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プルースト 2022.8.17~2022.9.12

8月17日(水)曇ときどき雨。朝、Uptown Funkでブチ上げてから、昨夜入りそこねた風呂に入り、すこし散歩。小雨だから油断してたら、五分くらいで強くなり、逃げ帰る。洗濯機を回して始業。低気圧がひどいわりに捗った。

 昼休み、太いソーセージを二本焼いてプルーストを起読。十二巻『消え去ったアルベルチーヌ』。挿画は傘を持って俯きがちに歩く女性で、これはもちろんアルベルチーヌなのだろう、なんとなく線の粗さや佇まいが『スーサイドガール』のフォビア(人を自殺させる悪魔)に似ていて、もしかしてアルベルチーヌ死ぬのでは……?と思って表紙をめくると、カバー見返しの梗概が、「アルベルチーヌの突然の出奔、続く事故死の報。」と書き出されていて、ウワッと声が出る。私はネタバレされてもぜんぜん気にならない、が、人並みにびっくりはするのだ。というかアルベルチーヌの死、前巻までに予告されてたような気もするな。

 そして巻末の図版一覧を見るとこの絵は、プルーストが描いた〈女性像〉、としか書かれていないが、その前置きとして、「1911年頃の草稿では、アルベルチーヌをめぐる物語はいまだ存在せず、小説の終盤、「私」の恋に重要な役割を果たしたのはピュトビュス夫人の小間使いである。」と説明されている。アルベルチーヌじゃないんかい。

 前巻の末尾でアルベルチーヌの出奔を告げられ、懊悩する語り手。要は、隣にいることが〈習慣〉になってたから苦しいのだ、ということだが、しかし、恋人が隣にいてくれることを当たり前だと思ってるからアルベルチーヌは出ていったのだ。「ちょっとした散歩の途中にさえたやすく出会えるどんな女よりもつまらないと思われた女、そのせいで魅力的な女たちを犠牲にしなければならないのが恨めしく思われた女が、それどころか自分にとって比較を絶するほど好ましい女であると思い知らされる。」という一節も、無くしてはじめて自覚する愛、みたいな話で、めちゃくちゃ悲嘆に暮れてはいるが、きわめてオーソドックスな失恋の風景だ。

 そして語り手は、アルベルチーヌに戻ってきてもらうことが、〈唯一可能な解決策〉だと考える。実際には、今日読んだところではまた出てきてないが、事故死によって、アルベルチーヌが戻ってくることはなくなる。語り手は〈それと正反対の解決策(意志の力であきらめて徐々に忍従すること)〉を取らざるを得ない。意志の力でたちなおる、というのは、相手が愛情を返してくれる必要はもはやなく、愛しているという実感だけで幸せになれる、という、『スワンの恋』で描かれていたすれっからしの恋愛観に近い。恋人の同性愛を疑って軟禁するような子供じみた恋愛観から、この喪失を通して〈私〉が成熟する、ということだろうか。

「愛している女性はあまりにも過去のなかの存在であり、いっしょにすごして失われた時間から成り立っているから、人はもはや女性の全体など必要としない。求めるのはそれがたしかに当の女性であって他の人ではないことだけで、そのことが愛する者にとっては美貌よりもずっと重要なのだ。」というのは、ちょっと『豊穣の海』で、本多が、脇腹の三つのほくろを手がかりに清顕の生まれ変わりを探していたことを思い出した。

 そのあとすこし作業を進め、晴れ間に散歩。最近にしては長距離歩き、夕食用に、久しぶりに行った惣菜屋さんでウズベキスタン風の料理を買う。帰りに向かってるとまた雨がザッと降り出す。帰宅、着換えて作業を再開。昨日いまいち捗らなかったぶんは進められたかしらん。今日は早めに風呂に入って、ヴァルダの『ダゲール街の人々』。生活の息づかいだ。67/674


8月18日(木)朝は雨、次第に晴れて午後には快晴。起きたときはかなりの大雨で、散歩はできずに始業。低気圧のわりに頭は動き、とはいえ低気圧ではあるので、中くらいの進捗。

 昼休みにプルーストを進読。とにかく出ていったアルベルチーヌのことを強迫観念みたいに考え続ける語り手。行き先がわかり、五ページくらい改行のない長文の手紙を書き送る。そしてこう考える。「かつて私がアルベルチーヌに「ぼくはあなたを愛していない」と言ったのは、愛してもらうためだったし、また「会わない人たちのことは忘れてしまうんだ」と言ったのは、終始会ってもらうためだったし、「あなたと別れる決心をした」と言ったのは、相手に別れようと考えさせないためだったが、それと同じくいまや私は、もちろんアルベルチーヌになんとしても一週間以内に戻ってきてほしいからこそ「永久にさようなら」と書き、ふたたび会いたいからこそ「ふたりが再会するのは危険なことだと思う」と書き、別れて暮らすのは死ぬより辛いことだと思われたからこそ「あなたの決断は正しかった、ふたりはいっしょに暮らすと不幸になるでしょう」と書いたのである。」んな駆け引きしてっから出て行かれんだよ、めんどくせーやつ!となってしまった。しかしこれは、自分の発言がすべて嘘になることを望んで口にしている、ということで、アルベルチーヌが帰ってきたら、「うれしくない。これからまたずうっとアルベルチーヌといっしょにくらさない」と言って泣いてしまうのではないか。

 昼を過ぎて、だんだん夏らしい陽気。暑くなってきた、ので外出、散歩する。手指に疲労が溜まっていて、ほとんど無意識に揉みながら歩いていた。安くなってた食材を買って帰宅、また作業を続ける。夜、数分散歩してから餃子を焼いて食い、岩合さんの猫番組を観てパタリと寝た。124/674


8月19日(金)晴。朝すこし散歩して始業。今日は天気良く、気圧も低くなさそうなのに、ずっと具合が悪い。捗らず。

 昼休みにプルーストを進読。あまり集中できず、だらだら読んでしまう。アルベルチーヌへの執着のあまり、〈私〉は他の人のことをぞんざいに考えていて、最も影響を受けてるのがアンドレ。語り手はアルベルチーヌに、あなたがずっと家にいたせいで(それは他ならぬ〈私〉が軟禁してたからなのだが)一人でいられない癖がついた、「ぼくをすこしも変えずにあなたを最も彷彿とさせてくれる点でいちばんあなたの代わりになりうる人」としてアンドレを家に招いた、と書き送る。「ふたりの性格の必然と人生の不運からぼくのかわいいアルベルチーヌを妻にすることは叶いませんでしたが、あなたほど魅力的ではないものの性格的にはずっと相性がよく、いっしょに暮らしてずっと幸せになれるかもしれない妻を、アンドレに見出すことになると思います。」これはアンドレ単推しとして看過しがたい記述。人は別れのときに本性があらわになるものだ。

〈私〉は、スワンがかつてオデットへの恋に煩悶していたころ(煩悶、という言葉をつかうと必ず、ピノコがブラックジャックに、ねえハンモンってどう書くの、と訊き、ブラックジャックが、ハンモンってのはブチのことかい、と反問したことを思い出す、ふだん生活してて煩悶という言葉をつかうことはあまりないが……)、いっそオデットが事故に遭って死んでくれたらこんなに思い悩むこともないのに、と考えていたことを思い出し、「私はスワンと同じ願をかける勇気がないのを残念に思」う。

 しかし、スワンがこの思いを〈私〉に話したはずがない。前巻で〈私〉は、実在の絵画を参照しながら、その絵に描かれている〈シャルル・スワン〉をモデルに〈スワン〉という人物を描いた、と述懐している。訳者はこの記述について、現実に存在する絵には〈シャルル・スワン〉は描かれていない(プルーストがスワンのモデルにしたシャルル・アースは描かれている)が、作中で語り手が見ていた(同名の、同じ構図の)絵には描かれていたのかもしれない、という説を紹介していた。

 つまり本作には、プルーストや私たち読者が存在する現実、と、語り手の〈私〉や〈スワン〉が存在する作中の現実、と、〈私〉によって書かれた文章に描かれた架空の現実、の三つのレイヤーが存在している。プルーストは、現実に存在したシャルル・アースをもとにして〈スワン〉という人物を書いた。そして〈私〉は、作中における現実の〈シャルル・スワン〉をもとにして、作中における架空の人物〈〈シャルル・スワン〉〉を造形した。ややこしい。そしてこの場面で、〈私〉が、同じ願をかけるのに怖じ気づいたのは、その願を何十歳も年若い娘の友人に話すとは思えない〈スワン〉ではなく、〈私〉が造形した、第三のレイヤーに存在する〈〈スワン〉〉なのではないか。そして、前巻の絵の記述とあわせて、プルーストは(あるいは〈私〉は)、この三つのレイヤーを意図的に混同させようとしているのではないか。と思うのは、自分がけっこうそういう書きかたをするからで、これは自分に引きつけた読みかたにすぎるかもしれない。

 アルベルチーヌの訃報に触れ、涙を流す語り手を、女中のフランソワーズがこう慰める。「こうなる運命だったんです、あの娘は幸せすぎて、かわいそうに自分がどんなに幸せなのかわからなかったんですよ。」しかし、あなたに愛されてあの人は幸せだった、というのは、愛する誰かを亡くした人への慰めとしてはオーソドックスなものだけど、こんなに酷な言葉もない。〈私〉はもう、どれだけ愛しても彼女を幸せにすることはできないのだ。

 午後も捗らず、散歩に出るきっかけをつかめない。諦めて夕方ごろ、蔵書リストの作成作業。家にある本に図書館の分類記号(NDC)を付与して並べ替えよう、ついでにリストも作ろう、と思いついたもので、なんでこの余裕のないときにはじめるのか。とはいえ、厳密なルールのもと軽めの思考をともなう単純作業、というのはなかなか没頭できて、具合悪いときにはいいですね。164/674


8月20日(土)曇ときどき雨。今日は気圧が低いのか、体調よくなし。文章を書く気力なく、伏せったまま、書評の本をもくもく進読。昼、すこし散歩。スマホも財布も家に忘れ、鍵しか持ってなかったが、それだけにのんびりできました。帰宅して読みつづけ、ときどき気分転換に蔵書リストをつくる。仕事の読書をしてたとはいえ、今日は半休日といったところ。164/674


8月21日(日)雨のち曇。今日も気圧低く、体調よくなし。午後ちょっと外に出て図書館に行き、買いものをしたくらいで、あとはときどき目眩がするのを耐えながら読書。夜中に辛いピザポテトを食べた。164/674


8月22日(月)明るい曇。朝はあまり具合よくなく、少し散歩に出ようとして(五分くらいで引っ返して)気づいたのだが、どうも下痢気味。しばらくトイレにこもる。それからすぐ、スーパーの開店時間だったので出直してY1000を買って帰って始業。午前のうちに書評を送稿、昼休みの散歩はせずにプルースト。

 回想と悲嘆が延々続く。一緒に過ごしたいろんな場面のアルベルチーヌを思い出しながら、語り手はこう述懐する。「ひとりひとりのアルベルチーヌはある瞬間に結びついているから、それぞれのアルベルチーヌをふたたび想いうかべたときの私は、わが身を元の瞬間の日付に置き直していたことになる。」

 アルベルチーヌの訃報の前にも彼は、回想のたびに、その瞬間の自分を生き直していた。彼女と過ごしたすべての幸福が、フランソワーズがもたらした出奔の報せに帰着して、彼は幾度も悲しみを感じつづける。ただ振り返るのではなく、その時その場所にさかのぼって身を置き、感情を味わい直す、という回想の様式、おもしろいな。スワンの恋の顛末を見てきたように語るのも同じ身振りなのかもしれない。

 そしてだからこそ、語り手は、ちょっとあとで語られるように、生前と変わらずアルベルチーヌへの嫉妬の感情に駆られることになる。アルベルチーヌは死んだのだから、これ以上〈私〉の意にそむく行動を取ることはない。しかし、語り手は、前述したような回想の作法をもっているから、改めて嫉妬し直すし、その感情は、もはやアルベルチーヌの〈裏切り〉を阻止するためにいかなる行動も起こしえないからこそ、彼女の生前より強いものになる。もはやこの苦しみから逃れるには忘れるしかない、が、これだけ詳細に彼女との恋を書き留めてしまった〈私〉は、アルベルチーヌへの感情を忘れることなんてできないのではないか。〈幸せ〉だったのはアルベルチーヌではなく、こんな強く誰かを愛することができた〈私〉だったのではないか。幸せすぎて、自分がどんなに幸せかわからず、死によってもまだ彼は、自分が幸せだったことに気づいていない……。

 なんか考え込んでしまって、ページはあまり進まず。午後の作業をゴリゴリ、進めようと思ったがいまいち捗らない。夕方、すこし歩いて檸檬堂のノンアルコール(下戸なので)などを買い、ピザを食った。そのあと風呂でルイズ・アームストロング『レモンをお金にかえる法』を読む。わかりやすいなあ。202/674


8月23日(火)晴。昼間は暑い。朝から散歩もせず。午前は流し気味で作業して、昼にパスタを腹いっぱい食ってからスイッチを入れる。それからすこしだけ散歩して、上野英信『日本陥没期』を進読。たいへんヘヴィでフォントサイズが小さく、あまり厚くないわりに、ずいぶん時間がかかっている。夜は近所の美味いやきとんのテイクアウトを食べながら、録画してた『100カメ』の青ヶ島の回を観。ここで生まれてたら私は、小説を書こうなんて思っただろうか。202/674


8月24日(水)曇ときどき雨。遅めに起き、すこし外出。散歩は数分だけにして、スーパーで買いものをして帰宅。今日は正午に歯医者の予約をしていたが、パニックの予兆を感じたのでキャンセルの電話。危険を察知して避ける、というのは大事なことだが、いつまでもそうしてはいられない。とはいえ焦ってたら治るものも治らない。

 電話をしてすこし気持ちが揺れていた、ので、漫画をすこし読む。『ドメスティックな彼女』の十九巻で、主人公のナツオ(かつて文芸誌主催文学賞のアマチュア部門を受賞したことのある大学生)が、編集者に、雑誌掲載作の書籍化の打診をされる。喜ぶナツオに編集者が、「本を出すからには 売れなければならない ということだ」と釘を刺してるのを読んで、そっすよね……となった。

 昼前になってようやく始業。昼食はチンする米だけで書きつづける。三年ちかく取っ組んでる長篇が、のこり一割を切って、私個人の心情としては盛り上がってきてるのだが、読者にどう届くのか。夕方散歩しようと思ったらけっこう雨が強く、数分で帰る。

 それからちらし寿司を食いながら、録画してた『憧れの地に家を買おう』のノルウェー回。紹介されてる家がぜんぶジョー・ネスボの家みたい、というか、いかにも世界的な人気のある北欧ミステリの書き手が住んでそう、と思ったのだが、私は北欧ミステリをジョー・ネスボしか読んだことがないのでジョー・ネスボの家に見えた。それから『Have a niceドーミーイン』の(著者が大浴場とサウナでととのったあと、夜鳴きそばの時間まで仕事をしていた)ことを思い出し、二時間ほどさらに書きつづける。かなり捗った、が、今日中に書くつもりだった場面まで書けず。明日早起きできたらやろう。202/674


8月25日(木)うすぐもり。けっきょく朝は遅く起きた。すこし散歩、スーパーに寄ってY1000などを買って帰る。急ぎ昨日のノルマの残りに着手、昼ごろ終える。

 それから、今日しめきりの地元紙のコラムのために、髙橋和也『沖縄の小さな島で本屋をやる』を読む。百ページもない薄い本なので、一時間かそこらで読み、しかし原稿にやや手こずる。長篇の大詰めなので、あまりこの原稿に時間と意識を持ってかれないほうがいい、のだが、けっきょく三時間以上かかって、夕方にようやく完成。

 気圧も低く、どうにも頭が回らない、ので、少し散歩して図書館へ。気圧の低さはメンタルにも響くもので、ややしんどくなりつつ本を借り、帰宅。ようやく長篇の今日のノルマを書きはじめる、が、なかなか進まず。

 にんにくと濃いタレで味付けされていた厚い牛肉を焼いて食い、それからまた作業。二時間ほどで、どうにかワンシーン書き終える。このまま調子よくいけば八月三十日にひとまず書き終え、三十一日に手直しして送稿、というスケジュールでやれるのではないか、いやしかしほんとに?ほんとにおれにそんなことできる?丸三年かかったこの作品が今月で終わんの?みたいな感情。いやしかし、ほんとにそろそろ終わらせて次に行かねば。202/674


8月26日(金)曇、午後に雨。わりと早く起き、作業をしていたのだが、九時前ごろにいきなりつよめの不調。薬を飲んで耐える。一時間弱で楽になり、散歩。近所をぐるっと回る。帰宅して始業。

 昼過ぎまで集中できた、のだが、ご飯を食べたあたりで頭に靄がかかりはじめ、捗らないながらちょっとずつ進めて四時ごろに散歩に出ると、数分後に突然の豪雨。どうせ手ぶらだったし、開きなおってうろうろ歩く。平日の日中に大雨のなかを鞄も持たずに徘徊するスキンヘッドの三十代無職男性、我ながらひどい。

 帰ってすぐに洗濯しながら作業をして、雨が止んだ夕方にまた散歩。近所をぐるぐる回って帰った、あたりでまた不調。しばらく横になって耐えていると楽になった、ので、風呂に入って髪を剃った。自分のメンタルの不安定さに翻弄された一日。

 夜、友人夫妻がそろって新型コロナ陽性、とTwitterで知る。おだいじに。コロナに感染するかどうかはほとんど運みたいなもの、と思っていて、これまでも、ちゃんと注意して行動してそうな知人が感染することはあったのだが、第七波はそれが多い印象。202/674


8月27日(土)晴。遅めに起きる。具合悪く、作業にかかれない。近所のルーフバルコニーで、半裸のおじさんがホースで水をまいて掃除してる。昼、すこし回復して歩く。帰宅してちょっと読書、ウォン・カーウァイの『花様年華』を観て早めに寝。202/674


8月28日(日)雨のち曇。今日も遅めに起き、『花様年華』の後半だけもう一度。けっこうな頭痛。諦めて一日読書、薄めの本を四冊、だらだらと、揚げた芋などを食いながら。

 一時間ほどプルーストも読。一週間ちかく空いてしまった。どんな流れだっけな……と確認するとき、巻末の場面索引がけっこう役立つ。

 だいたいの人は、愛する人を失っても、日々の生活を続けていかなければならないから、悲しみを悲しみ尽くすことはなかなか難しい。洋の東西を問わず弔いの儀式があれだけ込み入っているのは、(〈死〉という出来事の重大性はもちろんのこと)遺された人が喪失感に冒されないためだ、という説もある。

 しかしこの語り手はどうも無職のブルジョワで、〈仕事〉といえば小説を書くことだけどべつに生活のためではないし、そもそもぜんぜん書いてる様子がない。「自分がやがて死ぬだろうと考えることは死ぬことよりも辛いが、それよりも辛いのは、ひとりの人間が死んだと考えること、その人間を呑みこんだ現実がその場所に波紋ひとつ残さずふたたび平らに広がっていると考えることだ」。ほんとうにそのとおりで、私も祖母の葬儀を終えて東京に戻ってきたときに痛感した。この街に彼女の死を、というか彼女の存在自体、知ってる人は、家族を含めても数えるほどしかいない、という、ぞっとするほどの呆気なさ。

 しかしこの箇所を、元宰相の、社会に大きな波紋を残した死から二ヵ月に満たない今読むと、命の軽重、みたいなことを考えてしまう。とはいえ、彼を一番愛していたであろう妻にとって、現在の波紋のありようはきっと(ほかならぬ故人の生前のおこないがそれを招いたにせよ)望ましいものではなかった。その意味で、愛された者の死(そういえばイーヴリン・ウォーのThe Loved Oneという中篇は『愛されたもの』『囁きの霊園』『華麗なる死者』『ご遺体』という四通りの邦題で訳されていて、岩波文庫の『愛されたもの』と光文社古典新訳文庫の『ご遺体』がほぼ同時に刊行されたのを、同じ原書と知らずに両方買ってアレッとなったものだった)を悼む遺族の思いというのは、どうしたって世間一般との齟齬があるものだし、その齟齬こそが愛の名残なのだろう。

 エレベーターの音ですらアルベルチーヌを思ってしまう〈私〉は気散じに新聞を読もうと考えるが、「現に苦痛を感じていない人たちの書いた文章を読むのは私には耐えられないことだった」。私はときどき、パニック障碍という、ときには外出することすら困難な病気が存在することを考えもしないようなテキストを読んで苛つくことがある(一部の自己啓発書とか、「死にたくなったら南の島へ行けばいい、悩みなんて吹っ飛んじまうよ!」みたいな類いのツイートとか)が、その遠さに似てるのかしらん。

〈私〉は生前のアルベルチーヌの動向をつぶさに知りたいと思い、バルベックのホテルの給仕頭エメに金を渡してアルベルチーヌの外出先や旅行先を回らせる。エメは、アルベルチーヌと関係をもったらしい娘を誘ってセックスをしてみるほど熱心に調査して、どうやら彼女が同性愛の行為をしていたことは間違いない、と報告する。死んだ恋人のことをすべて知りたいと思う気持ちはわかる、が、同性愛を〈罪〉と捉えてる語り手が、人を使って調査までさせるのは、これはもはや精神的な自傷ではないのか。そうすることでアルベルチーヌの死をより深い傷として刻みつけているのかもしれない。なんと不毛な切実さか。256/674


8月29日(月)曇。朝から涼しい。一日具合よくなし。夕方、ようやく起き、数行書き進める。それだけでせいいっぱい。すこしだけ散歩もしたが、今日もほとんど一日棒に振ってしまった。長篇が今月中に終わりそう、と思っていたのに、けっきょくまた、心身の不調で足踏みしている。256/674


8月30日(火)曇ときどき雨。今日も涼しい。ようやく回復した。朝食もとらずに始業、ゴリゴリ書いていく。金曜日あたりからずっと具合が悪く、今日も万全ではなかったのだが、手を動かして没頭できれば不調も忘れられる。

 昼食も軽めにまとめ、昼休みは『いいいじゅー!!』の鳥取市の回を観、午後もまたゴリゴリ進筆。もう結末までの流れは完全にできているのだから、あとは粛々とテキストを書けばよいのだ。けっきょく夜までに三十三枚、良いペースに戻ってきました。毎日こうありたい。

 夕食はショートパスタで、テレビをつけたら男子バスケの日本対カザフスタンの第三クォーターをやっていたので、最後まで観る。体育の授業とスラムダンクしかバスケを知らずに生きてきたせいで、ワンプレーごとに、アッいまの流川くんっぽい!とか、この人は三井くん的なポジション……?みたいな見方しかできない。来年ワールドカップだというし、もうちょっと詳しくなりたい。256/674


8月31日(水)曇。ここ数日天気が良くない。朝すこし散歩していったん帰り、財布を持って出てスーパーへ。今年最初の(たぶん最後の)スイカを買う。

 帰宅して、不調をおして無理矢理始業。集中がなかなか続かないのは、低気圧なのか、メンタルを病んでるのか、単に難しい箇所にさしかかってるからかしらん。

 昼休みもそこそこにどんどん進筆。夕方まで外出もせず。ペースとしては悪くない、が、なんとなく考えてた結末までの流れに、当初は予定してなかったシーン(それ自体は必要なもの)を追加した、のを半日かけて書いていた。このあとはほぼクライマックスで、予定してた場面しかない、だからあと二、三日で完成できる、と思うのだが、どうか。あんまり急ぎすぎるのもよくないが、なんぼ遅くても来週の月曜には送稿したいところ。またプルーストを中断してしまっているが、それはまあ原稿をやっつけてから……。256/674


9月1日(木)雨のち曇のち雨。台風が遠くにあって、そのせいで天気が悪いそう。朝、雨の止み間にすこし散歩した、ら、雨が強まってきて、濡れて帰宅。散歩のときはスマホ、持たなくてもいいかもしれない、というか、私は歩きスマホしない派なのに、なんでずっとスマホ持ってたんだろう。

 今日も長篇をカリコリしていく。昼休みは昨日買ったセブンの惣菜を食って早めに切り上げ、『池澤夏樹詩集成』をちょっと読んでまた進める。カリコリ、とはいえ、途中けっこう漫画も読んだりしながらだったから、総労働時間でいうと五、六時間かしら。最近、ヨーシ今日はここまで!と思って枚数を計測する(私は一画面にできるだけたくさんテキストを表示できるようなWordのフォーマットをつくって書いていて、しかし原稿の質量を四百字詰原稿用紙換算でしか把握できないので、別に二十字×二十行のフォーマットを用意して、その日に書いた文章をコピペすることで仕事量を計測する)と十九枚か二十枚、ということが多い。今の私は、無理せず継続できるのが一日二十枚くらい、ということか。もうちょっと増やしたいな。

 夜、雨のなかを少し歩いて牛乳などを買い、夕食にうどんとコンソメスープとチンしたとうもろこしなどを食いながら世界ネコ歩き。私はこう、もふもふした、ちょっとでぶの猫が好きなんだよな。しかし観終わったあたりで急激に眠気がやって来て、パタリと寝。256/674


9月2日(金)一日弱い雨、ときどき止む。四時ごろに目覚めて、始業しようかとも思ったが、まだ寝足りない感じだったので、洗濯機を回してY1000を飲んで布団に戻る。

 次に起きたのは七時半くらい。そういえば昨夜入りそびれた風呂を追い炊きして入浴、それから小雨のなかを少し散歩。セブンで昼食のおにぎりを買った。傘を持ってなかったからすこし濡れてしまう。

 今日いったん最後まで書いて、土日で推敲、月曜送稿でどうだ、と決め、ゴリゴリ書いていく。とはいえ、私もペース配分というものをちょっとは考えるようになり、休憩もそれなりに、漫画も読みながら進筆。そのぶん昼はおにぎりを食うだけで、ほかの小休止と同じくらい短時間で作業に戻った。

 夕方までもくもく書いて、ついに(ついに!)完成。書き上げはしたがするべき作業はまだまだある。とはいえひとまず大きな区切りだ。録画してた『ブリティッシュ・ベイク・オフ』を観ながら、半額の寿司と美味いやきとんでパーッとやった。256/674


9月3日(土)曇、涼しい。昨日までがんばった反動で頭痛がひどい。午前中は薬を飲んで伏せっていた。昼ごろ、すこし楽になってきたのでモゾモゾ起きて、長篇の推敲をはじめる。昨日プリントアウトしてた、執筆用のフォーマットで百六ページ(百六ページ!)におよぶ原稿を、青ペンを握って読んでいく。私は自分の文章が好きなので、これがいちばん楽しい作業、とはいえなんぼなんでも長く、時間がかかる。

 夕方までかかってやっと全体の三割ほど。頭痛がまたぶりかえしてきたので、休憩がてらプルーストを開く。また一週間ちかく空いてしまった。〈私〉、まだアルベルチーヌのことを考えて傷つきつづけている。毎日読んでないせいで、語り手がもう二週間くらいずっと同じところで堂々巡りをしてるように見えてしまう。林あまりに「さくらさくらいつまで待っても来ぬひとと 死んだひととはおなじさ桜!」という歌があるが、死んだひとと、いつまで待っても帰ってこないひとはおなじなのだ。

 語り手は、アルベルチーヌとの関係を疑っているなかで最も自分と親しいアンドレを呼び出す。そして、「ぼくの目の前できまりが悪くならない程度に愛撫するだけでいいから、あの嗜好を持つアルベルチーヌの女友だちときみがあれをやるのを見せてくれないかな、ぼくは興味津々なんだけど」などと言い放つ。同性愛が〈罪〉だとすればアルベルチーヌの〈共犯者〉であるアンドレを攻撃するための発言、なのはわかるが、そうはいっても助平ではないか。

 彼は、アルベルチーヌを失った悲しみから逃避するように、街で見かけた娘に色目を使ったり、ブーローニュの森で見かけた娘のあとをつけ、のちに再度見かけたその娘が、どうもかつて友人のロベール・サン=ルーが売春宿で関係を持った女であり、そんな人と再び巡り会うということは自分たちは結ばれるべき運命なのでは、みたいなことを考えたりするようになる。

「そもそも私がバルベックで最初にアルベルチーヌと知り合いたいと望んだのは、街なかの通りや郊外の街道であれほど何度も見かけて私の足を止めさせた娘たちを代表するのがアルベルチーヌだと思われたからであり、私にとってアルベルチーヌがその娘たちの生活を要約しうる娘だったからではないか。その娘たちがひとつに凝縮されていた私の愛という、消滅しつつある星が、いまやふたたび散乱し、こうして塵のように飛散する星雲と化すのは、当然のなりゆきではなかろうか」。

 バルベックで〈花咲く乙女たち〉を見かけた当初、たしかに〈私〉は箱推しで、それがアルベルチーヌ単推しに収斂していった。推しメンの脱退によって恋情が拡散していくのはあり得ることだし、その脱退が卒業とソロデビューによるものではなく事故死によるものであれば、ファンとしては箱推しに戻ったとしても、かつての推しが特権性を保持してしまう、というのも、わかる。とアイドルの比喩で考えたのだが、死んだひとと会えない人がおなじなら、アイドルという偶像もファンにとっては、人間としては存在してないものなのかしらん。

 そのあとすこしだけ散歩。スーパーで三割引の弁当を買って帰り、テレビをつけたら湘南対川崎の後半がはじまるところだったので、無音で流しながら推敲。終了間際に勝ち越し点が決まった。326/674


9月4日(日)晴、夕方すこしだけ雨。起きてすぐ風呂に入り、散歩。スキンヘッドだと髪を乾かさなくていいので楽だ。散歩したあと、朝食に昨夜の残りのジャンバラヤを食って始業、もくもく推敲。何も食べずに夕方、また散歩。帰宅して作業再開、夜にこの夏最後のゴーヤチャンプルーを作って、録画してた『世界入りにくい居酒屋』のベトナム・ホイアン回を観。終わってすこしニュースを観たらまた作業。今日のうちにやっつけて、朝イチで編集者に送って明日は本休日にするんだ、という強い意志で進めていく。しかしけっきょく夜の一時過ぎまでかかった。日記を書いてY1000を飲んで力尽きる。326/674


9月5日(月)晴。朝起きてすぐ、長篇の最終確認をしてついに(ついに!)ようやく(ようやく!)とうとう(とうとう!)送稿。構想から三年、長かった……。

 ということで、まんをじして、今日は本休日とさせていただきます。長篇執筆で一日数ページしか進読できずにいた『日本陥没期』を読了、それからスイカを食って、ハインラインの『夏への扉』を起読。何度目の復読かしらん。昨日まで眉間に皺の寄った作品(自作なんですが)と取っ組んでたこともあり、たいへん楽しく読む。私が理想とする小説作品、長篇なら間違いなくこれ(短篇ならシンシア・オジック「ショール」)。

 昼前に暑いなかを散歩、郵便局やドラッグストアで買いもの。しかし早く帰って続きを読みたくてそわそわしていた。最後はベランダに新聞とヨガマットを敷いて日光浴をしながら読了。『夏への扉』の語り手はちょっとガラが悪いのがいいんですよね。と同時に猫が高貴な存在であると信じていて、全幅の信頼がおける。私がいちばん好きなのは、ある人物がピート(語り手の相棒である猫)の顎を撫でようとするのを、この人はちゃんとした流儀に則った撫でかたをできるだろうか、とハラハラしながら見守る場面で、今回も、そこを読んでニコニコしてしまった。猫の顎を撫でるときにいつもこの場面のことを考えていて、繰り返し思い描いているせいで、もっと情感豊かに仔細に描写してるような気がしていたのだが、実際にはたった三行で、再読するたびにびっくりしている。

 私は本作、たしか最初の何度かは一九七九年刊の福島正実訳(ハヤカワ文庫SF)で読み、一度だけ二〇〇九年刊の小尾芙佐訳(早川書房)で読んで、私は最初に読んだ福島訳のほうが身に馴染んでる感じがする、と翌年に出た福島訳の〔新装版〕を買って、それ以降はずっとその版を読んでいた、のを、はじめて二〇二〇年刊の〔新版〕で読んだ。解説によると「二〇一〇年の〔新装版〕から、訳語、表現などをアップデートした」とのことだが、福島は一九七六年に亡くなっていて、いったい誰が〈アップデート〉したんだろう。福島ももとは早川書房の編集者だった(最初の訳は他社から出たから変名で訳した)し、〔新版〕も編集者がやったのかな。

 それから、改めて、「明日から今日まで」のあとがきで言及した警句(「人生とは今日一日のことである」)の引用元を探して、カーネギーの『道は開ける』を起読。私はけっこう、最悪の事態を想定してしまい、ウーいかんいかん、とくよくよして気持ちが落ち込みがちなのだが、本書では、起こりうる最悪の事態を想像し、いったんそれを受け入れる覚悟をすれば、開き直って冷静になれる、そしたら案外ものごとは好転するものだよ、みたいなことが書いてあり、ちょっと目からうろこが落ちた。実践してみましょう。

 夜になって散歩。日が短くなってきて、十九時前でももう暗い。オーガニックな弁当が半額になってるのを食いながら、テレビで角川歴彦の会見を見る。賄賂を渡したという認識があるか、と問われ、「全くありません、全くありません。僕はそんなに心が卑しくね、今まで50年も経営をしたことはないんですよ。」(TBS NEWS DIGの全文書き起こしから引用)と答えていて、五十年も経営陣にいるのか……となった。そのあとちょうど『釣瓶の家族に乾杯』がはじまり、観。都城。吉高由里子に生意気なことを言われてうれしそうにする釣瓶さんを観てニコニコしてしまう。今日はニコニコしてばかりだ。326/674


9月6日(火)晴。やや具合悪い。昨日あまりにものんびりしすぎて、仕事をしなければ……みたいな強迫観念が出てきたのか。次の中篇の作業をはじめるが、あまり捗らず。

 昼休みにプルースト。〈私〉の書いた文章が、ついにフィガロ紙に掲載された。やったねえ。その高揚や、翌日、文章の感想を聞きたくて行ったゲルマント公爵夫人のサロンで、エルスチールの絵画についての会話の流れに乗って、「エルスチールといえば、きのう「フィガロ」紙の文章で名前を出しておきました」と、さも自分にとってはさほど重要ではないことのように言ってみせるの、文芸誌に自分の作品が載ったときにおおはしゃぎした(そしていまいち評判良くなかった)身として、なんというか共感性羞恥がすごい。

 初恋の人ジルベルトと再会した語り手は、ケロッとアルベルチーヌのことを過去に送って、「私はもはやアルベルチーヌを愛していなかった。天候がわれわれの感受性を変更したり目醒めさせたりして、われわれをふたたび現実的なものに触れさせるような日に、せいぜいアルベルチーヌを想ってひどく悲しむぐらいだった。そんなときの私はもはや存在しない愛に苦しんでいたといえる。」などと考える。恋の終焉の最良の処方箋は新たな恋なのだ。

 アンドレとも〈肉体関係に近い関係を持つ〉ようになった。〈飛散する星雲〉になったのはいいとして、それがまたすぐ単推しに戻るのもいいとして、それが残る乙女たちのなかで最も親しいアンドレだというのも、まあわかります。このモヤモヤは私が一貫してアンドレ単推しだからだ。

 しかしアンドレ、語り手と親密になったことで遠慮がなくなったのか、〈私〉に愛撫されながら、かつては否定していたはずのアルベルチーヌの肉体関係を、幾度も持っていたことを告げ、アルベルチーヌがいかに〈私〉を裏切っていたかを、事細かに、四ページ近く続く長台詞で説明する。セックスをしようというときにこんなん言われたら泣いてしまうわ。

 どうにも具合悪く、午後はお休み。ここ半年、漫画を一日五冊くらい読んでたのが、先月からあんまり読めてなかった(昨日は『夏への扉』に夢中で三冊)、ので、横になって読んでいく。今のイチオシは『九龍ジェネリックロマンス』です。

 夜、いいかげんパニック障碍を治さなければ、と思い、いろいろ調べる。明日電話しよう。406/674


9月7日(水)曇のち雨。プルースト文章を、毎月七日に公開するつもりでやってるのだが、最近でかいシノギ(長篇)にかかりきりでまだ読了すらできておらず、どうしたって無理だけど、とにかく進めねば、と思いながら起きる。

 すこし散歩、食材や洗剤を買い込み、ざっと掃除洗濯をやって、カウンセリングセンターに電話。パンデミックがはじまって以来、カウンセリングの希望者が増え、今は予約を停止している、とのこと。来週再開するから、また電話ください、と言われる。制約があるなかでできるだけ良いようにしようとしてくれてるのがわかり、なんかほっとした。

 それからようやく始業。原稿を進めていく。まだ作品世界や人物と親しくなれてない、ので、手探り。もうちょっとのめり込んで書きたいところだが、こういうのは焦っててもしょうがないからな。まあ体調を見ながら、無理せずやってみましょう。

 昼休みにプルースト。これも、本来の予定から遅れてるからって、無理は禁物。三十分ほど、短時間集中して読む。

 何の前ぶれもなく、アンドレがモブキャラ(これまで二度のバルベック滞在で二度とも出てきてたらしいけどぜんぜん私の記憶に残ってなかった、スポーツ好きの青年オクターヴ)とのちに結婚することが告げられ、びっくりしてしまう。

 推しの慶事はよろこぶべきことだし、オクターヴがのちに舞台芸術において大きな成功を収めるのだから、生活の面でも問題ない、のだが、しかしアンドレ、なぜそんなやつと……。〈私〉もなんだか動揺してるようで、青年について長々と言いたい放題する。「実際、青年は長年にわたり見かけどおりの「バカ丸出し」であったが、なんらかの生理的大異変がおこり、眠れる森の美女のように青年のなかでまどろんでいた才能が目を覚ましたのだろうか。」嫉妬で筆が滑っているではないか。

 午後、小雨のなかを散歩して原稿に戻る。もくもく作業していると、夜、古川真人から電話。さいきんこんな依頼がきてさあ、みたいな、相談(という名の与太)を聞く。古川は酔うたびに誰かに電話をかけていて、彼と話すといつも小説家の知り合いの近況を聞くことになる。みんなそれぞれに頑張っている。わしもバンバリますけんね。

 話してると完全に集中が切れ、もう今日は閉店することとして、電話しながら夕食の準備をはじめる。何も考えず、上から順に食材をつかったら和風パスタになった。食いながら天皇杯の福岡対甲府。J1の下位チームとJ2のチームの対戦ということであまり期待してなかった(すみません)のだが、ぴりっとした良い試合だった。延長までもつれこんで甲府の勝利。母の地元のクラブということもあり、次もがんばってほしいが、次は鹿島か。429/674


9月8日(木)曇、ときどき弱い雨。朝食もとらずに散歩して始業。しかし今日はずっと気圧が低く、進度はぼちぼちといったところ。

 昼休みにプルーストを進読。語り手は、母とともにヴェネツィア旅行におもむく。その先で彼は、アルベルチーヌについて、〈完全な無関心〉に到達したと感じることになるという。しかし、死んだあとにもあれだけ執着してた恋人に、完全に無関心になることなんてできるのだろうか。執着し果てた、し尽くした、ということなのかしらん。

 語り手の母は、この旅先で、麦わら帽に白いチュールのヴェールをつける。母親(語り手にとっての祖母)の服喪を終えた、と語り手に示すためだ、と〈私〉は解釈する。母の服喪のおわりがそのはじめに示される旅において、私は死んだアルベルチーヌへの〈無関心〉を獲得する。そういう構成かあ、と思いながら読み進めていたら、滞在するホテルに電報が届く。「友へ、きっとわたしが死んだとお思いでしょう、お赦しください、わたしはいたって元気です、お会いして結婚のことなどお話ししたいです、いつお戻りですか? 親愛の情をこめて。アルベルチーヌ。」生きてたの……?と語り手も私もずっこけた。本巻、前半は延々自宅でハンモンしてたのに、ここへきて急展開が多い。

 アルベルチーヌは死んだものと思っていた語り手は、すでに彼女への執着を終えており、改めて、「私はもはやアルベルチーヌを愛していなかった」と考える。「私のアルベルチーヌへの愛なるものは、畢竟、若さに捧げたわが崇拝の一時的形態にすぎなかったのだ。われわれはひとりの娘を愛していると想いこんでいるが、あいにくわれわれがその娘のうちに愛しているのは、その顔に一時的に赤味が反映した曙にすぎない。」してみると、これまで何人もの女性との浮名を流してきたがいずれも女性が二十五歳になった年に破局してきたレオナルド・ディカプリオは、ずっと曙を追いかけているのだな。

 一時間半ほど読んで、Abemaの心霊番組を観。心霊、といっても、単にいきなりへんなものを飛び出させてびびらせる系の安っぽいVTRばかりなのだが、いきなりへんなものが飛び出してくるとびっくりしてしまい、手もなく怖がる。なんで観てしまったのか。

 夕方また散歩して、夜まで作業をつづける。自民党幹事長の会見を観、それから『いいいじゅー!!』の長野・山ノ内町の回。神戸市に生まれ鳥取市で育ち、札幌市と新宿区の大学に通って今は新宿区在住、生まれてこのかたずっと都道県庁所在地で生きてきた生粋のシティボーイなのだが、カエルを放り投げたり名前も知らない木の実を食った(今日の番組に出てきたことで桑の実だと知った)りする子供でもあったので、懐かしくなってしまう。

 そのあと風呂で『道は開ける』進読。問題にあるときどうマインドセットを整えるか、という話で、忙殺されりゃウダウダ思い悩む暇もねえんだよ、という、まあ暴論なんですが、長篇の追い込みで、一日に二、三十枚(私にしては多い)書きながらメンタルが安定していったことを思えば、けっきょくこれが真理なのかもしれないな。505/674


9月9日(金)曇、朝すこしだけ降って、午後は晴。昨夜寝る前、エリザベス女王がスコットランドの城に滞在中に体調を崩し、医師の監督下に置かれる(たぶんふつうの患者なら入院するところだけど、女王が病院に入院するとなると、ほかの患者を転院させたりの大事になるから、女王がいる場所で医療体制を整えた、ということなのだろう)、というBBCの速報を見て、大丈夫かしらん、と思っていたのだが、起きたら訃報。九十六歳か。

 国歌がGod Save the QueenからGod Save the Kingに変わったり、あと紙幣や硬貨の肖像もチャールズのものに変わる。日本では君主が代替わりしても国歌や貨幣はほとんど変わらない(硬貨の発行年の元号だけ)ので、ちょっと興味深い。こないだのプラチナ・ジュビリーも、六日のトラス新首相の任命式のときも、自分の足で立ってたことを思うと、急なことだったのか、それともよほど無理してたのだろうか。我が国はこれを口実にでもして、無駄な国葬なんてやめればいい。しかし自分の国の元首相より外国の君主の死を悼む気持ちのほうがつよい、というのはたぶん、安倍晋三が(ろくでもない)政治家だったからだろうな。

 すこし散歩して、中篇をゆっくり進めていく。昼食はショートパスタで、石井好子のエッセイのどれか(たしか『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』)に、良い材料でちゃんと作れば、茹でたパスタにオリーブオイルと粉チーズをかけるだけで十分に美味い、みたいなことが書いてあった、のを口実に、ときどき味つけや具を炒めるのを怠ってパスタを食べる、のを今日もやった。安い材料でも美味い。

 食後にプルースト。語り手の母は実際にはまだ悲しみから脱けだしておらず、ヴェネツィアを観光する間も喪服を着ているし、ことあるごとに母親のことを思い出し、涙を流しもしている。彼女は母親を亡くした娘であると同時に、これから独り立ちしていこうとする二十代の息子の母でもあって、その言動を完全に一貫させるなんてできない。

 語り手も、ヴィットーレ・カルパッチョの絵画に小さく描かれた人物(の服の柄)を見たり、ホテルで知りあったオーストリアからの観光客の女性と話したりしながら、たびたびアルベルチーヌのことを思い出す。

 ヴェネツィアからパリに戻る鉄道のなかで、母と息子がそれぞれ開封した手紙で、思いもよらない二組の結婚が報告されていた。母宛の一通は、〈ソドムとゴモラ〉の冒頭でシャルリュス男爵とめちゃくちゃセックスしてた仕立屋ジュピアンには姪がいるのだが、シャルリュスの寵愛するモレルと結婚しそうになっていたが振られていた、のをシャルリュスが世話してオロロン家の令嬢という称号を得、そしてカンブルメール侯爵夫妻の息子と結婚する、との報せだった。

 そして〈私〉宛の手紙で、ジルベルトとロベールの結婚が告げられる。アルベルチーヌからの電報はどうも、実はジルベルトからのものだったらしく、ジルベルトの特徴的な筆跡で書かれたGilberteを、電報の係員がAlbertineと読み違えたものらしく、そんなことあるかーい!とずっこけてしまった。

 しかしこう、スワン嬢として登場したジルベルトが、母の再婚でフォルシュヴィル伯爵の娘になり、いまではサン=ルー侯爵夫人で、作中では描かれないがのちにゲルマント公爵夫人にまでなるという。〈スワン家のほう〉はブルジョワの、〈ゲルマントのほう〉は貴族の世界を象徴していたが、スワン家に生まれ、最終的にゲルマントを名乗るジルベルトは、語り手にとってはお互いに離れた別世界だと思っていた両者の間を移動したということだ。

 そのジルベルトが結婚後、やたらと高慢ちきな態度を取るようになっている様子が描写されるのも、彼女がすっかり〈ゲルマントのほう〉──噂と陰口の飛び交う社交界の住民になってしまった、ということなのだろう。サンザシの茂みで運命的な出会いを果たした無垢な少女がここまで変貌してしまった。さみしいなあ。そう考えるとオデットは、もとは粋筋の女(ココット)、高級娼婦だったのが、成り上がりのユダヤ人の妻になり、夫の死後は伯爵と再婚して、娘を侯爵に嫁がせ、のちに(そのときまでオデットが生きてるかはわからないけど)ゲルマント公爵という大貴族の夫人の母にまでなるわけで、すごい成り上がりだ。

 いっぽう語り手はといえば、「パリで借りていた寓居に寝泊まりするひとりの娘」がおり、「当初の激しい不安が、愛する女をその住まいまで車で送っていったり、女を自分の家に住まわせたり、その女が外出するたびに自分や信頼するだれかがつき添うことを熱烈に念願させた結果、やがてそれは意味を忘れ去られた慣習のような決まりごととして定着した」のだという。「そんなわけで私は、タンソンヴィルへ出かけるため、数日のあいだ、本人の同意を得て、女を愛さない友人をひとり監視役につけるはめになった」。アルベルチーヌは死に、アンドレやロベールやジルベルト、親しい友人たちは結婚して、アルベルチーヌが受け入れていたことで、語り手だけは以前のまま、むしろ自身の思慕の表現に慣れてしまい、いまの恋人に同様の執着を向けている。「はめになった」じゃあないんだよ。

 そして本巻の末尾で、どうもロベールに、実は同性愛傾向があるらしい、ということが明かされる。もとはめちゃ女好きだったロベールがそんな指向の持ち主だったと知って、語り手は裏切られた気持ちになって涙を流す。〈消え去ったアルベルチーヌ〉は〈ソドムとゴモラ 三〉の第二部、として書かれていて、シャルリュスとジュピアンのセックスではじまった〈ソドムとゴモラ〉の締めくくりとして、異性愛者と信じていた親友が同性愛者だったと明かされるのは、対称的、なのかしらん。二時間くらい読んで、ようやく本文を読了した。

 午後もひきつづき作業して、夕方すこし散歩。惣菜屋さんでいちじくの白和えを買って帰る。また作業して、早めの時間にレトルトカレーで夕食とした。それからプルーストを訳者あとがきまで読み、久しぶりに剃髪。ずっとスキンヘッドのつもりはないのだが、いつまた伸ばそうかな。674/674


9月10日(土)快晴、ひさしぶりに暑い日。昨夜なんか眠れず、遅くまで寝ていた。パンケーキを焼いて朝食とし、スーパーに行ってヤクルトY1000を買う。開店の三、四分後くらいに入ったのだが、すでに六本入りのパックふたつ分の隙間が空いていた。最近こういうことが多く、もしかしたら、ついにこの街にも転売屋が現れたのかもしれない。今のところバラ売りのは残しているようで、ひとまず支障はないのだが。七月に増産体制が整う予定、というニュースを見た記憶があって、しかしすくなくとも、我が家の最寄りのスーパーにまでは、その恩恵は及んでいない。

 プルーストをもくもく再読。気ばかり焦っている。

 神楽坂・かもめブックスのODD ZINE展が火曜日までで、どうも最新号のVol.9はあと十部も残ってないらしく、行かねば……と思いつつ、今の私にはパニックを起こさずに神楽坂まで行ける自身がなく、尻込みし続けていた、のを、昼ごろに意を決して出かける。主宰の太田靖久さんは午後在廊予定、とのことだったが、いなかった。精神的な余裕がなく、店に入って奥の展示スペースにまっすぐ向かい、最新号を一部取ってレジへ。ほかの棚に目もくれなかったからか、レジのおねいさんが戸惑ったように接客してくれた。心身の障碍が外見や言動に表れてる人は、どうしたって他人の視線を引いてしまうものだ、と思いながらスタンプカードを出すが、催事の商品はスタンプの対象外で、そういえば二年前のODD ZINE展でVol.6を買ったときも同じことを言われた。あのころはまだ、自分がパニック障碍だとは自覚してなかったな。

 帰宅して進読してるうちに寝ていた。また同じところを読み、夜はテイクアウトのやきとんとおにぎりで夕食として、録画してた『世界ネコ歩き』のアイスランド回。たいへんに良かった。どこの国でも猫は可愛いものだが、アイスランドの風物がとても良い。知人(といっても十年以上会ってないな)がひとりレイキャヴィーク在住で、アイスランドについて考えるときはいつも彼のことを考える。いくつかある移住したい土地の、かなり上位にある街だ。

 京都対鹿島がはじまったところで風呂を溜め、プルーストを持って入浴。風呂から出ると京都の一点リードで前半が終わったところ。私が小学生のころ、京都が毎年一試合、鳥取のバードスタジアムでホームゲームをやっていた、ので、どちらかというと京都に肩入れしている。副音声(スタジアムの音だけ)にして後半を見ながらまだまだ進読、けっきょく鹿島が一点返してドロー。302/674


9月11日(日)曇。昨日睡眠不足だったこともあり、十時間ちかく寝ていた。もぞもぞ起きて、ニューオータニのシェフ監修のレシピでパンケーキを焼く。美味い。

 お腹がくちくなったところでプルースト。昼食(海老のビスク風ラーメン)を挟んでもくもく読む。外が暗くなったころにようやく本文を再読了。明日はエッセイを書かねば。

 その後、新しい中華料理屋の麻婆豆腐などを食いつつ、録画してた『1オクターブ上の音楽会』、藤波辰爾の「マッチョ・ドラゴン」回。素晴らしかった。この曲はいっさいギャグではなく、藤波は手でリズムを取りながら真剣に歌い、それなのにああなっちゃう、というのがたまらない。麻里圭子「かえせ!太陽を」も良かったな。観た番組の録画は消すことにしてるのだが、昨日の『ネコ歩き』とこれは残しておく。それからなんかフジテレビでやってたお笑いと音楽の番組をダラダラ観てしまう。テレビがあるとこういうことをやってしまっていけない。608/674


9月12日(月)快晴。朝、遅く起きてシャワーを浴び、散歩。汗をかきながら三十分くらい歩いた。開店直後のスーパーに入り、ヤクルトY1000をひとパック。懸念されていた転売屋、今日は来てないのか、仕入れ曜日を完全には把握してないのか、そもそも転売屋なんていないのか、ひとまず、開店五分後の時点ではまだ残っていた。

 帰宅してパンケーキを焼き、ようやく今月のプルースト文章を起筆。ウンウン唸りながら、昼食(ドラッグストアの二割引の焼きそばパン)を挟んで書きつづけ、十八時半にようやく書き上げる。明日まで寝かせる。

 すこし散歩して、月見バーガーを食いながら、録画してた日曜美術館のゲルハルト・リヒター回、展示を担当した国立近代美術館の桝田倫広氏の話が興味深く、もっとまとまったかたちで聞きたいな。すき焼きの月見バーガーも美味。


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