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プルースト 2021.6.11~2021.8.4

6月11日(金)晴、ずいぶんと暑い。

 退勤後にスマホを見ると、プルーストの『失われた時を求めて』を通読したことがないか、あるとしてもよく憶えていない、ことを前提として、岩波文庫版全十四巻のうち、先方が指定する一冊だけを読んで何か書くように、との依頼がきた。私が指定されたのは『ゲルマントのほうⅢ』。一冊だけを読んで、というのはそう明言されてこそいないが、他の巻は読むな、という意味だ。私たち十四人はきっと同様のことを申し渡されていて、だから誌面に並ぶ私たちの文章は少なからぬ誤謬をはらんでいるはずだ。ゲルマントが何か私はまだ知らない。ゲルマントのほう、ということは、ゲルマントそのものではないのだろう。消防署のほうから来ました、と言って家に上がりこむ犯罪者の話を、プルーストは聞いたことがあるだろうか? Ⅲ、というのは三巻ということで、ゲルマントのほうについて少なくとも文庫本三巻におよぶテクストが割かれているわけで、しかしそんなに詳述しては、ほんとうは消防署から来たわけではないとばれてしまうのでは?

 そういう益体もないことを考えながら、当該の巻が届くのを待つ。


6月12日(土)曇、湿度が高い。午後は晴。

 評の依頼でいちばん楽しいのは対象の作品が家に届くまでの時間だ。本が届いて読みはじめれば私は評者としてまじめに読まなければならないが、今はまだ、無責任な読者として作品のことを考えられる。ふだんの書評仕事なら、対象作の著者の他の仕事にひととおり目を通すのだが、今回は、対象作の他の巻すら読まないくらいだから、できるだけ前情報を入れないようにしている。


6月13日(日)曇、雨が降りそうで降らない。

 11日にやりとりしたメールの最後に、編集者は、一両日中に本が届くはずだからよろしく、というようなことを書いてきていた。つまりそろそろ、一階の郵便受けには、昨日今日の新聞といっしょに『ゲルマントのほう Ⅲ』が入っているはずだ。

 私にとって、平日職場に出勤していちにち働く、のを五度繰り返すことは、原稿を書くより格段にダメージが大きく、土日は家に籠もって読み書きするしかやりようがない。新聞を取りに行くのもゴミを出しに行くのも億劫で、玄関には括った袋が溜まっている。料理をするのも億劫で朝からウーバーイーツ。ダイアル式の郵便受けの開けかたを配達員に教えれば、『ゲルマントのほう Ⅲ』も持ってきてくれるだろうか?

 そう考えてはみたものの、マフィンとスムージーを持ってきてくれた配達員はインターフォンの画面のなかでドアに手をかけ、私がオートロックを開けるのを焦れたように待ち構えており、私が「はい」と言うほんの二音を遮るように「ウーバー!」と叫んだ。別に本気で本を取ってきて欲しいとは思っていなかったが、どこか不満をおぼえながら解錠すると、その感触を指先で拾ったのか、マイクが解錠音を拾うより早く押し開ける。なるほど、ドアに手をかけて待つのにはそんな意味もあったらしい。感心する間もなく、階段を駆け上がる音が、スピーカーからも玄関のドアの向こうからも聞こえてくる。スピーカーの音が小さくなるにつれてドアの向こうのは大きくなってき、それに荒い息が重なると同時に外壁を殴る音がしてインターフォンが鳴る。スムージーはこぼれていた。


6月14日(月)朝から雨。

 Amazonの、紙の、袋、というのか、分厚い封筒なのか、梱包されたそれを、退勤後、今日の夕刊とホットヨガのLUBIEのチラシといっしょに持ってきた。Amazonで買い物をした記憶はないから、編集部が注文して、送り先を私の住所にしてくれたのだろう。

 開けたところで私はもう脳がしおしおになっていて、表1のあらすじくらいしか読めないだろう。全十四巻中の第七巻。表1のあらすじは、とうぜんそれまでの六冊のストーリーを前提に書かれているはずだ。私はそのストーリーのなかに途中で飛びこむ。

 今日はまだ開けない。締切はずっと先で、もちろん、それまでの間のいつ読んでいつ書くかは私の自由だ。


6月15日(火)明るい曇。

6月16日(水)雨。

6月17日(木)午前は雨、午後はよく晴れた。

 三日間、机の上に置いたままにしている。そもそも朝から夕方まで勤務していて、家に帰るころには疲れきり、梱包の上からでもかなり分厚いとわかる『ゲルマントのほう Ⅲ』を開くのは難しい。『失われた時を求めて』は長すぎてなかなか読みはじめられない、それは、十四分割されたところで変わらない。


6月18日(金)雨が降る予報だったが、出退勤時はまったく降られず。傘を運んだだけの日。

 帰宅後、机の上から片づける。机の横に、なんとなく開けるのが億劫なものを放りこんでいる段ボールがあり、たとえばこのあいだS社から来たマイナンバー提出のお願いなんかを入れているのだが、なんとなくそこにおさめる。それだけでなんだか読了した気になる。


6月19日(土)雨。朝から外出し、靴の中まで水が入る。帰宅すると職場の上長から、あんたの部署の人が休んだから代理出勤してくれ、とのメール。ヤケになって濡れた靴のまま出勤する。帰宅後、ヤケになったまま段ボールからS社の封筒を取り上げ、マイナンバーを提出する。Webでできてべんり。


(この間一ヶ月、まったくプルーストに関係ない記述が続くので略)


7月19日(月)晴、梅雨が明けた。一日労働。今の職場で四年半ちかくが経ち、何も考えなくてもこなせることが増え、結果、今日職場で何が起きたか、ぜんぜん思い出せない。

 プルーストのこともすっかり忘れていた。この日々の記録を、プルーストを読む企画をオファーされてつけはじめ、だからファイルのタイトルは仮のものとして「プルースト」と名付け、毎日の終わりにそのファイルを開きながら、プルーストのことを忘れていた。どういう精神のはたらきなのか。段ボールの、もうほかのもろもろの下に埋もれて見えなくなっていたAmazonの分厚い梱包を引っぱり出す。伝票だけは剥がしていたが、おそらく六月十三日に届き、十四日に回収してきたそのままの姿でそこにあり、開封してみれば、納品書といっしょに、六百ページを超える分厚い文庫が入っていた。

 予想に反して表1にあらすじはなく、見返しに六行の梗概がある。表1にあるのは子供が描いたような、という印象を抱く、しかしよく見るとプルースト自身が描いたとある、登場人物らしい二人の絵だった。

 今日はまだ読まない。脳がしおしおなので。


7月20日(火)晴、暑い。退勤後、マクドナルドの新しいやつを買って帰り、研ナオコのYouTubeを観ながら食べる。食後ひと休みして、まんをじして読みはじめる。とにかく長い。ふだん、読書のときは思いついたことを小さな紙切れにメモして挟みながら読んでいるのだが、今回は仕事なので、思いついたことだけでなく、引用できそうなところ、場面の転換点なんかにもメモを挟んでいる。一時間ほど読む。

 中学生までは、本はかならず一日で読み切る、というルールを自分に課していた。ブックオフで百円の本ばかりだったからか薄めの本が多く、休みの日をつかえば難しくなかった。そのルールがほころびはじめたのは私が京極夏彦を読みはじめたからだ。記憶にあるかぎりはじめて一日で読み切れなかった本は『塗仏の宴 宴の支度』で、ということはその前巻、シリーズ中いちばん分厚い『絡新婦の理』を一日で読んだということだ。『絡新婦の理』、脳がしおしおになってもう文字が追えないのを無理して読了して、読後感が「つかれた!」だけだった。それでもう、世の中には一日では読み切れない本というのが存在するのだ、ということを悟り、ルールを撤廃したのだった。『塗仏』のあとはたしか『屍鬼』を読んだが、これは文庫で全五巻だったから、一日に一冊ずつ読んだ。その次は西尾維新で、戯言シリーズはすでに完結してたけど、高校生のころは四巻くらいで読むのをやめた。京極作品以外で、次に二日以上かけたのは、大学に入ってすぐ、授業のために読んだ、たいして厚くない『赤頭巾ちゃん気をつけて』だった。娯楽のためでない読書、というのもそれがはじめてだった。それ以来、あまり読了までの時間を(課題とか仕事とか、しめきりが設定されているものを除いて)気にしないようになったが、分厚い本を見ると、ときどき『絡新婦』と比べる。『失われた時を求めて』は、一冊だけなら『絡新婦』よりだんぜん薄いが、しかし、もうこれを一日で読みきる体力はないな。42/605


7月21日(水)晴。ひどく暑く、へろへろになりながら勤務。休憩時間を使って『ゲルマントのほう Ⅲ』。ほんとうなら、仕事のための読書は、もっとまとまった時間を確保して、落ち着いて読むべき、なのだが、編集者からきた企画案を読むかぎり、私が生活のなかで『失われた時』をどう読んだか、が求められているような。なのでこういうちょっとした時間に読み進めていく。

 帰宅後も三十分ほど読む。そのあとU-NEXTで『花束みたいな恋をした』。若い二人の青春恋愛日本映画、まだ生涯で片手の指で足りるほどしか観ていないのだが、ぜんぶかなり楽しんでいる。そういうのが苦手だから観なかった、つもりなんですが、実はおれは恋愛ものが好きなのかもしれない。

 私はドラマもほとんど観ず、完走したのは『GOOD LUCK!!』と『ゲゲゲの女房』だけ。いずれも恋愛が描かれていたが、お仕事ものという一面も強かった。一方で、これまでに観た青春恋愛日本映画では、人物たちの仕事や通ってる大学内での描写は少なかった印象。そのぶんの時間を、だいたいは、二人の日常のディテール描写に費やしているような。『花束』は前半、二人のサブカル選民思想がそのディテールの大半を占める。「あそこで木下古栗を挙げないのは……」とか「天竺鼠の話をするならラーメンズは?」とか「書店で『たべるのがおそい』を見て今村夏子の復活を知ったってことは西崎憲のtwitterみてないな」とか、そういうことを感じるのは、すでに二人の世界観に巻き込まれてるということ。たぶん二人のサブカル濃度はややうすめに設定されていて、序盤の、マニアックな映画が好きだと自称する男が「『ショーシャンクの空』とか!」と言ったときの二人の、こいつわかってねえなあ、という連帯を、視聴者たちが二人に対して感じられるようにするため。恋愛映画、だいたい、出会う→恋に落ちる→つきあう→深まる→すれ違う→決断する→別れる(or永遠の愛を誓う)→振り返る、という経過の一部を切り取る、という定型がすでにあり、だから、その間にどういうディテールを詰め込むか、というのが作品の価値なのかしらん。

 そういえばドラマ、『ウォーターボーイズ』と『オレンジデイズ』も完走した。『オレンジデイズ』は柴咲コウの聴覚障碍という設定がディテールを支えていた。私が観た青春恋愛日本映画は『人のセックスを笑うな』『寝ても覚めても』『愛がなんだ』『花束みたいな恋をした』の四作で、それぞれ、美大・年の差、ドッペルゲンガー、暴走する片思い、サブカル選民思想、という要素が全体を支えていた。

 冷静に分析しようとしているが、これだけ延々と考え続けているのは、どうやら私は『花束』をとても楽しんでいたらしい。たった四作でも自分のなかに恋愛もののデータベースが作られはじめている。現状、私が書けるせいいっぱいの恋愛は「光の状況」で、もうちょっといろいろ勉強する必要がある。『花束』の脚本家は主人公たちの親世代の男性で、それでもああいう作品が書ける。しかし考えてみると、スマホ越しの告白とか、はじめてキスをしたとき絹ちゃんが、こういうコミュニケーションは頻繁にしたいほうです、と言う台詞なんかは、ちょっとあざといというか、おじさんの考えた可愛らしい若人、という感じがするかしら。106/605


7月22日(木)晴。例の大運動会のため、今日は祝日。青春恋愛日本映画みたいな夢を見て起きる。といっても、私が見る夢がだいたいそうであるように、私は当事者ではなく、ちょっと高い場所から男女が口げんかするのを眺めていた。口論のなかの台詞をいくつか憶えていたので、とりあえずネタ帳につけておく。冷蔵庫の食材を食べて東京駅。新幹線で京都へ向かう。横浜のあたりでパニック発作、やや過呼吸になる。

 静岡に入ったあたりで落ち着いて、『ゲルマントのほう Ⅲ』。註がめちゃくちゃ詳細で、いろんなシーンに、「本訳④三六三─六四頁参照。」と附されていて、この巻しか読んでいない私にはけっこうありがたい。意味や意図のよく取れないところがあっても、既出なんだな、おれが知らないだけだな、と思うと気楽に読み飛ばせる。読み飛ばしてはいけないか。とはいえたぶん、一巻から順に読んできてる人も、七巻までくれば、註で示されても「そんなシーンあったかなあ」となるのではないか。

 京都で友人と合流、高いスイーツ。それから打ち合わせ等をして宿へ移動、kindleでわたなべぽん。けっきょくのところ「思い切って捨てる!」以外に片づけの道はない……。

 小説の書き方読本のたぐいを読んでいたときによく見たのは、恋愛を描くなら、もちろん恋をする二人(三人でも四人でも、とにかく主人公をふくむ恋愛主体たち)の心情を丁寧に掘り下げるのは必須として、彼らの友人こそが重要なのだ、という主張だった。『オレンジデイズ』の「オレンジの会」とか、『人のセックス』のえんちゃんと堂本、『愛がなんだ』のてるこの友人、『寝ても覚めても』の朝子の親友と瀬戸康史、あとはラブコメの、というかハーレムもののラノベでは主人公の同性の親友の存在が重要で、冗談としてでも「この親友とつきあうルートはないのか!」と読者に思わせたら勝ち、みたいのもどこかで読んだ。主人公が友人に恵まれていること、彼らの恋愛も傍らで走らせること、というのが、恋愛ものには必要なのかもしれない、と思っていた、のだが、『花束』には主人公たちの親友的存在がいない。友人たちはいるけどみんな存在感が希薄。『花束』においてその代わりになるのがサブカルの固有名詞なのか? それはなんか違うか。それよりは、絹ちゃんがオダギリジョーと寝たんじゃないか、という匂わせみたいな、描かれていない場面のほのめかし、のほうか。

 完全に一致してたはずの二人が、それぞれの仕事への向き合いかたですれ違いはじめ、破綻していく。でも、二人が、お互い以外の人との関係によって変化していく、その変化の様子そのものはほぼ描かれていない。麦くんの仕事の、ドライバーがトラックを海に捨てたエピソードと、絹ちゃんがオダギリジョーと出会って彼の会社に転職した、ということくらい。変化はお互いへの出力として表現されていた。その、変化していく経過、を、出来事として想像できるだけの手がかりはふんだんに描かれていた。主人公以外の恋愛を走らせること、をもう一段抽象化すれば、主題外の要素を魅力的に描くこと、ということになり、魅力的に描くために、必ずしもその詳細を書きこむ必要はない。勉強になる。156/605


7月23日(金)晴。朝、鴨川沿いを散歩するも、暑すぎてむり。喫茶店で涼みながらプルースト。ようやく「本巻の中心をなす」というゲルマント公爵夫人の晩餐会がはじまるが、ぜんぜんみんな楽しそうではないな。社交は楽しむものではないのかしらん。

 午後、もうひと仕事済ます。夜はアンダースローで地点『地下室の手記』。緊急事態宣言もまん防も出ていないが京都府?市?独自のなんらかのなにかが出ているらしく、八時ごろに終わって宿に歩いて帰る間、やってる店がほとんどない。けっきょく宿ちかくの天下一品で屋台の味。京都が発祥の地だそうなので、まあこれもご当地めしか。

 宿でTwitterを見ていると、あれだけ開催に反対していた人たちが、コロッと開会式を楽しんでいる。私の基準では、今回の件だと、その後反省の弁や被害者への救済を試みた形跡の見つけられなかった小山田圭吾はだめで、過去の自分の芸への反省を述べ、芸風を変えた、とかつて表明していた小林賢太郎は大丈夫だった(だめ、大丈夫、というのは、私が彼らをジャッジするのではなく、その人が制作したコンテンツをどれだけ虚心に観られるか、ということ)。すぎやまこういちや海老蔵は何も反省を表明してない、というか、ほとんど現在進行形で差別的な発言や作品づくりをしているから無理。個々の選手の奮闘を否定するつもりはまったくないし、サッカーをはじめ、私はオリンピックの競技をいくつか観ると思うし、楽しみもする。でも開会式は、スポーツとはいっさい関係ない。それなのに、ゲーム音楽が流れたこともあってか(私がフォローしてる人はゲーム好きが多い)、あれだけ批判してたのに、その作品についての記憶を綴ったり、あの作品ならあっちの曲のほうが……みたいなことをつぶやいている。五輪憲章で謳われている〈多様性〉を、クロノ・トリガーの(テーマ曲ではなく)人間ではないキャラのイメージソングを流すことで表現しているのだ、というような考察もあり、それはそのとおりかもしれないが、この大会のメインスタッフにあったいくつもの(無数の、とすら言いたい)あれこれのことを、なぜそんなに簡単に忘れられるのか。他人が何を楽しむか、について、口を出す権利など私にはなく、そっすか、とだけ思う。

 ちゃんと計測したわけではないが『花束』、交際をはじめるまでが全体の四分の一、二人の幸せな暮らしが四分の一強、だんだんすれ違っていくのが四分の一強、別れを決意してからが八分の一強、といったところ。あくまでも感覚としての配分ですが。『花束』はけっこう、恋愛のはじまりから終わりまでの過程全体に同じだけ時間を割り当ててる感じ。変化していく経過を視聴者が想像する、という、昨日考えた構造に合わせるなら、その想像の余地をせばめないために、時間を膨らませたり縮めたりしないようにしたのか。

 たしか『GOOD LUCK!!』は木村拓哉と柴咲コウのファーストキスで終わっていて、あのドラマを恋愛ものとして観るなら、出会う→恋に落ちる→つきあう、までを丹念に描いたもの、と考えられる。木村拓哉が不意打ちみたいにキスをして、柴咲コウが「へたくそ」と言ってキスをやりかえす、そこから熱烈なキスがはじまりカメラが青空に流れてそこを飛行機がスーッ、みたいなラストで、当時私は中学一年生で、何かこうドキドキした。で『GOOD LUCK!!』では、いかりや長介とか〈お互い以外の人との関係で変化していく〉という過程が詳細に描かれていた。そこに読者の想像力の余地はあまりない。だから視聴者が想像を走らせるとしたら、たぶん今後の二人の関係性、に集中する。そこについてはいっさい描かれてないから。

『花束』では、麦くんと絹ちゃんの二人の関係性の、はじまりから終わり、翌年の一瞬の再会、だけが描かれている。それぞれの親との関係(絹ちゃんの家族との葛藤、麦くんの母の不在、父の花火への情熱)はほぼ二人がいる場でしか掘り下げられないし、二人の、人生の五分の一を費やした恋愛を終えた翌年に交際をはじめた、二人にとっては重要な存在であるはずの新しい恋人たちのことも(描くべき、ということではない)。もちろん、大恋愛の次、がどうはじまるか、というのは、私自身の関心がつよいところだから目についただけかもしれない。いずれにせよ、二人以外の場所の描写を最低限にすることで、視聴者は二人の一対一の関係にだけフォーカスできるし、観終わったあとは膨大に残された描写外の出来事を想像できる。上手いな。

 一対一にフォーカスする、という構造は、ちょっと、〈ぼく〉と〈きみ〉の一対一の(恋愛)関係が、中間にある社会をすっ飛ばして世界の存亡に直結する、という、セカイ系的な作品構造と相性が良いような。セカイ系において、社会はその末端(兵器化した彼女の整備士とか破壊された街とか常識を説いてくる父親とか)しか主人公の前に姿を現さず、その先は彼ら(や読者、視聴者)には見えず、でも自分たちが世界の存亡を左右しているということだけは知っている。この、二人の関係が左右する〈世界〉を欠いたもの、が、二人の関係性以外を描かない『花束』の構造なのではないか。しかしこう何でもセカイ系に結びつけるの、いかにもゼロ年代育ちってかんじですごくいやだな。ひとまず、セカイ系の(私がよく知ってる)構造でリアリズムの恋愛は描ける、ということだけ把握しておくことにする。258/605


7月24日(土)晴。大阪へ移動し、toi booksへ。店主の磯上さんとすこし話し、前田昌良『星を運ぶ舟』(求龍堂)と山岸凉子『鬼』(潮漫画文庫)を買う。もうひとつ仕事をやっつけて、ほんとうは今日のうちに東京に戻るはずだったのだが、疲労がひどく、大阪で泊まることにする。喫茶店でプルースト、と思ったのだが、テラス席に案内され、直射日光がまぶしくてぜんぜん読めない。

『花束』、冒頭から、麦くんと絹ちゃんの台詞が完全に一致している(お互い別の人といて、たまたま同じものを見て自分の感想を言ってるだけなのに、交互に映される二人の台詞がひとつながりの言葉になっている)し、そういうシーンはいくつもあって、さすがにやりすぎじゃねえか、とたびたび思った。初対面から麦くんの家に来て、雨で濡れた髪に麦くんがおずおずとドライヤーをかけ、絹ちゃんがそれを抵抗なく受け入れる、のも、いくら仲良くなったからって心を許しすぎではないか。運命の人なのか。そういう、なんか引っかかる細部、は少なからずあって、でも、作品のなかでそのトーンが一貫してるから、最終的にはそういうものとして受け入れてしまうのか。

 あざとさ、については、ライトノベルやラブコメ漫画のたぐいを読むと鼻につくこともけっこうあるのですが、考えてみれば、そういった作品はあざとさを一定の値で保っているのかもしれない。そういうもの(初対面で仲良くなったらいきなり温風吹きかけられても動じない世界)として作品を仮構すること。そういう描きかたでなければ到達できないところ、というのはあるな。私が書いた唯一の恋愛小説であるところの「光の状況」シリーズは、リアリズム一本槍だったので、やや窮屈だったかもしれない。『花束』の(『人のセックス』や『愛がなんだ』『寝ても覚めても』の)あの浮遊感、は、体得したいところ。

 宿のラウンジに大きなテレビがあり、大運動会が流れている。男子ハンドボールの日本対デンマーク、熱中して一試合まるごと観てしまう。ベッドに入って、開会式のことを考える。開会式にまつわるツイートのこと。私が何よりいやだったのは、開会式で流されていたのが人気ゲームの曲ばかり(任天堂のゲームはなかったらしいが)だったということだ。多くの人が愛したゲームの曲を流すことで、式典にまとわりつくグロテスクな挿話に目を閉じさせるということ。私が感動したのはカエルの忠信でありロボの400年だ。そして、すべてのゲームに、個々のプレイヤーの感動がある。開会式のBGMとしてそういったゲームの音楽を流すことは、私たちがゲームをプレーすることで得た感動を盗み取ることだ。そしてその企画を、好きなゲームの曲、というだけで歓迎するのは、自分の感動を差別主義者たちに譲り渡すことだ。もちろん、他人が自分の感動をどう処理しようと私が関知することではなく、そっすか、とまた思う。開会式を観なくてほんとうによかった。

 部屋に戻ってプルースト。「からかい好きの傲慢王だわ!」、どこが面白いのか、はもちろん説明されてるけど、日本語で読むとただの罵倒じゃん、となって笑ってしまう。301/605


7月25日(日)晴。昼ごろの新幹線に乗って帰り、今日締切のコラムを書く、つもりだったのだが、ホームでパニック発作、呼吸困難になる。その後も手足のしびれが収まらず、駅の上にあるホテルのデイユースで横になる。二時間ほど寝、体調の回復を待ってようやく別便に乗車。豊橋あたりでようやく楽になり、プルースト。私が京都に行き、大阪に寄り、マスクの下で過呼吸になっているときも、ずっと〈私〉たちは長い長い晩餐会でおしゃべりを続けている。さすがに通院の必要を感じ、ちかくのメンタルクリニックを調べているうちに深夜。

 自分が若者を主人公に小説を書くとき、自分が人の親になったことがないので、どうしても親世代の扱いが難しい。若者の日常、を描くのに、必ずしも親の姿を描く必要はない。『シング・ストリート』の、主人公の母が、「お父さんはいつかスペインに旅行に連れてってくれるって言ってたのに」とつぶやくシーンがとても印象に残っているのは、あの、若者の(音楽への)衝動という、近視眼的であることが許される主題において、母親の、悲しみというにはささやかな、本人にとってだけ深刻な落胆は、外から放りこまれた異物だから。でも、だからこそ、バンド(と恋人と兄)の外の、社会なるもの、の象徴として、果たされなかったスペイン旅行、はある。『花束』の、絹ちゃんの父親の「絹ちゃんが朝帰りした!」という、一夜の祝祭感をぶちこわす言葉や、母親が強調する「社会ってね、お風呂みたいなもんなのよ」というあちこちで言ってきたのだろうあんまり上手くない比喩、麦くんの父親の〈仕送りを止めて花火大会に寄付する〉という主人公たちとはコードの違う意欲の燃やしかた、はそれと近いような。こうやって書き出してみると『シング』のさじ加減の旨さを思い出す、あれはいい映画だった。とはいえ、衝動を貫き通して海に漕ぎだした『シング』に対して、ほかならぬ麦くんがそういった〈社会〉のタームで喋るようになったことが別れにつながっていった『花束』は、現実らしいところに着地しようとした、といえるかもしれない。375/605


7月26日(月)晴、午後に雲が垂れ込め、どうやら日付が変わるころには雨が降っていた。疲労のためか、朝から吐き気と節々の痛みがひどく、有休を取る。横になってずっとプルースト。497頁に、「このあたりの本文は、校正刷への複雑な加筆や移動の結果、やや統一を欠く。」と註がある。そりゃあこんな長いの書いてたら(完成前に亡くなったとはいえ)統一を欠くとこもあるよ、となった。私もゲラの段階で細かく手を入れるタイプなので、私の遺作もこういうかんじになるのだろうか。

 麦くんの会社のトラックをドライバーが海に捨てた理由として、「誰にでもできる仕事をするのがいやになった」という供述をしていた。その言い草に私が共感するのは、私が(偽名ですが)名前と顔を出して “ほかの誰にもできない仕事”をしてるから、なのだろう。私は誰にでもできるバイトの仕事にうんざりし続けていて、それはあのドライバーと同じかもしれない。そしてドライバーの言い草に怒りを覚えて(後輩や絹ちゃんに)当たり散らすのが、麦くんが社会に順応してしまったことをよく表している。とここまで考えたのだが具合悪くて頭が回らず、明日あらためて考える……。500/605


7月27日(火)雨、午後は晴れた。朝から一昨日締切のコラム。出勤前に謝罪文とともに送稿。別の編集者から、ゲラのスケジュールの連絡があった。〈年末進行〉や〈GW進行〉のようなノリで〈五輪進行〉という言葉があるらしい。嫌だ。

 休憩時間にプルースト。が、今日は休憩室におしゃべりな人たちが来ていて、どうにも集中できず、ぜんぜん読み進められなかった。

 帰宅後、いま書いてる長篇を読み返す。めっちゃ面白くてご機嫌になる。

 麦くんの言い草ではないけれど、世の中には誰にでもできる仕事がありふれていて、そういう仕事をきっちりとこなす人がいるからこそ世の中は回っているし、その人にしかできない仕事をしている人がその人の仕事に集中できる。大学図書館で働いているときの私は誰でもできるような仕事をしていて、利用者は教授や研究者が中心で、彼らはその人にしかできない仕事をしている。私は世界的な学者たちに本を貸したことがある、が、彼らは私から本を借りたわけではない。カット一枚千円の約束ではじめた仕事が、いつの間にかカット三枚で千円になっていて、そのことを指摘したとたん「じゃあいらすとや使うんで」とあっけなく切られてしまった麦くんは、就職するより前に、誰にでもできる仕事、をはじめてしまっていた。絵、という属人的な仕事のはずなのにかんたんに取り替え可能、というのは、なんというか、とてもむなしいことだ。516/605


7月28日(水)晴。朝から作業。やや体力持ち直す。出勤、勤務、昼休みにプルースト。

『花束』で、お互いとの関係以外の場所での、ストーリーの転機と言いうるイベントは、麦くんの会社のドライバーがトラックを海に捨てたこと、と、絹ちゃんが病院とかの職場の同僚にクラブに連れて行かれ(てオダギリジョーと知りあっ)たこと。けっきょくドライバーが何を運んでいたのかも(たしか〈資材〉としか言われてなかった)わからないし、オダギリジョーの造形もふくめて、二人のイベントはいずれも、やや記号的だった、ように思う。あれらのイベントは、転機ではあるけどあくまでも二人の物語の背景なので記号の組み合わせでよく、むしろそのぶん視聴者が想像を走らせやすいのだろうか。546/605


7月29日(木)晴。朝、作業はあまり捗らず。出勤、夕方の休憩時間にワクチン、モデルナ。筋肉注射なのですこし痛いかもしれません、と言いながら刺されたが、ちょっとチクッとしたくらいだった。

 接種の日はとくべつに休憩を二時間とってよい、ということになっていて、そのあいだに『ゲルマントのほう Ⅲ』の本文を読了して仮眠。スワンの「遠くない死」が本巻のラストで告げられることを、私は巻頭の「本巻について」という文章で知っていた。予告された死の予告。

 そういえば仕事、麦くんは絵を描いてるときがいちばん楽しそうだったな。絹ちゃんは、大学卒業後、ジェラテリアでアルバイトをして、簿記の資格を取って病院の事務で働き、その後オダギリジョーに誘われてイベント会社に転職した。絹ちゃんは何かのイベントの案内の仕事をしてるときがいちばん楽しそうだった気がする。なぜだろうな。好きなことを仕事にする、ということを絹ちゃんが果たせているから、というのはその通りなんだけど、じゃあ絵が好きな麦くんが美術館でもぎりの仕事をして楽しいか、というとたぶんそうではない。二人とも誰にでもできるような仕事をしてるのは同じのに、あれだけ表情がちがうのは、自分が仕事において交換可能な存在であることを受け入れているかどうかなんじゃないか。麦くんは二度プロポーズをし(てしまっ)たけど、一回目は(絹ちゃんが“好きを仕事にする”ために転職すると告げたことで)自分が誰にでもできるし好きでもない仕事をしてると自覚したとき、二回目は別れ話をはじめる直前、いずれも、自分が交換可能な存在だと自覚させられたときだった。だからこそ、交換不可能性を公が担保してくれる結婚制度に乗っかろうとしたのか。しかしこう考えてくると、ラストの、背を向けたまま手を振り合うところ、お互いに、相手がいま手を振ってる、と、見なくてもわかっていたんだと思うのだけど、あれは、お互いがお互いにとって無二の存在だ、と確認するシーンだったのではないか。別れを決めたことで二人はまた仲睦まじく過ごすようになった。お互いがお互いにとって交換可能だと意識した、だけど、人間なんてしょせん全員交換可能で、交換可能なうちではいちばん自分に近い存在なのだと、別れを決めたあとの穏やかな日々でお互いにわかったのだとしたら、なんで他人にならなくちゃいけないのか。冒頭とラストのシーンで、けっきょくお互いにいっさい言葉を交わさずに別れるのは、単にあの背中越しに手を振り合うのがやりたかっただけなんじゃないか。『人のセックス』のみるめくんとえんちゃんも、別に恋仲ではないけどずっと親しくしつづける。麦くんはストリートビューで自分たちの姿を見つけてはしゃいでる場合ではない。というかなぜおれが二人がまた仲良しになるルートを必死に考えているのか。

 休憩後は二十二時まで勤務。痛くもならず、腕は真上まで挙げられるし、熱もなさそうで、安堵しつつも拍子抜け。空腹のあまり帰りにドミノピザをテイクアウトし、サイドメニューもふたつつけた、のだが、副反応に〈異常なほどの空腹〉とかあっただろうか。580/605


7月30日(金)曇。ワクチンを接種したからか、十時間くらい寝ていた。時間が経つにつれて左腕が痛くなってきた。午前中は資料読み。

 KICK THE CAN CREWと岡村靖幸がコラボした「住所」という曲があって、そのサビで岡村ちゃんが「そうさ、住所、一緒のとこにしよう」と歌う。一緒に住もう、同棲しよう、ではないことが印象に残っていて、ときどき思い出す。麦くんは、家族との折り合いの悪さを愚痴った絹ちゃんに、思いつきみたいな軽い口調で「え、じゃあ一緒に住む?」と言う。プロポーズのタイミングの悪さが際立つ麦くんだけど、同棲の誘いも良くなかったな。でもそのときは二人がいちばん仲良い時期だったから、その残念さも愛嬌みたいなものとして受け入れられ、二人は幸せに同棲をはじめていた。そういえば麦くん、「べつのパン屋で買えばいいじゃん」はほんとうにだめだった。『花束』、綿密に計算された作品で、だからこそ、麦くんのだめな言動がタイミングも質も完璧すぎる。思い出すたびに、ありゃだめだよ麦くん、となる。

 午後ベランダで、積年の課題だったエアコンのフィルター掃除。五ミリくらい埃が積もっていた。掃除後、吹き出してくる風の質が違う。冷風を浴びながら「氷の世界」を歌っていると、外では雷が鳴り出して豪雨。タイミングが良かった。605/605


7月31日(土)晴。腕と頭がひどく痛む。ロキソニンを飲んで出勤、勤務。休憩中にベン・シャーンの写真集を読んだ、のだが、アメリカで出版されたもので、たった三ページの英語の序文を読むのに手こずって休憩中には読了できず、退勤後にちょっと残ってさいごまで読んだ。

 住所を一緒のとこにした麦くんと絹ちゃんは、たしかに幸せそうだった。「ぼくの目標は絹ちゃんとの現状維持です」と言い切った麦くんは、端から見ればだんぜんだめだけど、しかし、当時幸せの絶頂だった麦くんのその気持ちはわかる。離婚したとき、バイト先の店主や常連客から、「まあ、おまえらは結婚ってか、ただつきあってたのが別れた、くらいに思ってるよ」と言われたのを憶えている。慰めるかんじの言いかただったけど、あれは、私たちの同棲を、おままごとのように見ていた、ということだったのだろう。麦くんと絹ちゃんの幸せな生活を、私が、どこか微笑ましく見ていたように。『花束みたいな恋をした』という題は過去形で、だから、二人がいずれ別れることをずっと予期しながら観ていた(冒頭のシーンでは人間関係が正直ちょっとぜんぜんわからず、完全に忘れていた)。お互い以外の人間関係の描写が最小限におさえられていて、二人の共通の友人のこともよくわからない。友人の結婚式で、二人がそれぞれの友人に「今日別れ話をする」と決意を告げるシーンでも、友人はいずれも、びっくりする、という以上のリアクションは取らず、二人の行動に関与してくることはない(というかあの二人の名前もわからない)。でも、たしかに何人かいる共通の友人たちは、二人の別れをどう見ているのだろう。私が『花束』を観たのはもう十日も前で、細部はほとんど憶えていない。私が名前をわからない友人たちも、作中で名前を呼ばれたり、なにか決定的な役割を果たしていたかもしれない。時間が経てば経つほどディテールはこぼれ落ちていって、観ながら抱いた感情の、感触だけが残っている。忘れてしまいたくないからこうして日記に日々書いてきたのかもしれない。


8月1日(日)晴。腕、副反応の痛みはほぼ消えたものの、昨日までに、へんに庇って動かしていたからか、肩の関節が痛い。

 もう一度『ゲルマントのほう Ⅲ』。二読目はそれほど精読ではなく、一読目のメモを見返したりしながら、ピックアップできそうなところを確認しつつ読む。301/605


8月2日(月)晴。朝起きて二読目を進め、出勤。昼休みにも読み続けたが、残り数ページのところで休憩時間終了。長過ぎる。

 帰宅するとだいたい疲れ切って床に打ち上がってしまうのだが、今日はけっこう元気。本文を二度目の読了。挟んでたメモや引用できそうなところを一通りWordに転記して、エッセイの大まかな流れを書く。さすがに疲れ切り、風呂にも入らず寝る。559/605


8月3日(火)曇、とおもいきや出勤中にひどい雨が降り出し、しかし、職場に着いて働きはじめるとわりとすぐ晴れ、けっきょくほとんど快晴になる。これだけ天気の、気圧の乱高下があるとさすがに具合が悪くなる。とはいえ、天気の急変のわりには頭痛はおだやか。休憩室で誰かがフライドチキンを食べたらしく、残り香がすごい。私は札幌にいたころ一年だけマクドナルドで働いていて、だから客として行くのはもっぱらモスバーガーで、かならずモスチキンを食べた。北9西3の、茶色いレンガのマンションの一階。ヤナがバイトしていて、大学に入って最初の数ヶ月だけ親しくしていたヤナと私は、私が二年生になってからそこで再会した。ヤナは留年。留年したんやけど週五でシフト入れとって、おれ今期いっこも授業取ってへんねん。ヤナはそう言って、しかし悪ぶるというよりはそんな自分に呆れたような感じで笑った。ヤナは週五で通っていたが私はせいぜい月に二、三度で、その年度の終わりに引っ越して、ちがう店舗が最寄になった。私たちは再会以来そのモスでしか会わなかったし、それもせいぜい両手の指で足りるくらいの回数だった。ヤナが揚げてくれたモスチキンは他の誰が揚げたものともまったく同じ味で、ヤナはよく、会計をする私に手を振りながら、でかい肉にしといたる!と笑ったが、いつもたいしてでかくはなかった。三年生になって、私が文芸部の新歓のあと、部の友人とそのモスに行ったときはヤナはおらず、ただ、私とヤナの関係を知っている店員が、柳川くん、年度末で辞めちゃったんです、と言った。中退して大阪に帰った、ということ以上のことは彼女も知らなかった。それ以来私はヤナに会っていないし、新しい家の最寄りのモスには変わらず月に二、三度は行っていたし、べつにモスチキンを食べたからってヤナを思い出すようなことはない。

 退勤後、エッセイを書き終える。締切まで寝かす。


8月4日(水)晴。疲れが蓄積してるかんじ。今日は松田直樹の命日。退勤後、マクドナルドの、ハワイのやつを買って帰る。ハッシュポテトが挟まってるやつ。じゃがいもの入ったバーガーはだいたいいまいちなのだがこれはソースが良く、おいしい。マクドナルドの期間限定のやつが美味いのはうれしいことだ。

 上野動物園の双子のパンダが育っていく様子、の、週に一度公開される動画がここ最近の楽しみで、今日も観て、機嫌が良くなる。ずっと、あんなもんただのでかい白黒熊じゃねえか、と斜に構えていた、のだが、そして今も、要はでかい白黒熊でしょ、と思ってもいるのだが、単なる白黒熊がなんでこんなに愛くるしいのか。まだでかくないからか。次回はまた一週間後。



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