最北の手前での会話 ──『筏までの距離』あとがきにかえて
- 涼 水原
- 6月26日
- 読了時間: 9分
更新日:6月27日
稚内で誕生日を迎えたのは二十三歳から四歳に変わる秋のことだった。十月十四日、この列島の最北に位置する港町ではすでに寒風が吹きすさぶ。ずっとあと、今の東京では真冬のごく寒い日にだけ着るコートを、北の街にいたころの私は秋や春先に着ていて、そのときも、暖房のよく効いた特急を降りてすぐそのコートを羽織った。セーターの下にじんわり浮かんだ汗が北から吹く風に散らされた。ホームからの景色や、〈日本最北端の駅〉の標柱をスマホで撮るうちに身体が冷える。すでに私は二度留年していて、札幌での暮らしは六年目に入っていた。それでもまだ北国の乾いた寒さには慣れずにいた。東京のほうが長くなった今ではきっと、あの寒さには耐えられないかもしれない。
ほかの観光客より少し遅れて、真新しい駅舎(いま調べてみると、駅を中心にした複合施設がちょうどその年の五月にオープンしたばかりだったらしい)を通り抜ける。宗谷本線の終端の車止めや、駅前広場に再現されたかつての線路の写真も撮る。たしかその上に立って、レールが写りこむようにスマホを高く掲げて自撮りをした記憶があるが、その旅行の写真は機種変更を繰り返すうちにすべて消えた。
南稚内と稚内、ふたつの駅が並んでいて、栄えているのは前者のほうだ、ということは、現地に着いてから知った。予約したホテルが南稚内駅のほうにあることも。ほんのひと駅をまた乗って引き返すのも癪で、一泊の旅で読み切れるはずもない数冊の入ったリュックを背負い直し、線路に沿って歩き出す。三万人ほどの街だ。地方の小都市がどこでもそうであるように、全国や全道規模のチェーン店が並ぶ。吹きつける風の、海が近いのに乾いた冷たさだけが、ここが最北の街であることを示していた。
ロシアとのつながりの深い街で、商店街のアーケードでは、日本語と並んでキリル文字で店名が掲示されていた。稚内はキリル文字でВакканайと表記する。なんとなく、ローマ字のWakkanaiとどの文字が対応しているのかわかる気がする。周囲を見回しながら歩くうち、キリル文字の読みだけは習得できた気がしたが、ひと言も発音を聞かなかったのだからそれが正しいかはわからない。
凍える前に南稚内駅に着き、ホテルにチェックインした。朝の遅い時間に札幌を発ったからすでに夕方で、北の早い陽は沈みつつあった。財布とスマホをポケットに入れてホテルを出、札幌にも、郷里の鳥取にもあったような海鮮居酒屋で早めの夕食を済ませる。外に出たころには暗くなっていた。私は南稚内駅前のバス停で、北の岬に向かうバスに乗り込んだ。
旅先を稚内にした理由の一つが、その二年前の夏、札幌の北海道立文学館で観た、特別展「李恢成の文学 根生いの地から朝鮮半島・世界へ」だった。李の〈根生いの地〉の一つが樺太だったのだ。戦後、国際法上領有権の帰属先が未確定のままになっている、と、少なくともこの国では主張されていて、地図ではどの国の色でもない白に塗られているその土地に、私が訪れた当時は稚内からの定期船が運航していたようだったが、そんな金も語学力もなく、パスポートの期限も切れていたから、渡航は検討もしなかった。それでも、この街の北の果てに行けば樺太を見ることができる、暗くなってからでも、海峡を挟んで向かい合う対岸の明かりが見えるのではないか。そういうことを考えていた。
この旅に持って行った本を、けっきょく一冊も読了することはできなかった。だから何を持って行ったのかも忘れたが、うち一冊がドストエフスキー『白夜』(小沼文彦訳、角川文庫)だったことだけは憶えている。ペテルブルクの明るい夜に照らされた悲恋を描く、文庫で百二十ページに満たない小品だ。すでに二、三度読んだことのある作品だった。
あの空をごらんなさい、ナースチェンカ、まあ見てごらんなさい! 明日はきっとすばらしい天気ですよ。なんて青い空だろう、なんて月だろうな!
P.108
恋の終わり間近、語り手はこう口走る。この台詞を読んだのは列車が稚内駅に入り、今にも停止しようとする間際のことだった。すぐ次のページで終わる章を最後まで読むこともできずに栞を挟み、窓から見える背の低い街並み、その向こうに横たわる丘陵とそこに建つ塔を横目に見ながらリュックに放りこんだ。続きは宿で読もう、帰路で読もう、と思いながら、けっきょく別の、何か分厚い本を読みはじめたから、『白夜』はそれきりになった。
バスの暗い窓には自分の顔が映っていた。流れる家々の光を眺めながら、『白夜』の、本を閉じる直前の台詞を思い出していた。昼間は曇っていたが、食事中に晴れたのか、空には星がぽつぽつ見えた。小説のヒロインはあのあとすぐ、最後のキスを置き土産に、別の男のもとへ走る。〈どうぞあたしたち二人をお赦しください、どうぞお忘れにならずに、いつまでも愛していてくださるように、あなたのナースチェンカを〉(P.112)と別れのあとでヒロインは、語り手に書き送ってくる。
小説は、彼女の幸福を祈る語り手の独白で終わるだろう。暗唱まではできないにせよ、そのことを私はもう知っていて、青くない、月も見えない夜空を見ながら、ヒロインの身勝手な懇願のことを考えていた。
数人いた乗客はときおり入れ替わり、稚内駅ですこし増えたものの、そこから北へ向かうにつれて減っていき、次は終点、と車内放送が流れるころには私一人になっていた。
バスは住宅街を通り抜け、砂利の広場をぐるりと回り、暗い小屋の前で停まった。私は運転席脇で千円札を両替した。機械が紙幣を呑みこみ、支払いやすいようにだろう、十円玉をふくむ大量の硬貨が吐き出されてくる。その音を超える大きな声で運転手が、どちらまで行かれるんですか、と言った。
どちらまで。私は繰り返す。
ええ。ご旅行でしょう。ふだんこの時間にここで降りる人いないんで。
運転手は横目でこちらを見、目が合ったとわかってから顔を私に向けた。五十代くらいの男だった。北海道の方言は、札幌のような内陸部と、稚内のような沿岸部で大きく異なっている。浜言葉、とも呼ばれる後者は訛りが強く、違う土地からやってきた私には聞き取りづらいことも多かった。彼の言葉は、札幌でふだん耳にしているのと似た、東京の訛りに近いイントネーションだった。
北の岬に行きたくて。私はそう答えた。この時間でも入れますかね。
まあねえ、べつに門があるわけでもないんで入れないことはないですけど。何も見えませんよこう暗くちゃ。
それでもせっかくここまで来たんで。
東京のかた?
いえ。札幌から。
ああ。わたしも札幌ですよ。運転手は親しげに街の名を口にしたが、そこは私が一度も行ったことのない住宅地だった。もう稚内のほうが長くなっちゃったけど。同郷のよしみで言いますけどね、ほんとにおすすめしないです。何もないし寒いだけだし。
同郷ではない、ということを、彼の、妙に切実な目で見られていると言い出せなかった。
じゃあ、何かライトアップとかは。
いやもう、暗い暗い。灯台はあるけどあれは足元を照らすようなもんでもないですし。夜の海なんてもうね、風だけ。それに岬まで行ってたら、帰りの便ないですよ。タクシーも少ないし。
そこまで聞いてようやく私は、この運転手が、ほとんど手ぶらでひとり夜の岬に向かう私に、観光ではない目的があるのだと勘ぐっているのだ、と気づいた。まったくそうではない、ということを、しかし、強調すればするほど嘘くさく響いてしまうことも想像がついた。
言われてみれば、数十キロ離れた対岸の明かりが見えるかどうかもわからない、寒いだけのそこへ歩いて往復し、タクシーを呼んで、それなりの金をかけてホテルまで戻るのも億劫になってくる。
じゃあ、諦めます。
私がそう言うと、彼は安堵したように短く息を吐き、目尻に皺を寄せて微笑んだ。
それがいいですよ。ほんと、何もない街ですみません。
いえいえ、謝られることでも。じゃあこのへんで、最終便まで時間潰せるとこってあります?
ないですね。水族館も閉まっちゃったし。
水族館。
そう、あっちのほうに。運転手は広場の先の暗がりを指さすが、明るい車内からは何も見えない。まあでも、あと二、三分ですよ。わたしのこのバスが戻るのが最終なんで。
あ、じゃあこのまま乗ってていいですかね。
いえ、忘れもの見ないといけないんで、いったん降りてください。言いながら運転手は、両替機に出てきたままになっていた小銭を勝手に取り上げ、何枚か選り抜いて運賃箱に入れた。静かな車内に、再び動き出した機械の音が響く。もともとそんなつもりもなかったのに、私はこの運転手に、すんでのところで救ってもらったような信頼を抱いていて、その振る舞いに反感を抱くこともなくおつりを受け取った。
車内点検終わったら声かけますから。近くにいてくださいね。
念を押されながらバスを降りる。小屋は施錠されていた。エンジンが止まると、遠くの波の音が耳に届いた。運転手が車内を巡りながらときどき視線を飛ばしてくるのを感じつつ、バスを離れ、歩道に立つ。街灯も少ないし人通りもなく、コンビニの過剰な明るさも見えない。たしかにこれでは、と私はバスの光を振り向く。離れたら二度と戻ってこられなさそうだ。
運転手が窓を開け、お客さあん、と呼んだ。そろそろ出ますよお。
私は手を振って、急ぎ足でバスに向かった。
ホテルに着いたのは九時すぎだったから、最終便が出たのはせいぜい八時半ごろで、深刻になるほど遅い時間でもない。私は客室で、コンビニで買った一・五リットルのコーラをボトルから直接飲みながら、すでに結末を知っている『白夜』ではない別の本を読みはじめた。
この記憶は、『筏までの距離』という本と何の関係もない。単行本の作業を終え、ようやくゆっくり読書ができる、と本棚を漁っていて『白夜』を見つけた、それで思い出しただけのことだ。いま思えば、標題作の序盤にこの夜の会話を思わせるような記述もあるが、それはあくまでも偶然だ。書いているときには、思い出せないところまで遠のいていた。
東京に引っ越して、もう札幌より長くなった。ここは年に一、二度だけ雪が降り、それも翌日のうちに解ける街だ。旅のディテールはほとんど憶えていないが、稚内や樺太、北方アイヌの風俗にまつわる記念館でもらった絵葉書は、今も読書の栞として使っている。
あのとき運転手が、その目的を危惧しながらも無言で私を見送っていたらどうなっていたか。そんな魂胆はなくとも、夜の海を見つめていたらふと魔が差してしまうこともあるだろうか、と考えてもみるが、あまりリアリティをもって想像できないのは、ほんとうに当時の私が、そういう衝動から縁遠かったということなのだろう。たぶん、何も見えない岬にしばらく佇み、暗いモニュメントをスマホで撮るだけだ。寒さに耐えかねたころにタクシー業者に電話して迎えに来てもらう。それか、いくらになるかもわからない運賃を惜しんで、地図アプリを頼りに徒歩でホテルまで戻るだろうか。そして運転手は家に帰ったあと、夜寝る前のまなうらに、暗いなかに消えていった私の、寒さに丸まった背中を浮かび上がらせる。その後数日は、関連する記事が載っていないか、新聞をふだんより念入りに読んだかもしれない。
『筏までの距離』に収められた八篇は、まず三篇が、続いてもう三篇が雑誌に掲載され、のちに二篇が書き下ろしとして追加された。いずれの短篇も、主要なモチーフと冒頭の二、三文が浮かんだところで書きはじめた。最北の手前での会話のことを思い出していれば、それで一篇を書いていたかもしれないし、書かなかったかもしれない。書いてもよかった、とは思う。そうすればこの短篇集も、今とは違った姿になっていただろう。
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