四割のほう

 祖父が肺を病んで死んだとき私は小学校の中学年で、彼のことを、やたらと背筋がしゃんとして厳格な、碁を打つときだけ笑顔になって、ルールもよくわかっとらん孫を打ち負かしては悦に入るじいちゃん、くらいに記憶している。彼がビルマの密林を歩いていたのはその五十年あまり前のことだ。陸軍に所属していたという。生前に私が聞いていたのはそれだけだ。祖父に叱られて(体罰を受けたことこそないが、激高すると杖を振り上げてみせるような人だった)落ち込んでいると、祖母が取りなすように、あの人は陸軍で苦労したけえな、と囁いてきたり、夏にテレビで戦争の特集を観るたびに、父が、おじいちゃんはビルマに行ってたんだ、とつぶやいたり、そういう断片的なことだけを聞いて、私は、しわくちゃの祖父が若い軍人だったころのことを想像していた。

 一九八九年に生まれた私は、おそらく、太平洋戦争に従軍した元兵士を祖父に持つ者としては、かなり遅い世代に属している。同級生の親は六十年代生まれが中心で、祖父母は三十年代から四十年代の生まれ、つまり、終戦時は十代の前半より幼く、従軍経験がない。おじいちゃんおばあちゃんに戦争の話をきいてきましょう、というような課題が出された記憶もある。同級生のほとんどは、疎開してきた大阪の子供と仲良くなった、とか、食べるものが少なくてひもじかった、とか、銃後の子供としての体験談を聞き取ってきた。私も、祖父なら彼らとは違うことを教えてくれただろうが、そういう話はおばあちゃんに聞こうね、と親に誘導されて、庭の隅々まで畑にして、野菜は近所の人たちと分け合った、というような話を聞いた。

 祖父が私に戦争の話をすることはなかった。戦場での体験を話すには私が幼すぎたのかもしれない。長じてから小説家になり、祖母をモデルにした女性の生涯を描いた中篇を構想するにいたってようやく、私は、自分が祖父の戦争体験について何も知らないことに気づいた。ビルマに行ってた元陸軍兵、それだけだ。火葬場に向かう祖父の棺には、戦地で肌身離さず持っていたというお守りが入れられた。祖母なのか、いずれ家族の手縫いだったのだろう、糸はほつれてぼろぼろで、しかし半世紀以上前につくられたものにしてはきれいだったのは、戦後も大切に保管していたのだろう。その中篇を起筆するころには、私の家族で唯一戦時の記憶をもつ祖母も、意思の疎通が困難になっていた。歴史の勉強が苦手で、ビルマ戦役について、極めて過酷な環境下での行軍を強いられて兵士の過半数を失った、という程度の知識しかない。自分なりに調べて、祖父がどの連隊に所属していたか、その連隊がどの戦闘に参加したか、程度のことは把握できたものの、ほかならぬ私の祖父がいつその連隊に編成されたのかはわからない。最終的に連隊は、構成員の六割を失う渡河作戦の末に終戦を迎えた。実際に彼らが降伏の報せと停戦命令を受け取ったのは、その公布から一週間以上経ったあとのことだ。強制労働、虐待、人種差別、会田雄次は『アーロン収容所』で、ビルマで抑留された日本軍人の非人道的な待遇を報告していたが、祖父はどの収容所にいたのだろう。ドラマや映画で観る軍人は、君が代を聴くと反射的に直立不動の姿勢をとっていた。祖父もかつてはあのようだったのだろうか。私には口を閉ざしたまま死んだ祖父が戦争を、自分の体験をどう考えていたのかはわからない。わからないながら、そうして口を閉ざしていたこと自体に意味がある。私はけっきょく、さんざん調べた資料を脇に置いて、引き揚げてきた夫は何も語ろうとしなかった、と書いた。

 祖母の葬儀を終えた翌日、空港の待合室で私は、たまたま同じ東京便に乗る従妹と話していた。私の小説を読んだ、と前置きして彼女は、じいちゃんは、あんまり戦争のことを話すことはなかったけどとにかく、戦争はいけん、ということは繰り返し言っていた、と話した。彼女は私より一回り年上で、その母親──私の父の姉は、祖父が出征していく前に生まれた。私の父は戦後生まれだ。仮に祖父が、渡河作戦で失われた六割のほうに含まれていれば、彼女は変わらず生まれていたかもしれないが、私はこの世に存在しない。そんな想像には何の意味もない、と思いつつ、考えてしまう。

 昨年から読みつづけている『失われた時を求めて』十三巻のなかで、第一次世界大戦が勃発していた。病弱な体質ゆえか、語り手が徴用されることはなく、描かれるのは銃後の暮らしであり、従前と変わらない社交のありようだ。社交界の人々にとって戦争は、かつてドレフュス事件がそうであったように、「それを味わうと政治的好奇心を充たすことができ、新聞で読んだ事件について仲間内で論評したいという欲求をも満足させることのできる社交的快楽」のための催淫剤でしかない。「じゃあ五時に戦争の話をしにいらっしゃい」と、ヴェルデュラン夫人はサロンの仲間を誘う。少なくとも五時までは、そしてそのあと続く数時間は、自分のいる場所は安全だ、という確信がなければ、こんな言葉は口にできない。

 語り手の友人であるロベール・サン=ルーは軍人で、休暇を終えて前線に戻る直前、〈私〉のもとを訪れる。話題の中心はもちろん戦争だ。ロベールは飛行船による空襲について、〈かつて大好評を博した審美上の出し物について語ったときとそっくり〉同じ口調で語り、夜空へ上昇する飛行機──戦闘機をこう描写する。「そのとき飛行機は星座をなし、この点で、空の星座群を支配しているのと同じ厳密な法則に従ってるんだ。(…)おまけにあのサイレンだって、なかなかワーグナーふうだったじゃないか、(…)上昇してゆくのがほんとうに飛行士なのか、むしろワルキューレじゃないかと思えるほどだった。」そして、ワーグナーの曲名を挙げながらこう念を押す。「そうとも、サイレンの音楽はまさに『騎行』だ! パリでワーグナーを聴くには、やっぱりドイツ軍の到来を必要とするのさ。」

 美しい比喩を多用した饒舌は、戦地と銃後を行き来する興奮によるものでもあるのだろうが、祖父の沈黙を思いながら読んでいると、その言葉の上滑りする軽薄さが気にかかる。死地におもむくロベールは、そのようにして恐怖心をごまかすしかなかったのだろう。

 二人の態度の違いを比較することに意味はない。彼らの共通点は軍人だということだけだ。国も年代も違えば戦った戦争も違い、軍人になった経緯も違うだろう。戦時中に同年代の友人に語るのと、終戦後五十年を経て幼い孫に語るのは、心もちがまったく違う。そして何より、祖父はビルマ戦役に参加したうち四割程度にすぎない帰還者として戦後を生き、ロベールは前線で命を落とした。退却する部下を掩護して死んだのだという。その死を、敵を殺すためでなく、味方を守ろうとした末のものと設定したのは、ロベールの死をたたえるための、プルーストという書き手のやさしさなのだろうか。

 とはいえ戦争は、この語り手にとって人生の一挿話に過ぎない。本巻の白眉は終戦後、十年ほどを療養所で過ごしてパリに戻った語り手が遭遇する無意志的記憶の連鎖と、それによって彼が到達した独自の文学論だ。本書の序盤では、ゴングール兄弟の日記を読みながら、二人の観察の鋭敏さと、鈍磨しきった自身の感受性を引き比べて消沈していた語り手は、ここにいたって、「真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である」との確信を得る。何を見ても何かを思い出すほどに実感的に生きた人生をもっていること。熱烈すぎるほど熱烈な(なんせ百ページ以上ある)この主張は、長い時間をかけて本作を読んできた私たちにはいっそう強く響くだろう。

 同時に、語り手は、その文学論が不可避的にはらむ危険をも語っている。人生のすべてが文学作品の糧になる、ということは、人生で出会うすべての人を、自分の作品のために利用するということだ。「祖母が断末魔の苦しみにあえいで死んでゆくのを、私はそばでなんと平然と眺めていたことだろう!」祖母もスワンもアルベルチーヌもサン=ルーも──。語り手は、多くの人がそうするように、人生に消えない跡を残した人の多くを見送った。そしてその死を、私がいま読んでいる小説として書き残した。「今は亡きこれらすべての人たちは、まるで私の役に立つしかなかった人生を生き、私のために死んだように思われた。」人の死を作品にするとはそういうことだ。そういう意味では、親しい人の死を小説に書き込む語り手──そして私──は、〈自分がその人たちのあとまで生き残った満足をあらわ〉すように、「アニバル・ド・ブレオーテ、死んだ!アントワーヌ・ド・ムーシー、死んだ! シャルル・スワン、死んだ!」と死者の名を数え上げるシャルリュス氏と、本質的にはまったく同じことをしている。語り手がこの栄誦を聞きながら考えたように、その言葉は、「これら亡き人を墓の底へますます深く押しこもうとする墓掘り人夫がシャベルでどさりと投げ込む重い土のように、故人たちの上に落ちてゆく」。

 私は祖父の沈黙のなかに小説の題材を求めた。祖母の死を小説にし、祖母の死を小説にする自分自身のことも小説にした。今後もきっと、そういう小説を書く。祖父が四割のほうに入ったことで得た人生を、そうやって過ごしていって、私の死も誰かの小説になればいい、と、三十二歳の、死はまだ遠いと思っている今は考えている。