曇らなかった鏡

 あれは京都だったのか、古都という枕詞を附されるのがふさわしい街並みのなかでペーパーナイフを買ったのは、修学旅行の自由行動の時間か、その街のどこかで学生生活を送る親戚の家を訪ったときだったかもう憶えていない。小刀を模した白木の鞘には、たしかその観光地としても名高い古刹か城郭の名の焼き印が捺されていたようにも思うが、それも旅先の高揚のまま買い求めてからの長い──といってもせいぜい十数年で、その寺なり城なりが経てきた時間に比べれば短いものだが──時の間にかすれ消え、今では墨の痕跡がわずかに残っているだけだ。刃文のような加工の施された刀身を紙の折り目に内側から押し当てると、その鈍くやわらかな刃で耳のなかをくすぐるような音とともに紙を裂いていく。そうやって何枚もの紙を等分に切り分けて束ね、机の上で叩いて角を整える。すべて何かの本や雑誌の複写だ。ケメックスのドリッパーで胃が悪くなるほどの量のコーヒーを淹れ、一枚ずつ読みはじめる。しばらくの間、部屋のなかには、マグカップを陶製のコースターに置く固い音と、重ねた紙をさばく乾いた音だけが、ひどくゆっくりとしたリズムで続くことになる。マグカップが空になり、キッチンに立って注ぎ足すときふと、指先が黒ずんでいることに気づく。

 私が二年間を過ごした大学には巨大な図書館がある。徒歩十分足らずのところに住んでいた私は、いつも閉館直前、トロイメライの館内放送が聞こえるまで閲覧席に粘っていた。その書庫の、地下二階の隅にある閲覧席で、私は國文社の《ピポー叢書》や白水社の《日本風景論》といった叢書に読み耽った。在学中は常に制限冊数いっぱいの三十冊を借り、下宿の机の上に積み上げていた。そのせいで、読みたい本があるのに借りられないのが常で、書架の間をそぞろ歩きながら、ポケットのメモ用紙に、一冊一冊に貼られたラベルの請求記号だけを書き留めていた。修了して貸出資格がなくなってからも、たびたび書庫を訪れ、今ではどんなジャンルの本なのかも思い出せないその数字の羅列を頼りに本を探す。書庫にあるのはほとんどがすでに絶版の、公立図書館では所蔵していない本ばかりだ。私は、それが規則違反だと知りつつ、私的利用のためだと言い訳をしながら全ページコピーする。

 そうやって大量にコピーするせいで、一枚十円程度の複写代金もかなりの金額になる。そんなのは自業自得なのだが、少しでも節約するために、用紙は必ずA3で、複数ページを一面におさめて複写している。文芸誌のようなA5版のものなら四ページぶん、文庫サイズの本であれば八ページ。もちろんそれでは読みづらいから、ペーパーナイフで切り離して読んでいる。

 今日ではフランス装の、読者が一ページずつ切り離しながら読むような本はめったになく、古都で求めたペーパーナイフは封筒を開くときにしか使わずにいた。といっても、区税の督促のような封書を丁寧に開くのは業腹で、指で引きちぎるように乱暴に開けることも多い。考えてみれば配達時の包装でしかない封筒そのものをも大事に取っておきたい手紙を開けるときにしか使わなかったペーパーナイフが、購入から十数年を経て、思いがけず活躍の場を得たのだった。

 A3の、そのままでは手に余る紙を二つおりにする。角を合わせ、指を走らせてしっかりと折り、その隙間になまくらの小刀を刺して切り裂いていく。読み終わった紙も捨てることはない。裏紙としてコピー用紙に使うこともあるし、汚したくない本──つまり手に触れるすべての本──を読むときのカバーとして巻くこともある。さらに細かく、文庫の半分や四分の一の大きさに切り分けて、メモ用紙として使ったりもする。ペーパーナイフと同時に、切り分ける前に折り目を押さえる指をも酷使することになる。

 そのときに、印字されていたインクが、ぼんやりとした黒ずみとして指に残るのだ。くり返し丹念にすり込まれたインクは指先を黒く汚し、指紋の溝を浮かび上がらせている。ウェットティッシュでは拭いきれない。石鹸で洗えばきれいになるとは知りつつ、汚れではあっても私がその上に目を這わせた文字の集積なのだからと、落としたくない気持ちもある。白いシャツや借りものの本のページを汚してしまわぬよう気をつけながら、こうして、その文字の痕跡を纏った指でコーヒーを飲み、文章を書いている。

 今年の夏、故あって三島由紀夫作品をいくつも読みかえしていた。私は三島とイデオロギーを共有しておらず、彼の作品で描かれる思想は常に私から隔たっている。死から半世紀を経た今日においては見るに堪えないほど古ぼけたジェンダー観や国家観、図式的な構成、緻密すぎるがゆえに先の読めてしまうことも少なくない物語。それなのに、三島の技巧的で美しい文章をただ追うことの快に、私はほとんど強制的に淫させられてしまう。その文に幻惑されたまま読了し、作品を振り返るときに浮かんでくるのは、著者が〈カテドラル〉と形容していた、言葉だけで組み上げられた絢爛豪華な、しかしその細部はひどくグロテスクで居心地の悪い構築物だ。外出が躊躇われる猛暑のなか、冷房を効かせた自宅で、私は三島作品という建造物のなかに囚われていた。

『愛の渇き』は幸福の探求がテーマなのだという。自分が幸福であることが揺らぐ瞬間にこそ、人はその幸福がいかに大きく、そして自分がいかにその幸福に安住していたかを思い知る。主人公の悦子は、すでに愛情を感じない、家の外に数多の愛人をつくってもいるらしい夫の良輔が腸チフスを患い、死に近づいていこうとしているときにこそ、歓喜のような感情を抱く。そしてその熱が最も高まる瞬間──夫の死の瞬間に悦子が取った描写を、三島はこう描写する。

私は愕かなかった。吸入器を枕のそばにおいて、帯のあいだから手鏡をとりだした。幼いころ逝かれたお母さまの形見の、裏に赤字錦を張った古風な手鏡である。それを良人の口にさし寄せると、鏡は曇らない。髭に縁取られた、何か不平を云いたげな唇が明瞭に映った。[i] 

 夏の間は何の気なしに読んでいたその記述を、秋にさしかかった今になってふと思い出した。複写し、切り分けたまま、机に積み上げていた紙の束を崩しているときに、何がきっかけでコピーしたかも思い出せないエドガー・アラン・ポーの短篇のなかで、次のような描写に行き当たったのだ。

われわれは、朝の三時までヴァルドマール氏をそのままにしておき、そして、三時に彼のところへいってみると、彼はF──医師が帰っていったときとまったく同じ状態にあるのがわかった──つまり、彼が同じ姿勢で、横たわっていたということだ。脈はとれなかった。呼吸はしずかであった(くちびるに鏡をあてなければほとんどわからないくらいだ)目は自然にとじられ、四肢は大理石のようにかたくつめたかった。が、まだ全体の様子はたしかに、死のそれではなかった。[ii]

 この、二段組みの撰集でわずか十ページの短篇のなかで、催眠術につよい興味を抱く語り手はふと思いつく。催眠術をかけられた人物は、自分の意志とは関係なく、術士に身体を操られてしまう。では死人に催眠術をかけたらどうなるのだろう。そもそも死人は催眠術にかかることができるのか、かかるとして、命を失っていることで術の効果は強まるのか、それとも弱まるのか、そして催眠術は、人の死を、その腐蝕を、食い止めることはできるのか──? その疑問を語り手は、友人であり、高名な編集者でもあり、そして肺結核で死んでいこうとするエルネスト・ヴァルドマール氏の身体で実証することを試みる。

 短篇は、氏が息絶えたあと──「鏡が呼吸をしめさない」ようになったあと──も催眠術によって身体を操られつづけ、七ヶ月後、語り手によって催眠から覚まされたヴァルドマール氏が、延期されていた断末魔を叫び、次の瞬間、死んで七ヶ月放置された死体がそうなるような、腐敗して液状化した肉塊に成り果てる顛末を語って終わる。死者に催眠術をかける、というほとんど露悪的な着想、しかしポーの度外れて流麗かつ陰鬱な筆致が、その着想を美しい怪奇として成り立たせている。

 ポー作品を愛読していた三島はもちろん、この短篇も読んでいたことだろう。あるいは私が「ヴァルドマール氏病症の真相」を知り、図書館の書庫で撰集を探してコピーしたのは、膨大な三島作品のどれかで言及されているのを読んだのがきっかけだったかもしれない。

 もちろん現代では、人の死は呼吸ではなく心臓の鼓動や脳波が途切れたときに宣告される。だから死んでいこうとする人の、最後の呼吸をたしかめるためにその口元に鏡を差し出す、というおこないは、どこか古めかしい、死者を送るための宗教的な儀式のようだ。悦子やその母が自分の顔を写すためにつかっていた、あるいはポー自身を想起させもする語り手が持っていた鏡がその瞬間、(三島が最後まで取りつかれていた天皇制のシステムのなかで、現代もなお践祚にあたって継承されているという)祭祀用具としての役割を演じている。

 死んだ後も催眠術で身体を操られていることを示すために唇に鏡を当てられたヴァルドマール氏は、たしかに死んだと確認するために手鏡を差し向けられた良輔は、いったいそのちいさな硝子のなかに何を見たのだろう。あるいはそれは、ポーにその筆名を由来し、三島が敬愛してもいた江戸川乱歩が「鏡地獄」のなかで描いた、内側をすべて鏡張りにした球体のなかに閉じこもった男が見たのと同じものだっただろうか。

 悦子が幸福を実感するには夫が熱病で死ぬことが必要だった。ポーの語り手の実験にはヴァルドマール氏が死ぬことが必要だった。悼まれることのない二つの死。書かれた時代も、言語も、そして長さも異なる二作のなかで、悦子の夫である良輔も、ヴァルドマール氏も死んだ。鏡は澄んだまま、彼らの色を失った唇を写した。もし彼らの最後の息が鏡を曇らせることがあれば、私の指の腹のように、その曇りは豊かな物語の折りたたまれた、黒ずんだ色をしていたのかもしれない。

[i] 三島由紀夫『愛の渇き』新潮文庫、62ページ [ii] エドガー・アラン・ポー「ヴァルドマール氏病症の真相」(一力英雄、福田陸太郎訳『ポー代表作選集 中巻』鏡浦書房)132ページ