8月26日(木)晴。真夏の暑さでひどく汗をかく。文學界の編集者から、来月発売号の校了の連絡。プルースト特集号。私は『失われた時を求めて』の、指定された一冊だけを読んでなんか一本書く、という企画に参加していて、七巻を読んでエッセイめいたものを書いた。これでひとまず私の仕事は終わり、なのだが、いずれ出るはずの(予定はまだない)私のエッセイ集に、七巻についての文章だけしか収録されてないというのはなんかヘンではないか?私はほかの十三冊も読んでなんか十三本書くべきなのでは?などと思い、ひとまず一巻、『スワン家のほうへ Ⅰ』を注文する。
一日勤務、帰宅後、上野千鶴子・鈴木涼美・宮台真司のトークイベントをオンラインで視聴。イベント中、小説家と批評家が、著者の私性と読みの恣意性をめぐってtwitterでバチバチやっているのを見る。私小説というのは自分の私性を小説に差し出すことで、その〈私性〉には、書きこまれるすべての事象がふくまれる。私はそこらへんの失敗をデビュー作でやらかしてたいへんに各方面のお叱りを受けた。それ以降、私小説を書くときは、めちゃくちゃ丁寧に事実とフィクションを織り交ぜて、危険なところは誤読の余地がないように慎重に書く。
当該作の語り手は鳥取県米子市出身で、その土地のことを〈鳥取〉と名ざしていた。しかし、鳥取県鳥取市の出身である私が〈鳥取〉というときそれは鳥取市のことだ。たとえば東京で生まれ育った人にとっては、鳥取県の東部だろうと西部だろうとまとめて〈鳥取〉でいいのだろうが、鳥取県は東部(鳥取市)と西部(米子市や境港市)が、浦和と大宮みたいに互いをライバル視していて、米子を指して〈鳥取〉という語がつかわれるたびにすごい違和感があった。西部の人は自分の地元を〈鳥取〉と呼ぶのだろうか。あるいは、東京と地方との対比が主題のひとつなので、(実際にはそう言わないけど)あえて東京から見た呼称である〈鳥取〉をつかったのかもしれない。
8月27日(金)晴。職場で、休憩時間にワクチン二度目の接種。大会議場に等間隔に並べられた椅子に、接種が終わった人から順に座って、十五分経ったらお帰りください、ということになっているのだけど、ただ座って時を待て、というのが、なんというかこれから出荷されるような気分になる。注射されたあれは恐怖を感じなくなる薬で、おれたちはこれから屠殺されるのだ、と想像してマスクの下でにやにやする。
休憩室に戻り、残り時間で坂本裕二特集のユリイカを読み進める。『花束』公開に合わせて出た号だけど当時は開きもしなかったもの。坂本が、執筆してて、自動筆記みたいな感覚になるときがいちばん楽しい、と言っていた。指が勝手に動いて、キーボードがカタカタいう音だけがしていて、目の前に文字がどんどん現れていく、みたいな感覚。すごくよくわかる。そういうゾーンに入る瞬間の快感は他では得られない。私は私の書く文章が好きで、私の文章を読むには私が書くしかないから書いてる、んですが、あの自動筆記の感覚は、その最大の副産物かもしれない。
帰宅後、Twitterの論争をちょっと追いかける。大きなトピックになっている、老母が亡くなった夫の棺に語りかける「いっぱい虐めたね」は標準語だった。しかし、帰省してきた語り手に「東京の話し方でパキパキ話さないようにね」と忠告してもいた母は、ほんとうは地元の言葉で喋っているのではないか(一歳で引き揚げて大阪に移り、祖父の仕事にあわせて「流れ流れて山陰地方にきた」母は、もしかたら鳥取弁のネイティヴではないかもしれないが、この作品のように、その喋る言葉が何の訛りも帯びていないというのはちょっと考えにくい)。私は西部の訛りはあまりわからないが、「えらいいじめたでなあ」みたいな表記であれば、かなり印象が違ったはずだ。〈いじめ〉は鳥取の方言で〈いたずら〉くらいの意味だ、というツイートも見かけたが、東部でそういう意味で使われているのを聞いたことはない。西部にはそういう言葉があるのだろうか。だとしたら、副詞や文末の処理は標準語に訳したのに、動詞だけ原語のままにしたということかしら。
方言独特のイントネーションは、小説に書きこむと消えてしまう。だから、私が小説で方言の台詞を書くときは、語彙や文末に手を入れて、喋り言葉ではない、目で読むための鳥取弁、と言うべきものをでっちあげる。そこらへんのアプローチのしかたが、同じ鳥取(の西と東)出身の書き手でも、どうやらまったく違っていて、とても面白い。
8月28日(土)晴。副反応の日。最高で三十八・七度まで上がり、ずっと意識が朦朧としている。
8月29日(日)曇。朝起きるとかなり楽になっている、が、それでも三十七度。むりをすれば行けなくはなさそうだったが、職場に休みの連絡を入れる。午後、底を突いた食材を買いに二日ぶりの外出。かなり回復してきた。郵便受けを見ると、二日分の新聞といっしょにAmazonが投函されている。私が臥せっていた間のいつかに届いた『スワン家のほうへ Ⅰ』。新聞や手紙やチラシのたぐいといっしょに抱えて帰宅。前回は机の横の、なんでもかんでも放りこんでおく段ボールに放りこんだところそのまま一ヶ月経ってしまったので、今回はすぐ開封、机の上に置いておく。装画は今回もプルーストが描いた、なんか五人の巡礼者みたいな絵で、これがスワン家の人々……?と思ったら、友人宛の手紙に描いた絵らしい。死んでから百年ちかく後に遠い国で刊行される代表作の表紙に使われるとは思ってなかっただろうな。
8月30日(月)晴。副反応はほぼ消えた。朝、北海道新聞のコラムを書き上げ、送稿。ジョイフィットプラス(ひどい汗!)、オンラインで打ち合わせ。汗だくになったので、シャワーを浴びてもうひとつ作業。夕食は辛い冷やしうどんを食べた。
8月31日(火)曇、午後は夜まで雨。ひどい低気圧で頭が回らない。夕食をとりながら、会ったことのない従兄が出てるというプロジェクトXの再放送。私は従兄にも、その母親にも会ったことがなく、ただ、髪質は紛れもなく我が一族のそれで、しかしぜんぜん顔は違っていて、血の近さと縁の遠さと関わりの薄さ、あれはいったい誰なのか、今は還暦ちかい彼と、たぶんその気になればかんたんに連絡がつく、でも何の用もないし、あなたが昔出た番組を観ましたよ、と、会ったこともない年の離れた従弟から連絡が来たら怖いだろうな、とか考えて、しかし従兄か、私はつい半年前に、死んだ従姉のことを考え続ける語り手の小説を発表したばかりだった、この従兄、番組を見終わった今は名前も忘れたこの従兄が死んだとき私は何を思うだろう、というようなことをずっと考えていて、スタジオ出演した従兄が感慨深げに何を語っていたのか、ぜんぜん聞いていなかった。プロジェクトXのあとは岩合光昭の猫番組がはじまって、番宣?みたいな十五分のもふくめて最後まで、あっというまに七十五分経っていた。猫はいいものだ。
9月1日(水)曇、雨が降り出しそうで降らない。
9月2日(木)雨。低気圧で頭が痛い。
9月3日(金)雨、低気圧。もともとこの日記は、プルースト特集の寄稿依頼をきっかけにはじめた。エッセイの素材になるかもしれないし、あわよくばそのまま渡せるかも、という下心もあった。しかしけっきょく改めて書いたエッセイを送稿したので、もうこの日記の役割は終わったようなもの、なのだが、せっかくなので水原涼公式サイトで公開することにする。
しかし、途中からはかなり私的なことや日常の愚痴なんかも書くようになっていて、そのまま発表すると差し障りがあるので、公開用に加工をはじめる。自分は何も考えずに書くとこういう文章になるのか、と面白く読みふけってしまい、あまり捗らない。しかしこれはほとんど〈『花束みたいな恋をした』日記〉だな。文學界に寄稿した文章には、私は『ゲルマントのほう Ⅲ』の語り手が恋愛のことばっか考えてるように見えた、というようなことを書いたのだが、それは私が『花束』のことばっか考えてたからなのかもしれない。
9月4日(土)曇ときどき雨。低気圧でぐずついた空。やや具合が悪い。遅く起き、zoomで打ち合わせをしてから一時間半くらい原稿。それからちょっと遠くの上島珈琲に行って本を読む。歩いて往復する間は傘が必要ない程度にしか降られなかった。帰宅後、日記の追加作業。ほとんど小説を書くような気持ちでやっている。ようやくひと通り手を入れて、あとはちょっと当日まで寝かせるか。
9月5日(日)雨。靴のなかが濡れてうんざりしながら出勤して、タイムカードを押す寸前に、今日は非番だったと思い出す。帰ろうとしたところを上司に見つかり、今日の出番の人が休んだからそのまま働いてくれ!と言われる。不承不承労働。しかし夏休み後半の雨の日曜はかなり暇で、のびのび働く。
9月6日(月)曇。低気圧で朝からしんどい。シンガーソングライターのm/lue.さんのミニアルバムにコメントを頼まれている。安田和弘の友人で、けっこう前から彼がアートワークを担当していて、新曲のMVの撮影・監督もしている。そのMVは、依頼を受ける前からくり返し観ていた。安田くんの写真のなかではいつも時間が止まってる気がしている。それはたぶん彼が、ファインダーのなかのものすべてと等しい遠距離を保ってるから。なので、安田くんの色づかいの映像のなかで風がうごいてるのがすごく新鮮、生きてるんだ!となったのだった。
早めに起きてずっとm/lue.。歌詞を書き出したり、過去のアルバムを購入して聴いたり。かなり好きだ。ゆえあってしばらく恋愛青春日本映画のことを考え続けていたのだけれど、いずれ私が恋愛青春日本映画の原作を書くときにこの歌声をイメージする気がしている。昼前、聴きながら出勤。日常のなかで聴くのによい歌だ。休憩時間も読書せずに聴く。思いついたことをこまごまメモしたものを帰宅後にまとめ、安田くんに送稿。音楽へのコメント、という慣れない作業で、勤務をはさんでほぼ一日仕事になってしまった。
9月7日(火)曇。今日も朝が遅い。文學界のプルースト特集号が届く。ぱらぱらめくる。「史上もっともハードルが低いプルースト特集」。〈超訳〉とか〈まんがで読破!〉とか〈ファスト映画〉みたいな文化が(善し悪しはさておき)世の中にはあって、これもその一つなのだろうか。それなら私が全巻読んで全巻についてなんか書けばハードルが上がってしまうのかしら、などと思いつつ、ひとまず一巻、『スワン家のほうへ Ⅰ』を起読。57/463
9月8日(水)曇。今日もひどい低気圧。休憩時間に『スワン家のほうへ Ⅰ』を読み進める。まだマドレーヌのくだりが出てこない。この巻に出てくることは巻頭の「本巻について」で明かされているので確実、なのだが、冒頭じゃないのだろうか。というかこれだけ長大なシリーズになれば最初の数百ページなんてまだ冒頭なのか。81/463
9月9日(木)雨。低気圧。ついにマドレーヌ。紅茶を飲んだら沈んでたマドレーヌのかけらが唇に触れて、その感触でいろいろ思い出した、ということを、数ページにわたって書き連ねていて、プルーストはどんなシーンも長く長く引き延ばされる印象だったのだが、この場面にかんしてはその長さがぜんぜん気にならず、引き込まれる。鮮烈。ようやく『失われた時を求めて』を読みはじめた気がする。『スイス・アーミー・マン』は導入が終わってタイトルが画面にドーン!と出るところまでが良くてあとはすべてだめだった、ことを思い出すほどに鮮やかだった。120/463
9月10日(金)晴。午後、キウイを一気に四つ食って髪を切る。それから銀座へ。地下鉄はやっぱりしんどく、乗る前と乗ってから二、三駅のうちはややパニック。銀座に着いてしばらくは落ち着かず、無為に歩き回る。豪華なスタバに入り、公開用のプルースト日記の推敲作業。一万六千字弱、長いな。銀座に来たのは村上早さんの個展のため。画廊のご主人によると、東京国立近代美術館に作品が買われたり、改修工事中の横浜美術館の外覆いに絵がプリントされることになったり、活動の幅が広がっている。『蹴爪』でごいっしょしてから三年、それぞれに活動を続けていて、うれしい。やる気が出てきた。ご主人に歌舞伎座ちかくのヴィーガンの店で買った焼き菓子を預ける。120/463
9月11日(土)曇。120/463
9月12日(日)曇。120/463
9月13日(月)晴。今日は暑い。私は九月末日で異動になる予定なのだが、後任を(なぜか)二人採用したらしく、今日はそのうち一人の初日。トレーナー業務のせいか疲労がひどく、帰宅時には階段をゆっくりとしか上れない。
学部生時代、一年生の選択必修の授業で、抽選に外れて受けたのが、東欧(たしかポーランド)のある庶民階級の家系図の研究をしてる老教授の授業だった。貴族の末裔とかではないし政治に関わった者もいない、片田舎の農家で、でもなぜか代々の家系図が残っていて、教授はポーランド史と家族の歴史を絡めて、市井の人々にとっての近代史のうねり、みたいな歴史観を提示しようとしていた。こうして書くとめちゃくちゃ面白そうだな。しかし当時は、たぶん定年退官の老教授(それどころか当時の私は彼を、八十ちかいおじいさん、と認識していた)の抑揚のない、マイクで増幅されているのに小さな声で、「一八六三年に生まれたヤンの息子はユゼフとイェジーとウカシュの三人でユゼフはヤンのあとを継いでイェジーは近隣のウッチで工員になり例外的に頭の良かったウカシュはワルシャワの大学に進学したがその直後ヤンが戦死したためウカシュは帰郷を余儀なくされイェジーは結婚して子供をつくりウカシュは隣村から妻を迎えて……」と聖書の冒頭がいつまでも終わらない感じで延々とつづき、私は連日夜中までゲームをしていたせいで寝不足で、ちょっと耐えられなかった。たしか期末試験では〈ある家族の家系図(あなたでもよいし歴史上の人物や著名人でもよい)を描き、歴史とのかかわりについて書きなさい〉みたいな感じの問題が出され、私は架空の家系図をでっち上げて何か(祖父の、存在しない弟が、戦後長く抑留されていて、引き揚げのときには四十歳を過ぎていて、それから結婚して子供をもうけたので父には年の離れた従妹がいて……)書いて単位をもらった。
五年ほど経って、同期のほとんどが卒業していったあと、学食でいつも食べるピリカラーメン(というピリ辛のラーメン、みそ味)を食べているとき、窓の向こうでキャンパスのメインストリートを歩く老教授を見た。彼は両手に杖を持っていた。健康な人はだいたい、重心を止めずにすべらせていきながら、その動きに合わせて足を出して体重を支えるようにして歩く。でも老教授は、二本の杖と両足、四本を順繰りに地面につき、その一歩ごとに体重をうつしかえながら前に進んでいた。その歩みはひどく鈍かった。窓の右端から姿を現したとき私はまだピリカラーメンを食べはじめたばかりで、左端に姿を消したときにはもう食べ終わって本を取り出していた。ほんの十メートル程度に五分くらいかかっていたと思う。
ずっとあと、内舘牧子『すぐ死ぬんだから』(講談社)の書評をした。そのとき、自分ではまだまだ若いと思ってる(「アタシが後期高齢者だって? 冗談いうんじゃないよ!」みたいなキャラの)語り手が、自分の老いをはじめて自覚したのがたしか、孫(高校生くらい)に、おばあちゃん歩くの遅くなったね、と言われたときだった。それを読んだときもあの老教授のことを思い出した。
人は老いると遅くなる。そういうことを、ゆっくりゆっくり階段を上がりながら考えていた。150/463
9月14日(火)雨。今日も低気圧。昼休みに『スワン家のほうへ Ⅰ』。幼少期を語る語り手、お母さんに寝る前の接吻をせがむ戦術、みたいなことを延々と考えていてねちっこいかわいらしさがありつつ、ときどき回想する現在のシニカルさが顔を出すのが気持ちよく読める。192/463
9月15日(水)曇。低気圧。昼休みに、1909年に出た断食健康法の本を読む。私は最近心身がひどく参っていて、〈心身〉のうち〈心〉はたぶんパニック障害に起因するネガティブ思考がいけない。そしてたぶん〈心〉が悪さをしてるから〈身〉のほうも悪くなっている。それなら〈身〉のほうを荒療治ででも改善してやれば、そこから遡及して〈心〉のほうもよくなっていくのでは?みたいなことを考えて、たまたま勤務先の図書館の棚にあったこの本を読んでいる。そう気づいてしまうと、とくにエビデンスがあるわけでもなく、著者と知人たちの体験談をもと根拠に書かれたこの本を、手もなく信じてしまいそう。著者によると、胃が食物を消化することが、人体への負担がもっとも高い。にもかかわらず、現代(明治ですが)の食事は過栄養で、しかも一日三食に加えて間食もする、という生活習慣に慣らされて、ほんとうは栄養を摂取する必要なんてないときにまで食欲を感じるようになってしまった。その、植え付けられた〈病的食慾〉から脱して、生物としての身体が欲する〈天然食慾〉にみちびかれた食事をするようにすれば、胃の消化に使われていた栄養素が全身に回って健康になる。そして〈病的食慾〉を脱するためには、身体が〈天然食慾〉を再び感じられるようになるまで絶食をするのだ!という主張だった。一度くらいこういう偽科学的な健康法を実践してみるのもおもしろいかもしれない。
帰宅後、ライフのネットスーパーで買ったものが届くのを待ちながら『スワン家のほうへ Ⅰ』。「長期にわたって私の夢みる女性のイメージ」がかたちづくられる。228/463
9月16日(木)晴。今日は新人ふたりがどちらも休みの日。図書館は湿度60パーセントを保つようにコントロールされていて、トレーニングをする日はずっと説明してるので喉が渇く。今日はそれほど忙しくもなく、あまり声を出さないから楽だな、と思っていたら、暇すぎたからか、同僚の一人が恋バナをはじめてしまった。
働きはじめてからずっと、腰までの長い、白にちかい金の髪をなんか込み入ったかたちに編み込んでたのを、先月あたり、くるんとした黒いショートボブにしてきて、えーびっくりした、なんかあったんすか、と尋ねたら「失恋しちゃったんです」との答えで、アッこれは聞いたら長くなるやつだ、と察して「そうなんだー」と流した。でその翌週、これも暇な時間帯に、「実はよりを戻したんです」と切り出され、なんか退勤して帰ろうとしたら職場の最寄り駅で彼が待ってて……みたいなところまで聞いて「そうなんだー、おしあわせに!」と流した。それで終わりかと思っていたのだけど、こないだけっきょくまた別れた、というのが今日の話。
同僚は二十七歳の女性で、医療の仕事がやりたくて医学部を二度受験したが不合格で、諦めて入った介護系の専門学校を卒業後、就職した病院で恋人と出会った。彼は当初から、いずれは飲食店をはじめたい、と夢を語っていたらしく、実際に、病院で三年ほど働いたあと、有名な店で一年間修行して、いまから二年前に清澄白河でカフェを開店したのだとか。で、彼女は開店に合わせて病院を退職、店を手伝ってたのだけど無給で休憩にも行かせてくれず、耐えられなかったので、人を雇うだけのまとまった金ができたところで辞め、半年ほどの書店勤務を経て私と同じ図書館で働きはじめた。髪が長くて白っぽかったけど失恋してめっちゃ短く黒くなったと思ったらよりを戻した同僚、くらいの認識しかなかった(ひどい認識)のだが、誰にでも人それぞれの人生があるものだ。
恋人は先輩だけど彼女よりひとつ年下で、目をキラキラさせながら夢を語るのを聞いて、私が助けてあげなきゃ!みたいな気持ちになったらしい。開店準備のときも、手作り感あふれる店にしたいから、という彼につきあって、トンカチ握ってテーブルを作ったとか。しかし彼は唯一の趣味が麻雀で、「人生で楽しいことは麻雀しかない」と公言するくらいだった。店の金や彼女の金に手をつけることはないが、食費や光熱費を除いた自分の可処分所得の大半を麻雀につぎ込んでいた。開店日はいつも六時半の閉店後、一時間ほど掃除と翌日の仕込みをしたあと、いったん帰宅→彼女が作ったごはんを食って寝る→午前二時ごろ起きて雀荘へ→朝八時頃切り上げて自分の店へ移動→十時開店、というサイクルだった。定休日には彼女とデートすることもあるが、必ず六時ごろに切り上げて新宿の、ちょっとレートの高い雀荘に行っていた。結婚の約束もしていたらしいが家族は、みんな彼の麻雀狂いを危惧して反対してたらしく、まあそれはそうだろうな。彼は彼女との生活よりも麻雀を優先していて、家事全般彼女にぜんぶやらせていた。そして雇ったバイトはだいたい「給料や勤務体制について不安がある」とか「パワハラを受けた」という理由で長く続かないらしい。「だめんずってやつだね!」と言いそうになるのを必死にこらえる。
一度目も二度目も彼女から別れを切り出したらしく、しかし自分で振ったのに「失恋しちゃったんです」と髪を切るのは、いったいどういう感情なのか。二度目の別れは夜、彼の部屋(彼は独り暮らし、彼女は実家住まいだったが、週五で彼の部屋に泊まってた)で、いかにもうむりか話し、やっぱり別れよう、と伝えたところ彼が激昂して、誕生日プレゼントで渡したばかりの花束を花瓶から引き抜いて放り投げたり、そのへんにあった彼女の物を投げつけてきたり、「もう出てけ!」と叫んだりしたとのこと。フィクションのなかでしか見ないタイプの修羅場だ。ケツメイシ「さくら」のMVのなかで、萩原聖人が映画監督志望の青年、鈴木えみがその恋人を演じていて、コンテストの落選通知か何かを受け取った萩原が激昂して、同棲する部屋のなかにあるもの(8mmフィルムとかカメラとか)を床に叩きつけて部屋を出て行き、ひとり残された鈴木が片づける、というシーンがあったことを思いだし、「「さくら」みたいだね!」と言いそうになったのもこらえた。
もう出てけ、と叫んだ恋人は、ほんとうに早く出ていってほしかったらしく、彼女が自分の荷物をまとめるのを手伝ってくれたらしい。「それはちょっと助かりました、荷物多くて」と彼女は笑っていた。めちゃくちゃ面白い。このエピソードはいつか小説につかおう、来たるべき私の恋愛青春小説。自棄酒を飲んでいた萩原が帰ったときには部屋は元の状態に残っていた。でも、鈴木の(声は入ってなかったけどたぶん)「おかえり」にも萩原は返事をせず、無言で突っ立ってる萩原の横をすり抜けて鈴木は部屋を出て行く。ふたりの出会いの場所である河川敷の桜の木の下(以前喧嘩をしたときもここで仲直りした)で振り返っても、萩原は追いかけてきてはおらず、そこで二人の関係は終わる。荷物を持って彼女が部屋を出たあと、彼は、散らばった花束を一人で片づけたのだろうか。彼女は思い出の場所で振り向いただろうか?
けっきょく二時間くらい話を聞いていた。帰宅、寝る前にダイソーの「プチブロック」というレゴみたいなやつでパステルカラーのティラノサウルスをつくる。可愛い。しかし細かい作業でもう脳がしおしお。258/463
9月17日(金)曇。朝、パイナップルを切る。カットパインではなく皮もとげとげした葉っぱもついたやつを切って食うのがいちばんうまい。私はパイナップルの芯が好きで、あれを細長いまま口にねじ込んで噛み、果汁と繊維で口のなかをいっぱいにして、でも固くて飲みこむのはちょっとつらいから、うまい汁をぜんぶ啜った芯のなれの果てをゴミ箱にペッとやるのだ。
出勤、昼休みに『スワン家のほうへ Ⅰ』。女中のフランソワーズのキャラがたいへん立っている。フランソワーズは七巻にも出てきていて、しかしそこまで個性的な人物とは思わず(それよりシャルリュス男爵のほうが強烈だった)スルーしてたけど、こんなおもろいもん持ってるんなら最初から言ってや、となった。おれが読んでなかっただけで、最初から言ってたのだが。
そういえば、彼女はなぜ私に失恋の話をしたのだろう。なぜ、というか、たぶん髪型を変えたとき職場で最初に「なんかあったんすか」と訊いたのが私だったからなのだが、しかし、私たちは職場でしか会ったことがないし、プライベートの話もぜんぜんしたことがなかった。札幌のバーで働いていたとき、私にさんざん夫の愚痴をこぼしたあと、あーすっきりした、と言って帰っていった客のことを思い出す。彼女にとってカウンターの向こうにいた私はべつに私である必要はなく、口からこぼれてくる言葉をひとつも否定せずに聞いてくれれば人でも犬でもアルパカでもなんでもよかったのだろう。バーを辞めたあとも、酒の場ではだいたい聞き役に回る。下戸だからかもしれない。しかし疫病で酒の席自体がタブー視されたいま、そうやって宛先の定まらない言葉の垂れ流しを受け止めることも久しぶりのことだった。
彼女がいなくなったあとの恋人のことを考える。名前も知らない彼は何をしているだろう。昨日、彼女は、二度目の別れの夜のことを「こないだ」と言っていた。よりを戻した、という話を聞いたのは日付は憶えていないが先月の、たしか下旬のことで、だから二度目の別れはそれから一昨日までのどこかの夜のことだ。しかし私がその話を聞いたのは昨日のことで、だから私は二人の別れが昨夜のことのような気がずっとしている。
彼はもう部屋を片づけただろうか?「さくら」のMVのなかでは部屋を散らかすのが萩原聖人で片づけるのが鈴木えみだったが、今回は散らかしたのも片づけたのも彼で、私は会ったこともないしどんな風貌をしてるかも知らない彼のことを萩原聖人みたいな顔でイメージしている。床に散らばった花束やフローリングに広がった栄養剤入りの水を掃除する彼を思い描く。床はまだ湿っているだろうか。フローリングの継ぎ目に入りこんだ花粉は黒ずんでいるだろうか?
彼は、早く出てけ、と言いながら荷造りを手伝った。彼女を追い出したあと、一人になってすこし冷静になり、散らかった(昨日の話では彼が散らかしたとしか描写されなかったが、彼女だってすこしは応戦したかもしれない)部屋を見回してため息をついただろう。それからすぐに掃除をしただろうか。明かりを消して何も見えなくして布団にもぐったかもしれない。床の水くらいはさすがに、雑巾を載せて吸わせただろうか。長くつきあった彼女の私物は部屋のあちこちにあって、乱雑な荷造りで収納は開きっぱなしで、たぶん旅先で買ったシーサーか何かも置いていかれている。アロマディフューザーは彼女が選んだ匂いだ。そういえば急いでいたから彼女のボディスポンジを忘れてた、と思いついたが、あのスポンジは一緒に風呂に入ったときに自分も使ったことがあるから、わざと置いていったのかもしれない。やめてよー、と言いながら彼女が笑っていたことを思い出して、暗い部屋で毛布にくるまって身体をまるめている。だんだん目が慣れてきて部屋の惨状もうっすら見えて、床に倒れた花瓶が外からわずかに入ってくる光を反射している。よりを戻して、五回目の誕生日を一緒に過ごせたことを、その花の匂いを嗅ぐたびに思い出すのだろう。
しかしなぜおれはいつまでもこのことを考えているのか。恋愛青春日本映画みたいだと思ったからか。若い男女の出会いと別れの話。現実に起きたこととフィクションの出来事という違いはあるが、私の生活にはたいして関係のないところで起きているという点では同じだ。以前読んだ『作中人物は生きているか』というあまり私には合わなかった本で引用されていた、著者が教えている学生のレポートに、私たちは会ったこともない芸能人を生きていると思うのだから、それと同様に、会ったこともない作中人物だって生きているのかもしれない、みたいなことが書いてあったことを思い出す。彼女が恋人と過ごした五年間は、私にとって、麦くんと絹ちゃんの五年間と同じくらい遠いものだ。私は同僚である彼女とは会ったことがあるが、その恋人とは会ったことがなく、彼はほとんどフィクションの登場人物のようなもので、映画が終わったあとの登場人物たちを想像するように、彼女が部屋を出ていったあとの彼を想像している。294/468
9月18日(土)雨。台風が来ていて、ひどい低気圧。低気圧時のいつもの習性に倣って今日もドカ食いをする。ウーバーイーツで月見バーガー。配達員がびしょぬれになっていて、申しわけなくなり、はじめてチップ機能をつかう。マックは毎年恒例のバーガーを、毎年ちょっとずつマイナーチェンジしたり、今年だけの限定メニュー、みたいのも出していて、今年はそれが何種類もある。コロナ禍でウーバーイーツみたいなデリバリーやテイクアウトの需要が高まったことと、このメニューの多さは関係あるのだろうか。月見バーガーは例年通りのうまさだったが、あんことおもちの月見パイ、というのがいたく気に入る。これはコーヒーにあうやつだ。今日はプルーストは読まないままにもう夜。294/468
9月19日(日)晴。台風一過。出勤し、一日中新人のトレーニング。私の後任二人のうち一人が、なにか書きものをして同人誌も出している文学修士、と私と共通点がいくつもあり、正統なきみの後継者を採用したよ、と上司に言われたのだった。しかしもちろんそのへんの属性は大学図書館の仕事とはたいして関係ない(レファレンスのときに多少、利用者が挙げる文学用語の表記や意味がわかる、みたいに役立つことはあるが、それは何が専門でも同じだ)。置きかえ可能、ということを考える。修論は武田麟太郎で書いたのだという。業務の引き継ぎと文学の話を交互にしつづけ、さすがに疲れる。
休憩時間に『スワン家のほうへ Ⅰ』。スワン嬢との劇的な出会い。きっと誰でもそうだが、語り手の少年期も世界の色彩が変わるような鮮やかなシーンが多い。スワン嬢はブロンドで、目は真っ黒だった。でも〈私〉は、金髪といえば碧眼、くらいの連想からか、彼女の目を青だと認識していた。〈私〉の認識と実際の目の色の齟齬は、彼女のことを考えるときの〈私〉にどう影響するのか。目、という人の印象に大きく作用するだろう部位なのに、そこに何か捉えがたいものを感じる、気になる、それを語り手は恋といっているのか。恋愛青春日本映画、ぜんぶ、観たあとに、イヤなんで麦くんと絹ちゃんが別れなくちゃいけなかったのよ、みたいな、どうにもモヤモヤするものが残る。それはいままでに観た四本いずれも同じで、あの映画はなんでああいう風に描いたんだろう、とずっと考え続けた。切り分けがたいものを見る者の心のうちに残すこと、恋というのはそういう作用なのだろうか。
失恋した同僚、最初の別れのとき、白っぽかった髪を黒く染めて、それから一ヶ月くらい経って色が抜けてダークグレーくらいになってた、のを、また黒く染めなおしている。何か喋ることはありそうだったが、私の職分の業務がやたらと忙しく、誰かと私語をする時間すらほぼなかった。
民俗学的には、失恋したら髪を切ったり染めたりする、という風習は、髪型を変えることで、恋人だったがいまはそうではない人に自分だとわからないようにする、と解釈できる。もちろん実際にはその程度の変身・変相では顔を合わせればわかるのだけれど、そうやって姿を変えることをある種の儀礼として機能させるのだ。あるいは、髪には呪術的な力があり、別れたときの未練の感情が髪の一本一本に宿って精神に悪さをするから、切るなり色を変えるなりして悪感情を散らすのだ、とか、恋人に撫でられた髪の毛は幸せな時を憶えているから切り落とすことでその記憶にも別れを告げるのだ、とか。失恋と散髪・染髪はとかく結びつけられがちで、それはやっぱり、一部とはいえ姿が変わること、それが人体で最も重要な頭という部位であること、あるいは、髪の毛は繊維質だから、〈絆〉という概念とも親和性が高いのかもしれない。
とはいえ、恋をしようとするまいと、失恋しようとするまいと、人間の髪は伸びるもので、じっさい彼女も恋人といっしょにいた五年間で何度も髪を切ったり染めたりしたはずだ。今回、一ヶ月ほどで二度、髪を黒染めした彼女は、薬液が髪の色を変える間、頭皮の痛みに耐えながら、何を考えていたのだろう。五年間の楽しかったことでも考えていたのだろうか。別れの夜のことを反芻していただろうか?
彼は一度目の別れのあと、彼女の職場の最寄り駅で彼女を待っていた。髪型も色も変わったのを見て、彼は何を思っただろう。私なら、別れたあとすぐに恋人が髪を切ったり染めたりしていたら、おれのこともう吹っ切れたのかな、とか思いそうだが、どうなんだろう。あなたと別れたから染めたのだ、と彼女は伝えただろうか。そうだとしたら、二度目の別れのあと、散らばった花束を片づけながら、彼は、いっしょにまとめた荷物を持って部屋を出ていった彼女の後ろ姿を思い出し、その髪の黒染めが褪せていたことに気づいて、また髪を黒く染め直すだろうか、と考えたかもしれない。彼の髪は何色なのだろう?
帰宅。パニック障害についての本を何冊かブックオフオンラインで買ったやつが届いている。十数ページ読んだところで息が苦しくなり、動悸もちょっと危ないかんじに高まって、読むのをやめる。333/468
9月20日(月)晴。近所の高くて美味いパン屋に行き、ちょっと並んでいろいろ買う。栗のリュスティックがたいへんに良かった。高いパンは美味い。
昼過ぎに出勤。夕方、新人がひとり退勤していったあと、やや仕事が落ち着いた隙をついて、失恋した同僚が失恋の話をしてくる。最初の別れからしばらくして、恋人が職場の最寄り駅で待っていて、それで一度はよりを戻した。もしかしたらまたどこかで彼が自分を待っているかもしれないし、二度目の別れの夜の激昂ぶりから考えて、その再会は穏やかじゃないものかもしれない。だから二度目の別れのあと、何度か家族に迎えにきてもらっていたのだという。別れた恋人に恐怖を抱かせるのはほんとうにだめなやつだ。
彼女はずっと家族全員から交際に反対されていて、別れたあと、何を話しても「だから最初からやめとけって言ってたでしょ」みたいな感じらしく、先日私に話してすごくスッキリした、と言った。何も知らないし何か意見をするわけでもない私の、エー麻雀、たまげたなあ!みたいな新鮮なリアクションがよかったらしい。あんたはぜんぜん関係ないからなんでも話せていい、とバーの客も言っていた。こいつはおしゃべりではなく排泄をしに来ているのだ、と思っていたし、金のためにおれはこいつのつまらん愚痴を受け止めてやってんだ、みたいな感じだったのが、同僚がスッキリしたならまあいいか、くらいに(無償なのに)思えるようになったのは、私も大人になったのかもしれない。「「さくら」みたいだね!」と言わなくてよかった。
夕方の休憩中、『スワン家のほうへ Ⅰ』。語り手の叔母が死んだが、語り手は、女性同性愛の場面を(イヤちょっとたまたま窓のなかが見えちゃって、いま逃げると音でばれちゃうし、みたいなことを言い訳めかして考えつつ)凝視していて、なんだんだこいつは。格調高い文章でおげれつな下心を書き連ねるのが、なんかこう真顔でめっちゃ面白いギャグをぶっ放すお笑い芸人みたいでクセになる、ふかわりょうみたいなかんじで、しかしふかわりょうのギャグをめっちゃ面白いと思ったことはなく、それなら、ふかわりょうがめっちゃ面白いギャグを言えばプルーストに限りなく接近するのだろうか。違うか。世界文学史に冠たる名作『失われた時を求めて』、ぜんぜん高尚じゃなくて良い。368/468
9月21日(火)曇。疲れ切っていて、今日の勤務についてはあまり記憶がない。休憩時間に『スワン家のほうへ Ⅰ』。本文を読了、場面索引と著者年譜まで読む。本文の末尾に、*三つで区切られた、本巻のエピローグのような二ページ強がある。エピローグというよりは、序章の最後に置かれる煽り文というか、次回への引きのような感じ。やっぱりこれだけ長大なシリーズになれば最初の数百ページなんてまだ冒頭……。430/468
9月22日(水)曇。午後出勤、休憩時間に『スワン家のほうへ Ⅰ』を訳者あとがきも読了。あとがきまで良い。プルーストへの愛、個人訳を残した今は亡き恩師への想い、そしてその衣鉢を継ぐ大仕事にあたっての感慨が書きつけられている。もちろん作品や著者の情報も充実していたし、はじめて読んだ十九歳の夏以降、仏文学者として過ごした四十年間の成果であるきわめて精緻な解釈と、プルーストの原文と同じくらいに彫琢された訳文のすばらしさは言うまでもなく、しかし、そんなまじめな文章のあわいから立ち上がるエモーションがすごく良かった。本文の訳よりも、訳者あとがきを読んで、この訳者は全幅の信頼を置ける、と思えたのははじめて。これからあと十二冊(もしかしたら十三冊?)この人が訳した本を読めるのだ。
時間をおいて考えてみれば、恋愛の季節はそう長いものではなく、アラサーになってこんなに恋愛に翻弄されるなんて痛いですよね、と言っていた彼女もいずれ、あのころは若かったな、と振り返る。
ほとんど同棲していた恋人に別れを告げられ、もう出てけ!と追い出したあとも日々は続くのだから、彼は次の日も朝十時に店を開け、閉店まで働いて、掃除をしたあと、家に帰っても食事を用意してくれる人はいないから、たぶん直接雀荘に行った。夕食はほぼ必ず彼女が作っていたらしいけど、彼はいま食事をどうしているのだろうか。彼女は、彼のほうが料理がうまいのに気が向いたときにしか作ってくれなかった、と言っていた。カフェを経営しているのだし、料理を担っていた(担わせていた)彼女がいなくなっても、意外と問題なく暮らしているのかもしれない。一人分の夕食を、牌をジャラジャラやって疲れた指で作りながら、彼女の味付けを思い出しているかもしれない。味噌汁の具や調味料のさじ加減は家庭によって微妙にちがっていて、でもクックパッドの隆盛で味が均一化してしまった、というのをどこかで読んだことがある。彼女は何でもクミンで炒めた、とか、彼が一人で暮らしていたころは使ったこともない醤を買ってきたな、とか、台所にストックしてある、自分では使いかたも思いつかない調味料の瓶を見ながら考える。醤は賞味期限が長いから、彼女の私物を全部捨てて、五年間の記憶が薄れたあとも冷蔵庫にずっとあって、次の恋人が、なんでこんな大瓶で買ったの、と笑いながら何かを作ってくれるのだろう。そのとき彼はほっとするかもしれないし、胸が痛むかもしれない。その醤を使って料理をしてくれた二人の味をひそかに比べて、あいつのほうが美味かったな、とか思うかもしれない。そのころには彼女も、新しい恋人の家で、新しい醤を使って夕食を作っていて、その賞味期限が五年後の日付なのを見て、それまでこの人と一緒にいられるかな、とふと思い、前の恋人の家に置いてきた醤の賞味期限がきっとまだ切れていないことを考える。そうやってお互いのことを思い出す夜が、二人にはこれから何度かあるのだろう。468/468
9月23日(木)晴。一日中作業。
9月24日(金)晴。昨日と今日、やたらと暑い。午前中、地元紙のエッセイ。送稿して昼過ぎに出勤。バイトリーダー業務と新人のトレーニングのために、あまり気を休める時間がない。来月からの新しい部署にはじめて入り、挨拶回り。
部署に戻り、ひと息つく間もなく失恋した同僚の恋バナ。一度目なのか二度目なのかはわからないが、彼女が恋人に別れを告げたのは、彼のことがいやになったからではなく(彼から気持ちが離れたことはもちろん大きいのだろうが、どうやらそれが最大の理由ではなく)、実はほかに好きな人ができたからで、それは同じ職場で働く他部署の人なのだという。恋人と付き合いながらも、どうしてもその同僚に心が惹かれていて、こんな状態で交際を続けるのは二人に対して不誠実だ!ということで別れた。もしかしたら彼が「もう出てけ!」と激昂したのは、彼女が、自分の〈誠実さ〉を守るために、ほかに好きな人ができた、と伝えたからなのではないか。誠実さそれ自体は批判されることではないが、状況によっては単なる自己満足にしかならない。彼女は同僚にまだなにも伝えていないというが、五年の歳月を「ほかに好きな人ができた」という理由で終わらせられた元恋人からしたら、ほとんど寝取られたような感覚なのではないか。私はここまで、彼女の話からいろんなストーリーを想像してきたのだが、これは早急に修正が求められる。
彼女とも、彼女が恋する同僚とも、私は職場でしか会ったことがない。彼女とは恋バナがはじまるまで業務以外の会話をほとんど交わしたことがないし、彼の人となりも大して知らない。そういえば、彼女は、私たちの部署で働きはじめてわりとすぐ、彼に、けっこう長い映画シリーズのDVDをひとつずつ借りはじめ、一度目の失恋のときには、その映画と仕事がいまの生き甲斐です、というようなことを言っていた。すでに新しい恋を自覚してたかどうかは知らないが、前の恋から逃れて映画に夢中になることで、その映画の持ち主である彼にも気持ちが向いたのだろうか。吊り橋理論的な、というとなんか疑似科学じみてくるけど、揺れる吊り橋が怖くてドキドキするのを、いっしょに橋にいる人への恋心と勘違いして好きになる(しかしほんとにそんなことあるのか)、という感情の働きかたにちかいような。それは『スター・ウォーズ』が面白いだけだぞ。
休憩時間に『スワン家のほうへ Ⅰ』を再読しはじめる。
これまで秘密にしてたことを明かして何か吹っ切れたらしい彼女は、ほかの同僚が席を外すたびにその話をしてくる。なんだか裏切られた、というか、ミスリードされた気がしているのはたぶん、これまでにぜんぜん登場しなかった人物がいいところをかっさらった感じがするから。ノックスの十戒という、推理小説を執筆するうえでの鉄則、みたいな古典的な概念があって、その第一が「犯人は物語の当初に登場していなければならない」というもので、なんかこう、解決編でいきなり、犯人はこいつだ!とそれまで言及もされてなかった人物が現れた、みたいな感覚なのだろう。とこう考えてくると、私が職場の外での彼女(の恋)のことをフィクションの存在だと捉えてるのがよくわかるな。117/463
9月25日(土)曇、ときどき小雨が降っていた。低気圧で具合悪くなりつつ、朝から作業、午後出勤。
(失恋した同僚改め)同僚に恋する同僚も同僚に恋される同僚も土曜日は休みで、土曜は平和。昨日の話を聞いて、急速に彼女と元恋人への興味がうすれてきている。どういう心理の働きなのだろう。同僚と同僚が当事者になると、さすがにフィクションとして突き放しきれないのかもしれない。しかし昨日の、ためらいながら「○○さんが好き」と囁き、そのあとは吹っ切れたように饒舌になる、という彼女の振るまいは、なるほどこれが恋する乙女ってやつか……となった。コミュニティのなかに秘めた恋を知っている人が一人いれば楽になれるということか。私は同僚なので二人のことを知っていて、たぶんそういう人に、自分のなかの宝物みたいな感情を見せたかったのだろう。
セブンで甘い炭酸二本とコンビニスイーツを買って帰り、酸辣湯麺といっしょに全部食べた。それから寝るまで『スワン家のほうへⅠ』。354/463
9月26日(日)曇。今日は非番。疲労で頭がろくに回らないのでちょっと家を片づける。文芸誌やそのへんで拾ってきた本がワンルームの端にうずたかく積み上がっているのを、既読のものや、いずれ読むつもりだけどすでに単行本化されてる作品の掲載号を処分することにする。十一年前、文學界新人賞に応募する前は文芸誌なんてあまり気にしたことなかったのに、今はそこが私の仕事の場(今年、吉田恭大と同時に文學界に作品が掲載されたことが地元紙の記事になって、そこに私のことを「文学界では常連の水原さん」と書いてあり、おれは文學界の常連なのか、と思ったことを、片づけのときその記事が出てきて思い出した)で、三誌は毎号送ってくれる。ありがたいことではあるが、それは買ってない雑誌が毎月家に増えていくということで、読むべきものを読んだら処分していかないとパンクする。ということでじゃんじゃん処分して、積み上がった本の塔がひとつ消えた。あと六つ。片づけを終えた(塔をひとつ減らしただけですが)あとは『スワン家のほうへ Ⅰ』を二度目の読了。463/463
9月27日(月)曇。午前中、「『失われた時を求めて』と日常」(という企画だった)の続きの、自サイトで発表する用の原稿は、文學界の企画の発表が9月7日売りの号だったから、それにあわせて毎月7日にアップしようと思っていて、まだ余裕はあるけど書きはじめる。自サイトで発表するから肩の力が抜けてるのか、かなりよいペースで書け、昼過ぎに完成。
時間がぎりぎりなので急いで出勤、今日も新人のトレーニング。同僚に恋する同僚といっしょに働くのは今日が最後で、三十分ほど恋バナ。彼女が恋する同僚はあと半年で雇い止めになるので、それまでの間にどうやって落とすか、みたいな相談になる。そもそも恋心を自覚してからあんまり素直にしゃべれず、素っ気ない感じで接しちゃってるらしい。中学生か。まるで私が恋愛経験豊富な人みたいに相談に乗る。バーの店員に恋愛相談をする人はだいたい自分のなかですでに結論が出ていて、何をすればよいかもある程度見えていて、でも誰かに背中を押してもらいたいだけなのだ。
がんばります!と彼女は言い、私はなんか彼女たちが主人公の青春恋愛日本映画の脇役の、行きつけの喫茶店の店主、みたいな気分になる。それほど目立たない役柄だけど映画はじまって一時間ちょい経ったころになんか含蓄のあることを言って主人公に行動を促す、みたいな。恋愛相談のお礼にお菓子をくださる。幸せになるんだよ、と言うと、はい!ととても良いお返事で、青春のオーラが塊でぶつかってきた感じがして膝が砕けそうになった。
私にとって、彼女の恋愛はフィクションのなかのできごとだった。それが、恋の対象が同僚に変わったことで、一気に現実の出来事になってしまった。テレビからいきなり貞子が這いだしてきたらこんな気分になるんだろうな。とはいえそれも今日で終わり。彼女と彼の恋愛は私にとってフィクションに戻る。私は、まったく相性が良くなかった『作中人物は生きているか』のことを、自分の小説に登場させたから、読了からけっこう経った今でも憶えている。ものごとは記録に残すからこそ記憶に残る。日記に書き留めるというのがそもそもそのためのおこないだ。めちゃくちゃいやな奴を登場させてそいつをとっちめて読者をスカッとさせる、みたいな構造のフィクションを私がきらいなのは、そういう作品をつくる/みることで、いやな奴のことを記憶に刻み込んでしまうからだ。彼女の恋愛のディテールも、こうして毎日考えて書きつづけていて、きっとずっと私のなかに留まるのだろう。
セブンでちゃんぽんスープとキレートレモンの炭酸(週に三本は飲んでる)を買って帰る。疲れていて風呂にも入れない。
9月28日(火)晴。暑い。この日記も読書日録的にサイトでアップするとしたら、柱になるのは(今回もプルーストではなく)彼女の恋バナで、しかし、それを彼女の同意なしに公開するわけにはいかない。ということで、仮に本人が読んでも自分のこととはわからないくらい、を目標に加工をはじめる。こうして読みかえすと私は人様の色恋からめちゃくちゃ妄想をほとばしらせてるな。さすがにちょっと反省する。彼女はほんとうは同僚ではなく、来歴や風貌も、二度の別れのいきさつも事実とは変える。こういう、実体験をもとにフィクションをつくる、というのは、いつも執筆のときにやってることなので、慣れたものといえなくはないが、ほとんど一から小説を立ち上げるくらいの労力。捗らないまま、出勤の時間になる。
通勤ルートに、窓に名前の入った猫の似顔絵ボード(三匹)を飾ってる家があり、そこの白猫が猫タワーのてっぺんで股ぐらに顔を突っこんで毛づくろいか何かしてるのが見え、たいへん元気になる。今日は勤務時間の半分ちかくが来月からの新部署での研修。疲れ切って現部署に戻ると、私の異動を知った元同僚のバックパッカーが来てくれている。退勤した同僚たちをまじえて休憩室で一時間弱おしゃべり。バックパッカーは北米を徒歩で横断するのが次の目標で、しかし私たちが働いている会社は給料がたいへんに渋く、このままじゃお金貯められないかも……と悩んでいたのを、私が、人生でいちばん大切なことのために生きるんだよ、とわかったようなことを言って背中を押したのがもう一年前のこと。それなりに金が貯まってきて、疫病が落ち着いて往来が自由になれば行けそう、とのこと。バックパッカーともう一人の同僚がお菓子をくださる。おしゃべりは楽しかったのだが、その時間で私の休憩は終わり。食事を取る間もなかったせいで、帰宅途中のセブンで焼きそばの上にお好み焼きを乗っけたものを買ってしまう。これは明日胃もたれするやつだ。
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