2021.1.20

 しかしそういうことをしていると、それなりに時間をつかうものだ。大学院のとき、よく目をかけてくれていた、仏文学者で文芸批評もやり、小説まで書いてる教授のことをふと思い出す。彼はその数年前、内臓のどこかを悪くし、医者に酒を禁じられた。ゼミ後の飲み会でいつもの店に行っても自分はウーロン茶しか飲まず、それでも自分の名の書かれたボトルをキープする習慣はやめられず、棚に置かれた焼酎を指さして、あれ好きに飲んでいいぞ、もうおれには必要ないもんだからよ、と強がってみせる姿はものがなしく、高齢者と呼ばれる年齢の彼のその見栄を無下にすまいと無理して私がひどい粗相をした、のはさておき、若いころ毎夜の日課だった晩酌を禁じられたことで、寝る直前まで頭が明晰で、だから毎日寝る前に、もうひと息の作業ができるようになったんだ、と言っていた。新刊の小説にサインを書きながら、この本はそのひと息の積み重ねで書いたんだ、と。

 きみは体質的に、一生そのひと息が保証されてるようなもんだ。いいもん書くんだよ。

 為書きは私の、ふだん彼が私を呼ぶ本名ではなく筆名になっていた。そのことがうれしかったのを思い出す。そのひと息を、これからの一年、私はこの、発表のあてもない、そもそも人に見せるようなものですらないかもしれない文章に宛てようとしてる。私はとてもわくわくしていた。

 しかし、とうぜん、この文章からは原稿料が発生しない。一年間、夜の時間を捧げる、というと聞こえはよいが、私にも生活というものがあって、つまり、ほかの仕事を毎日ひと息ぶん短縮された時間でやらなければならない。私は小説の原稿を閉じて、新規ファイルを立ち上げた。コラムを今日中に──夜のひと息より前に、仕上げなければ。それなのに、どんなことを書くか、まったく考えていなかった。