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兄の動揺、母の嘆息

 町屋良平は、〈身体を記す〉というテーマで書かれたエッセイ「灰色の愛」(『文學界』二〇二四年二月号)のなかで、父親の性欲について母親と話した、というエピソードに続けて、こう書いている。

 

 ちなみにこの話を含めて母親には「私のことは小説(など)に書かないでくれ」と懇願されているが、私はむしろ周囲の人間の中で母親のことだけを自分の小説(など)に頻繁に書きつづけていた。

 

 ついでのように書き添えられたこの一節を、私が四ヶ月後の今もつよく印象にとどめているのは、私も自分の母親と似たようなやりとりをしたことがあるからだ。そのことについて、私は「鳥たち birds」という小説のなかに書いた。私自身を投影した(と読める)語り手はこう述懐している。

 

 私はデビュー作のなかで、語り手に実家の飼い猫の首を絞めさせた。首の骨が折れる寸前で彼は手を離し、猫は咳き込みながら逃げ出す。のちに両親は猫を飼いはじめ、〈勘当〉がとけて帰省した私に母は、殺さんでよ、と冗談めかした声で、でも顔では笑わずに言ってきた。小説と現実を、彼女が混同しているとは思わないが、そのころから、猫や親戚の誰それに関する微笑ましいエピソードを語るとき母は、小説に書かんでよと前置きをするようになっていた。書かんよ、と私はそのたびに約束する。

 

 母にそう言われたこと自体を書いたことについて、今のところ、彼女は何も言ってきていない。この小説を読んだかどうか。実際には母は、殺さんでよ、とは言わなかった。書かんでよ、とは言われたが一度だけだったし、私はたしか、そうねえ、と曖昧に濁して話を逸らした。

〈勘当〉とあるとおり、私は家族をモデルに、倫理的にけしからん内容の小説を発表したせいで、数年間、帰郷しても家に上がらせてもらえず、ホテルに泊まっていた。両親が、少なくとも表面上は〈勘当〉以前と同じように私に接するようになった理由は知らない。書かんでよ、と念を押されながらも、小説やエッセイに家族の言動を描き込みつづけている私を、彼らはどう思っているのか。私の母も、町屋の母親も、小説(など)に書かないでほしい、と考える理由については説明されていない。きっと気持ちの良いことではないのだろう。

 

『チボー家の人々』の主人公であるジャックは、高等師範学校入学を目前にして出奔した。作品第一部で語られるダニエルとの逃避行につづいて、二度目の家出。しかしあっけなくマルセイユで捕まった前回と違って、ジャックの足取りは杳として知れず、父親にはもう死んだものと思われていた。

 第五部〈ラ・ソレリーナ〉は、ジャックの失踪から三年後、彼の行方をさぐる兄のアントワーヌを主な視点人物として描かれる。アントワーヌは、ジャック・ボーチーという人物が、スイスで発行された雑誌に寄稿した小説を手に入れた。イタリア語で〈妹〉を意味する「ラ・ソレリーナ」と題されたその作品はアントワーヌにとって、一個の小説作品である以上に、弟の行方の手がかりになりうるものだ。イタリアが舞台で、フランス人は登場しないが、アントワーヌは登場人物たちに、自分をふくめたチボー家の人々やそれを取り巻く人々の姿を見出す。〈もはや一点の疑いもゆるされない〉と確信を得、彼は作品を味わうのではなく、失踪した弟の行方やその動機を知ることを目的として雑誌を開く。

 

落ちつけ、落ちつけ! ジャックの秘密は、これらの文章のあいだに隠されているのだ! 落ちついて、一枚一枚、読んでゆけ。極の極まできわめてやるのだ。

 

 こう自分に言い聞かせつつアントワーヌは、〈心せくままに何ページかを飛ばし〉たり、〈両手でひたいをかかえながら、一心不乱に読みふけ〉ったりしている。のちにジャックに非難されるように、読者ではなく〈探偵〉としての読みかただ。他人が小説を読む態度に難癖をつける権利は誰にもない、とはいえ、あまり良い読みかただとは思われない。私小説を書く(こともある)者として、家族にこういう読みかたをされたくはない、ということだろう。

 作中、ジャックは〈ジウゼッペ〉と、アントワーヌは〈ウンベルト〉と名づけられ、イタリア人の兄弟として描かれている。そして、実際には二人の義妹──チボー氏(〈セレーニョ〉)の養子であるジゼールは、〈アネッタ〉という名の、血のつながりのある妹として設定されていた。ほぼ現実に即した人間関係で描かれるなか、唯一の、かつ決定的な改変。〈ジウゼッペ〉は〈アネッタ〉と近親相姦的な関係をむすぶ。それと同時に、親友ダニエルの妹であるジェンニーをモデルとする〈シビル〉にも惹かれ、結婚の約束をしてもいる。二人の間で揺れ、宗派の違う外国人の家に生まれた〈シビル〉との婚約を〈セレーニョ〉氏に叱責されたことに反発した〈ジウゼッペ〉は、口論のすえ家を飛び出した。「どこへ行く?」と問われ、〈毒矢〉のような言葉を投げつけてやろう、と彼は「死ににです」と返した。

 けっきょく、この作品からではなく、私立探偵の報告によってアントワーヌはジャックの居場所を突き止め、兄弟は再会を果たす。二人が「ラ・ソレリーナ」について交わした言葉は、作品が引用されていた分量に比しても少ない。アントワーヌが、作中の〈ジウゼッペ〉と〈アネッタ〉の関係を、現実のジャックとジゼールにあてはめるようなことを口走ったのを聞いたジャックは、冷笑を浮かべながらこう言う。「兄さん、あなたは自分の天分をまちがえてたんだ(…)あなたは、探偵になりに生まれたんだ!」その物言いに激昂したアントワーヌも言い返す。「それほど私生活を隠したいなら、公然と雑誌に書いたりしなければいいんだ!」

 アントワーヌ以外の家族は「ラ・ソレリーナ」を読んでいないから、ジゼールや、瀕死の重症でもはや本を読むことすらできない父親が、作品に描かれた自分を読んでどう感じるかはわからない。ただ同作を読了したアントワーヌの動揺は、私の作品を読んだ私の家族の感情と通ずるところがある気がする。

 

 私は今後も、私小説的な作品をいくつも書くと思う。デビュー作ほど露悪的なけしからなさのものはさすがにもう書かないと(今は)思うが、小説をつくるための素材を集めたメモ帖には、両親や兄の言動や、それに触れた私の感慨が書きためられている。町屋がそうしているように、書かないよう〈懇願〉されたところで、書くことが作品に資すると判断したら書いてしまうのが小説家という生きものだ。

 私の家族のなかで小説を書いて(発表して)いるのは私だけで、私は家族が書いた小説の登場人物としての私を読んだことはない。友人たちの小説にはときどき登場する。架空の名前を与えられた私はそのなかで、私が作者に送ったのと同じ文面のメールを送りつけることもあれば、身に覚えのない正論を振りかざすこともある。

 友人が書いた私小説には、もちろん私以外の人をモデルにした人物も登場している。なかには語り手の母親もいるし、作者が三十代も半ばになった今では、いい歳してるのに正職に就かず小説なんか書いてる息子を嘆くようなことも口にする。彼女の嘆息を私は、自分の母の声で想像する。友人たちも、私の小説に出てくる母の台詞を、自分の母親の声で聞いているかもしれないし、彼女たちはそれぞれの訛りで、書かんでよ、と懇願しているのかもしれない。


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