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発作

 ヴェルサイユの庭園で過ごす長い昼間、語り手と恋人は〈スズメバチがぶんぶんいうような音〉を耳にする。語り手の祖母は、〈人間のつくる芸術でも自然のなかでも、偉大なものを愛して〉いた。この羽音のような音も、きっと祖母は好きになっただろう。恋人に指摘されてそれが飛行機の音だと気づき、あたりを見回してようやく、二千メートルほどの空を辷る飛行機を見つけた。一九〇四年に飛行機が発明されてからそう長い年月が経っているわけではない。彼はまだ、はるか頭上を飛行機が飛び交う日常に慣れてはおらず、その音を聞いて〈美〉を認め、心を動かされている。その大半を、語り手が恋人のアルベルチーヌを軟禁した自宅と、ヴェルデュラン夫人邸の夜会を舞台として語られる『囚われの女 Ⅱ』のなかで数少ない、抜けるような空の下の場面だ。

 ヨーロッパではじめて乗客を乗せた飛行が行われたのは一九〇八年、世界初の定期商業飛行(パリ─ロンドン)は一九一九年だったという。一九二二年に死んだプルーストは飛行機に乗ったことがあっただろうか。アルベルチーヌと飛行機を見上げる場面を描写しながら、何を考えていただろう。『失われた時を求めて』では、十一巻の本巻にいたるまで、語り手が飛行機に乗ることはない。プルーストは、当時の最新技術であった電話や写真──対象がまるで目の前に/耳元にいるように錯覚できるが、決して対象それ自体ではない──を〈私〉の祖母の死にまつわる描写に織り込んでいた。訳註によれば、当時のヴェルサイユの近辺には飛行場がいくつもあったというが、プルーストはこの描写に何を託したのか。

 そうと診断されたのは一年ほど前のことだが、私がパニック障碍を発症してからそろそろ三年ちかく経つ。発症、というのは、どうやら飛行機や新幹線のような、一定以上の時間を密閉された空間で過ごし、高速で移動する乗りものに入ると必ず具合が悪くなるようだ、と自覚した、という意味だ。思えばそれ以前にも、タクシーや電車のなかで気分が悪くなったり、飛行機から降りてふらついたりすることがあった。発作ではなく、単なる疲労や体調不良、乗りもの酔いだとしても、きっと知らず知らずのうちに苦手意識が積み重なって発症したのだろう。

 それ以前は飛行機が好きだった。鳥取で育ち、札幌の大学に通い、まだ蒲田で行われていたころから毎回、文学フリマのために上京していた私は、年に何度も飛行機に乗っていた。その三点の間を移動するには、あまり新幹線に乗ることはなかったが、大学院に進学して東京に引っ越してからは、旅行や何かで、これも年に数度は乗っていた。

 パニック障碍は精神的な病だが、当事者にとってはきわめて肉体的なものだ。その予兆はまず手汗として現れる。何の前ぶれもなく掌に膜が張られたような感触、指と指をすりあわせると生ぬるくねばつく汗を感じる。違和感は指から瞬時に腹と脳に走る。吐き気のような胃のむかつき、そして、このままここにいては、遠からず吐いてしまう、失神してしまう、死んでしまうかもしれない、という恐怖に駆られる、座っていられなくなる、が、歩き回ってもすこし気が紛れるだけで、その場にいるかぎり楽になることはない。ひどく揺れたり天気が荒れていたりするわけではない、そもそもまだ飛行機は動き出してもおらず、自分は待合室の椅子に座っている。墜落が怖いわけではないのだ。いま自分がこの場所にいることそれ自体──しかし、私はたしかに私の足でそこへ来たのに──への恐怖。それはパニック障碍というのだ、と診断されて以来、症状はより悪化した。近距離の電車移動やタクシー、飲食店、銀行やレジでの待ち時間、ときには公園の芝生に寝そべって、空を飛ぶ飛行機を見上げていてすら発作が襲ってくるようにもなった。

 ここまでの文章を私は、幾度も手汗を拭いながら書いた。長距離の移動も外食も、気圧やその日の体調次第では、近所を散歩するのも難しい。いきおい私の活動範囲は次第に狭まっていき、今では家から徒歩五分圏内で生活している。都心に住んでいるからなんとかなっているが、これが(鳥取とか)地方の、最寄りのコンビニまで車で行くような土地だったら、と考えると恐ろしい。あるいは、そういう土地に住んでいれば、パニックを発症することもなかっただろうか。

 プルーストの語り手がアルベルチーヌを自宅に軟禁しているのは、彼女が同性愛指向をもっているのではないか、という疑念による。当時の価値観では同性愛は恥ずべきものだったし、〈私〉はアルベルチーヌが自分以外の人間を性愛の対象としてまなざすことを許せなかった。語り手はバルベックで、アルベルチーヌを含めて十四人の女性と関係をもったし、彼女との駆け引きのために、存在しない婚約者との約束をでっち上げもした。だからこそ彼は恋人を軟禁して、一人では外出させない。家に二人でいれば彼らは甘やかな恋人の時間を過ごす。しかしそのことを、語り手はすこし息苦しく思っている。ヴェルデュラン夫人邸からの帰路、明かりのついた自宅の窓を見上げて、彼はこう述懐する。「最後にもう一度目をあげて、はいってゆこうとしている部屋の窓を外から見やったとき、その光の鉄格子のなかへいまや自分自身が閉じこめられるのを見る想いがしたうえ、その鉄格子の黄金色の頑丈な柵は、わが身を永遠の隷属状態に置くために私がみずから鍛造したものである気がした。」パニック障碍の原因はあなたの〈思い込み〉にあるのだ、と精神科医に諭されてからこの一節を読むと、語り手の自縄自縛は私自身のもののようにも感じられる。語り手がそうであるように、自分(たち)がこうなることは逃れられなかった。そして自ら丹念に鍛造しただけに、どうすれば解き放たれるか見当もつかない。

 語り手のアンドレへの感情は目まぐるしく、うんざりするほど繰り返し揺れ動く。「私にとってアルベルチーヌとの生活は、一方で私が嫉妬していないときは退屈でしかなく、他方で私が嫉妬しているときは苦痛でしかなかった。」ここで言う〈嫉妬しているとき〉は、アルベルチーヌの心や肉体が自分から離れているときのことであり、〈嫉妬していないとき〉は、彼女の視線が自分に向いているときのことだ。嫉妬の苦痛に身もだえするか退屈して別れたがるか、二巻『スワンの恋』で、彼ほどに恋愛経験を重ねていれば、「愛しているという喜びゆえに愛しているだけで満足する術をこころえ、強いて相手からも愛されることは求めな」いものだ、と語っている〈私〉も、今はまだ幼く、アルベルチーヌの態度に翻弄されている。彼にとって何より恐ろしいのは、アルベルチーヌが〈私〉にことわりなく家から出て行ってしまうことだ。だから彼女が出かけるときには必ず同行し、さもなくば、彼女が逸脱しないよう、運転手やアンドレに見張らせる。

 本巻の原題はLa Prisonnièreという女性単数の名詞だから、単純に読めばアルベルチーヌのことを指している。しかし八巻『ソドムとゴモラ Ⅰ』の序盤、シャルリュス男爵とジュピアンのセックスを盗み聞いた〈私〉は、(男性同士の同性愛ではなく)シャルリュス男爵の内なる〈女〉が男であるジュピアンを愛したのだ、と考える。そう考えるとこの原題は、加齢による浅慮で自らの青年愛や不遜な態度を取り繕えなくなったシャルリュス男爵(「氏はひとりの女なのだ!」)のことかもしれないし、彼に囲われていたモレル(レズビアンの女性である愛人から、〈貴女〉と語りかける手紙を受け取る)のことかもしれない。〈私〉が自らを〈ひとりの女〉と考えることはなく、この題が彼を指しているわけではないが、この恋に誰よりも囚われているのは彼自身だ。

 本巻の末尾で、アルベルチーヌは八ヶ月ほどの軟禁を経てついに、語り手が寝ている間に家を出て行く。そのことを女中のフランソワーズに告げられた語り手は、こう反応している。「私の息はとまり、私は胸を両手で押さえたが、急にその手は、(…)一度も経験したことがないほどの冷や汗でぐっしょり濡れ、私はこんなことしか言えなかった、「ああ、そうかい、ありがとう、フランソワーズ、もちろんぼくを起こさないでよかったんだよ。しばらくひとりにしてほしい、あとで呼ぶから。」」パニックの発作が起きると私はよくこうなる。息が詰まり、掌に脂汗が吹き出す。その様子を人に見られたくなくて、何か早口に、突き放すようなことを口走る。きっとこのあと語り手は、動悸が治まるまでの十分ほどを一人で耐えるのだろう。毛布にくるまって身体を丸める〈私〉は、いっさい描かれていないだけに、発作を起こした私とよく似ているように見える。


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