高台にキャンパスがあり、坂を下ったところに附属の小中学校があった。私はそこで九年間を過ごした。私が小学校に入学したときは教育学部附属だったが、通ううちに教育地域科学部になり、卒業するときは地域学部になっていた。とはいえ、入学式を終えたばかりの児童にその違いはよくわからない。高台は緑に囲まれていて、小学校の校舎からは、そこに何か建物があることくらいはわかるが、それが大学という、小学校の次の次の次の進学先で、自分たちがいるこの学校の運営母体なのだ、というようなことは知らなかった。
私がそのことを意識したのは、中学一年の夏、通学手段をバスから列車に変えて以降のことだ。大学名の冠された駅で降り、キャンパスを突っ切って、陸上部のトレーニングで毎日のように駆け上がる坂を下りる。大学生というのは昼過ぎまで寝ているものだから、朝八時のキャンパスですれ違うのは警備員や用務員、出入りの業者や一限から授業をやるタイプの教員ばかりだった。同じ便で降りた小中学生といっしょに正門から入り、地域学部と工学部の間を通り、図書館の角で曲がって、右手に農学部を見ながら直進して、急な坂を下る。坂には栗の木があって、秋にはイガイガが落ちている。それから部室塔の脇を抜ければ小中学校だ。
これはいま大学のウェブサイトでキャンパスマップを見ながら書いたことで、当時の私は、ひとつひとつの建物の役割なんてわかっていなかった。敷地内に古墳がふたつある、というのも、当時は知らなかった。二年半、毎日のように歩いたはずなのに、そのルートを外れた場所のことをほとんど知らない。私が知っているのは附属の小中だけだ。
高校一年の冬、同人誌に誘われてはじめて小説を書いた。二年の夏、『一〇〇〇の小説とバックベアード』を読んで小説家になりたいと思った。大学三年の冬に納得のいく中篇ができて、それをちょうどしめきりの近い新人賞に応募した。受賞はしたものの二作目を発表できずにふさぎこんでいたころ、『1000年後に生き残るための青春小説講座』を読んで立ち直った。それで小説を書いて生きるための息のしかたを知りたくて、創作科のある大学院に進学した。修了後は図書館で働きながらの兼業で、来月末には職場を雇い止めになる。その先はわからない。これが書き手としての私の来歴で、その起点は城跡に建つ高校の、友人と屯していた図書室にある。
その前は読むばかりだった。今も鮮明に憶えているのは『ヤング・インディー・ジョーンズ』と『黒ねこサンゴロウ』と『ホワイトアウト』で、それぞれ片手の指では足りないくらい読みかえした。書いたのは一度だけ、中学校の国語だったか、昔話の続きを考えよう!みたいな授業のときだった。私は「月の巨人」という題で、竹の節に入るくらいの小ささから数ヶ月で大人の女性にまで成長したかぐや姫が、月に帰ったあとも同じペースで巨大化し続けた現代、郷愁にかられて再び地球にやってくる、という筋のものを書いた。五千メートルを超える身長では人間とコミュニケーションを取ることなどできず、けっきょくかぐや姫は、人類を脅かす怪物として攻撃され、しかしいい感じのラストを思いつかず、たしか大量のふくらし粉を口から放りこんで破裂させたんじゃなかったか。国語の先生がやけに気に入ってくれて、授業中に教室の前で全文朗読させられたような、とだんだん思い出してきた。それを私のはじめての小説だったと思わないのは、教師に言われて渋々、(作者不詳とはいえ)他人の作品にただ乗りするようにして書いたからかもしれない。
その前は日記だ。小学生に入って最初に課された宿題が、登校しない日の日記だった。そのころはまだ隔週で土曜日にも授業があった。毎週一、二日、ジャポニカの日記帳の一ページを使って書く。当時は私も真面目だったから、毎週月曜に欠かさず提出していた。内容はまったく憶えていないが、祖父母の家に行ったとか、ジャスコのフードコートでアイスを食べたとか、そういうことを書いていたと思う。
日記にはひとつだけルールがあった。書き出しを、せんせいあのね、にすること。先生に会わない日にみんなが何しとったか、教えてね。担任はそう言った。どんなこと書いてもええだで。
書かない日のほうが多かったとはいえ、私は一年間日記を書きつづけた。せんせいあのね、しみんプールにいったよ。せんせいあのね、大あめがふったよ。せんせいあのね、かぶとむしがしんだよ。この定型をつかうことで、どんな悲しい出来事も深刻な事件も親密な語りのなかでやわらげられる、というのは、そろそろ三十年経とうとする今思い返して気づいたことだ。当時はただ、ふだんは敬語で接するよう指導されていた先生に対して、あのね、と親しげに呼びかけるのが、長幼のしきたりに反するようで新鮮に感じていただけだ。一年も続けると面倒になり、進級して担任が変わり、提出が必須ではなくなった日記を、私はすぐに書かなくなった。
人生とは今日一日のことである、とデール・カーネギーは言った。警句として知られすぎて、名言録だのうちの実家の日めくりカレンダーだのにも書かれるほどに陳腐化した言葉で、一日一日の積み重ねが人生になる、だから今日という日をせいいっぱい生きるのだ、というくらいの意味だ。でも、私はこの言葉をそのまま受け取っていた。人の生涯の数十年が、そのまま今日一日の時間にふくみこまれているような、いま私が生きている一日が一生分のふくらみを持っているような。
今からちょうど一年前、二〇二一年の元日の夜、新しい文章を書きはじめながら、そういうことを考えていた。頭に浮かんだ文章をまず書き、あとは思考の流れのままに言葉を置いていく。その時点では、三百六十四日後の夜、そのテキストがどういうかたちをとるのかわからない。小説なのかエッセイか、ほかの何かなのかすら。それでも、今こうして書きはじめた一日は、一日よりはるかに長く続く、という根拠のない確信があった。一生、とは言わなくとも。
毎日の終わりに書く日記みたいに、私はこの、けっきょく五百枚ちかくなった文章を書いた。書き出してわりと早い段階でこれは小説なのだとわかり、小説であるからには昨日の記述から継続していなければならないが、昨日の続きが今日になるのは日記や人生も同じことだ。私はその日の出来事や考えたこと、読んだ本、聴いた曲のことを織り込みながら書き進めていった。
その道ゆきのなかばちかくで、文芸誌の依頼をきっかけに日記も書きはじめた。日記みたいに書く小説と、日記として書く日記はぜんぜん違う。相互に響きあうこともない。だいたいは小説のほうを先に書くから、そこからこぼれたことを日記に書きこんだりはした。一日の終わりにふたつの文章を、多いときには十数枚書いて、ほんらいの仕事──編集者と約束した小説やエッセイがおろそかになることもあったが、まあそれはここに書かなくてもいいか。
とにかく私は書きつづけて、昨日の夜書き終わり、今日はこの文章を書いている。一文目を書いた最初の夜と、カレンダーの数字はひとつしか違わない。私はたしかに一年間毎日書いていたはずなのだが、たぶん一日しか経っていない。
二〇二二年元日の夜に
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