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黄色い本 2024.9.8~2024.10.29

9月8日(日)雲の多い晴。

 ここ数日、首の痛みが響いての頭痛が続いていた、のだが、昨夜は姿勢よく寝ていられたのか、やや首痛が改善、頭痛も少しはマシになった。

 ベッドのなかで、ひらりさがnoteに公開していた日記「8月27日〜31日 ホストと漫画編集の共通点」を読んでいたら、こういう記述があった。スナック「今夜のママは」の主宰であるみづきという人に誘われて寿司屋に行ったときの会話。

 

みづきさんと、元マンガ編集である友人と3人で行ったので「ホストとマンガ編集は似ている」という話で盛り上がった。どちらも担当と呼ばれるというシンプルな話ではなく、「複数人の客/作家を受け持つが、常に『あなたが最優先です』という態度を取る必要がある」ところが似ている、というのが友人の弁で、なるほどなと思った。

 

 上手いこと言うなあ、と思いつつ、しかし私は編集者に、あなたが最優先です、みたいな態度を取られた記憶がない。オンラインミーティングで会話の途中でいきなり通信を切られたり、書き下ろしの長篇原稿を「忙しいんで」と丸一年放置されたり、単行本化の企画を「来週の会議に出してみるね」という言葉を最後に連絡を無視されるようになったり。そういう、〈最優先〉どころか、あなたを軽視してますよ、というメッセージを送られることがここ数年増えてきたので、ここの記述はどうも、少なくとも私の感覚とは違うな、という感じ。

 しかし考えてみれば、ホストが実際に〈あなたが最優先です〉という態度を取るのは太客に対してだけで、貢いでくれない客には塩対応をするものだ(というイメージがあるだけで、ホストクラブに行ったことはない)。編集者も会社員として成果を求められているのだから、稼がせてくれる書き手の対応が重要で、そうではない者には良い顔をする必要もないのだろう。

 いずれにせよ、ホストと客では圧倒的に前者に事態の主導権があるもので、客としてはもう、ホスト通いをやめる以外には、その担当のことは諦めるか、あるいはしっかり貢ぐしかない。私はやめる気も諦める気もなく、それならけっきょく、バンバって良いもの書くだけだ。

 昼に散歩。大学図書館で働いていたころの通勤ルートへ。三分の一ちょい行ったところで脇道に逸れて、はじめて歩くところに迷い込む。ウロウロして大通りに出てまた住宅街に入り、ジグザグに曲がって徘徊する。退職以来、二年半ぶりに歩くところも。工事中だった家に車や自転車、枯れかけた鉢植えなんかの生活があったり、薄汚れていた外壁が塗りなおされていたり、拙いピアノの音が聞こえていた家が駐車場になっていたり。二年半は街が変わるのに、長くはないが十分な時間だ。

 帰宅して読書、古田雄介『バズる「死にたい」』(小学館新書)を読んだ。本屋で見るまで知らなかった本だけど、良かった。自殺した人や自殺願望を抱く人のブログやSNSを大量に読み込み、彼らが自死に引き寄せられた経緯を類型化、それらのアカウントを見ることが人におよぼす影響についての分析。新書にしては異例なほど著者の私性が前面に出てきていたのだが、その、百四十三人の希死念慮を読み込むことで著者自身に起きた心の揺らぎ、こそが本書の読みどころだった。

 そのあと論文をひとつ。最近、毎日論文をひとつ読む、というのをやっている。学部生だったころも毎日ひとつ読んでいた。今日で四日連続で読んだので、学生時代の連続最長記録を超えたことになる。

 

9月9日(月)雲の多い晴。

 起きてバナナミルクを飲み、散歩に出。ずいぶん空腹で、なんか食いたいな、と思いながら歩いていたら、最近できた、まだいつが定休日か把握してないパン屋さんが開いている。バゲットや食パンは冷凍庫にストックしている、のだが、今こうしてパン屋が開いてるのを知った高揚を無視したくない!と思って、神楽坂駅改札まで行った帰りに寄る。買いすぎた。

 昼まで根を詰めてしまい、くたびれたので散歩に出。近所をぐるぐる回り、スーパーに行き、自販機でセブンティーンアイスを調達。あまりの蒸し暑さにがまんできず、セブンティーンの横の自販機でリアルゴールドも買ってしまう。リアルゴールド、小学生のころ通ってた市民プールの水泳教室で、終わったあとロビーの自販機で売ってるのを毎回親にねだり、けっきょく一度も買ってもらえなかった、という原体験のせいで、いまだにちょっと特別な飲みものになっている。しかし今の私は誰にも断らずに飲めるのだ。

 帰って午後の作業、と思ったが、買ってきたものが入らないので夕食の揚げ浸しを作りはじめる。三十分ほど。そのあと夕方まで作業して、オルタナ旧市街『踊る幽霊』(柏書房)。文章が上手い。東京で働く著者が関東のあちこちに行って何か見ていろいろ考える、というエッセイなのだが、ディテールというか、脇道にフッと目をやったときに見えるもの、の描写の一つ一つの解像度が高い感じ。全体に文章のトーンが、ドライで饒舌、べつにニコニコはしてないが全体に機嫌の良いかんじがして、読んでて心地よかったな。

 

9月10日(火)雲の多い晴。朝食はウーバーイーツの朝マックを食う。散歩はせずに始業した。

 けっきょく一日、図書館までの往復以外に出歩かず。しかし屋内でも屋外でも暑く、ほんの数分で熱中症になりそうだった。日が翳ってようやく過ごしやすくなる。

 夜、肉とピーマンを焼いて食いながらBリーグプレシーズンマッチ、土曜の群馬対渋谷を観。どうも強度の低い試合だった。群馬がメンバーも少ないしいまいち連携が仕上がっておらず、ホームなのに良いところ少なく負けた。まあプレシーズンマッチというのはこういうもんですね。

 

9月11日(水)晴。朝から頭痛首痛、療養日とする。しんどくて今日は散歩できない!と思ったが、無理やり出てみたら案外歩けた。

 帰宅後、あちこちにせんねん灸の火の出ないやつを貼り、首にロキソニンテープを貼り。三島由紀夫『禁色』(新潮文庫)を起読した、が、頭痛で何も頭に入ってこず。一昨日の揚げ浸しを白米に乗っけたもの、を食って昼食として、また無理やり散歩に出。一時間ほど歩いた。

 帰って水シャワーを浴び、三十分ほど横になる。かなり楽になって、あらためて『禁色』を最初から。夕方までに半分ほど。

 夜に二、三分走って、焼売を蒸して麻婆茄子を作る。食いながらバスケットLIVEで三遠対三河。とにかく三遠が強い。

 

9月12日(木)朝に雨、あとは晴。朝から頭痛首痛、今日も療養日。

 昨夜の麻婆を食って散歩に出た、ら、ちょっと歩いたところで雨が降り出す。それでも十五分ほど歩けたかしら。

 帰って『禁色』を進読。だんだん薬が効いてきて、文章が頭に入ってくる。安心しつつ夕方に読了。長かったな……。

 あとは論文や資料読み。夕方にちょっと外を走る。帰りしなに買ったセブンの惣菜とオリオンビールのノンアルを飲みつつ、Bリーグプレシーズンマッチ、福岡対香川を観。福岡のジョシュア・スミス(推し)が先発! うれしいなあ。しかし両チームの試合を観るのははじめてなもので、スミス以外の選手やチームのスタイルを知らず、プレシーズンマッチということで強度も低めで、試合としてはあんまり見所が少ない。しかし三部リーグのチーム相手とはいえ、この感じだとスミスはけっこう、二部リーグで活躍してしまうのではないか。

 

9月13日(金)晴。今日も頭痛首痛。腰から背中、肩から胸、がすべて痛く、身体を動かすだけでつらい。三十歳になるころまで一度も肩が凝ったことがなかった、し、それ以降も、おれは肩こりとは縁遠い体質!と思っていた、のだが、これはもう現実と向き合って、なんとかしないといけない気がしてきた。

 今日もロキソニンを服薬、散歩。外を歩くことで身体が温まり、多少は楽になった、が、読書をしようにも今日はロキソニンがいまいち効かず、頭が回らない。午後まで伏せる。

 二時過ぎに白米を食い、無理やり散歩に出。一時間弱歩く。歩いてる間はものを考えられる。帰宅、水、お湯、水、お湯、水、のシャワーを浴びてまた伏せる。

 それでも日々のルーティンとして、仕事の資料や論文を読みはできた、から、今日の成果はゼロではない。何はともあれ。いまはダメな波が来ているだけだから、いずれはまた良くなる、と信じて休む。

 夕方、ムクリと起きて料理。朝のスーパーで、今日が賞味期限の鶏むね肉(半額)を買ったので、使い切らなきゃいけないのだ。長谷川あかりレシピで鶏と茄子の柚子胡椒グリーンカレーにする、つもりだったのだが、そういえば茄子は麻婆茄子で使い切ってしまった、と思い出し、最寄りのスーパーに買いに行く。それから料理。一時間弱、無心になれて良かったな。

 食い終わってももくもく読書。そのあと古川真人と電話。眠気がひどくて途中からベッドに移り、一時間ほど話す。終わったあとは起き上がりもせずそのまま寝。

 

9月14日(土)晴、猛暑。ぐっすり寝て、首も頭もだいぶマシになった。炎天下を一時間ほど散歩。アイスを食って身体を冷やし、読書。

 午後二時にまた散歩、朝よりさらに暑いなかを一時間ちょい。汗まみれで帰宅、水湯水湯水のシャワーを浴び、サーキュレーターの微風を浴びてととのう。そのあとは寝るまで読書。

 

9月15日(日)晴、夜に雨。一日引きこもる。午前のうちにバスケを一試合観。

 そのあとちょっとウトウトして、ムクリと起きて昼食。食いながらYouTubeで先週土曜日(日本での配信は日曜)の琉球ゴールデンキングス対トラパニ・シャークを観。琉球が、シチリア島のクラブであるトラパニに招待されてミニトーナメントに出場したもの。知らないアリーナ(実際にはきたえーるしか行ったことないが)の試合を観るのは楽しい。

 夜はウーバーイーツの寿司と貢茶で夕食として、食いながらダラダラとバスケ動画を観。観ながら衝動的に、ルーブル美術館の青いカバのぬいぐるみを買う。ルーブルの収蔵品である陶器の青いカバは古代エジプトでは神聖な存在で、王族の副葬品として出土したものだそう。現地で買った人のツイートを見て、ふと思い立ってルーブルのHPにアクセスすると、ネットストアで発送先を日本に設定できた、のでつい注文してしまう。日本語には対応してないので、英語版のサイトをがんばって読み、送り先住所とかもアルファベットで入力して、もちろん支払いも(クレジットカードですが)ユーロで。生まれてはじめてルーブル美術館で買いものをした!生まれてはじめてユーロで買いものをした!と、実際にはベッドに寝そべって指を動かしてただけなのだが、なんだか達成感があった。

 

9月16日(月)曇。九時ごろに目が覚め、ベッドで読書。十時過ぎにようやく起きて、月餅を食う。

 昼ごろ散歩に出。中一日ですが久しぶりの外出、という感じ。近所の書店で、さかぐちまや『犬を揉む』(KADOKAWA)というたいへんに良い表紙のエッセイ漫画をジャケ買い。

 帰宅して読書。夜までに文章の本を二、三冊読んで、気分転換に『犬を揉む』も。たいへんに面白かったな。書店でジャケ買いするのもケラケラ笑いながら漫画を読むのも久しぶりだった。あとは『チボー家』日記をアップして、今日の日記を書いて風呂。

 

9月17日(火)快晴。一歩も外に出ず作業の日。捗った。

 夜は米を炊いて麻婆茄子を作り、食いながら資料読み。日付が変わるころまでもくもく読んで脳がしおしおになった、が、なんとか歯磨きと洗いものをやっつける。

 

9月18日(水)晴。今日も今日とて首痛頭痛、午後歯医者なのでややナーバス。ということで、起床即ウットを服薬。昨日の麻婆茄子の残りを食ったあたりで、副作用でウトウトする。そのあと散歩に出た、が、まだ副作用が出て、ちょっと四肢に力が入らない。ナーバスな気持ちはかなり軽減されている、のだが、歩くスピードも出ない、ので、もう短距離にして、図書館に行くだけにした。

 頭痛が強まってきたのでロキソニンも服薬。昨日届いた鎮痛湿布を首から肩にかけて、三ヶ所に貼りもした。

 書きものはできなさそうだから資料読みを、と思ったが、どうも頭に入ってこない。時間切れのようなかんじで歯医者へ。今日はクリーニングの日。上の左側の歯茎が全体的に腫れていて、すごい血が出ますねえ、と言われる。すごい血を出したおかげかロキソニンが効いたのか、ナーバスの原因をやっつけたからか、そのあとはかなり頭痛が楽になって、ザッとシャワーを浴びて読書。

 キムチ炒飯を食いながらYouTubeで、琉球対デルトナ・バスケットを観。痛みとナーバスと副作用に耐えた一日の疲れで、試合が終わってすぐ、まだ九時台なのに寝た。

 

9月19日(木)曇。十時間くらい寝たのだが、首の痛みは寝る前より強まっている。昨日のロキソニンが切れたのか、寝る姿勢が悪かったのか。首の可動域、上下に五度くらい。ものを飲み込むだけで首の後ろが痛む。食道の動きで患部が圧迫されているのか、嚥下につかう筋肉が傷んでるのか。

 昼、図書館の本を持って散歩に出。今日は休館日だった、が、ちょうど館員さんが返却ボックスに溜まった本を回収していた、ので手渡しで返却。

 一時間ほど歩いたあとは夜まで集中。夕食に蕎麦とウインナーを茹で、大量の千切りキャベツやトマトといっしょに貪る。身体を縦に保つのもしんどいくらいの体調でも仕度ができる、ので最近よくこの組み合わせを食べていて、いちおう肉と野菜を摂ってはいるのだが、どうもエサという感じがする。

 

9月20日(金)快晴、猛暑。町屋良平『私の小説』(河出書房新社)の書評を依頼されていて、町屋作品を改めて最初からぜんぶ読んでいる。今日は『ほんのこども』(講談社)を起読した、が、しかしどうも、首が痛くて本にのめり込めないし、椅子に座ってちょっと俯く、という読書の姿勢をとるのも苦痛、ということでエイヤッと最寄りの整体院に電話。もし空いてればもう、五分後とかでもすぐ行きますので……と言うと、その時間の短さに何か必死さを感じたのか、じゃあ十五分後に、と言われる。

 たしかに首や肩がものすごいけど、それより内臓、胃がたいへんなことになっている、とのこと。冷たいものばっか飲んでたり、暑いからって辛いものやこってりしたものを食べてたり、長すぎる夏の負荷で参っているそう。胃をはじめ内臓というのは左右非対称だから、そのダメージを庇う身体も左右非対称に力み、さらにデスクワークの猫背と姿勢のこわばり、それらが複合的に重なって、首の骨がゆがんでいる。そして首の痛みは首につながる筋肉全体に広がり頭痛になっていく。だから、もちろんマッサージで首や肩の凝りをほぐすことはできるのだけど、それはあくまでも一時しのぎにすぎず、原因である胃腸のダメージをケアしてあげないと、またすぐにぶり返すことになる。

 ということで、より内側にアプローチできる鍼灸治療を受けることになった。これまで鍼灸は松波太郎さんの豊泉堂でしか受けたことがなかった。ここの先生は松波さんとはちょっと流派が違うらしく、進めかたがけっこう違った。

 胃の負担を軽減するために、あたたかいものを飲み、さっぱりしたものを食う、足は心臓からいちばん遠いから、足を動かせば全身に血が回る、だから歩くといいですよ、忙しくても散歩を日課にしていただいて、と言われて、一日に一時間くらい散歩してます、と返す。先生は、きっと身体に歩かされてるんでしょうね、と頷いた。

 一時間の治療で、ケロッと治りはしないのだけど、かなり気分転換にはなった。朝はものを飲み込むだけで痛んだ首も、液体なら痛みを感じなくなった。ホッとして改めて『ほんのこども』。めちゃくちゃ面白く、興奮しながら読む。とはいえ、あれこれメモを取りつつ、休憩もしつつで、夜までかかった。これまでの作品から雰囲気を変えて、そういうものを書いてきた〈町屋良平〉という筆名の小説家が、小説を書くことと自身の来歴と暴力とホロコーストの記憶、という複数の大テーマを直列させる、という力業をやっている。難解難解。いちばんの主題は、小説を書くという思考法、についてだと思う。小説を書き進めながらある主題について考察する、という小説はけっこうあるし、本作も一見、組織的暴力、というのがその主題のように見えるけど、書き手/語り手の関心はむしろ、そうやって考えている自分、にある。

 日付が変わるころに読み終えて、そのあとどうも寝付かれず。けっきょく三時ちかくまで起きている。

 

9月21日(土)曇。一日作業。夜、長谷川あかりレシピでイワシの和風カレーを作る。イワシを四尾、なめろうみたいに叩く工程があり、たいへんマインドフルだった。食いながらバスケの天皇杯、福岡対岐阜。

 

9月22日(日)曇一時雨。一日作業。夜、ウーバーイーツで頼んだドミノピザを食いながら今日もバスケの天皇杯、秋田対福岡を観。しかしどうも眠気がすごく、後半途中で寝てしまった。

 

9月23日(月)曇。昨日のピザで胃もたれしていて、朝は食べず、昼ちかくにシャインマスカットを食い、水餃子を食い。書評対象作の町屋良平『私の小説』(河出書房新社)を読んだ。細かくメモを取りながら、一日かける。

 夕方、空腹のあまりまたウーバーイーツ、ケンタッキーの月見のやつを頼む。届く前に、と走って図書館へ行き、一昨日が期限の本を返却ボックスに放りこみ、また走って最寄りのファミマに行ってドデカミンの引換券(今日まで)を使い、炭酸なので帰りは歩きで。家に着いた直後にインターフォンが鳴り、ケンタッキーが届いた。テンポの良さ。

 部屋着に替えて食いながら、バスケットLIVEで九月十五日の川崎対横浜BCを観。たいへんに良い試合、というか、さすがにB2やB3に比べるとレベルが高い。面白かったな。

 

9月24日(火)曇。ケンタッキーで胃もたれしていたので朝は食べず。昨日と同じだ。今日の作業のために資料を整理してから、遅い午前に食事、具だくさんのおにぎりとスープ。それから始業。

 ここ一ヶ月町屋作品を読みながら書きためてきた大量のメモを見返して起筆。昼の散歩もせず、郵便受けまで降りただけで、午後ももくもく進筆、六時ごろ仕上げた。

 送稿して、やきそば弁当とキリンガラナという北海道っぽいものを食う。そのあと終わったあと外に出て、図書館(休館日)の返却ボックスに本を放りこんだ。

 帰宅してしばらく読書して、さっき出たときあまりに気持ちの良い涼しさだった、ので、もう一度出。一時間ほど歩く。

 

9月25日(水)午前は曇、午後に雨。昨夜は久しぶりに空調を切って、窓を開けたまま寝ていた。やや肌寒い目覚め。

 寝ぼけまなこでTwitterを見ていると、杉田俊介が昨夜、こうツイートしていた。

 

病で倒れたおかげで、というか、かつて購入したけど読めていなかった本たちをいろいろと読めている。ありがたい。このまま、焦らずに、地道に読書を続けて時間をかけて、念願だった大きな思想書の準備をしよう、と思いはじめている。生活費の問題もあるけれど、まあ、なんとかなるだろうと思おう…

一年か二年、ひたすら勉強しようかな…

 

 これを読んでちょっとジンときたのは、鬱を患った氏が、〈散歩も体力的につらく、読書もだめ、音楽もだめ、映画もだめ、ゲームもだめ、漫画がかろうじて。〉と四月二日にツイートしていたのを見ていたからだ。入院中の六月九日のツイートには〈暇と退屈と無為にどう抗うか。将来の不安はなるべく考えないことにする。〉ともある。鬱というのは将来へのあらゆる楽観を奪われてしまう病だ。一時は日々希死念慮に耐えていた氏が〈まあ、なんとかなるだろう〉と、そうしようと意識してではあれ楽天的な言葉を書いているのは、我が身に重ねてけっこう感動的だった。

 一時間弱散歩して、昨日までの書評作業で散らかった資料類を片付ける。書評対象作の著者が寄稿した雑誌やアンソロジー、の、ほかの人のテキスト、という、この仕事をしなければ読まなかったかもしれないものが読める、のが、書評仕事のあとの楽しみのひとつ。『飛ぶ教室』とか『ELLE』の羽生結弦特集とか。昨日までバンバったし今日締切の日本海新聞のコラムは先月書いている(!)ので、今日はノンビリ作業する。

 そろそろ昼の散歩に、と思って外を見たら霧雨が降っていた。雨の日は散歩をしないことにしている、のだが、図書館に今日返さないといけない本がある、ので傘をさして出。図書館まで往復しただけの短距離散歩をして、そのあとももくもく作業。低気圧でやや具合悪く、首の筋も痛むのを耐えつつ。

 それから三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を起読。明治から現代の労働史、読書史をザッとたどりながら、題の問いを考察する。まえがきの、〈最初に伝えたいのが、私にとっての「本を読むこと」は、あなたにとっての「仕事と両立させたい、仕事以外の時間」である、ということです。〉(P.19)に本書が成功した要因が表れている。つまり本書の対象はべつに、読書好きに限らない、ということだ。このあとに列挙されているのは語学とか推し活、旅行や家族との時間、自炊、創作とかで、要は、ワーカホリックではないすべての人たちに向けた本ですよ、という表明になっている。

 この日記を書いてる今は第一章まで読んだところ。しかしどうも、読んでいて、エッどういうこと、みたいなところがちらほら。たとえば氏は、明治時代に登場した図書館が日本人に近代的な読書週間をもたらした、とする、図書館史研究者・永嶺重敏のテキストを参照しながら、こうつづける。

 

 好きな本を、好きなだけ借りることができる。それが図書館の高揚だった。しかし永嶺いわく、明治時代の図書館の利用者の大半は学生にとどまっていたらしい。

 明治時代の文学を読むと、たしかにその様子はうかがえる。たとえば夏目漱石の『三四郎』(1908年)には東京帝国大学の図書館が登場する。

P.37-38

 

 としたうえで、三四郎が大学図書館で借りては返す、一ページほどの場面を引用する、のだが、大学図書館の利用者の大半が学生なのはあたりまえではないか。

 ちょっと論文を探してみれば、明治十一年の新潟書籍館の来館者は三八五七人いたがみな新潟師範学校の生徒だった、というwebで読める報告も見つかった。『三四郎』ではなくそういう研究を参照すればいいのに、と思ったが、三宅は〈私はなんともこの場面が好きなのだ。〉(P.39)ともいっていて、推しを布教する感覚で、単に好きな場面を紹介したかっただけ、なのかもしれない。あとはこういう記述。

 

 ちなみに、地方の各町村に図書館が登場するのは、大正時代まで待たなくてはいけなかった。日露戦争後の地方改良運動によって、日本の地方の図書館は飛躍的に増えた。とくに地方にも各町村に図書館をつくることが決まってからは、なんと日本の図書館の数は10年間で4倍にもなった。「特定階級のための図書館ではなく、町村部の一般庶民のための図書館」の登場──大正時代になってはじめて、階級や地域に関係のない読書の習慣が広まる。だが、明治時代、まだ読書はインテリ層の男性のものだった。

P.40

 

 図書館の数が飛躍的に増えたこと、と、町村部の庶民への読書習慣の広がりを直結させて論じてるけど、図書館でしか読書はできないというもんでもないでしょう。明治三十三年の文部省編纂『図書館管理法』では婦人室の設置について書かれてもいる。たしかに図書館の利用者は都市部のインテリ層の男性が中心だった、が、どうも、想定してる結論に合致しない要素をバッサリ捨象しているような。私が(自分でも忘れがちだけど)司書資格を持っていてちょっと図書館に詳しい、のでこういう粗が目に付きやすいだけか。とはいえまあ、新書というのは大づかみな議論を丸呑みするマインドで読むものだ。

 

9月26日(木)朝曇、昼晴、夜曇。

 十時から歯医者。麻酔をしてくれたのだがたいへんに痛く、しかし途中で寝てしまい、お口あけてくださーい、と何度か言われた。寝不足とウットの副作用のせい、とはいえ、歯をガリガリされながら寝るかよ、と思ったが、しかし私はもともとそういうふてぶてしい人間だったような。

 編集者から昨夜(深夜〇時十七分!)送られてきたメールの返事を書いてから始業。べつに夜中のメールは不快ではない、のだが、その働きかたで、というかその働かせかたで大丈夫?となる。最近編集者とのやりとりで、なんというか成果を挙げることに汲々としている、そのことを隠さない人が増えてきた気がしている。編集部の人数が減ったところもあるし、まあ私が何かできるわけではないのだが、みなさん無理なくバンバってほしい。

 午後、北海道新聞のコラムのためにジル・クレマン『第三風景宣言』(笠間直穂子訳、共和国)を起読。アンカットの装幀をされている、のでペーパーナイフを片手に。テキスト自体はそう長くないのだけど、数ページごとに紙を開いていたのでやや時間がかかる。夕方読了。寝不足もあって頭痛がするので今日はコラムは書かない。

 

9月27日(金)小雨。朝から具合悪く、テイラックとウットを服薬。十一時から整体。

 今日はできるだけ運動はひかえてください、と言われたことだし、小雨が降り続けてるので昼の散歩はせず。昼食の仕度をして食い、夕食用にゴーヤとズッキーニの味噌漬けを仕込む間、ちょうど一時だったので自民党の総裁選のLIVEを流す。一人ずつ名前を呼ばれ、壇上で投票券を受け取って記載台で書き、投票箱に入れ、控えてる選管に一礼。三百六十八人の、統一教会、裏金、パワハラ、一人とばしてエッフェル塔、みたいな名前がぞくぞく呼ばれる、地獄のようなBGMを聞きながら、北海道新聞のコラムを書く。高市、石破の決選投票になったときはもう、極右の差別主義者が首相になってしまう……と絶望した、が、まだマシな結果だった。とはいえ石破さんなら十全、というわけではまったくなく、発言を振り返れば私とはかなり思想が違う。同郷でもあるし、せめて良い政治をしてほしい。

 総裁選の配信が終わるころ、私のコラムも書き上がる。しめきりまで寝かせることとして読書。夏目漱石『門』(集英社文庫)を読む。三宅香帆が『なぜ働いていると』のなかで参照していたもの。三宅は、明治期のインテリ層が自己啓発雑誌をどう見ていたか、という文脈で、主人公の宗助が歯医者の待合室で順番を待つ場面を参照していた。三宅が引用していたのはここ(三宅は『漱石全集』を、私は集英社文庫版を参照してるので、一部表記が違う)。

 

宗助は大きな姿見に映る白壁の色を斜めに見て、番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、洋卓の上に重ねてあった雑誌に眼をつけた。一、二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰返して眺めた。それから「成効」という雑誌を取り上げた。その初めに、成效の秘訣というようなものが箇条書きにしてあったうちに、何でも猛進しなくってはいけないという一ヶ条と、ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないという一ヶ条を読んで、それなり雑誌を伏せた。「成效」と宗助は非常に縁の遠いものであった。宗助はこういう名の雑誌があるということさえ、今日まで知らなかった。

集英社文庫 P.74-75

 

 三宅は、宗助が〈成功〉の二文字を〈縁の遠いもの〉と考えるのは、〈宗助のようなインテリ層からして、実学のヒントや成功の秘訣を説く明治時代の空気感が、ひどく遠いものだと思えるということだろう。──ここに、明治時代の働く男性間の階級格差を見出すことができる。〉(P.52)と指摘している。〈自己啓発的な雑誌を「そんなものがあることすら知らなかった」と、ひややかな目で見るエリート男性。……これはまさに現代でもしばしば見られる現象ではないか。〉(P.52)とも。このまとめに何か恣意的なものを感じて、『門』を読むことにしたのだった(図書館についてのところでもそうだったけど、ロジックが飛躍するところに必ずダッシュや三点リーダーが置かれている、から、著者もその恣意性は自覚してる気がする)。

 どこに引っかかったのか、と考えると、①宗助という人物は当時のインテリ層やエリート男性を代表させられるような存在なのか?というところ。仮にそうだとしても、②宗助がこの雑誌を知らなかったのは明治の空気感と遠かったからなのか、③〈インテリ層〉や〈エリート男性〉が自己啓発書(雑誌)を見下すのは現代でもあることなのか、というあたりかしら。

 ③については、三宅が参照したレジー『ファスト教養』(集英社新書)の記述が前提になっている、し、私自身ちょっと(私がエリートかどうかはともかく、大学院まで出たのだからインテリではあるといっていいでしょう、たぶん)、たとえば西野亮廣とかの本を愛読する人をばかにしている。しかし明治時代のインテリ層が自己啓発的な雑誌へ向ける眼差しと、現代のインテリ層が〈ファスト教養〉へ向ける眼差しは、果たして同じものなのか? いずれにせよ三宅は、〈「自己啓発書」をめぐる日本の階級格差の物語は、明治から令和に至るまで、ずっと再生産されている。〉(P.52)として、本書の議論の出発点にしている。

 ④宗助はこの雑誌を冷ややかな目で見ているのか、というのも疑問だ。三宅は宗助が、雑誌の箇条書きの二つを読んで伏せた、というところまでしか引用していないが、そのあとで宗助は再び『成効』を手に取っている。

 

宗助はこういう名の雑誌があるということさえ、今日まで知らなかった。それでまた珍しくなって、一旦伏せたのをまた開けて見ると、ふと仮名の混じらない四角な字が二行ほど並んでいた。それには風碧落を吹いて浮雲尽き、月東山に上って玉一団とあった。宗助は詩とか歌とかいうものには、元からあまり興味を持たない男であったが、どういうわけかこの二句を読んだときに大変感心した。対句がうまく出来たとか何とかいう意味ではなくって、こんな景色と同じような心持ちになれたら、人間もさぞ嬉しかろうと、ひょっと心が動いたのである。宗助は好奇心からこの句の前に付いている論文を読んでみた。しかしそれはまるで無関係のように思われた。ただこの二句が雑誌を置いた後でも、しきりに彼の頭の中を徘徊した。彼の生活は実際この四、五年来、こういう景色に出逢ったことがなかったのである。

集英社文庫 P.75

 

〈まるで無関係〉なのは、宗助と論文、なのか、詩句と論文、なのか、どちらとも取れるような書きかたではあるが、ともあれ宗助は、ほんの二行の詩に心を動かされている。(ほかに女性向けの雑誌しかなかったとはいえ)一度閉じたのを改めて手に取り、収録されている論文をひとつ読み、再び閉じたあとも詩句を反芻している宗助は、この雑誌を〈冷ややかな目で見〉ているだろうか。

 集英社文庫版『門』の註によると『成功』は実在の雑誌で、〈当時、立身出世を志す青年に多く読まれた〉(P.278)のだという。三上敦史は〈サブタイトル「立志獨立進歩之友」が示すように、苦学生と地方青年、すなわち正規の学校階梯、なかんずく旧制中学校から始まるエリート養成の系を進み得ない青年たちを主たる対象としていた点にきわだった特徴を持つ〉(「雑誌『成功』の書誌的分析 ─職業情報を中心に」(『愛知教育大学研究報告 教育科学編 61』P.107))と説明している。旧制中学校の生徒は男子だけだったから、男性向け、ということなのだろう。黎明期の図書館の婦人閲覧室の蔵書は一般の(男性用の)閲覧室とは違っていた、というのを何かで読んだことがある。当時はそれくらい、性別によって読むものも違う、と考えられていたということだ。そして三宅が引用した箇所の直前には、待合室にいる宗助以外の三、四人の患者は〈みんな女であった〉(P.74)と書いてあった。女性患者の多い歯医者の待合室に、婦人用の雑誌に紛れて男性向けの雑誌が置かれていた、と考えると、『成功』はかなり人気のある雑誌だったのだろう。宗助は役所勤めで忙しいよう(仕事中の場面はなく、退勤時に寄り道するところが何度か描かれるだけ)だが、刻苦勉励、という感じではない。生まれつき頭が良く、京都大学の学生だったころも真面目に勉強をする気にはなれなかった、とある。〈彼はただ教場へ出て、普通の学生のする通り、多くのノートブックを黒くした。けれども宅へ帰って来て、それを読み直したり、手を入れたりすることは滅多になかった。休んで抜けた所さえたいていはそのままにして放っておいた。彼は下宿の机の上に、このノートブックを奇麗に積み上げて、いつ見ても整然と秩序の付いた書斎を空にしては、外を出歩いた。〉(P.176)たしかに、宗助は『成功』の読者層からははっきりと外れている。ということで、②も妥当、なのだろう(しかし、三宅はこの場面を参照して〈明治時代の立身出世を目指す男性たちを、自分とは異なる階級の人間であると感じ〉(P.52)ている、と書いているが、この場面(や『門』全篇)からわかるのは、宗助は成功目指してハードワークするタイプではなく、そういう人向けの雑誌に興味がなかった、ということだけで、階級云々まで読み取るのは無理があるだろう)。

 となるとやっぱり①の、そもそも宗助は当時のインテリやエリートを代表させられるような人間なのか、ということになるのだが、『門』を読んだ感じ、とてもそうは言えないのでは、となった(そのつもりで書いたんだよ、と漱石がどこかで言っているかもしれないが、私の印象として)。宗助の実家は羽振りが良かった。育ちは良かったし、京都大学に入るまではエリートコースに乗っていた。が、大学で出会った親友・安井の恋人であるお米を寝取ったことで人生が一変した。中退して、実家にも戻れず地方都市(広島や福岡)を転々とした。その途中で父が死に、裕福だと思っていた実家の財産が案外少なく、それどころか〈無いつもりの借金がだいぶあった〉(P.40)ことがわかった。不動産を含む遺産の始末を叔父に任せた、のだが叔父はその資産の運用でしくじった。けっきょく宗助の手元に大した金額は残らなかった。そのうち半分は弟・小六の大学までの学費として(小六を引き取ってくれた)叔父に預けた、が、小六はまだ高等学校に通っているのに、叔父が亡くなったあと叔母に訊いてみたところ、あんな金額じゃ大学までは足りない、と言われて、けっきょく小六の学費も工面しなければならない。雨漏りのする借家住まいの夫婦の会話は金策のことばかりで、飢えるほどではないにせよ、宗助は穴の空いた靴を買い換えるのも躊躇っている。福岡にいたころ、学生時代は懇意にしていた、のちに高等文官試験に合格して〈ある省に奉職してい〉(P.46)る杉原という男と会ったときも、〈失敗者としての自分に顧みて、成効者の前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った〉(P.46)。その杉原の紹介で上京して公務員として働いている現在も、腰弁、つまり安月給の下級官吏を自称している(P.28)。〈学校を中途でやめたなり、本はほとんど読まないのだから、学問は人並みにできないが、役所でやる仕事に差し支えるほどの頭脳ではなかった。〉(P.143)と自認する宗助は、来年度に行われるというリストラの対象になるかもしれないと思い、〈自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今もなお課長として本省にいないのを遺憾とし〉(P.46)ている。育ちと地頭が良く名門大学まで進んだ、というところまでは、インテリ予備軍だしエリートコースにも乗っていた。しかし恋愛沙汰で中退して以降は勉強を続けもせず、学問は人並み以下で、生活も苦しい、自称失敗者。これではとても〈インテリ層〉や〈エリート男性〉とはいえないのではないか。

 かといって、役所で働いている公務員なのだからブルーカラーではない。中途でエリートコースからドロップアウトした宗助は、何らかの階層の典型として参照するには不適な気がする。『なぜ働いていると』の初読時にも思ったことだけど、三宅は自分の仮説に合致しない記述に出くわしたとき、想定してた筋道を修正するとか違う論拠を探すとかではなく、単に意に沿わないところを捨象しているような。あるいは、ホワイトカラーのことを〈エリート〉といっているのかもしれない。

 自己啓発書の関連でいうと、もっと印象的なところが『門』のなかにある。宗助は実家と気まずくなって父の死に目に会えもせず、その遺産の管理を任せた叔父には〈あんなことをして、廃嫡にまでされかかったやつだから、一文だって取る権利はない〉(P.56)と陰口を叩かれていた(と叔父の没後に叔母に聞かされた)。小説のなかに宗助の友人は(互いの家を行き来するほど親しい大家を除けば)登場しない。杉原に対しては強い劣等感を抱き、大家がたまたま安井と知遇を得た、と知ったときは、仕事を休んで一週間ほど禅寺に逃げもした。人間関係に問題を抱えている、ということだ。

 遺産を叔父が処分したあとに残った唯一の形見(ということは実家が裕福だったころの最後の名残)である酒井抱一の屏風を金策のために売ろうとした妻から、二束三文の値がつけられた、と聞かされて、宗助はこう返す。

 

「買手にもよるだろうが、売手にもよるんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、あんまり安いようだね」

 宗助は抱一の屏風を弁護するとともに、道具屋をも弁護するような語気を洩らした。そうしてただ自分だけが弁護に値しないもののように感じた。お米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。

P.92

 

 実際に古道具屋と話したわけでもないのに、自分のような人間が持ってるせいで安い値をつけられたのだ、と考える。このへんは明らかに認知が歪んでいて、宗助にこそ自己啓発本が必要だ。

 と思っていたら、終盤、禅寺に入った宗助は先輩僧である宜道に、〈「書物を読むのはごく悪うございます。有体にいうと、読書ほど修業の妨げになるものは無いようです。(…)もし強いて何かお読みになりたければ、禅関策進というような、人の勇気を鼓舞したり激励したりするものがよろしゅうございましょう。(…)」(P.243)と、自己啓発書みたいな内容の本を薦められていた(『禅関策進』は禅の入門書のようなものらしい)。

 宜道との関係を通じて宗助は、自分が成熟していない人間だということを思い知らされる。

 

彼の慢心は京都以来既に銷磨しきっていた。彼は非凡を分として、今日まで生きて来た。聞達ほど彼の心に遠いものはなかった。彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分より遥かに無力無能な赤子であると、さらに自分を認めざるをえなくなった。彼にとっては新しい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。

P.244

 

 この、ある人の言葉に触れて自分がいかにものを知らない子供だったか思い知った!と我を失う感じなんかは、西野とかひろゆきとかDaiGoとかの自己啓発系インフルエンサーと出会った現代の若者みたいな反応だ。

 宗助には自己啓発書的なものに惹かれる素養がある。ただ、そういった雑誌の存在を知らずにいた。しかしそれは、三宅が指摘しているような階級差ゆえではなく、単に読書や自学自習の習慣を持たないからアクセスする機会がなかっただけではないか。

 三宅の議論はべつに、『門』の読解が主題ではない。『門』はあくまでも、明治時代の階級格差のありようと、所属階級によって自己啓発書的なものにたいする距離がまったく違っていた、ということの傍証として取り上げられただけだ。それなら、当時の青年像としては外れ値のような宗助を参照するのではなく、もっと三宅の趣旨に合致するフィクションなり学術論文なりを参照すればよかったのではないか。と、これも『三四郎』についてのところで思ったことだな。

 というあたりで、『なぜ働いていると』での『門』の取り上げかたに私が抱いた違和感は整理できた、気がする。夜は麻婆茄子を作った。

 

9月28日(土)曇。昼前に散歩に出。ウロウロ歩いててんやへ。飯田橋で働いていたころ、神楽坂下にてんやがあって、遅番の日はいつも出勤前に食べていた。それももう四、五年前か。

 帰宅して即食う。しかしなんか、具の数は同じなのだがイカが小さくインゲンが少なくカボチャが薄く、なったような気が……。そしてこれはメニューにも書いてあったことだけど、キスが半身になっている。私が通っていたころはふつうの天丼は五百円で、小盛りにすると四百五十円だった、のが、今日は小盛りで五百十円。それでもまあ、物価高騰のなかバンバってるほうだ。こればっかりはしょうがないですね。具が減っても美味いものは美味い。

 それから『なぜ働いていると』を最後まで。最後まで良さがわからず。〈想定してる結論に合致しない要素をバッサリ捨象しているような〉と何日か前に書いたけど、たとえばこういうところ。戦後にギャンブルがブームになった、と書いたうえで三宅は、坂口安吾「碁会所開店」を引用する。

 

 戦前は若いサラリーマンや労働者にも相当普及して、元気のいいのが碁会所へ来ていたものだが、思うにあの連中、もしくはあの連中の後継者たるべき若者はパチンコとか競輪に熱をあげているのだろう。

 特にパチンコ屋と町の碁会所とはその簡単なヒマツブシという点で甚だ類似した性格があるから、碁会所へ通う可能性の青年はパチンコ族になったと見てよかろう。パチンコ屋で一番根気よくねばっているようなのが昔なら碁席の常連になっているのかも知れない。

 

 というのを参照しながら三宅は、〈1950年代に発表された坂口安吾のエッセイには、はっきりと「昔は囲碁を娯楽として楽しんでいたサラリーマンや労働者たちが、今はパチンコや競輪に向かっている」と書かれている。〉(P.103)と断言している。しかし坂口は(少なくとも三宅が引用した箇所では)、〈思うに〜だろう〉とか〈見てよかろう〉とか〈かも知れない〉と、すべて自分の推測にすぎない、とはっきり示している。それをこうやって客観的事実、というか、何か学術的な調査の成果であるように参照する、というのは、ちょっと恣意的なのではないか。

「碁会所開店」はちくま文庫版『坂口安吾全集』十八巻に収録されている。ほんの五ページの短いエッセイだ(読了後すぐに図書館に行ったのだ)。

 

 戦後は盤石が高価になったせいか町内の碁会所というものが甚だしく少くなった。

 昔私の住んでいた蒲田の矢口の渡しというところに焼け残った碁席が一軒あったが、一度遊びに行ったところ誰も客が来ていない。今住んでいる桐生も焼け残った町だから最近碁会所の一ツが再開店して路上から内部が見えるが、いつも老人連がせいぜい三四人集っているだけだ。

P.198

 

 というのが書き出しで、さっきの引用の〈戦前は若いサラリーマンや〜〉に続く。三宅が引用しなかったところから読むと、安吾は、まず戦後に碁会所が減ったのは碁盤や碁石の価格が上がったからかもしれない、と推測している。次の段落では自分が住んだことのある町の碁会所の戦後の様子を描いている、が、どちらも〈焼け残った〉ところだ、と書いているから、そもそも空襲で焼けた碁会所が多かったのだろう。三宅が引用しなかった前半を読むと、若者の性向がどうこう、というより、空襲で碁会所が(というか街自体が)なくなって、戦後は資材の高騰で再開ができずにいるうちに新興の娯楽であるパチンコに客を取られた、ということを言っているように読める。もちろん、それもすべて安吾個人の実感と推測でしかなく、論の根拠としてはあまりに弱い。

 安吾はこの短いエッセイのなかで、なりゆきで一年ほど京都の碁会所の運営にかかわっていた、〈ヘボが集まって賑やかにやっていた〉(P.202)ころのことを振り返る。

 

 しかし若い人間にとって希望を失った太平楽ぐらい味気ないものはない。今にして考えると、碁会所というものの性格自体が隠居のヒマつぶし、希望を失った太平楽そのもののような気がする。そしてこの乱世に碁会所が栄えないのは尤もだという気がするのである。

P.202

 

「碁会所開店」はこう結ばれる。全体を読むとあくまでも、碁会所運営の思い出と囲碁の衰退を世相とからめて一丁上がり、みたいな軽めの読みものだ。戦後の若者がギャンブルに熱を上げていることの根拠は示されていないし、近所にパチンコ屋増えたなあ、くらいの感じで書いたのではないか。なぜ三宅は、碁会所の運営に短期間参画していただけの安吾のテキストを引用したのか。言及するなら、そういうのがあるかどうかは知らないけど、若者たちの遊興の動向を調査した論文とかのほうがよかったのではないか。

 ほかの箇所。資本主義は〈全身〉でのコミットメントを求める、としたうえで、三宅はこう続ける。

 

 私たちは、時間を奪い合われている。そう言うと「たしかに」と納得する人も多いだろう。

 会社は労働者に対して「仕事に24時間費やしてほしい」と思うものだし、家族は配偶者に対して「育児や家事や介護に24時間費やしてほしい」と思うものだし、あるいはゲーム会社は消費者に対して「ゲームに24時間費やしてほしい」と思うものだし、あるいは作家は読者に対して「読書に24時間費やしてほしい」と思うものだ。

P.255

 

 思わねーよ! しかし私は思わないが、三宅はそう思ってるのかもしれない。たぶんこういう、ものごとの前提、というところで三宅は私とまったく違う視座に立っているのだと思う。

 題である〈なぜ働いていると本が読めないのか〉への解答はこれ。

 

 自分から遠く離れた文脈に触れること──それが読書なのである。

 そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。

 仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。

太字原文、P.234

 

 そして働きながら本を読むにはどうすればいいか、という問いに対しては、上野千鶴子がNHKの『100分deフェミニズム』のなかで、男性の〈全身全霊〉の働きかたと対比して女性の働きかたを表現した〈半身で関わる〉という言葉を参照しながら、こう書いている。

 

半身で働けば、自分の文脈のうち、片方は仕事、片方はほかのものに使える。半身の文脈は仕事であっても、半身の文脈はほかのもの──育児や、介護や、副業や、趣味に使うことができるのだ。

P.233

 

 働いてると本が読めないのは仕事のこと以外考える余裕がなくなるからで、その解決のためには〈半身〉で働けばいい。それはそう、というか、当たり前のことを言っているにすぎない。

 そういう社会をどう実現するか、については、三宅は〈本書で書けるところではない〉(P.264)として何も言わない。〈これはあくまで、あなたへの提言だ。具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない。〉(P.265)本書の結語は〈働きながら本を読める社会をつくるために。/半身で働こう。それが可能な社会にしよう。/本書の結論は、ここにある〉(P.266)。働きながら本を読みたければ〈半身〉で働けばいい、つねに全力のコミットを求められる新自由主義社会のなかでどう〈半身〉で生き抜くかはわからない、ということだ。しかしそれはとっくに自明のことではないか。〈半身〉というのも(三宅は〈私が提案している〉(P.234)と書いているが)上野が提案してたことだし。いやはや。

 しかしこういう批判は重箱の隅をつつくかんじというか、あんまりネチネチしていて気持ちの良いものではない。こんな雑な仕事でめちゃ売れてる三宅への嫉妬もあるのかもしれない。

 夜、バスケットLIVEで千葉対ソウルを観。これも強度の高い、あわや乱闘みたいなシーンもある激しい試合だった。終わったあとは眠くなり、もうこのまま寝、と思っていたのになんだか寝つかれず、けっきょく三時すぎまで起きていた。

 

9月29日(日)曇、一時雨。今日は散歩をせず読書の一日にしよう、なんせ図書館から限度いっぱいに借りてるのに、予約した本が四冊も届いているのだ、ということで昼までに一冊読み、バスケの天皇杯を二試合観、そのあとまた読み。夜まで。郵便受けより遠くまでは出ず。ちょっとだけ筋トレはした。

 

9月30日(月)曇、一時雨。種なしの巨峰を食い、小雨のなかを朝の散歩。

 昼めしに食パンを食いながら、『チボー家の人々』の五巻を起読。ジェンニーとジャックが、ジェンニーの母フォンタナン夫人と会う。そのあとジャックは一人でジュネーヴに向かい、社会主義の同志たちの拠点へ。リーダーのメネストレルと今後のことを話し合う。

 

「死んで、一つの仕事をする。それは必ずしもたいしてむずかしいことではないでしょう……はっきりそれと意識された仕事、窮極の仕事、何か役立つ仕事だったら」

 メネストレルの手が細かくふるえた。まぶたを伏せた骨ばった顔は、化石したように動かなかった。

 ジャックは、やおら身を起こし、いらだった身ぶりで、ひたいにたれさげる髪をかきあげた。

「ぼくは」と、彼は言った。「それがしたいのです」

P.39

 

 そしてジャックは、飛行機で仏独の最前線の上を飛び、反戦ビラをばらまくことを提案する。巻末の広告ページの、『チボー家のジャック 少年版チボー家の人々』のあらすじに書かれた、〈少年時代に因習に反抗的なジャックが、やがて平和運動の地下組織にはいり戦場に反戦ビラを撒くために飛びたった飛行機で悲惨な死をとげる〉という一節を容易に思い出させる。

 カウンセリングの時間になったので本を閉じ、ZOOMにログインする。一時間。

 そのあと夕方まで作業をして、資料を読んで夕食の支度。実家から送られてきたゴーヤと今朝買った食材でゴーヤチャンプルー。食いながらバスケを一試合。

 鈴木涼美が、共同通信に寄稿した福田和也追悼の紙面の写真を全文読めるかたちでツイートしていた、ので読む。鈴木は慶應大学で福田ゼミに所属していたそう。

 

最初のうちは何かを書いて持っていっても何かしら文句を言われていたが、そのうち目をかけてもらえるようになり、ある時、よく連れていってもらった新宿の中華屋でこう言われた。

 「鈴木さんの書くものはほどよく狂っていて面白いけど、その自由な感性で小説を書き、知性で批評を書こうとしている気がするね。それは全く逆ですよ、逆で書いてみたらさらに面白くなる」

 私は今でも小説あるいは批評を書く時、真っ先にこの言葉を思い出す。文章の書き方なんていうのを教えてくれる先生ではなかったが、ひと月三百枚書きながら休まずゼミに顔を出し、その背中で言葉を紡ぐとはいかなる事態かを教えてくれた。

 

 知性で小説を、狂気で批評を。感銘を受けた。45/347

 

10月1日(火)曇、一時小雨。一日作業。脳がしおしおになった、が、エイヤッと立ち上がって夕飯の仕度をする。長谷川あかりレシピで海老のビスク風カレーと、付け合わせのアボカドヨーグルトを作る。脳がしおしおでも作れるのが長谷川のレシピの良さで、うちには何冊かレシピ本があるけど、けっきょく長谷川さんのばかり作っている。満腹になって、寝る前にバスケを一試合。45/347

 

10月2日(水)晴。夜中の一時に起き、どうも寝られず二時間ほどスマホを見ながらモゾモゾして、諦めてベッドから出。読書をして五時ごろに二度寝、八時半まで。昨夜は九時すぎに寝たから、合計七時間強の睡眠。

 たぶん夜中に暗いなかでスマホを見てたせいで強めの頭痛。ロキソニンを飲んで、今日は無理しない日とする。

 昼食でカレーを食べきって、『チボー家の人々』を進読。アジビラの撒布に向けて、ジャックはドイツ国境近くの街バールに潜伏することになった。

 ジャックはバールのレストランでアジビラの文章を仕上げた。二段組で四ページほどの、読むのに十分近くかかる長文で、これを最前線に撒いたところで、いったいどれだけの兵士が全文に目を通すのか。ジャックは兵士たちに、〈戦うことを拒絶する〉(原文傍点、P.57)を呼びかける。このビラを読んだら翌日の朝、日の出とともに一斉に、〈ヒロイズムと同胞愛の感激のうちに、諸君の銃をさかさにし、武器をすて、解放のおなじ叫びをあげるのだ!〉(P.58)しかしこれでは、仮にジャックの提案が実現されたとしても、休戦は一時的なもので終わるだろう。このへんはちょっと、(ジャックがこの試みのために死ぬと知っていなくても)失敗、もしくは挫折することを予期しながら読んでしまう。

 反戦ビラの文章を仕上げたジャックは、印刷や飛行機の手配が整うまでの日々を過ごす。このへん、印象的な場面が多い。

 

 ジャックは、どこをどう通ったかもおぼえずに、ウェットシュタイン橋の下まできた。頭の上には、車や、電車や──生きている人間どもが通っている。下のほうには、つじ公園が、静けさと、緑と、涼しさの泉といったようにひろがっている。彼は、ベンチに腰をおろした。いくつもの小道が、しばふやつげの茂みをとりまいて走っている。西洋杉の低い枝の上には、鳩が咽喉を鳴らしている。モーヴ色の前掛けをした、まだ年も若く、からだつきは小娘のようでいながら、顔だけには疲れの見えるひとりの女が、小道の向こうに腰かけている。女の前には、乳母車の中に、生まれてまもない子供が眠っている。毛もはえそろわず、蠟のような顔いろをした、胎児そのままといった子供。女は、がつがつパンをかじっている。女は、遠く、川のほうをながめている。そして、子供の手のように弱々しい、あいているほうの手で、合わせめのぎしぎしいっている乳母車を、うわのそらのようすでゆすっている。モーヴの前掛けは、色こそさめているが、さっぱりしている。パンにはバタがぬられている。女の表情はおだやかで、ほとんど満ちたりてでもいるようだ。そこには、何一つとりたてて貧乏くささも見えなかったのだが、時代の貧困といったようなものがいかにもきびしく感じられて、ジャックは思わず立ちあがると、そのままそこを逃げだした。

P.74

 

 静けさ。デュ・ガールはこういう、言葉のない背景を描くのが抜群に上手い。

 決行当日、メネストレルの操縦する飛行機との合流地点での待機時間、ジャックは手帖からページを破りとってこう書く。

 

 ジェンニー。ぼくの生涯でのただひとりの恋人よ。ぼくの最後の思いをきみのうえにはせる。ぼくは、おん身に、ながい年月にわたる愛情をあたえることもできたはずだ。ところがぼくは、ただ苦しみだけしかあたえなかった。きみよ、いつまでもわが思い出を心にひめて……

P.82

 

 しかしその手紙を同志に託すより早く、飛行機の音が聞こえはじめる。ジャックは遺書を自分のポケットに突っこんだ。

 夕方、ゲラが二つ立て続けに届く。短いコラムや書評。ひとまず目は通して、大きな変更点がないのを確認して明日まで置いておく。

 早めに退勤、読書。青木玲子、赤瀬美穂『女性と図書館』(日外アソシエーツ)を読む。『なぜ働いていると本が読めないのか』に、〈地方の各町村に図書館が登場するのは、大正時代まで待たなくてはいけなかった〉とか、〈明治時代、まだ読書はインテリ層の男性のものだった〉とか書いてあったのだが、明治時代から地方にも図書館があったし、樋口一葉は図書館に通って古典籍を漁っていたはず、みたいな引っかかりが多かった。司書資格取得のためのオンライン授業でもたしか、明治時代にはすでに、政府から各図書館に婦人閲覧室の設置を求めていた、と習ったので、すでに女性に開かれていたのでは?とも思ったのだった。

 しかしどうも、『女性と図書館』では婦人閲覧室の評価は(司書の授業の先生とは)違っていた。

 

 婦人閲覧室は、女性に配慮して、わざわざ設けられた空間のようでいて、結果的に肝心の図書館の目的である情報提供から遠ざけられ、女性の図書館利用を阻害することになったのではないだろうか。

P.15

 

 婦人閲覧室は普通閲覧室(男性用)の一割から二割程度の広さしかなかったそう。明治三十八年の新聞で、帝国図書館では婦人閲覧者を嘲弄する利用者が多い、ということが指摘されてもいるという(P.41)。館によって対応が違ったようだし、肯定的に評価する論文も紹介されてはいるけど、あまり開かれてない印象だった。

 いま思えば司書課程、私が受けた授業の先生はみんな男性だったな(選択授業もあったから、女性の先生がいなかったかどうかはわからない)。私の認識はちょっと、ジェンダーバイアスがかかっていた。反省。

 読了して夕食の支度。栗ご飯を炊いて、実家から届いたカボチャを煮付けにする。ぐいぐい力を入れてカボチャを切っていた、ら、包丁の背が手に食い込んで、肌がめくれていた。箸を持つとちょうど当たるところなので厚手の絆創膏を貼る。

 つくったものを食いながらYouTubeで男子バスケ天皇杯、九月二十三日の名古屋D対A千葉を観。明日はB1レギュラーシーズン開幕戦。83/347

 

10月3日(木)曇、時々雨。昨夜の栗ご飯とカボチャを食って散歩に出。食材はあるし手が痛くて包丁を使いたくない、ので、買いものはせず、綾鷹の引換券だけ使う。

 昨日のゲラを戻し、ちょっと昨日の日記を書いた、らもう午前が終わった。昼はカボチャとパンを食い、散歩までちょっと集中!と作業をしていたら、いつも散歩に出る午後二時を過ぎて雨が降っていた。まあやることも多いし、と昼の散歩は断念、午後の作業。

 夜は今日も炊き込みご飯を炊き、昨日鍋に入りきらなかったカボチャを煮付けにし。今季のB1開幕戦、群馬対広島に間に合って、食いながら観。しかしなんだか物足りず、ウーバーイーツの串カツ田中も。胃がもたれた。83/347

 

10月4日(金)曇。朝の散歩はせず、シャインマスカットを食って作業。昼食にベースパスタの焼きそばを食う。Twitterで、しめ縄の味がする!と話題になっていたものを、二週間ほど探していて、こないだようやく見つけたのだ。聞きしに勝る不味さだった。まず開けたときに猫の餌の匂いがする。ソースの味はわりあい普通のカップ焼きそばだったのだが、麺がすごい。太麺なんだけどまったくコシがなく、ボソボソとしているのに歯切れが悪い。小学校の紅白帽の紐みたいな感じだった。

 どうにか完食して昼すぎに散歩に出、書店へ。舞城王太郎『短篇七芒星』の講談社文庫版が出ていた、のだが、帯の背の惹句が〈SNSでバズった本!〉というもので、なんだかげんなりする。この帯に金を払いたくはなく、べつの本を買う。

 十時半ごろ編集者からメール。タスクとともに土日を過ごしたくかった(編集者もそう思って金曜の遅い時間に投げてきたのだろう)ので一時間弱作業する。メールを返して、頭が仕事モードになっちゃったので二十分ほど外を歩く。83/347

 

10月5日(土)雨。シャインマスカットを食いながら朝からバスケ。昨日の長崎対渋谷を観、間髪入れずに今日の千葉対宇都宮を観。

 昼食がわりにベースパスタの旨辛焼きそばを食う。これもボソボソして歯切れが悪く、しかし辛みが付加されてるからか麺の影がやや薄くなり、まだマシだった。そんなものを食いながら観たせいか宇都宮が負けた。

 試合が終わるとちょうど鹿児島対福岡がはじまるところだった、ので試合後のインタビューはあとにして、ジョシュア・スミス(推し)のB2デビュー戦を観。試合中にウーバーイーツで大量の唐揚げや寿司を注文、食いながら。しかし同点でのこり一秒を切ったところでスミスがファールをしてフリースローを与えてしまい、終戦。くやしいなあ。悔しさをひきずったまま千葉対宇都宮の試合後インタビューを観。トビン・マーカス海舟(推し)が今日もうるさい。

 おなかがパンパンに膨れて動けず、そのまま力尽きるところだった、が、エイヤッと起き上がって食器を洗い、その勢いで角川歴彦『人間の証明』(リトルモア)を読む。

 いちばん良かったのは、保釈されて(報道陣を避けて自宅には向かわず)リーガロイヤルホテル東京に泊まった翌朝の記述。

 

 朝食はルームサービスでアメリカンブレックファストを注文した。ご飯とみそ汁の和食だと拘置所の食事を思い出してしまう。卵はオムレツでもスクランブルエッグでもなく、ゆで卵にした。

 二十歳過ぎのころ、角川書店の教科書を売るために五月から六月までの四十日間、全国を行脚したことがある。当時、角川にいた教科書販売のための出張者は三十人ほどだった。毎朝、旅館で殻のままの生卵が出てくる。だから卵を見ると苦しかった教科書売りを思い出してアレルギーが出るという社員もいた。当時は同情していたが、いま思えばすごく贅沢なことだったのだ。六十年ほど前のそんな古い記憶がよみがえった。

 拘置所では卵が一個丸ごと出てくることがなかった。殻の付いた卵の形を見ることが拘置所を出たことを実感させてくれる。だから卵は卵の形をしていなければならない。それが自分にとって外界、現実の社会に出るということだった。

P.81

 

 卵は卵の形をしていなければならない! 素晴らしい一文だったな。83/347

 

10月6日(日)曇。午後一時から鹿児島対福岡の二試合目を観。試合中からどうも目眩がして、終わったあとはそのままベッドに横になる。

 夜も二時ごろまで寝られず、虚無の目でWikipediaの「珍しい死の一覧」のページを見ていた、ら、古代から時系列順に列挙されてるうちの二十世紀のとこを見てる途中で寝た。83/347

 

10月7日(月)晴。また秋から一歩戻ったかんじの暑さ。起きてすぐ、二十世紀の残りと二十一世紀のとこも読む。

 十時半から整体。昼食は中華のテイクアウト、麻婆豆腐と麻婆麺。

 昼、柏艪舎の破産のニュースを見る。北海道の出版界では寿郎社と並んでよく名前を聞く版元だった。あまり良い評判は聞かなかったが……。負債総額は二億五千八百万円。今年度一月期の年売上高は四百三十九万円と、すでに死に体だったのだろう。

 そういえば何年か前、丸山健二全集全百巻を十年かけて出す、みたいなプロジェクトをはじめてなかったっけ、と調べてみると、二〇一七年に刊行をはじめた全集は、すでに二〇一九年、第八回配本(二十一巻)で刊行中止が発表されて、丸山は、自分で立ち上げた版元(いぬわし書房)から新作を出していた。二〇二〇年の『ブラック・ハイビスカス』は手製本でヤギ革の装幀、全四巻函入り限定五十セットで税抜き十万円だそう。すごいなあ。

 午後は作業。しかし眠気がひどくて効率上がらず。夜に雨が降り出した。83/347

 

10月8日(火)雨。雨なので朝も昼も散歩せず。

 昼めしのあと『チボー家の人々』を進読。ジャックは反戦ビラを最前線で対峙する仏独両軍の上で撒くため、メネストレルが操縦する飛行機で飛び立った、が、ほんの数ページであっけなく、エンジントラブルで墜落してしまう。

 

 なんともはげしいあつさ……炎、爆音、火事場のようなにおい……数かぎりないとがったもの、鋭利なものが両足をつらぬく。息をもがく、身をもがく、超人的な努力で、うしろへ身をひき、烈火の中からはい出そうとする。だが、だめだ。火炎が両足をしっかりつかむ。

 うしろのほうから、二本の鉄のつめが肩をつかむ。そして、ぐっとうしろにひかれる。ひきさかれ、八つざきにされ、その苦しさに思わずわめく……痛い背中を下にして引きずられ、からだがぼろぼろになる……

 と、とつぜん、こうしたすべての恐怖が、急に静謐のなかに沈んで行く。暗黒。そして、虚無……

P.87

 

 ジャック死んでしまった!と思った、が、ページをめくればまだ生きている。身動きも取れず喋りもできない、が、それでも周囲の様子は明晰に認識している。ドイツ軍のスパイだと思われて、情報を引き出すためにか野戦病院を目指して担架で運ばれてはいるものの、兵士たちには〈こわれもの〉と呼ばれ、ぞんざいな扱いを受ける。

 第七部〈一九一四年夏〉の最後は、ジャックの身柄を押しつけられた兵士マルジュラの視点から描かれる。独軍の砲撃の音が近づいてくるなか、一人ではジャックを担ぎ上げることもできず、処置に困ったマルジュラに、もう一人の兵士がこう言う。〈「えれえお荷物だな、スパイなんて! ばかやろう、かたづけちまえ!(…)」〉(P.110)それでマルジュラは、もはや目を開けることもできないジャックに銃口を向ける。

 

「畜生!」と、叫んだ。

 叫びと同時に銃声がひびいた。

 身軽になれた! マルジュラは、身を起こし、あとをも見ずに木だたみの中へおどりこんだ。顔ははげしく小枝にはたかれ、枯枝が靴底にぽきぽき鳴った。木だたみの中には、退却する人々でひとすじの道ができていた。戦友たちへもすぐ追いつける……助かったんだ! 彼は走る。危険、孤独、殺人の思い出を振りきりながら走りつづける……さらに早く駆けようとして息をつめる。そして、ひと飛びごとに、憤懣と恐怖を吹き散らすため、歯をくいしばって叫びつづける。

「畜生! ……畜生! ……畜生! ……」

P.110

 

 チボー家の人々の誰でもなく、この場面にしか出てこない一兵卒の叫び、が第七部の結語。そのためのビラを撒くことすらできず、スパイだと誤解されたまま孤独に殺されたジャックの叫びのようにも感じられる。

 第八部〈エピローグ〉はそれから四年後、すでにロシアは戦線を離脱して、半年後には大戦が終結する一九一八年五月三日、将校用の病棟ではじまる。一七年の十一月に毒ガスにやられたアントワーヌが入院している。彼がジャックの死を知っているか、今日読んだところではまだわからない。

 夜、挽肉とキノコを麻婆ソースで炒めたものを炊き込みご飯と食いながら琉球対三遠を観。しかしどうも食い足りず、試合中にドミノピザを頼んでしまう。第四クォーターの途中に受け取り、オーバータイムまでもつれこんだ熱戦を最後まで観つつ完食、満腹になって打ち上がる。119/347

 

10月9日(水)雨のち曇。一日資料読み。

 夜、バスケットLIVEで六日の千葉対宇都宮を観。千葉が二連勝した、が、渡邊雄太選手が捻挫した。全治六週間。

 そのあと、アスクルのアカウントを作って、ライオンコーヒーのデカフェのやつを買う。会社名や屋号の欄に〈水原涼〉と書いたせいで、自動送信メールの宛名が〈水原涼〉と呼び捨てになっていた。119/347

 

10月10日(木)晴。また季節が戻ったような暖かさ。

 昨日の昼、石破茂総理が衆議院を解散した。それで今朝の散歩のとき、あちこちに選挙ポスターのボードが置かれていた。

 三時から歯医者。今日も痛かった。前回めちゃ痛くてつらかった、ので、今日は痛かったらすぐに言おう、と決めていたのだが、あまりの痛さに身体が跳ねたことで先生に察されて、アッ痛かったですね、と麻酔を追加された。スーッと楽になった、が、終わったあとやや長時間しびれていた。

 歯医者を出て一時間ほど散歩して、帰りしなにスーパーに行った、ら、店の前に音喜多駿がいた。店に入ろうとしたら氏が立ち塞がって、「お仕事おつかれさまです維新の会の音喜多駿です本人ですッ!」とすごい早さで言いながら、顔が大写しにされたビラを差し出してくる。「あ、はーいどうも」と言いながら受け取ると、「ありがとうございますお名刺も差し上げますッ!」とカードを差し出してきたのでそれも受け取った。名刺といいつつ、別のビラを細かく折りたたんだもの。お名刺、と言われて反射的に自分の名刺を渡しちゃう人とかいるのかな。スーパーに入って買いものをして、出ていくとまた音喜多駿が強引に目を合わせてきて、「お仕事おつかれさまです維新の会の音喜多駿です本人ですッ!」とさっきとまったく同じトーンでビラを差し出してきた。「入るときにいただきました」と断ると、「アッそうでしたか!がんばります!」と握手を求めてきた。反射的に「がんばってください」と握り返してしまう。「はい、がんばります!お兄さんも!」となぜか私が励まされて終わった。握った手の数しか票は出ない、というのは石破茂が、政界の師である田中角栄の教えとして振り返っていた言葉だが、たしかに実際に握手をすると、少なくともビラをポストに放りこまれてるだけだったころより嫌悪感が薄れているのを感じる。音喜多サンには入れませんが。

 夕方まで作業。今日は捗らなかった。夜、鮭のホイル焼きと、長谷川あかりレシピでチキンとズッキーニの炊き込みご飯を作る。食いながら八日の朝(日本時間)のNBAプレシーズンマッチ、グリズリーズ対マーベリックスを観。119/347

 

10月11日(金)晴。昨夜は試合後に十五分ほどウトウトして、それで覚醒してしまい、けっきょく三時すぎまでダラダラ読書をしていた。四時ごろにようやく寝、起きたのは八時前。散歩してして始業、と思ったが、どうも頭痛がして頭回らず。こんな日もある。

 あきらめて論文を読み、昼休みに『チボー家の人々』を進読。アントワーヌは動員されて以来一度もパリに帰っていない、が、ジェンニーやジゼールと手紙のやりとりはしていて、ジェンニーがジャックの子を産んだこと、どうやらジャックは死んだらしいこと、をすでに知っていた。

 印象に残ったのは、アントワーヌの病室のこういう描写。

 

 彼は、あちらこちらと部屋の中をながめまわした。せまい、たまらなく平凡な部屋だった。この朝、海からの微風は窓のすだれをゆすっていた。そして、コーニス(長押)の下を走っているチョコレート色した朝顔模様のフリーズまで、むき出しのまま、ただ濃い桃色のラックで塗られている壁の上には日かげがおどっていた。鏡の上のあたりには、雑誌から切り抜いたと思われる水平襟の六人のアメリカン・ガールの一列が、片足を弓のようにそらしながら、六本の足を蹴あげていた。それは、アントワーヌよりまえにこの部屋にいたものが、死ぬまでのあいだこの五十三号室を飾っていた美術装飾のなごりだった。アントワーヌは、ほかのはうまく処分できたが、この猛烈な六人のガールだけは、それがあまり高いところにあったため、そこまで手をのばすのはちょっと無謀のように思った。彼は、この階づきのボーイであるジョセフにそれをやってもらおうと思っていただが、ジョセフは小柄だし、踏み台は一階まで行かなければなかった。そこでアントワーヌは、むしろそれを忘れてしまおうと思った。

P.122

 

 前線から離れた空気の良い山中の病室で、ひっそりと死んでいく軍人を見下ろしていた、六人の猛烈なアメリカン・ガール。そしてそれを取り除くこともできないアントワーヌの衰弱と諦め、ものがなしさ。こういう細部がほんとうに上手いんだよな。

 四年ぶりにパリに戻ったアントワーヌは、郵便物の山のなかに、〈フランス領ギネア、コナクリ病院内、ボネ嬢〉から届いた、かつての恋人ラシェルの首飾りを見つけた。

 アントワーヌはジゼールから、みんなの現状を聞かされる。とはいえジゼールを含めてほとんどが、今はメーゾン・ラフィットにいるという。夫を亡くしたフォンタナン夫人が、一九一四年九月、にメーゾン・ラフィットに病院を作ることを決めた。夫人の姪のニコルや切断手術を受けたダニエル(と何気なく書かれていたが、どういう理由でどこを切断されたのか、ここまでには書かれていなかったような)、そしてジェンニーとその息子ジャン・ポールも。

 五時前にアスクルの再配達を受け取ってから散歩に出、ぐんぐん暗くなっていくなかを一時間ほど。この時間に外を歩くのは久しぶりだったな。図書館で働いていたころ、早番は五時十五分が定時だった。こういう空の下を日々歩いてたんだなあ、となんだかおセンチになる。気持ち良かったな。帰ったら六時を過ぎていた、のでもう退勤とした。159/347

 

10月12日(土)晴。十時ごろにガバリと起きて、ウーバーイーツで朝マックを注文する。食後に十五分ほど二度寝してから読書。

 午後三時過ぎ、バスケットLIVEでB2の福岡対熊本を観。福岡のジョシュア・スミス(推し)が躍動してMVPに選出された!

 そのあと外出、モンゴル料理店でテイクアウト。ラム肉の串焼きやラムの胃袋で包んだ餃子、ラムのちん○ん(という料理名なのだ)などのラムづくしを食いながら、またバスケットLIVEで昨日の島根対仙台を観。これは島根が勝った。どちらもディフェンスが堅くて面白い。丸一年バスケットを観てきて、ルールや定石をある程度把握できてきたが、どうも私は(華麗なパス回しやフェイント、派手なダンク、なんかももちろん目を惹かれるけど)ディフェンスの堅い試合が好きな気がする。観はじめた当初は二〇二二─二三シーズンの優勝チームである琉球が好きだった。それが(今年は優勝できなかったし)他のチームの良さも見えてきて相対化されたかんじ。そういえば私はサッカーでも、マリノスやACミランやイタリア代表という、伝統的に守備の硬さに特色があるチームが好きだ。

 夜十一時すぎに外出、一時間弱散歩。旧通勤ルート(もう辞めてから二年以上経つので、もはや旧通勤ルートという感じでもないのだが)の途中の猫のいる家まで行き、スーパーに寄って、住宅街のなかをウロウロする。住宅街なのだけど狭い路地がいくつもあって、もう人の住んでいないようなツタに覆われたボロ屋や開いてるとこを見たことがない倉庫、解体の貼り紙がされたままの平屋、暗がりの向こうで虫の声、みたいなかんじで、けっこうこわい。辻斬りのことなどを考える。この路地で殺された人もいたのだろうなあ、と三百年ほど前に思いを馳せつつ、しかし馳せれば馳せるほどこわくなってきて、急ぎ足で通り抜けた。159/347

 

10月13日(日)晴。一日伏せる。明日が誕生日だからちょっとナーバスになっているのかもしれない。と書いて自分でもへんなことを書いてると気づいたが、明日で三十五歳になる、というか、より実感にそくして書くなら、松田直樹が死んだ三十四歳が今日で終わる、というのが、私にとって、ことのほか大きな意味をもっているのだ。

 午後、散歩がてらすこし走って、バスケットLIVEで福岡対熊本の二試合目を観。ジョシュア・スミス(推し)が今日も躍動、ダンクまで決めた。観てるとおれもやる気が出てくる。誰かを推すことの効能だ。

 夜は読書。しかし昨夜の寝不足もあってウトウトしてしまい、日付が変わる前、三十五歳になる前に寝た。159/347

 

10月14日(月)晴。起きたら三十五歳になっていた。松田直樹の死の歳を過ぎた、というのが感慨深い。今日になってから思い出したのだが、伊藤計劃も三十四歳で亡くなっていた。彼の死の歳があまり私に響いてこなかったのは、すでに松田の死に囚われていたからか、伊藤作品を読みはじめたのが没後だったからか。ともあれ三十五歳だ。生き抜いた、というか、これからは余生、くらいの気持ちが今はしている。

 ここ最近、矢野利裕のテキストがきっかけで〈三十五歳問題〉のことを考えて、『クォンタム・ファミリーズ』を読んだりしていたのだが、私にとっての〈三十五歳問題〉というのは、村上春樹や東浩紀、そして矢野さんが考えていたようなミドルエイジクライシスみたいな感じのものではなくて、自分にとってのアイドルが若くして死んだことが自分にまでその年齢での死を引き寄せてしまうという由来の知れない確信、という、どうも奇妙なものだった。そしてその確信は実際に三十五歳になった瞬間に覆されて、私の三十五歳問題は終わった。と書いていて思ったのだが、このことは何か小説に発展しそうだな。

 起きてわりとすぐに散歩に出。二時間ちかく歩き回る。商店街の韓国スーパーで食材を買い、サントクで(下戸なので)シャンメリーを買い、ケーキも買っちゃう。三十四歳を終えたので、はしゃいでいるのだ。

 ふと、松田の同業者である川又健碁(生年月日が私といっしょ)は今日をどう迎えたのだろう、と思う。氏の所属するアスルクラロ沼津は昨日試合があった(讃岐に一─二の敗戦)からオフかもしれない今日をどう過ごしているのか。しかしSNSでは知人たちの祝福をひと言添えてリポストしているだけだった。とはいえ私も、こうして日記に書いてるけどSNSには何も投稿してないのだから、川又も何かを感じてはいるかもしれない。いつか対談とかしてみたいですが、たぶん話は合わないんだよな。

 誕生日だけど粛々と作業。昨日の日記を書き、金曜日以降の日記に加筆もして、資料を読んで、来月の『すばる』のゲラも。こうやってふだんどおりに今日を送った。159/347

 

10月15日(火)快晴。

 昼休みに黄色い本。ダニエルはどうやら戦争で大怪我した足を切除したらしく、義足をつかっている。命を落としたジャックはもちろん、愛する人を亡くしたジェンニー、毒ガスを吸ったアントワーヌ、足を失ったダニエル、みんなそれぞれ戦争で何かを損なわれている。

 午後三時前、公園で本を読もうとした、ら、蚊が集まってくる。十月も半ばなのになにがどうなってるんだ。二パラグラフ読む間に五、六ヶ所も刺されてしまった。読んだ文より虫刺されのほうが多いではないか。

 夜まで作業。晩めしを食いながら、男子サッカーの日本対オーストラリアを観。オーストラリアはさすがに守備が堅くフィジカルで、観てて楽しいタイプの苦戦をした、が、双方にオウンゴールが出て一対一というちょっと珍しい結果で終わった。195/347

 

10月16日(水)曇。朝の散歩は私にしてはけっこう長距離で、片道三十分強のところまで。久しぶりの距離でやや緊張はしたものの、なんせ私は三十五歳なので大丈夫だった。なんせ私は三十五歳、というのはほんとうに強い。心を病んでいると、いろんなことがメンタルに左右されてしまうのだが、メンタルというのはすべて(ちょっとトートロジーっぽいけど)気持ち次第だ。人はその気になれば、というかそういうスイッチが入ればいくらでもネガティヴに考えられる。でも、その悪いスパイラルに対して、でもアンタ三十五歳じゃん、という、何をどう考えたところで揺るぎようのない事実を突きつけることで、メンタルの影響を打ち消すことができる、ような。まだ三日目なので、ほんとうにそれで楽になっているのか、単に良し悪しのいま波が良いほうに振れているだけなのかはわからないが。

 肩にロキソニンテープを貼って始業。昨日やっつけたゲラを、もう一度最初から読み返す。昼過ぎに編集者に戻して、これで私の手を離れたかしら。『すばる』に前回載った「台風一過」と今回の「筏までの距離」、中篇二つ(短篇六つ)の連作、これでおしまい。三百枚弱。単行本化するときは『筏までの距離』という標題にするつもり、だけど、いつになることやら。

 遅い昼休みに『チボー家』。アントワーヌは引き続き、メーゾン・ラフィットで過ごしている。病気のことをときどき忘れそうになる穏やかな日々。

 そのあと一時間ほど歩く。やや疲れた、が、これで一万歩強といったところ。メンタルだけでなく体力も向上させなければな。意識的に身体を動かしていこう。

 散歩のあとは資料読み。バスケを一試合挟んで、日付が変わるまで読む。236/347

 

10月17日(木)曇、朝小雨。一日作業。236/347

 

10月18日(金)朝晩に雨、昼は曇。朝の散歩をしてからすぐ整体へ。

 昼まで休んで、散歩はせず始業。やや難所にかかっていて、ウンウンうなりながら。夕方、退勤しようとしたところで、『すばる』の編集者からゲラについての確認。即座に打ち返した、が、それでなんだか仕事を仕舞いかねて、ダラダラ作業をつづけてしまう。

 それでも七時前には退勤。晩めしを食いながらバスケットLIVEで福岡対A千葉を観。終わったあとは読書。236/347

 

10月19日(土)晴。寝不足でいまひとつ頭回らず、作業は軽めに。年内にやっつけたい原稿や仕事がいくつかあるし、軽めに、を繰り返してるわけにもいかないのだが。

 昼、『チボー家』を進読。アントワーヌの病状は、第八部がはじまった段階ではわりに安定しているように思えていたのだが、日増しに悪化しているらしい。恩師であるフィリップ博士の診察を受けたときの会話でアントワーヌは、自分の死が遠くないことを悟った。

 そのあと小説は、アントワーヌがジェンニーやダニエルと交わす書簡の体で進んでいく。アントワーヌが気にするのは彼にとって甥のジャン・ポールのことばかりだ。自分が死んだあと、義足の傷痍軍人であるダニエルを除けば女ばかりの暮らしがこうむるだろう困難を予期して、資産の整理のことを細かく指示したりもしている。

 午後、バスケットLIVEで福岡対A千葉を観。そのあと読書。金川晋吾『明るくていい部屋』(ふげん社)を。玲児くんと文ちゃんとの三人での生活のこと。もともと玲児くんと文ちゃんがつきあっていたが文ちゃんと金川さんの間に肉体関係ができ、そして三人でシェアハウスをすることになった、という、なんだかそうやって抜き出してみればいかにもトーキョーのアーティストみたいな……。ともあれ、そんな暮らしのなかで撮られた写真と、長めのエッセイ。

 どのくらい生活のリアルを捉えた写真なのか、フルヌードも多く、金川さんのきんたまも写りこんでいる。私の場合、他人の男性器、というのは、公共施設の小用のトイレや銭湯でしか見ないし、それも上からというか、性器の表側しか見えないので、きんたまの裏側、というのはなかなか見るものではない。

 まあきんたまはいいとして、私にとって金川さんは写真家であるのと同じくらい文筆家でもあって、エッセイが(相変わらず)良かった。冒頭ちかくで、〈あるイベントで文ちゃんが「私の体は私のもの、あなたの体はあなたのもの」と言っているのを聞いて、その考えは素敵だと思ったし、そういう考えの人と性的なことができたら素敵だろうと思った。〉(P.122)とあるのを読んでもうグッとくる。この二度の〈素敵〉は、とりわけ二度目の〈素敵〉はなんというかあまりにも無防備に投げだされた言葉のような感じがする。金川さんは言語化能力がきわめて高いけど、その矛先を──といま何の気なしに武器の比喩をつかったけど──こんなにも無防備な自分に向けながら内面の深みに踏み込んでいくのを見るのはこわい。

 無防備、といえばきんたまの裏側というのは男性の身体の、外から見える部位のなかでもっとも脆弱な、かつ本人の視界に入りづらい場所だ。その意味で金川さんのきんたまの裏側は、写りこむべきして写真に写り、本書におさめられたのかもしれない。

 そういえば、題の『明るくていい部屋』というのは、3LDKのマンションのうち、〈通りに面していて一番日当たりのいい六畳の部屋〉(P.125)である金川の私室を指す、のだと思う。金川は、共用のリビングを散らかしっぱなしにすることはほぼなく、しかし自室はすぐに散らかしてしまう、と書いている。彼にとって、三人の共用スペースと自分一人の部屋というのは明確に〈異なる規律〉(P.128)のもとにある。そんな金川が、三人での生活の記録として発表されるこの本に、自分一人の空間を指す言葉を題として附した、というのは、何かがねじれてる感じがして、その屈折はもっと読み込めそうな、どうもまだ金川晋吾という書き手を捉え切れていない気がする。272/347

 

10月20日(日)曇。夕方まで作業。ちょっと走ってバスケを二試合。272/347

 

10月21日(月)曇。夕方まで作業、暗くなったあとは読書読書。日付が変わるころまで。今日も寝付きが悪く、ウトウトしたと思ったら悪夢を見て目が覚めてしまい、けっきょく明るくなるまでほとんど寝られず。272/347

 

10月22日(火)曇。昼の散歩のついでに区役所の出張所に期日前投票も済ませる。今日はほとんど捗らなかった、が、寝不足だからまあしょうがない。明日だ明日。

 夜、晩めしを食いながらバスケットLIVEで十月十三日の名古屋D対川崎を観。たいへんにスピードと強度のある、激しい試合。面白かったな。最後は一桁点差で名古屋が競り勝つ。試合後のインタビューがはじまるあたりで眠気に耐えられなくなった。たぶん十時半ごろ。272/347

 

10月23日(水)朝は曇、午後は雨。ふだん朝に行くスーパーは十時開店で、それから三十分くらいはレジ前でほぼ並ばずにすむのだが、今日は十時半を過ぎていたので十分ほど、五人くらい並んでいた。それでも発作は予兆すらなく、スマホで漫画を読むなどしていた。しかしそれだけ並ぶと商品の棚の間で待つことになり、デカフェのコーヒーや紅茶などをぽんぽんカゴに入れてしまった。

 昼の散歩は雨でできず、『チボー家』を進読。アントワーヌは、日記で間接的に言及されるだけなので経緯がはっきりとわからないながら、ジェンニーに結婚を申し込んだらしい。ジャン・ポールの将来のため、ということを、彼はたびたび強調している。たしかに、フランスの法律がどうなってるかは知らないけど、結婚せず、認知もしていないジャックの子であるジャン・ポールは、たぶんそのままではチボー家の財産の相続権がない。それが、ジェンニーがアントワーヌと結婚すれば、ジャン・ポールはチボー家の養子ということになるから、これから子をなすことはないだろうアントワーヌの遺産を相続できる。とはいえ、どうも読んでいると、そんな真心だけでなく、ラシェルがそうだったように孤独に死んでいくことへの不安にかられているように見える。

 印象的だったのはここ。

 

 今夜、ちょうどリュドヴィックが盆を手にしてはいってきたとき、よくしめてなかった塩入れのふたが、皿の上に落ちて音を立てた。

 おれは、ほとんどそれに気がつかなかった。ところが、ひと晩じゅう、それに手当をしているあいだ中、顔を洗っているあいだ中、メモを写しなおしているあいだ中、おれはおやじのことを思いつづけていた。引きつづく一連の昔の思い出。家族うちそろっての食事のときのこと、ユニヴェルシテ町でひとりさみしく晩飯をとっていたときのこと、ヴェーズ嬢のこと、テーブル・クロースの上におかれた彼女の小さな手のこと、メーゾン・ラフィットで、窓をあけ放し、庭いっぱいにあふれる日の光をながめながらとった日曜ごとの昼飯のことなど……

 どうしてだろう? おれにはそれが、いまになってわかってきた。それは、皿に落ちた塩入れのふたのおとが、おれに(機械的に)、いつも食事のはじめにおやじの鼻眼鏡の立てた特殊な音を思いださせたからなのだった。おやじは、自分の席にどっかり腰をおろす。すると、ひものさきにぶらさがった鼻眼鏡が、いつも皿のふちにあたって音を立てるのだった。

P.294

 

『失われた時を求めて』の冒頭のマドレーヌや終盤の敷石、プルーストが描いた無意識的記憶の瞬間が、『チボー家』でも、アントワーヌの命とともに小説も終わろうとしているいま描かれた。

 そういえば『失われた時』の語り手は、作品の末尾で、そう遠くない死を予期しながら、大部の小説を書こうと決意していた。訳註によればそれは一九二五年のことで、ということは、こうしてアントワーヌが死んでいこうとしている一九一八年の夏の、わずか七年後だ。『失われた時』の〈私〉は今たぶんパリにいて、何をやってるのかな。

 夜、バスケットLIVEで信州対福岡を観。なんだか力負けというか、ほぼ自滅のような感じで負けてしまった。解説の齋藤崇人氏がたびたび苦言を呈していたように、1 on 1に消極的で、勝ちに向かう気持ちが見えないような。スポーツは気持ちだけで勝てるものではないが、気持ちがないと戦えない。どうも消化不良だった、が、試合後はスッと寝。312/347

 

10月24日(木)曇。

 どうも朝から気分がすぐれず。パーッとやろうとウーバーイーツで朝マック。食いながら楽天NBAで、メンフィス・グリズリーズ対ユタ・ジャズのシーズン開幕戦を観。河村勇輝選手がグリズリーズとツーウェイ契約を結び、開幕ロスターに入ったので、史上四人目の日本人NBAプレイヤーの誕生の瞬間を目撃できるかもしれない、ということで、マックが届くのを待つ間に、月額四千五百円(!)の楽天NBAに加入したのだ。しかし今、何気なく書いていたけど、〈ツーウェイ契約〉や〈ロスター〉の意味を二年前の私はわからなかったし、四人目のNBAプレイヤー、と聞いても、三人しかいなかったんだねえ、くらいにしか思わなかっただろうな。しかしけっきょく河村選手の出番はなし。二桁点差がついた時間もあったけど、終盤はかなり競った展開で、ツーウェイ契約のルーキーの入る余地はなかった。次戦は明後日。

 午後、バスケットLIVEで、十八日の川崎対横浜を観、夜に十九日の千葉J対京都も観。今日はけっきょく、あまり具合良くないながらトリプルヘッダーをしてしまった。312/347

 

10月25日(金)曇。十時から歯医者。今日はウットを飲まずに行ってみた、ら、やっぱり発作の予兆なく、平穏無事に治療を終える。そのあとはゆっくり読書の日。312/347

 

10月26日(土)曇。朝からグリズリーズ対ロケッツ。第四クォーターの残り五分、二十点近い大差でヒューストン・ロケッツがリードしていたところで河村さんが出た。バスケを観はじめて一年半も経ってないけど、ちょっと高揚する。とはいえ、河村さんはアシストはしたけど活躍というほどではなし。そんなもんですね。

 午後、B2の奈良対福岡を観。どうも良くない試合だったな……。ジャッジもいまいち一貫性を欠いて、ジョシュア・スミス(推し)はフラストレーションを溜めて激しい抗議をしてしまい、テクニカルファールを宣告されていた(それが五ファール目で退場になった)。

 そのあと読書、塩崎省吾『あんかけ焼きそばの謎』(ハヤカワ新書)を読了した。とにかく熱量のすごい調査で、あんかけの堅焼きそばとよく似た料理である長崎ちゃんぽんの起源の定説に疑問を抱き、昭和十四年の雑誌に掲載された「ちゃんぽん」という随筆の著者の簡単な年譜まで作り、その随筆で言及されていたちゃんぽん屋が火事で焼け出された時期を特定するために日本損害保険協会という業界団体の機関誌まで読んでいる。昭和期の新聞の読者投稿欄を漁り、American Chop Sueyというなぞの料理を食うために渡米する。専業の研究者でもここまでする人そうそういないと思うのだが、著者の本業はITエンジニアだそう。こういうのがほんとの在野研究者なんだろうな。

 夕飯にもつ鍋を食いながらバスケットLIVEで、こんどは 二十日の三遠対東京を観。さっき強度の低い試合を観ていたので、一部リーグの強豪の試合の激しさが楽しい。もつ鍋も美味く、麺まで入れて満腹になった。312/347

 

10月27日(日)雨。昨夜は十分ほどしか寝られず、朝から頭回らず。バスケットLIVEで二十三日の佐賀対千葉Jを観た、が、今さら眠気がひどく、ほとんど寝てしまう。けっきょく二時過ぎまで寝ていた。

 それから今日も奈良対福岡をLIVEで観。今日は良かったですね。シュートがよく入っていて、外国籍・帰化選手が少ないなかインサイドでも負けてなかった。

 バスケ、スリーポイントシュートがほんとに重要みたい。外からのシュートの成功率が上がることで相手は守備の局面で前がかりにならざるを得ず、シュート成功率の高いインサイドの守備が甘くなる。サッカーでも、ロングシュートを積極的に打つことで相手ゴール前にスペースを作る、のが攻めあぐねたときの定石だけど、バスケは攻撃回数が多く、得点もたくさん入るから、ただ長距離で打つだけではだめで、きっちりゴールをしないと効果が出ない。面白いですね。

 試合後はまた十五分ほど寝て、『チボー家の人々』を最後まで。アントワーヌの日記は最後まで明晰で、意味を追えないところはひとつもない。死の三日前くらいから当日には、その瞬間を自分で決めたような記述がある。

 

 両足に浮腫。やる気だったらいまならできる。すべて準備ができている。手をのばし、心をきめさえすればいいのだ。

 ひと晩じゅう、戦いとおした。いよいよその時。

 

  一九一八年十一月十八日月曜

 三十七歳、四ヵ月と九日。

 思ったよりもわけなくやれる。

 

 ジャン・ポール

P.347

 

 というのが結語。父の身体に致死量の薬を打ったときのように、自分で自分の病にけりをつけたのだろう。そして、(実際には何か口にしたかもしれないけどすくなくとも文字のうえ、作品のなかでは)最後の瞬間は甥に呼びかけて終わった。ジャックが死んだ章の結語(彼を殺したマルジェラの呟き)が〈「畜生! ……畜生! ……畜生! ……」〉(本巻P.110)だったのと好対照というか。戦争を止めるために奔走したジャックは悪態とともに、アントワーヌは未来の希望を象徴する名前とともに死んでいった。

 読了したあとももくもく読書を続けて、鯛飯と実家から届いたカボチャ(の半分)を煮付けを作る。食いながら民放の選挙番組を観。結果を知る前に寝た。347/347

 

10月28日(月)朝は雨、そのあとは曇。

 九時ごろに起きて選挙結果のニュースを読む。石破さん、どうするのかな。日本海新聞のコラム(来月三日掲載)にも書いたけど、私は東京でバンバる鳥取人という一点のみにおいて氏にシンパシーを抱いていて、これから彼が党内外からの批判でボロボロになっていくだろう姿を見るのが忍びない気がしている。

 昼過ぎまで集中して、午後一時からカウンセリング。そのあとちょっと散歩をしてから、夕方まで作業。暗くなったころまた外出、二十分ほど歩いていたら、大学院時代の先生とばったり会う。お互いの近況などを立ち話。なんだか高揚して、ちょうどACミランのジャンパーを着てたのでスポーティな気持ちになって、走って帰る。

 それからちょっと休んで作業、今月の『チボー家』文章を起筆。半分ほど書いて続きは明日。

 

10月29日(火)曇、午後は雨。ぐっすり寝。

 旭川に引っ越して高校に編入する夢を見る。旭川には町屋良平さんが住んでいて、その高校の生徒でもあり、同級生になろうよ、と誘ってくれたのだった。引越をした日の夜、学生アパートの町屋さんの部屋でデサイー(私の小中の同級生で、お互い違う学校のサッカー部に入っていて何度か試合をしたのだが、たぶん色黒だったせいで、チームメイトから九十年代のフランス代表の黒人選手の名前で呼ばれていた)と町屋さんの恋人だという知らない女性と、町屋さんが呼んだ白人男性のカップルと、六人で酒を飲む。深夜、町屋さんが宅配ピザを頼む。ほどなくしてインターフォンが鳴り、しかしピザではなく、つなぎを着た家具屋の作業員が二人、町屋さんが買ったという淡いピンクのソファを届けにきた。スペースを空ける作業を私とデサイーが手伝うことになり、業者の人といっしょに押し入れの襖を外すことになった。しかし業者が力任せにやったせいで、襖が一枚外れた衝撃でほかの数枚もすべて粉砕され、押し入れのなかが見えてしまう。どうも業者たちはわざとやったようで、悪びれもせずに出ていった。町屋さんとその恋人が業者のトラックにソファを取りに行っている間に、白人男性カップルの一人が、マッチャさんはこの街のあらゆる女と手当たり次第に寝てるからね、いろんな人の怒りを買ってるんだ、とつぶやく。翌朝、町屋さんとふたり、秋の終わりの川辺を歩いて登校。これが好きなんだよね、北海道の秋の朝の冷ややかさ、この空気を吸いたくて引っ越してきたんだ、と私が言ってる間に町屋さんは姿を消して、昨夜のカップルの、町屋さんのことをつぶやいたのとは別のほうが現れていた。この人とは昨夜ずっといっしょだったし、何度か目があったり、ほかの人の言葉に同時に吹き出したりもしてたけど、直接はひと言も喋らなかった、と思いながら、二人とも無言で、それでもお互いいっしょにいるのは嫌ではないと相手に伝えるように、歩調を合わせて学校に向かう、というところで目を覚ます。ちょっとこれは町屋さんに失礼なのでは?

 九時半から整体。一時間半ほど施術してくれて、首や背中の痛みはかなり楽になった。そのあと図書館へ。予約してた三宅香帆『娘が母を殺すには?』(PLANETS)が準備できてる、と言われた、が、すでに厚い本を何冊も借りてるので、取り置き期限ぎりぎりまで置いとくこととする。帰宅して始業、『チボー家』文章。夕方に書き上げた。

 晩めしを食いながらバスケットLIVEで二十五日の川崎対群馬を観。終わったあとは眠くなり、そのまま寝る。メンタルがひどくなりはじめたころから、夜寝る前、ただ目を閉じていると悪いことばかり考えてしまってしんどくなるようになり、眠気の限界までスマホを見る、みたいな、まったくヘルシーでない入眠のしかたをしていた(自分としては、せざるを得なかった、という感覚だった)。それがここ数日、というか三十五歳になった日以降、目を閉じても思考が悪いほうに引っぱられない、ネガティヴなことを考えてもあまりダメージにならないようになってきた。それで今日はスマホを遠くに置いて寝た。今朝の夢のことやバスケの試合、小説や日々の生活のこと、などを考えていたような気がする。



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