呂上がり、床でごろごろしながらスマホを見ていて、大御所の書評家がTwitterで若い書評家をくさし、若いほうが活動休止を発表した、というのがあったと知る。大御所はもちろん批判されていた、が、大御所なので活動休止とかはしないだろう。醜悪だ。138/703


12月16日(木)晴。六時半にパッと目が覚める。飛び起きてコーヒーをいれて読み仕事、それからエナジードリンクを飲んで出勤。

 昼休みにプルースト。大公妃が、自分は身分の低い者にもあたたかく接する人間なのだと示すため(と語り手は勘ぐる)、〈私〉に、焼菓子やババ(ラムに浸したスポンジケーキ)や大麦飴なんかをポケットいっぱいにくれる。ジルベルトとの恋の終わりに、〈私〉は彼女への手紙に、シャンゼリゼ広場の大麦飴売りのおばさんの死のことを書きつづった。大公妃がいったい誰からこの大麦飴を買ったのか、語り手は言及していない。シャンゼリゼで買うものとはすこし味の違う張るバルベックの大麦飴を舐めながら、ひところは恋する少女より鮮明に顔を思い出せていた大麦飴売りのおばさんのことを考えただろうか?

 退勤前後からぐんぐん気圧が下がっていく。まっすぐ帰宅、もくもく読書。『日出る国の工場』を読了。するどい分析とのん気なおじさんたちの工場見学記が半々といったところ。このバランスですよ。それから北村紗衣『批評の教室』を起読。雨が降りはじめた。183/703


12月17日(金)強雨。出勤中靴のなかがびしょびしょになる。昼休みに『花咲く乙女たちのかげに Ⅱ』。祖母と引き離されるのこわさに、語り手は、「お祖母さまがいなくては、ぼくは生きてゆけません。」と言う。「ねえ、先輩。黙り込んだままの私に焦れて春花が言った。ほんとうに先輩が東京に行っちゃったら、わたし生きていけないかもしれない。」と、私が二年半前(もう二年半前!)に書いた「光の状況」という中篇の、語り手の恋人が言っていたことをいきなり思い出した。別れがもう避けられないものだ、と悟った二人の会話。私の語り手の冷酷な返答を、私はたしか、イヤーあんた(『失われた時を求めて』と同様、「光の状況」の語り手には名前がない)それはだめだよ、と、麦くんのだめな言動を呆れながら観ていたような気持ちで書いていた気がする。彼は何を思ってその言葉を返したのだったか。一連のシリーズを書き終えてからもう一年半くらい経っていて、私は彼らがどんな人間だったか、よく思い出せない。

 いずれにせよ、この会話があってもなくても、祖母は遠からず死ぬし、〈私〉は乙女たちとの青春にうつつを抜かす。この会話があってもなくても、〈私〉は東京に行くし、春花は生きつづけるだろう。

 退勤時には雨が止んでいた、が、低気圧がひどい。グロッキーになりながら帰宅。下半身が濡れたのでシャワーを浴びてから『批評の教室』。最後まで本書と仲良くなれず。というかプロローグのなかの、「批評に触れた人が、読む前よりも対象とする作品や作者についてもっと興味深いと思ってくれればそれは良い批評だ」という記述が全体を象徴していた。そもそも批評に求めるものが私と北村では違っていたのだろう。北村の定義に則ると『日出る国の工場』はとても良い批評だったな。

 それからふるさと納税で買ったやきとり弁当やスーパーのまぐろ丼などを食った、ところでスイッチが切れる。スイッチが切れたのに、日記で引用するために本棚から出した「光の状況」を読みはじめてしまう。私の作品の大半と同様「光の状況」もほとんど無視された作品ですが、これは良い作品です。211/703


12月18日(土)晴。昨日から一変して良い天気だが、昨日の不調が尾を引いている。もぞもぞ起きだし、腹にやさしいものを食ってから作業開始。ここ一ヶ月の読み仕事のまとめ。あまり体調は良くないが、今日が締め切りなので、さすがに休めない。

 昼食にキンパ。十分ほどで詰め込み、作業に戻る。午後の三時ごろ終了。しかしどうにも具合が上向かない。ほんとうは今日発送する荷物もあったのだが、徒歩三分のコンビニまで荷を抱えてえっちらおっちら行ける自信がなく、集荷を頼む。

 遅い昼休みとしておやつを食いながらシェル・シルヴァスタイン『はぐれくん、おおきなマルにであう』を読む。良い話だ。前作で、〈ぼく〉はせっかく拾った〈かけら〉を放り出すことで自由になる。放り出されたかけらはたまらんよなあ、と思った、のが、本作できれいに回収されている。

 前作で未消化だったり、不本意な終わり方をむかえた人物を、次作で救済すること。北大の文芸部にいたころの、後輩のひとりの作品の合評会のことを思い出す。序盤で恋の噛ませ犬的な感じで退場していった女性キャラが終盤にいきなり出てきて、自分だけの趣味をみつけて充実した生活を送っている、みたいなことが明かされる。主役二人の恋愛と関係のないこのシーンをクライマックスのなかに描きこむこと、の意義について議論になって、作者は、「この人物を救済したかったんです」と言っていた。それは、登場人物の生殺与奪の権を握る作者なりの、ストーリー上の必然性とは別の次元の落とし前のつけかただ。

『クロノ・トリガー』の中盤で、古代の王女サラはクロノたちを助けるために海底神殿の崩壊に巻き込まれて死んだ。続篇の『クロノ・クロス』は、そのサラの魂を救済するために制作された作品だと私は思っている。ストーリー構成やシステムの不満はさておき、その一点において私はあの作品が、ぜんぜん関係ない絵本を読んで思い出すほどに大好きだ。

 一時間ほど作業をし、昼に書いたものを推敲して送稿。一ヶ月ほどかかった仕事がようやく終わった。水原涼の名前で発表されるものではないのだが、それでも一ヶ月ほぼ毎日取っ組んでいたので、終わってちょっと虚脱感がある。

 夕方、クロネコヤマトが集荷に来た。それでもう今日は終了、疲れてこれ以上は何もできない。夜になり、ウーバーイーツで四川料理。YouTubeを観ながらかっ食らう。仕事をむりやり進めたが、今日は本休日にしたい日だったな。早めに布団に入る。211/703


12月19日(日)晴。起きてもまだ疲れている。布団のなかでフィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』を起読、訳者村上春樹の長いまえがき「フィッツジェラルド体験」が良くて目が覚める。村上がフィッツジェラルドに参っちゃった瞬間のきわめて鮮明な回想と、その衝撃の精緻な分析。フィッツジェラルドのテキストはまだ読んでない、のに大満足である。

 出勤前に昨日の日記(疲労のあまり五行くらいでまとめてた)を加筆。『クロノ・クロス』といえば、さいきん少年ジャンプ+のアプリで、『アナザーエデン』というスマホRPGが『クロノ・クロス』とコラボしている、という広告がやたらと出てくる。私はクロノシリーズのことになるとあまり冷静でいられないので、ついつい手を出してしまいそうで、いやしかし今スマホゲームをやる心身と時間の余裕はない……。

 昼休みに『花咲く乙女たちのかげに Ⅱ』。サン=ルーの人間性、ブロックの俗物性、そしてシャルリュス男爵の油断ならなさ。この語り手はだいたい猜疑心が強く、他人に抱く第一印象はあんまり良くない。七巻でのサン=ルーやシャルリュス男爵の描かれかたを知っているので、その印象の変遷を想像する、が、べつに想像せんでも七巻までに過剰なまでに詳細に描かれるのだ。

 職場への来客が水原涼と縁のある人で、部署を外れてしばし歓談。彼はサッカー好き(チェルシーサポ)で、私はサッカー好きの人にすぐ懐く。しばし歓談、と思ってたらけっこうな時間が経っていて、その間の業務をすべて同僚に任せてしまった。

 退勤後、ドミノピザでクリスマス贅沢クアトロを買い、シェアサイクルで帰って温かいうちにバクバク食べる。ピザは良い。しかしいいかげん、もう今年もあと十日ほどだし、一年分の疲労の蓄積(というかその前の年の疲労も前の前の年の疲労もまだ疲れ続けているかんじがしている)がけっこう限界に近く、心身ともに疲弊している。横になって『マイ・ロスト・シティー』を進読。フィッツジェラルドは心に優しい。狂騒の一九二〇年代、みたいなイメージ(というかこれはフィッツジェラルドのなかでも『グレート・ギャツビー』のイメージだな)を持っていたので、こんな静謐な悲しみを描く人なんだ、とちょっと意外で好ましい。260/703


12月20日(月)晴。昼休みに『マイ・ロスト・シティー』を読了。しんしんと悲しい。村上春樹は、すくなくとも短篇においては、サリンジャーとかカーヴァーのような、ちょっとおセンチなのが好きなのかしらん。わかるぞ。

 それから養老孟司・中川恵一『養老先生、病院へ行く』を起読。まる……。養老先生の大病の話はいいから、まるの話だけしててほしい、と思ってしまう。調べてみるとまるは写真集が二冊出てて、一冊は増補改題して講談社文庫になっているらしく、おれの作品はいつ文庫化するんだろう……。

 退勤、セブンでお高めのドリアやパスタを買い、ガツガツ食ってから作業。集中しすぎて気がつくと二十三時を過ぎている。ふらふら風呂に入って寝。260/703


12月21日(火)晴。もぞもぞ起き、身づくろい。年末年始、職場の建物が長めに閉鎖になる、ので今日が年内最終出勤。退勤後は直接ホテルに行って一泊する、ので、着替えとかスマホのチャージャーとかもどさどさ詰め込み、大荷物になる。

 昼休みにプルーストを進読。シャルリュス男爵、七巻の印象で、マジいやなやつ、と思ってたのだが、そして本巻でもいけすかないところはあるのだが、なんか惹かれる。ブロックについても、スノッブというか、ぜんぜんいいやつではなく、しかし、妹に冗談を言うブロックは快活な感じがして好もしい。良いとこも嫌なとこもあるのが人間、ということなのか。

 十七時過ぎ、ほんとなら退勤時間なのだが、えらい人たちとミーティング。私は末端のバイトなので、ふだんの業務は接客だけで、こういうえらい人とのミーティングに出席することはほとんどないのだが、今日は現場を把握してる人が必要、ということで呼ばれた。四、五十分でミーティング終わり、急いで退勤。シェアサイクルで紀尾井町のニューオータニに向かう。文藝春秋近くのポートで自転車を降りた、あたりでとつぜんパニック発作。宿についたらベッドでごろごろできる、緊張するような予定があるわけでもない、ただゆっくり休むだけ、部屋は十階でたいした高さじゃない、この程度のことで具合悪くなっててどうやって生きてくんだ、と自分を叱咤しながら歩く、が、目眩がしてくる。走り出したくなる、もう立っていられない、という矛盾する感情が頭のなかでぶつかりあって、どうすればいいかわからなくなり、たまらず鎮静剤を飲む。効くまでは三十分ほどかかる、が、薬を飲んだ、という事実ですこし楽になる。

 ゆっくり時間をかけてホテルに向かい、十階の部屋へ。エレベーターはやっぱり苦手だ。FCロストフの橋本拳人が、試合前、ホテルのエレベーターが止まって二十分くらい閉じ込められた、というニュースが、去年くらいに報じられていたことをたびたび思い出す。シースルーのエレベーターで、チームメイトがゲラゲラ笑いながら撮った動画のなかでは橋本も笑っていたのだが、私はあんなに、強がりであっても笑ったりなんかできないな。

 部屋に着くと楽になる。安倍晋三が二〇一二年の総裁選当日に食べたとかいう三千五百円のカツカレーをルームサービスで頼む。カツは神楽坂のさくらのほうが美味く、カレーは鳥取のベニ屋のほうが美味い。が、三千五百円というのは、ニューオータニでカツカレーを食う、という体験につけられた値段なので、法外に高いとは思わない(高いんですが)。ホテルで読むつもりで青木冨貴子『ライカでグッドバイ』を持ってきたのだが、疲れ切っていて風呂に入る気力もなく、浴衣に着替えてベッドに入る。やってることがふだんと同じだ。301/703


12月22日(水)晴。六時ごろ目覚める。やや靄。ベッドのなかでだらだらして、風呂に入って朝食会場へ。しかし席に着くころから具合が悪くなりはじめ、せっかくのビュッフェなのにほとんど喉を通らず、吐き気をこらえながら部屋に戻る。なんなんだ。人が大勢いる場所に行くのが無理なのだろうか。典型的な広場恐怖症。大勢、といったところで、レストランはめちゃくちゃ広く、窓もでかくて眺めも良いし、テーブル同士の間隔も広いし、さほど混んでいるわけでもない。二日続けてパニック発作が出て、うんざりする。午前は客室で『ライカでグッドバイ』。評伝は、語られる人生が壮絶であればあるほど小説としてしか読めない。

 正午にチェックアウト、コモレ四谷の一階のカレー屋へ。テイクアウトを買って家に帰り、満腹になったあとはずっとのんびり読書、『ライカでグッドバイ』を読了。沢田教一は、展覧会に出すための写真を撮る、と言ってベトナムに行き、もう一度ピュリツァー賞を獲りたい、と撮影を続け、死んでいった。己の野心に殉じること。ベトナム戦争のこととか、戦場カメラマンの活動の意義とかより、この野心のありようにアジられた。

 間髪入れずに松田純佳『クジラのおなかに入ったら』を起読。クジラの研究という仕事、ぜんぜん知らないことばかりだ。ウーバーイーツでビリヤニを頼み、今回もやっぱり多くて、半分ちかく残してしまう。満腹でごろごろしながら『クジラ』を進読、三分の一くらい読んだところでスイッチが切れて本を閉じる。301/703


12月23日(木)晴。寝過ぎた。昨日の残りのビリヤニを食べて一時間ほど散歩をし、神楽坂駅前のベローチェで『クジラのおなかに入ったら』進読。十一時すぎて向かいのかもめブックスがオープンした、ので移動、リディア・ミレット『子供たちの聖書』を見つけ、青いカバで特典付きのを買うつもりだったのについつい買ってしまう。

 帰宅してすぐにプルースト。〈私〉は、このバルベックで多くの人と出会う。本巻には無数の第一印象が描き込まれている。人が人と出会い、その印象や感情がどのように変遷していくか、を、いつもの、ねちっこいほどに綿密な文章で描写していく、のが前半。そして本巻の中盤、*で区切られる直前に、〈私〉は祖母との精神的な別れを迎える。

 その五十ページほどあと、新しい友人のサン=ルーと夕食に出かけるにあたって語り手は、行った先で得られる〈快楽〉のことを考えてこう述懐する。〈この時点から私は新たな人間となっていた。もはや祖母の孫ではなく、祖母のことはここを出るときにしか想い出さず、これからふたりに給仕してくれるボーイたちの一時的な兄弟になっていたのである。〉祖母からの精神的な自立。

 そして語り手は〈花咲く乙女たち〉と出会う……、のだが、この時点ではまだ彼は、乙女たちの誰が誰やらわからず、彼女たちを〈曖昧模糊とした白い星座のようなもの〉としか認識しない。けっきょく恋に恋してるんですよこの人は。きっとこれから、乙女たちをまなざす解像度が上がっていき、そのうちの一人(アルベルチーヌという名であり、そしていずれ彼女への興味を失うことを私は知っている)に収斂していくのだろう。二時間くらい読んだ。

 ごろごろしながら、スマホで神田沙也加の、そう公表されたわけではないけど、たぶん自殺と目されている転落死についての記事を延々と見続ける。死にたい、という、それを実行に移すほどの強い気持ちはせいぜい三十分くらいしか持続しない、という、さいきん聞いた話を思い出す。『クジラ』を再開、夕方までかかってようやく読了。外出して図書館で何冊か借り、スーパーで材料を買って帰ってちゃんこ鍋。399/703


12月24日(金)晴。今日は心身の回復をはかるために本休日。マクドナルドの福袋の抽選に当たっていた。私は初売りの混雑はきらいで、何が入ってるかわからない福袋もにがてなので、スタバとかマックとかのオンラインで申し込める、当たれば確実に手に入るやつの抽選に応募しつづけていて、はじめて当選した、が、クーポンとか、まあマンハッタンポーテージとのコラボポーチとかコップとかはいいとして、〈ポテトをマンハッタンのビルに見立てた〉ライトは、これはぜんぜんいらないな。〈枕元に置いてもちょうどいいサイズ♪〉じゃあないんだよ。

 遅い時間によろよろ起き出し、森博嗣『そして二人だけになった』を起読。私は高三までに出た森作品はぜんぶ読んでる、と思ってたのだけど、先日古書店で見かけて、アレッこれは読んでない!と思って買ったもの、ですが、これも読んでたわ。三十ページほどで気づいたものの、そのまま進読。中盤くらいでトリックも思い出す。

 あのころはミステリとSFばっかり読んでいた。小説家になりたい、とは思っていて、デビューするならメフィスト賞か(当時は再開前の)ハヤカワSFコンテスト、と思っていた、のだが、けっきょくその五年後くらいに文學界新人賞からデビューして、SFもミステリもぜんぜん書いておらず、いったいどうしてこうなったのか。どうして、というか、メフィスト賞作家の縦読みをしようとして『クリスマス・テロル』を読み、『灰色のダイエットコカコーラ』を経由して中上健次を読んじゃったからなんですが。私があのままミステリとか書きつづけてたらどうなっていたのだろう。いまごろバカ売れしてウハウハかもしれんな。一日かけてゆっくり読了。夜は昨日のちゃんこ鍋ののこりに牛肉をつっこんで食らう。ウハウハ。399/703


12月25日(土)晴。もう正月気分で、遅い時間までゴロゴロして起き、今日は地元紙のコラムの締め切りで、書く内容も決めている、のに、頭から言葉が出てこない。Twitterで、森博嗣がエッセイ集『追憶のコヨーテ』のなかで「やる気というのは幻想、あるいは錯覚にすぎない。やるべきことに手をつけられないのは『今やれば有利だ』『怠けると損する』という判断ができない、単なる能力不足だ」と書いてた、というツイートが回ってきて、うるせえばーか!となって今日も本休日とする。森の理論は心身ともに健康な人しか想定してないんだろうな。

 戸梶圭太『さくらインテリーズ』を読みはじめる。『そして二人だけになった』もそうですが、分厚いエンタメを読んでるのはなんか、冬休みって感じがしますね。しかし『さくらインテリーズ』は苦手な作品だった。登場人物全員クソ野郎のスラップスティックは、ギャグの切れ味がほとんど唯一の読みどころなのだが、本作はだいたいスベってるような。二〇〇三年のユーモアはもう失効しているのかもしれない。分厚いですがサクサク読んで読了、ウーバーイーツでシーフードビストロの、パスタとかガーリックシュリンプとかを頼んで食らい、しばらく昼寝(十七時ごろですが)。

 真っ暗になってからもぞもぞ起きだし、アヴィ『はじまりのはじまりのはじまりのおわり』。歌や詩や手紙、これは原文だと何て書いてあるんだろう、みたいな記述が多い。童話とか絵本なら私の英語力でも原書で読めるかしら。

 その後また何か読もうと思ったけど、もう頭が働かない。餃子を食って今日も終了。399/703


12月26日(日)晴。今日も具合が悪い。鳥取では雪がひどいらしい。鳥取では何度か、係留していた漁船が積雪の重みで転覆する、ということがあって、鳥取で雪がひどいというニュースを見た日はそのことを考える。

 起き上がれないまま、布団にくるまってスマホを見ていると、アントニオ・ドンナルンマが、クリスマスのクソダサセーターを着て家族とパーティをしている。弟がヨーロッパ最高の選手として認められた夏、彼はひっそりとセリエCのパドヴァに移籍していった。ジャンルイジがPSGに移籍するなら、それとバーターで契約していたアントニオはもう放出していい、という判断は(バーターだというのもあくまでもメディアがそう勘ぐってただけだが)わからんでもない。が、アントニオは、三試合、インテルとのダービーやELのような強豪相手のプレッシャーのかかるゲームを含む出場試合はぜんぶクリーンシートに抑えていて、バックアップとして保有しててもよかったんじゃないか。もちろんタタルシャヌは良いキーパーなのだが、アントニオはもっと高いレベルでプレーできる選手のはずだ。と、アントニオやタタルシャヌの出場試合も、セリエCの試合も観たことのない私が考えてるのは不毛だな。

 もぞもぞ起きてプルースト。〈私は、娘たち全員を愛していた〉とあり、箱推しだ!となった。しかし乙女たち以上に、画家のエルスチールが印象的。〈おのが作品の永続性を信じる人たちは──エルスチールがそうだった──、自分がはや灰燼に帰しているはずの時代にわが作品を置いてみるのを習慣とする。栄光をそんなふうに考えることは死を考えるのと不可分であるため、芸術家たちは否応なく虚無を想って悲しむのだ。〉そうなのだ。私は自分の作品の永続性を信じている。

 それはそれとして、今日読んだとこだけで二箇所、タイポっぽいものを見つけた。私が読んでいる文庫は三刷で、文の意味が取れないくらいのタイポが三刷まで残っているのはけっこう珍しいのでは。あと、エルスチールの絵に描き込まれている花瓶の花を、最初は〈バラの花〉と書いていたのに、次のページでは〈カーネーション〉となっていて、訳註で、〈前頁では「バラの花をいっぱいに活けた花立て」となっていた。〉と指摘されている。事典や統計を見るたびに、校正のひと大変だっただろうなあ、と思うのだが、『失われた時を求めて』の校正も大変だっただろうな。表記揺れのチェックとかどうやってやるんだ。フランス語の原文と日本語の訳文、その他何ヶ国語にも訳されたすべての十数巻にそれぞれのタイポや矛盾があり、それはなんというか豊かなことだ。

 風呂で重松清『あのひとたちの背中』の伊集院静の章だけ読んで今日は終了。504/703


12月27日(月)晴。頭痛がひどく、ロキソニンを飲む。二、三十分散歩をして、おととい締め切りの地元紙のコラムを書きはじめる。寿司を導入に、食べる以外の海生生物との接しかた、的な観点で『クジラのおなかに入ったら』を紹介しようと思っていて、今朝起きたとき、夢うつつに思いついたことをメモしていた(「小学生はどんなもの。食べるのな。寿司は?」という意味の取れるような取れんようなテキストが残っていた)のだが、なんかうまく書けず、ぜんぶ打っちゃって、昨日の朝ちょっと考えた、雪の重みで漁船が転覆する話を導入にする。

 そういえば、「ふるさとの雪で漁船が沈むのを私に告げて電話が終わる」という吉田恭大の歌があり、それは数年に一度実際にある、係留していた漁船が積雪の重みで転覆する、というできごとを元にしている。私と吉田は同じ街で育ったせいで、ときどき、おそらく作者が想定している以上に、描写されている景がよく見えてしまう。

 昼休みにプルースト。この語り手は、ジルベルトのときもそうだったけど、相手の容姿もろくに認識してない(ジルベルトの瞳の色、アルベルチーヌのほくろの位置)のに恋に落ちる。〈ある女性を愛しているとき、われわれは相手に自分の心の状態を投影しているだけであり、それゆえ重要なのはその女性の価値ではなく自分の心の状態の深さであり、それゆえつまらぬ娘の与えてくれる感動のほうが、優れた人と話したり、いや、その作品を賞讃をこめて眺めたりすることで与えられる喜びよりも、われわれ自身のずっと内密で個人的な、また深遠で本質的な部分を意識のうえに浮かびあがらせることがあるのだ。〉と四百十五ページにあり、おなじことは『スワンの恋』のなかでも語られていた。恋はどこまでも主観的なもの。

 しかしアルベルチーヌの造形、良いですね。ちょっと蓮っ葉な饒舌が気持ち良い。私はアンドレ推しですが。箱推し、という言葉を昨日の日記に書いたけど、何人かの、同一のコミュニティに属してる少女たちのなかから誰でも一人選んで恋仲になれる(本作では語り手がそう思い込んでるだけですが)というのは、ハーレムもののラブコメの構造だな。同時代の読者、おれはアンドレ推し、いーやおれはジゼル推し、みたいな会話をしたりしたかしらん。

 夜、一時間ほど散歩。帰宅して作業をしていると、文の途中で急に頭が働かなくなり、続きが出てこない。今日はもう終了です。554/703


12月28日(火)晴。今日も頭痛。鳥取も晴れて気温が上がり、どうやら漁船は沈まずに、雪が溶けはじめているらしい。

 ゆっくり起きてプルースト。恋の相手がアルベルチーヌに収斂していく、というよりも、箱推しのなかから誰か恋愛の相手を選ぶならアルベルチーヌかな、という感じの恋のはじめかた。そしてアルベルチーヌとのかけひきのために、語り手はアンドレに恋をしているふりをする。私はアンドレ推しなので、アンドレをもてあそぶな!となった。しかしアンドレは、そんな〈私〉の魂胆に気づいているふうなのに、そしてきっと〈私〉のことを憎からず思っているのに、優しく乗ってあげているのだ。完全にアンドレに肩入れして読んでいたので、〈私〉が、遠出の前日入りのために〈私〉と同じホテルに泊まったアルベルチーヌの部屋に誘われ、勢い余って接吻とかそれ以上をしようとしてこっぴどく振られるのを見て、ざまあみろ!となった。

 本文を読了、そのあと夕方まで作業をして、川勝徳重『電話・睡眠・音楽』を読む。良い。夜、今日が年内最終日の区立図書館に行って何冊か借りる。出口に向かう途中、閲覧席のほうから、「そろそろ閉館時間ですので……」と呼びかける声が聞こえる。もうそんな時間か。近所のオーガニックな店の弁当が半額になってたのを二つ買って帰る。658/703


12月29日(水)晴。部屋が冷えて、なかなか布団から出られない。一時間くらいもぞもぞしてようやく起きだし、即入浴。風呂のなかで司修『戦争と美術』を起読。三十分ほどで出、昨夜オーガニックな店で買った弁当を食う。

 それから作業開始。集中していて、気がつくと午後二時半で、四時間くらい経っていた。さすがに空腹なので散歩がてら外出、牡蠣鍋の材料を買いに行くが、あまりよいものがない。

 惣菜をもそもそ食ってプルースト、訳者あとがきまで読んで、すぐに復読をはじめる。夕飯に手巻き寿司を作って腹いっぱい食べる。166/703


12月30日(木)晴。頭痛で目が覚める。ロキソニンを飲んで布団のなかでプルーストを進読。昼は牡蠣鍋。鍋のもとがなかったので味付けはうすめに、ポン酢でいただく。

 それから布団に戻ってプルースト。三時間の昼寝を挟んでだらだら読んでしまった。気晴らしに散歩、と思ったが、夜の食材を買っただけで十分ちょいで帰宅、昼の鍋ののこりに鱈を突っこんで食う。実家から餅が届いたのを受け取ってお風呂で『戦争と美術』進読、あまり頭に入ってこない。朝の頭痛でペースを乱された一日。367/703


12月31日(金)晴。今日も朝から頭痛。朝から机に向かう、が、まったく頭が回らず、薬を飲んでもおさまらない。昼ごろまで抵抗したがどうにも捗らず、諦める。

 知人たちがTwitterで今年の仕事を振り返っているので、自分もやってみよう、と思い立つ。しかし、振り返ってみると、新聞にはコンスタントにコラムが掲載されていたものの、雑誌に掲載された作品はほぼ昨年以前に書いたものだったし、単著の単行本は出ていない。私が寄稿した今年の刊行本のうち、今も書店で手に入るのは『かわいいウルフ』くらいのもので、そのうち私の作品はほんの数ページだ。

 どうすれば作品が読者に届くのか、ということを考えない小説家はいない。そのときに、単行本というのはとても大きなツールだ。でも、私の唯一の単著の単行本『蹴爪』に収録されているのは、これまでに発表した小説千五百枚くらいのうち三百枚程度だ。そして三年以上前に刊行された『蹴爪』を今も置いている新刊書店はたぶんほとんどない。単行本が出ることのみが作家の価値ではないにせよ、価値がある作家であればだいたい単行本は出る。単行本が出ていない、ということそれ自体が、水原涼という小説家の、現時点における重要性を物語っている。

 つまり、ふだん文芸誌を読まないような人に、一定のコストをかけて作品を届けるほどの価値を、出版社は見出していない、ということだ。『蹴爪』の実績からしても、水原涼は何かしらの箔づけなしには大して売れないことは明らかで、経営判断としては当然だと思う。いつか編集者から明言された、「芥川なり何なり、賞に絡まない作品は単行本化しません」という言葉も、営利企業の社員としては当然の発言だ。すべての版元がそのスタンスではない(じっさい『蹴爪』とその収録作は刊行前も後もまったく賞に絡んでいない)だろうが、事実として、「甘露」を除く私の作品はひとつも賞に絡んでいないし、一冊しか単行本化されていない。

 今年、私は文芸誌に中篇を三作、あわせて四百枚くらいを発表した。その三作は今のところ何の賞にも絡んでいない。私自身はとても良いと思っているあの三作は、今後しばらく単行本化することはなく、誰の手にも届かない。

 これは何というか、まったく正常なことではないと思う。しかしこの件に関して当事者である私が何を言ったところで、弱い犬がキャンキャン鳴いてるだけだ。本が出ない、作品を広く世に問うことすら難しい現状をなんとかしたくて、私家版で『震える虹彩』を作ったり、こうやって自分のサイトに作品をアップしたりしてるのだが、なかなかうまくいかないもんですね。デビュー十周年の今年、二年前に参加した同人誌の商業化以外の単行本が出なかったことは、ほんとうに悔しい。

 鬱々としたままプルーストを読みつづける。本巻、とにかく長い。夜になり、紅白をぼんやり観ながらスマホをいじっていて、discordの通知がたまっていることに気づく。通知画面のプレビューで中高以来の友人グループのやりとりを追っていると、スワイプをしようとした指の、画面に触れる時間が短かったからか、タップしたものと認識された。アプリが立ち上がり、自動でログインされる。ちょうど彼らはビデオ通話で年越し飲み会をしていて、お、珍しいじゃん、と懐かしい声がし、そのまま参加。飲み物も用意してなかったので拳を掲げて乾杯する。みんな少年のままおっさんになってきた。おれもそうか。三十分くらい話したところで、まだ年越しはしてなかったけど離脱。紅白を観ている間に寝てた。580/703


1月1日(金)晴。今日は親戚の家にお年賀の挨拶に行く、はずだったのだが、頭痛と吐き気で頭がぼんやりする。頭痛と吐き気、というか、親戚の家に行けば数時間はその、先日の法事が初対面だった人を含む、あまり親しいわけではない人たちとともに数時間過ごすということで、まともに外食もできない私はその場でパニックを起こすかもしれず、というか今の私は自分のことが信じられないので、おれはぜったいにパニックになる、というなぞの確信があり、そのことが恐ろしく、これが不安障害というやつなのだろう。

 耐えきれず予定をキャンセル。最近、どこかに行く予定(それが近所のこじゃれたカフェとか中華とかですら)を立てた日はほとんど朝から具合が悪くなり、キャンセルして、自己嫌悪に陥る。いろんな人に迷惑をかけ続けている。午後になってすこし調子が持ち直してきた、ので机に向かってプルースト、二度目の読了。703/703


1月2日(土)晴。今日も具合がずいぶん悪い。親戚宅に行くプレッシャーの不調ではなかったのか、行けなかったことへの自己嫌悪がおなかにきているのか。無理矢理起きて、自サイトにアップするプルースト文章を起筆。あまり捗らず。

 夜、箱根駅伝の往路のダイジェスト。中央大学の二区走者のことを考える。大会前まで、一区が全十区中最古の区間記録(二〇〇七年)で、それを中央大学の選手が十五年ぶりに更新した。でも、中央大学の二区の走者は、その歴史的なリードをすべて吐き出して、十一位まで落ちた。彼以外の四人の区間順位は悪くなく、五区終了時点で六位だった。もし二区の彼がもっと良いタイムで走っていれば、往路優勝は中央大学だったかもしれない。私がそう思うということは、当事者である彼はそのことを、強い自責の念とともに、今後も考え続けるのだろう。スポーツとはそういうものだ、とは知りつつも、つらくなる。私がチームスポーツのなかでも、野球や駅伝よりサッカーが好きなのは、各選手の役割が流動的で、責任の所在が曖昧だからかもしれない。野球の〈自責点〉ってめちゃくちゃ怖い言葉ですよね。


1月3日(日)晴。ここ数日ずっと具合が悪い。気力もなく、朝から箱根駅伝の復路を観ながらだらだら過ごす。正月、休みだし外は寒いし、おせちとかで朝は簡単に済ませられるしで、炬燵に入ってだらだらしながら観られるコンテンツとして、五、六時間続き、いつ観ても青年が走っていて、それなりにドラマのある箱根駅伝はぴったりだ。最後まで観てしまう。中央大はけっきょく六位。二区の、もう名前も忘れた彼のことを、きっと私は明日以降思い出すことはないが、彼は昨日のことをずっと憶えている。

 そのあとプルースト文章を書きつづけ、ちょっと昼寝。夕方に起き、暗くなってから外出。初詣をし、マクドナルドで福袋とえびフィレオとかを買って帰宅。ロバート・キャンベルや研ナオコのYouTubeを観ながら食らう。それから福袋を開封。ポテトをマンハッタンに見立てたライト、ほんとうに使いみちがわからない。光はけっこう弱く、読書灯にはならなさそうだし。しかし暗さが蝋燭を灯したときと似ていて、なんというか、マインドフルネスみたいな作用があるかもしれない、が、摩天楼に見立てたイモを光らせてマインドフルネスとは……?


1月4日(火)晴。最近ずっと晴れてる、と思ったが、それは最近ろくに外に出ず、部屋に光が差し込んだときにしか外を見ないからかもしれない。寝坊して目覚め、雑煮(鳥取のではない)を食う。

 プルースト文章ができた。夕方、一時間ほど寝。起きてすぐは頭が朦朧としていた。疲れとか不調が溜まっていたのだろう。消音モードでテレビを観、とちゅうから音を出す。ペンギンとか子犬や子猫の癒やし動画みたいな番組が立て続けに流れ、癒やされる。それから高野豆腐と雑煮(鳥取のではない)を作って夕食。


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