教授が入院したのは私が大学院に入る二年ほど前のことだった。私は彼のことをいち読者としてしか知らず、彼は自分のプライベートのことをあまり明かさない書き手だったから、私が彼の入院と手術を知ったのは大学院に入ってしばらく経ってからのことだ。彼はとうに退院して仕事に復帰していた。ゼミのあと、学生たちを引きつれて彼は行きつけの居酒屋に行った。棚にずらりと並んだ〈百年の孤独〉のボトルのひとつに彼の名前が書いてあり、私は、その数ヶ月前までバーで働いていたころの癖でボトルを見、先生、いい酒キープしてますね、とお追従を言った。
ああ、あれはね、でも、ぼくもう飲めないから。
先生はさあ、と横から、すでに酔っ払っているような先輩が気安い感じで彼を指さす。飲まないのにキープして、ぼくらに飲ませてくれるんだよ。
まあ、なんか、習慣でね。あそこに自分のボトルがないと落ち着かないんだな。教授はまんざらでもなさそうにはにかむ。だから君もね、どうぞ。
すみません、ぼく下戸で。これもバーのときの癖で、申し訳なさそうな表情をつくって頭を掻く。
そうか。下戸仲間だね。ぼくは下戸になってから、医者に酒止められてまだ二年だから、きみのほうが大先輩だ。
お医者さんに?
ちょっとここをやってね。彼は胸から腹のあたりをぼんやりと指さす。アルコールを受け付けない身体になった。
先生その前はすごかったんだよ。あんなボトル一人で空けてた。
うふふ。教授は俯いて笑い、ウーロン茶を啜る。下戸っちゅうことになって、まあ最初は、参ったな、って感じだったけど、いいこともある。
オッ夜のことですか。
先生の言葉は最後まで聞けばか。
親しげに頭を小突かれて、先輩はケタケタ笑いながら離れていった。教授はこちらを向き直り、そのすこし色の薄い瞳で、私の目からすこし逸れたところを見ながら言う。
まあ夜っちゃあ夜なんだけどね、夜まで素面だから、夕食のあとに、もうワンクール仕事ができる。
こうして思い出していても、酒の席のちょっとした会話でしかない。教授の話はこのあと、若いころの大トラっぷりの自慢になった。私は興味を失って、彼が何を言っていたかすぐに忘れた。でも、お開きになって外に出、最後まで素面だった私たちは東西線の駅まで、酔っ払った学生たちの後ろを並んで歩いた。私たちはお互い無言で、先を歩くみんなの遠い声を聴くともなく聞いていた。そして教授は、不意に二時間前の話を再開するようにして、私の名を呼んでこう言った。
──だからさ、生まれてから死ぬまで素面のきみは、彼らよりアドバンテージがあるんだ。書きつづけるんだよ。
手もなくその気になりはしたものの、教授の軽い口ぶりに反して、その習慣はなかなか身につかない。夕食のあとなんて疲れ切っていて、パソコンに向かってもなにも言葉が浮かんでこず、申しわけ程度に一、二文書き足すだけ、ということばかりだった。六十代半ばの老齢になり、酒も飲めないほど身体を悪くしていても、一日の終わりにもうワンクール仕事をする。彼の、体力なのか、執念なのか、とにかく、私よりも遥かに多いはずの仕事量のことを考える。息子くらいの、と言うには年が離れすぎている私に、なぜ同じことができないのか。
大学院を修了して数年が経った。私は、朝早く起きてバイトに出勤する前に書く、というサイクルになって、夕食は寝る直前に食べることが多く、その後は軽い読み物をするのがせいいっぱいで、作業なんてとてもできない。私はアドバンテージを活用することなく、ただ、書きつづけてだけはいる。教授と会うこともなくなり、私たちは著者と読者に戻った。先生は私の文章を、今も読んでくれているだろうか? 古稀を間近にした彼は、さすがに仕事量を落としはしたが、今もときおり名前を見かける。夕食後のワンクールを、きっと続けているのだろう。
だから──という接続詞がここに適切かどうかはわからないが、私にとっては理路はつながっている──私も、毎日の終わりにもうワンクール書こうと思った。脳がしおしおに疲れているから、あまり構築的なものは書けないし、一日にどれくらい書けるかもわからないから、誰かと約束した原稿もできない。誰にも待たれていない原稿を、毎日の終わりに書く日記みたいに書く。それをひとまず一年続ける。今日はもう遅いから、明日からはじめよう。
*
この文章を書いたのが、二〇二〇年の大晦日だった。その少し前にテレビが壊れて、年末年始のことで新しいものが届くまで時間がかかっていて、スマホで紅白歌合戦を聴きながら書いた。こうして読み返してみると、年のかわりめを目前にして、私なりに高揚しているのがよくわかる。
それで、私は実際に翌日から書きはじめた。最初はエッセイとも小説とも決めず、頭から流れるままに文字を置いていって、二、三枚書いたところで、どうやらこれは小説になりそうだ、とわかった。寝る前に、ときには一、二文書き足すだけのこともあったがそれでもよく、日々書き継いでいった。
半年経って、けっこう長くなった。発表のあても、発表するつもりもなく書きはじめたものだが、こうまとまった枚数になると、なんだか自分だけが読んでいるのも惜しいような気もしてきた。
ということで、ここにちょっとずつアップしていこうと思う。毎日、半年前に書いた一日分を、寝る前くらいの時間に投稿する。一年間、私が今日もそうしているように、この文章とおつきあいいただければ。明日からはじめます。
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