top of page

美しい牢獄

 あなたが思いつくどんな奇抜なアイデアも、すでに星新一が書いている。小説の書きかた読本を渉猟していたころに目にした言葉だ。だから、発想に頼るのではなく、プロットを練り、文章を磨け、といったような意味だった。それで私は、小学生のころに親しんでいたきりだった星作品を、十年ぶりに読み直した。ほとんどが数ページで終わるショートショートだ。バイトもしていない大学生の夏は時間ばかりあり、一日一冊、ときには二冊、秋学期がはじまる前に新潮文庫に入っているものはひととおり読み終えた。それからさらに十年が過ぎ、今も強く印象に残っているのは、彼の文章の乾いた質感のことだった。

 星新一は何より描写の人だ。彼の作品世界は、その奇想やヒューマニズム以上に、端整な描写によって特徴づけられる。たとえば新潮文庫版『ボッコちゃん』所収の「殺し屋ですのよ」はこうやってはじまる。


 ある別荘地の朝。林のなかの小道を、エヌ氏はひとりで散歩していた。彼は大きな会社の経営者だが、週末はいつも、この地でくつろぐことにしているのだ。すがすがしい空気、静かななかでの小鳥たちの声……。

 その時、木かげから若い女が現れた。明るい服装に明るい化粧。そして、にこやかに声をかけてきた。


 七ページの本文中、情景描写はこれだけだ。ここには木々の植生やエヌ氏が嗅いでいた林の匂い、気温や湿度のことは描かれていないし、エヌ氏が経営する会社についても、〈大きな〉のひと言で片づけられていて、のちに〈最大の商売がたき〉である〈G産業〉に言及されはするが、いったいどんな業種なのか、最後まで読んでもわからない。女の外見も〈明るい〉のリフレインでしか示されない。このあと小説の舞台は、数ヶ月後の同じ小道と病院に移るが、前者は〈林の道〉とのみ書かれ、後者にいたっては、〈看護婦〉と〈医師〉が会話しているからそうと知れるだけで、舞台についての言及はない。

 あるいは、同書所収の「意気投合」。探検隊を乗せた宇宙船が発見した惑星の様子は、隊長とレーダー室との、「どんな星だ」「住民がいそうな条件を、そなえているようです」という会話で示されるだけだし、そこにある〈美しい町〉の住民たちの風貌は、「地球の人間と同じような住民たちだった」としか説明されない。

 最小限の言葉で舞台の情報を提示するために、星の文章は、読者が事前に持っているだろうイメージを最大限に活用している。読者の多くは病院に行ったことがあるだろう。〈大きな会社〉の名前をひとつか二つは知っている。私がこの描写を読んで思い浮かべた別荘地は軽井沢だが、世界中に別荘地は無数にある。私たちは〈住民がいそうな条件を、そなえている〉星をひとつ知っているし、〈地球の人間〉がどんな風貌かも知っている。読者は任意の別荘地、任意の人間を思い浮かべればよい。主題は別のところにあるのだ(そう考えると、だいたいの別荘地は静かで、空気がすがすがしく、朝には小鳥が鳴いているのだから、「すがすがしい空気、静かななかでの小鳥たちの声……」の文すら不要に思えるが、これは、情景描写を挟むことでそぞろ歩きの時間の緩慢さを感じさせ、〈若い女〉の登場の性急さを強調するためだろう)。

「月の光」という作品がある。親から多額の遺産を相続し、大病院で医師をつとめる〈主人〉は、〈十五歳の混血の少女〉を〈ペット〉として飼育している。邸宅には、噴水やプールがしつらえられ、ユリの鉢植えの並んだ一室が設けられている。〈ペット〉の部屋だ。彼女は十五年間その部屋から出ることなく、いっさいの言葉もつかわずに育てられた。〈主人〉は忠実な〈召使〉すらこの部屋に入ることを許さず、手ずから餌を与えて彼女を愛でる。作中では、〈ペット〉は快適な部屋のなかで充足しているように描かれる。しかしその生活は、〈主人〉が交通事故で大怪我を負うことで終わった。〈召使〉は主にかわって〈ペット〉に餌をやろうとするが、彼女は〈愛情という副食物がないとなにも食べられない〉。日に日に衰弱していって、病院で〈主人〉が亡くなるのと同時に、静かに息を引き取った。

 本作の主題はその殉死の耽美性で、そのために、美しい〈ペット〉や彼女の棺である部屋は丹念に描写される。〈愛情〉の名の下にまともな教育を受けられずに死んだ彼女の悲劇として読むこともできるだろうし、「主人の最も愛したペット、最も親しかった家族、いや、彼そのものだったかもしれない」という、〈ペット〉の主体性を剥奪するような描写から、〈主人〉や〈召使〉、そして作者のジェンダーを挙げて批判することもできるだろう。

 星作品を一時にまとめて読んだ夏からさらに十年が経った。いくつかの強く心に残った作品のことはたびたび思い出し、読みかえしてもいた。その一篇である「月の光」(が収録された『ボッコちゃん』)をまた開いたのは、プルーストの『失われた時を求めて』十巻、『囚われの女 Ⅰ』を読んだからだ。語り手が恋人のアルベルチーヌをともなって移動をつづけていた前巻と打って変わって、本巻では、その題のとおり、〈私〉がアルベルチーヌを自宅に軟禁して、ともに過ごした数ヶ月が描かれている。前巻までにアルベルチーヌの同性愛傾向への疑念を深くした〈私〉は、彼女と結婚する、と母親に表明して、パリの自宅に連れ帰る。〈ペット〉と違って饒舌な言葉をもつはずのアルベルチーヌも、表面上は抵抗を示すことなく軟禁を受け入れる。

 語り手は、アルベルチーヌのことを、地の文で〈恋人〉と呼びあらわしつつ、口では〈アルベルチーヌに迷惑がかからないように自分はその恋人ではないと言〉い、彼女を〈愛している〉とか〈愛していない〉とか、矛盾した思考を繰り返す。〈私〉とアルベルチーヌ、〈私〉の指示で外出時のアルベルチーヌの監視役を演じるアンドレ、そしてシャルリュス男爵とその寵愛を受ける美青年モレルの間で、たびたび矢印の向きを変える嫉妬。愛してないといいつつ執着し、恋人じゃないといいつつ愛着をしめす。矛盾と見栄と欲求と、本巻で主題となっているのは、この、恋愛における、複雑に絡まりあう感情の揺らめきだ。

 語り手は、アルベルチーヌが不在のときのほうが、彼女について自由な思考を巡らせられると考える。しかしそのとき彼女は同性愛の相手のもとに走っているかもしれない。アルベルチーヌが目の前にいればその心配はないが、彼女との触れあいに意識が向いて、思索に耽ることはできない。だから彼は、アルベルチーヌの寝顔を見ているとき、いちばん心やすらかに彼女の存在と向き合える。「アルベルチーヌが眠ってしまうと、私はもはや話しかける必要がなく、相手から見つめられていないことがわかるので、自分の表面だけで生きる必要がなくなる。」そして彼は、アルベルチーヌの寝姿を仔細に描写する。

 また、あとがきで訳者が指摘しているように、アルベルチーヌは、接吻の描写を介して〈私〉の母親と重ね合わされている。語り手は、社交界では〈問いと答え以外の何者でもな〉い女性たちが、社交界の外では〈疲れた老人にとって心を鎮めてくれるもの、つまり観照の対象となる〉とも考える。アルベルチーヌ(に代表される女性)は、〈私〉が自己のうちに沈み込み、深く思索するためのきっかけとして描かれている。本巻はこうやって、語り手の、アルベルチーヌとの距離を測りつつ二人の関係を考える一日の繰り返しとして展開されていく。

 本巻ではまだ、(二つ次の巻の『消え去ったアルベルチーヌ』という題で示唆されているような)二人の関係の終わりは描かれず、甘やかな停滞をたもったまま、語り手の〈心の平穏〉が、〈私が芸術に打ちこむのを可能にしてくれるはずの自由〉が、ほどなくして失われることになる、という不穏な予言で閉じられる。

 語り手は、生活をともにするようになるまで彼女の語彙になかったはずの言葉を口にするアルベルチーヌを前に、こう考える。「ぼくはアルベルチーヌみたいには話さないが、しかしぼくがいなければアルベルチーヌだってこんな話しかたをしていないだろう、きっと心底ぼくの影響を受けているんだ、だからぼくを愛していないはずがない、あの娘はぼくの作品なんだ」。この述懐を読んで、私は「月の光」を思い出したのだった。赤ん坊のころに少女をもらいうけた〈主人〉は、プルーストの語り手と違って、自らを疑うことなく彼女のことを愛していた。そしてそれゆえに彼女は死んだ。

〈私〉はアルベルチーヌと夕食をとりながら、その〈悲しげなうんざりした表情〉を見て、こう述懐する。「残念なことにアルベルチーヌはわが家で牢獄にいる気分だったようで、ラ・ロシュフーコー夫人がリアンクールのような美しいところに住んで嬉しくないのかと訊ねられて「美しい牢獄などありません」と答えたときと同じ意見であったらしい」。「月の光」の〈ペット〉が言葉をしゃべれたら、彼女は何と言っただろう。


Commentaires


© 2020 by Ryo Mizuhara. Proudly created with WIX.COM
bottom of page