たしか三鷹あたりにしようと話していた。私たちは誰も東京に住んだことがなく、知ってるのは山手線の内側だけだった。私たちみたいな表現者志望の若者は高円寺というところに住むものだ、というのはなんとなく知っていたが、地図上でどの辺りにあるのかはよくわからない。三鷹は中央線のどこかにあって、太宰が生きて死んだ街だ。そのくらいのことしか知らなかった。都心ではない、文学の香りのする土地。そこに住もう、と私たちは言いあったのだった。
書くことは一人でしかできないが、書いていくことはみんなとできる。私たちは札幌にある大学の文芸部の同期で、プロ志望の数人で集まって同人誌をつくろうとしていた。周囲では就活やその前段階としてのインターンがはじまり、忙しさに筆を折る人もちらほらいて、これがおれの就活だ!と嘯きながら執筆に没頭していた私たちは焦っていた。しかしどうも、卒業と同時に専業作家になることは、メンバーの誰もできそうにない。就活にも乗り遅れたし、卒業後はバイトでもして食いつなぎながらその時を待つ。それならこのまま札幌にいるより、出版社も多いし小説家も無数に住んでいる、文学においても首都である東京に出たほうがいい。書いたものを気軽に見せ合って、同人誌のミーティングなんかもやりやすいように近くに住もう、どうせなら同じマンションに住むのもいいかもしれない、書きあぐねたときも相談しやすいし、ほらトキワ荘みたいにさ、我々がいずれビッグになったとき、そこが聖地になるように──。
小説を書きはじめた十六歳の冬からずっと、同人誌をつくったり文芸部に参加したり、創作科の大学院に入ってみたり、友人と合作して新人賞に応募したりしてきた。いま三十三歳だから、ちょうど今年、書いてない日々より書いてる日々のほうが長くなったことになる。十七年間を振り返るとき楽しい気持ちで思い出すのは、執筆の高揚やよい作品が書けた満足感よりも、読者が私の作品についてあれこれ言いあっているのを見たり読んだりした記憶だ。サークルや文芸部の仲間だったり、大学院の友人や先生たちだったり、愛読していた小説家や評論家だったり。褒められるのはうれしいし、批判されて納得したり反発したりするのも、何か小説を書いたことの実感がある。世のなかには、文章を書いていなければ死んでしまう!とか、自己表現のために小説を書く!みたいな人もいるという。私は料理をすることよりも誰かがそれを食べているのを見るのが好きだ。世界から本を読む人が消えてしまえば、私はたぶんもう書かない。友人たちと熱っぽく語りあった計画も、近くに住んでそれぞれ書く、ということよりも、原稿を送りつければ必ず読んで感想をくれる人が身近にほしかったのだと今にして思う。
けっきょく実現しなかったその協働住宅──共同住宅をもじって私はそう呼んでいたが、口頭で言ったことしかないから、こんな表記だとは誰も気づかなかっただろう──のことを、今でもときどき考える。駅から離れた、安さだけが売りのワンルームだ。壁は薄いが、隣から聞こえてくるのはひたすらにキーボードを叩く音だけだから気にもならない。これ読んでや、と原稿を送ると、そのメールの着信音が聞こえて、一時間くらいあとにどちらかの部屋を訪れる。改稿して、応募したり同人誌を作ったりする。そうやって日々が過ぎていき、気がつけばその時代を象徴するような書き手になっている。
私が思い描いていたユートピアはそういう場所だった。しかしそこでは、書くことと読み合うことだけが念頭に置かれていて、生活というものは度外視されていた。
中里介山『大菩薩峠』のなかでは、いくつかの理想郷が目指されている。失脚した旗本の駒井甚三郎は、西洋船を新造して、どこかの国──作中では「伊豆の小笠原島よりは、もっと遠い、呂宋とか、高砂とかいうところ、或いはもっと、ずっとのして、亜米利加方面まで行くかも知れぬ」と語られていた──を開拓しようと志している。彼は「剣をもって開いた土地は剣で亡びると言います、それに反して、鋤と鍬で開いた土地は、永久の宝を開くわけですからね」とも言っていた。どこの土地を目指すかは未定だが、誰かの土地を軍事力で奪うのではなく、自分たちの手で切り拓こうとしている。
八巻の冒頭ちかくでは、甲州・有野村の素封家の令嬢であるお銀が、こう語っている。「わたしは、この世で、人間が人間を相犯さないという世界を作りたい、(…)何をしようとも自分の限界が犯されない限り、他の自由を妨げてはならない──という領土を作ってしまいたいと思います」所有欲を〈悪魔の拵えた人間への落とし穴の、いちばん巧妙で、そうしていちばん危ないもの〉と断言するお銀は、琵琶湖の畔、胆吹山麓の土地を買い取って、〈理想の領土〉の建設を試みる。しかし、彼女の語る〈王国〉の構想は、自由意志の絶対視や相互不干渉、力による支配の肯定と所有の否定など、理想ばかりは高らかだが、生活の実感に欠けている。
お銀は郷里の敷地の外れに、〈悪女塚〉というものを作り、作中では〈グロテスク〉と称される神像を安置していた。〈新理想の楽土王国〉の聖地ともいうべき悪女塚はしかし、お銀の知らないうちに、土地の誰にも拝まれないまま破壊された。お銀の父親が養子として迎えようとしている与八(竜之助の義弟で、仏師として諸国を放浪する旅の途中だった)は、敷地の好きなところに家を建ててよい、と許されて、悪女塚のある場所を所望した。敷地のなかにそんなものがあると〈いよいよ悪気が籠って〉しまう。だから自分が塚を壊して、〈悪女塚に代る供養を致してえ〉と言う。そして与八は手ずから建てた家のなかで、お銀の神像の背面に鑿を振るって地蔵をつくった。与八は子供らに読み書き算盤を教えたり、ちょっとした怪我や病気の手当をしたり、経を唱えて仏像を彫ったりして、村の人々の信頼を得ていく。教育と医療と(民衆に受け入れられた)信仰。いずれも土地の運営に欠かせない、しかしお銀の〈王国〉に足りない要素だ。
本巻の終盤では、竜之助の前に、平清盛の愛妾・祇王が現れる。本作は幕末が舞台で、祇王が生きた平安時代より七百年ほど前だ。だからここに現れた祇王は、現実の存在ではあり得ない。祇王は背後にある琵琶湖畔の貯水池と用水路を指しながら、そこは自分が清盛に頼んでつくらせたものだ、と語る。そしてこう言う。
「わたくしたちのあらゆる栄耀栄華のうちに、ただ一つ、これだけが残りました」彼女の、やがて清盛の寵愛を失い、二十一歳の若さで自死したという生涯において、これが〈最も大きな、そうしてただ一つの功徳の記念〉だと彼女は誇る。どんな栄華を極めた人も、残るのは高邁な思想なんかではなく、ただ人々をうるおす水のせせらぎだけだった。そしてそれは、人が後世に残しうるもののなかでは最も尊いものなのかもしれない。
夢みたいな協働住宅が実現していれば、私や仲間たちは、きっと今書いているものとは違うものを書いていただろう。実際には、仲間の一人は札幌に残ってフリーターをしながら書きつづけ、一人は地元で公務員になり、一人は就職を機に筆を折った。私は多重留年のあげく大学院に進んで、仲間のなかで一人だけ上京した。あのころ思い描いていたユートピアを、いまさら実現したいとは思わない。
私は小説を書いている。小説家の仕事は、用水路のような実態こそないがずっと未来──それこそ七〇〇年後まで残りうる。今書いているこの文章も、もしかしたら。
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