孤独の宣伝
- 涼 水原
- 3月17日
- 読了時間: 4分
森のなかを歩いている。植物に明るくないから名前はわからないが、緑が鬱蒼と空を塞ぎ、そこはいつでもうす暗い。さほど足元に気を遣わずに歩いているのだからきっと天然の森ではないのだろう。何百年も人の歩いてきた跡が道を作っている。このまましばらく傾斜を上がると砂防ダムがある、と思う。実際にはそれが砂防ダムなのかどうか知らない。ただ川のない谷──ほんの二、三メートルの深さの、長い長い凹み、といった程度の谷にコンクリートの構造体があるのを見て、水がないのだから砂防ダムだろう、と思っただけだ。雨が降れば水が溜まるのかもしれないし、設置されたころにはまだ、ここを川が流れていたのかも知れない。
孤独、というとき、まずそういう風景を思い浮かべる。私は光に乏しい道の奥をさして歩いている。どこかはわからない。山岳部員として登った中国山地の、今でもその標高を、一三三四(いみみし)!と意味をもたない語呂合わせで叫んだ仲間の声で憶えている旧羅漢山かもしれないし、故郷の高校の裏、江戸時代に焼け落ちた城址を頂いた山の、神社の脇から天守跡に向かう曲がりくねった道かもしれない。いずれにせよ、そこを歩いたときの私は高校生だったし、だいたいは部の仲間と一緒だった。
旧羅漢山を歩いたのは何かの大会のときだったから、歩きながらの私語は禁じられていたはずだ。スピード違反を取り締まる警察のネズミ取りのように、大きな岩を回った陰にどこかの高校の顧問が隠れていて、慌てて口をつぐんだ私たちを順に指さし、減点、減点、減点、減点、と言い渡す。評価が下がることを怖れてではなく、どこの誰とも知らないその顧問たちの勝ち誇った顔に興ざめするような気持ちで、私たちは次第に黙り込んだ。
高校の裏の山を、私たちは毎日のように歩いていた。いつもは城の二の丸から上がる、いちばん短時間で登頂できるルートから登った。神社脇の道を歩いたのは、私がその部に所属していた一年ほどの間で、せいぜい二、三度だろうか。部のトレーニングとはいえ、ただゆるやかな傾斜を、誰に待ち伏せられることもんかう歩いているだけだから、私たちは絶え間なく喋っていた。漫画やゲームの話題が主だったが、日が暮れようとする放課後の、森の薄闇に誘われて、性にまつわる言葉を囁き交わしたりもした。そういうときもだいたい、湿った空気に耐えかねた誰かが女性器の名を叫んだりして気を散らし、また元の、秋からはじまるアニメの話題に戻った。
幼稚園の途中から高校を卒業するまで、私は学校のすぐ近くに──ということは城山の麓に住んでいて、一人で城山に登ることも何度もあった。それもだいたいは二の丸からのルートだ。神社脇から登ったのは一度だけだった。高校を卒業して進学先に引っ越す直前の春だ。故郷を離れるセンチメンタルに駆られて、最後の三月だけで十度ほど城山に登った。神社脇のルートを歩いたのがいつだったかは忘れたが、最後ではなかった。ただちょっと気まぐれを起こして、ふだんと違うところを歩きたくなったのだろう。二、三度は歩いたことがあるのだし、戦国時代から人が行き来した跡を辿ればいいのだから、迷う気遣いもない。足元の石や木の根にだけ気をつけながら、私はたしか、引っ越し先に持っていく本とかのことを考えながら歩いていた。同じ街に進学する友人は一人もいなかった。
トーマス・ベルンハルトは〈気が狂った者だけが孤独を宣伝する〉と書いた。〈そして完全にひとりでいるということは最終的には、完全に気が狂っていることにほかならないのだ〉。『消去』の主人公の、著者を投影したように見えながら実際にはまったく異なる経歴の小説家ムーラウが書いた言葉だ。人は気を狂わせることなく孤独にはなり得ない。
孤独、というとき私が思い浮かべる森は、仔細に記憶を辿ってみれば、旧羅漢山や故郷の城山とは違う。そこを歩く私を考えるとき、目に浮かぶのは、百七十二センチのこの身体から見える森の景色ではなく、戦国以来の道を一人辿る私を、葉叢を透かして見下ろしているような情景だ。木々の上は明るいから、鬱蒼とした森の私はあまりに暗い。私を見下ろす私はそのときどこにいるのか、もちろん実際にそんな風景を見たことはない。〈私はいつも孤独に憧れているが、いざ孤独になってみると、私はもっとも不幸な人間なのだ〉ともムーラウは書いた。存在しない森を歩く私はいったい何を考えているのか、私にはわからないが、その森で私は孤独だった。
『群像』二〇二五年三月号 特集〈44人の「孤独の時間。」〉
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