生まれることのない子供に


あんたは作者だな!! このマンガとこのおれを作り出した男だな!! あんたに聞きたい なぜおれの体をこんなにした なぜ心身症にした? 断りもしないでひどいじゃないか!!


 長篇『七色いんこ』の主人公にこう糾弾されるのは、台詞にあるとおり、作者である手塚治虫だ。手塚に限らず、作中に自身を登場させる漫画家は多い。彼らはだいたい、作者であるにも関わらず、主人公たちより弱い立場にいる。露出の多い衣裳を抗議されたり、悪役といっしょにボコボコにされたりする。へんな展開を読者に謝ったりもする。

 そのことを考えたのは、プルースト『失われた時を求めて』の八巻で、はじめて作者が地の文に顔を出したような気がしたからだ。「だが作者としては、致命的な誤りにさしあたり警告を発しておきたかったのである」、「読者は憶えておられるかもしれないが、祖母が発作をおこしたとき、私は祖母を教授のところへ連れて行った」。

 推理小説の〈読者への挑戦〉をはじめとして、語り手と著者を、聞き手と読者をイコールで結ぶテキストは多くあるが、少なくとも、前巻までの『失われた時を求めて』には、〈作者〉は登場しなかった。〈このこと、いずれ〉式の表現はあったが、文章はあくまでも語り手の思索や回想であり、物理的な実体をもたない語りとして提示され、それが(著者によって、読者を想定して)書かれたものであるとは明言されていなかった。

 なぜプルーストは、物語のなかばにいたってようやく、著者として作中に現したのか。「さてさて、読者よ」と私たちに語りかけすらするのか。瑣事にも思えるこのことにこだわるのは、私自身の書きかたと関わる。自身の体験をもとにした、〈私小説〉と呼ばれる種類の作品をいくつか書いてきたし、私自身が書いた作品の題を書きこむことで、語り手と書き手をイコールで結びつけもした。しかし、その作品を今まさに書いている者として私自身を登場させることはしない。それが私なりの、作品とその語り手を私自身から引き離すための線引きだった。

『ソドムとゴモラ』という題に表れているように、語り手がシャルリュス男爵と仕立屋ジュピアンの睦みごとを盗み聴く短い章ではじまる本巻の中心的なテーマは〈同性愛〉だ。しかし、当時の最新の学説が反映されているとはいえ、男爵について、語り手が「氏はひとりの女なのだ! 氏の属している種族は、見かけほど矛盾した人間ではなく、男らしい男を理想とするのは、本人の気質が女であるからにほかならず、実生活がほかの男となんら変わらないのは外見だけにすぎない」と考えている箇所に顕著だが、本作において、同性愛は男と男が愛し合うのではなく、男爵が心のうちに秘めた〈女〉性が男を求めることを指す。訳者の指摘するとおり、だから本作では〈同性愛〉ではなく〈倒錯〉という語が多用される。かといって、男爵が性別不合の状態にあるわけではなさそうだ。

 本作においては、男と女がむすびつくのが本来であり、外見上そぐわないように見えるカップルがいれば、それはどちらかが本質的に〈女〉なのだ。かつてオデットがシャルルに咲き残った最後のキクを摘んで渡したように、シャルリュスは語り手に、装幀にワスレナグサがあしらわれた本を、〈「私をお忘れなく」と伝える方法〉として贈った。本作において花は、〈女〉が〈男〉に愛の証として贈るものだ。そしてオデットとシャルルの〈カトレアする〉のように、その含意が共有されているかぎり、花は、愛の行為のシグナルとして機能しつづける。

 男のなかの〈女〉が〈男〉を求めるのが男性同性愛であれば、女性同性愛は女のなかの〈男〉が〈女〉を求めるものだ。抱きあって踊るアルベルチーヌとアンドレを見、コタール氏が「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」と言うのを聞いて、語り手は、彼にとって今や都合のいい愛人であるアルベルチーヌの同性愛傾向を疑いはじめる。

 いっぽうで、プルースト自身と重なるところの多い語り手は、性指向に関しては著者と異なり、異性愛者と設定されている。「ごく最近ふと思い返してみると、その娘たちの名前が想い出された。数えてみると、この年のシーズンだけで十二人の娘が、私に一時的な愛のあかしを授けてくれたことになる。その後もうひとりの名前を想い出して、合計十三人になった。そのとき私は、この十三という数字にとどまることに子供じみた不吉な怖れを感じた。なんということか、私は最初のひとりを忘れていたことに気づいた。もはやこの世にはいないアルベルチーヌで、それで十四人になったのである」。病弱なわりに、ことセックスに関してはなんとも旺盛だ。しかし、忌み数である十三を介して(回想する現在において)アルベルチーヌがすでに死んでいることを示す一文に帰着するとはいえ、ここまで長々と考える必要があるだろうか。

 訳者は本巻のあとがきで、「プルーストは自己の内なる同性愛者とユダヤ人を(自己正当化の危険を避けて)主体としての作中の「私」には仮託せず、自己を差別される客体として眺め、それを作中の同性愛者たち(…)やユダヤ人たち(…)に担わせたのではないか」と指摘している。自身の体験を織り込んで小説を書くとき、自己陶酔と自己憐憫、そして訳者の指摘する自己正当化に陥りかねない。それを避ける方法として、小説の書きかたの指南書でよく言及されるのが、この、作者の人格を複数の作中人物に分割することだ。著者自身にとって切実な主題である〈同性愛〉と〈ユダヤ〉を本格的に考察しはじめる本巻において、〈作者〉が文中に姿を現したのは、語り手でもなく、かといって特定の作中人物でもない存在として、改めて自らを提示することで、作中で展開される主題から自由な立場に自身を置こうとしたのではないか。

〈作者〉の役割はそれだけではない。本作において、同性愛やユダヤ人問題より、読者としての私にとって重要な主題は〈祖母の死〉だ。四巻で語り手は、祖母(と女中のフランソワーズ)といっしょにバルベックを訪れた。隣室で眠る祖母にかまってほしくておずおずと壁をノックしていた〈私〉は、アルベルチーヌをはじめとする乙女たちとの出会いを通じて、ゆっくりと祖母への〈思慕〉を終えた。祖母の死を経た本巻、バルベックを再訪した語り手は、滞在初日の夜、ホテルで靴を脱ごうとするやいなや、かつて同じ場所でその手を制止してきた祖母のことを思い出す。「心の間歇」と題された(出版直前まではこれが作品全体のタイトルだったという)、語り手が、一年を経て「ようやく祖母が死んだことを知」る断章は、そのようにしてはじまる。

 語り手は、単に生前の祖母の姿を回想しているのではない。死ぬことのなかった祖母を幻視しているのではない。祖母とともに過ごす未来を夢見ているのでもない。失われた過去が眼前に生起すること。それをつぶさに見つめ、事態を受け入れること。「長いことすがたを消していた当時の私の自我がふたたび私のすぐそばに存在」している。その語りに耳を澄ませることで、語り手は、ようやく祖母の死という出来事を終わらせて、その悲しみを浴びはじめる。

 プルーストは、祖母の死の終わりを描くにあたって、改めて語り手を自身から突き放す必要があったのだと思う。一人称の語り手が、作者に対して「断りもしないでひどいじゃないか!!」と指弾することこそないが、プルーストはその役割を、ほかならぬ読者に割り振った。本書の前半、〈私〉の長い思索の途中、不意に、「「そんなことをくどくど聞かされても」と読者は言うだろう」と語り手は、私たちの言葉を代弁しはじめる。語り手の応答に対して私たちは、「へえ、どんな御利益で?」「で、結局、アルパジョン夫人はあなたを大公に紹介してくれたんですかい?」と皮肉げに尋ねる。そして作者はうんざりしたように「つべこべ言わず、私に話のつづきを語らせてくれたまえ」と、自分がはじめたはずのこの対話を打ち切る。

 こうして、語り手とはちがう〈作者〉という人格を印象づけたあとで、プルーストは「心の間歇」の章をはじめる。〈私〉の人生のなかで最も哀切きわまる主題──祖母の存在が永遠に失われたことを受け入れるこの断章のためにこそ、本巻に〈作者〉を登場させる必要があったのだ。

〈私〉が祖母の死を受け入れるにあたって、重要な役割を果たしたのは、耳元で囁きかけてくる〈当時の私の自我〉だけでなく、〈私〉の母親だ。彼女は、祖母(彼女にとっては母親)の死のあと、形見のハンドバッグや衣服だけでなく、愛読していた本や、バルベックの浜辺でその本を開く習慣まで受け継いだ。「生者はしばしば死者にとり憑かれ、死者とそっくりの後継者となって死者の途切れた生を継承するのだ」。葬儀で親戚が集まると、そのなかでいちばん年嵩の老人が、つぎはおれの番かな、と言ってみせる。そうすることで彼は、自分にも、周りの人間にも、自分の死出の道ゆきがはじまったことを宣言している。息子が祖母の死を悲しみはじめたのを悟った母は、祖母の行動をなぞることで、自らも死に向かいはじめたのではないか。そしてもちろん、作中で描かれるかどうかは知らないが、いずれこの母も死ぬだろう。その次は〈私〉の番であり、その晩年の回想が『失われた時を求めて』だ。子供をもたないプルーストは、自らの来し方を反映させた長大な小説を書き残すことで、(母が存命中の祖母を見ていたように)存在しない後継が自分の生涯を見、受け取ることを期待したのかもしれない。