ロードノベル

 世のなかの人はあんまり砂丘と砂漠の違いをわかっとらんらしい、と気づいたのは、砂丘を最大の観光名所とする郷里を出てからのことだ。私の郷里の砂丘には松林があり、季節によっては、ボランティアが除草作業をすることもある。起伏の大きい砂丘で、谷底には〈オアシス〉と呼ばれる湿地がある。地下水が湧き出ているというが、普段は水は見えず、雑草でいつも青々としている。湿度によるものか、季節によって湧出量がちがうのか、ときおり池ができる。そこに女性の死体が沈んでいた、というのが、西村京太郎〈十津川警部〉シリーズのどれかの作品の発端だった。池といっても深いところで大人の膝程度だ。仰向いた死体はよく日を浴びていた。緑の草に囲まれて眠っているようだった。幼稚園から高校まで、遠足や部活のトレーニングで、数え切れないほどその砂丘に行った。死体を見つけたことこそないが、小高い丘から低地を見下ろすたびに、そこに池がなくとも、女性が沈んだ水のさえざえとした冷たさのことを考えた。膨大なシリーズのなかのどの作品だったか、殺人の動機もトリックもストーリーも、何も思い出せず、ただ水の温度だけを憶えている。

 人によって小説の捉えかたはそれぞれだ。キャラクターを愛でるために読む人もいるし、ストーリーに翻弄されたくて本を開く人もいるし、言葉のしらべに酔いしれることに喜びを感じる人もいる。私は描写だ。これまでに何作の小説を読んできたのかはわからないが、本を閉じて棚に戻し、時間をおいて振り返る作品はそう多くない。そういうとき私は、登場人物や筋はあやふやなまま、印象にのこった二、三の場面だけを思い出す。

 ロードノベル、と考えて、最初に思い浮かんだのはマーセル・セローの『極北』だった。これもストーリーにかんしては、語り手(たしか女性)が寒い旅をする、くらいしか憶えておらず、彼女が見た光の青さしか思い出せない。あとはジュール・ヴェルヌ『地底旅行』の、噴き上がるマグマとともに地上へ向かっていく筏の熱さ、時雨沢恵一『キノの旅』のどれかの巻の、湖底に沈む都市での暮らし、滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』の、焚火のかたわらで踊る浮浪者の酒と煙草と垢の匂い、中上健次『日輪の翼』のオバらの哄笑、女の喘ぎ。いま挙げた場面は、もしかしたら、ほんとうには存在しない描写かもしれない。ただ、そうやって、ほかの人の作品を読みながら脳裡に描いた場面を、自分の言葉で描写しなおすことで、新しい小説が立ち上がることがある。そこから順に順に導かれるヴィジョンを、片端から描いていく。そうすることでひとつの作品が生まれる。小説を描写の集積としか捉えられないから、私の小説はストーリーが弱いのかもしれないが、それはさておき、ロードノベルだ。

『失われた時を求めて』九巻『ソドムとゴモラ Ⅱ』は、語り手とアルベルチーヌが、バルベックの駅で、高台へ向かう列車を待っているシーンではじまる。本巻におけるアルベルチーヌを、語り手の〈恋人〉や〈愛人〉という言葉で表すのは難しい。登場人物紹介でも、「「私」の性愛の相手」と歯切れが悪い。明確な約束が交わされたわけではなく、しかし肉体関係と互いへの執心はたしかにある。目的地のラ・ラスプリエールまでは片道一時間ほどだ。その間も展開されるのは社交界と何ら変わらぬ、際限ないおしゃべりと語り手の回想や空想だ。

 そんななかで、ほとんど唯一、移動そのものにまつわる場面がある。岩波文庫版の八十ページ前後、この分厚い本ではまだ序盤と言っていい箇所だ。サン=ピエール=デ=ジフの駅で、〈見目うるわしい乙女〉が乗車してくる。〈モクレンの花のような肌、黒い瞳、大柄のみごとな体形〉。彼女は語り手と二、三言葉を交わし、窓を開け、煙草を吸って、半ページほどで降りていく。「そのタバコ好きの美しい娘には二度と会わなかったし、それがだれなのかもわからずじまいだった。(…)だが私はその娘を忘れたわけではない。いまでもその娘のことを思うと、しばしば狂おしい欲望にとり憑かれる。」この〈欲望〉は性欲ではないように思う。本作は、彼女に二度と会わない年月をへだてたあとの回想だ。いかに語り手が旺盛であっても、ほんの一瞬すれ違っただけの乙女への性欲は、そう長く持続するものではない。たいした関わりをむすんだわけでもない人(やもの)への、だからこそ記憶にこびりつく感情は、私の身にもおぼえがある。陸上の大会で一度だけ隣を走った選手、目当てのCDと間違えて買ってすぐ返品した歌手、日雇いのバイトでバディを組んだ他大学の学生。何かがすこしだけ違えば、彼らとの関係は、私の人生のなかに組み込まれたかもしれない。しかし関係の萌芽はついえた。今では彼らの名前も憶えていないが、たまに、あのころ適切な言葉や金銭的な余裕を持っていれば、何かが変わっていただろうか、と考える。その先にある人生を見てみたいと思う。私が彼らを思い出しながら感じる〈欲望〉はそういうものだ。〈私〉もきっと、アルベルチーヌとの、ぬぐいがたい同性愛の疑念にさいなまれながら営まれるのだろう関係のかたわらで、あり得たかもしれないむすびつきの可能性に執着しているだけだ。どれだけ空想してもその可能性に際限はなく、だから永遠に記憶に残る。

 本巻を読了した翌日の今、私の印象にもっとも強くこびりついているのはこの、列車が三駅走る間の短いやりとりと、その後いつまでも燃え残る執心の描写だ。きっと今後、本巻のことを考えるときに思い出すのもこの場面だ。移動の過程で、〈私〉の意識が主題から離れた刹那。だから本巻は、私にとってロードノベルとして記憶される。

〈ソドムとゴモラ〉という題のとおり、本巻の主題は、シャルリュス氏とアルベルチーヌそれぞれの同性愛だ。そして本巻の大半を成しているのが、社交界の人々の、うんざりするほど延々つづくおしゃべりだ。前巻で、シャルリュス氏とジュピアンのセックスは、壁を隔てて漏れ聞こえる声として描かれた。語り手はアルベルチーヌの同性愛傾向を、彼女がアンドレと乳房をくっつけて踊っているのを見たときではなく、コタール医師の、二人は快楽の絶頂にある、という指摘を聞いたことで疑いはじめる。本巻でも、シャルリュス氏の美青年モレルとの関係はプラトニックなものだという可能性が残され、アルベルチーヌへの疑念がいちばん高まるのも、彼女がいっしょに旅行するという友人が、〈私〉がかつて同性愛のシーンを目撃したヴァントゥイユ嬢と親しい、というアルベルチーヌの発言を聞いたときだ。このように、同性愛を主題としていながら、〈ソドムとゴモラ〉と題された本篇において、語り手の周囲でおこなわれる同性愛には肉体は描かれない。いずれも声と言葉によるものだ。私にとって、〈ソドムとゴモラ〉における同性愛の主題がどこか遠くに感じられるのは、社交の空虚な会話に全篇が覆われていることや、現代の価値観からは古ぼけて見える同性愛によるものだけでなく、同性愛の行為に、語り手の五感のごく一部しか開かれていないからかもしれない。

 私にとって小説を読むことの快は、五感が、手のなかにある本とそこに印字されている文字以外のものを感得する瞬間にある。そういった体験は時に、低地に沈む死体のように、私の現実にも滲み出す。繰り返し訪れた砂丘で、死体を見つけたことはない。だが、私はあそこに死体を見た。このふたつの文は、私にとってだけ、矛盾していない。

〈ソドムとゴモラ〉の舞台であるバルベックは、語り手をはじめ、パリからの観光客を引き寄せる、ノルマンディー地方のどこかに位置する架空のビーチリゾートだ。生前の祖母がそこでセヴィニエ夫人の本を読み、それを模倣するように〈私〉の母親も訪れた。ちかくの堤防の上では乙女たちが光の下を練り歩き、それを語り手が見つめていた。私はフランスにもノルマンディーにも行ったことがない、が、バルベックには行ったことがある気がしている。描写されているものを読むかぎり、そこにあるのはあくまでも奥ゆきの狭いビーチで、私の郷里にあるような砂丘とは違うようだ。〈砂漠〉は乾燥によって植物が存在できなくなった土地のことで、〈砂丘〉は風や水流で砂が堆積してできた地形を指す。だから、砂のない砂漠はあるし、植生のゆたかな砂丘はある。私の郷里にあるのは後者だが、地球温暖化による砂漠の拡大や『千夜一夜物語』が話題のときに、そういやきみの地元にもさあ、と話を振られることがたまにある。いやおれんとこのは砂漠じゃなくて、と砂丘の名前で検索すると、いちばん上に、ラクダに乗った人の写真が表示される。どうも、地元の観光振興をつかさどる社団法人が公開している画像らしい。これだからややこしくなるのだ。