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三つの性と死

 

ジャック

家出をしたあなたが マルセイユの街を 泣きそうになりながら 歩いていたとき

わたしが その すぐ後を 歩いていたのを 知っていましたか?

高野文子『黄色い本』

 

〈黄色い本〉──『チボー家の人々』全五巻を読了するにあたって実地子は、高校生活最後の日々をともに過ごした長篇の主人公に向かってこう問いかける。コマのなかでジャックは、静かな雨のなかを一人でとぼとぼ歩いている。その場面は、『チボー家の人々』のなかではこう描写される。〈夕立がせまっていた。大粒な雨が、歩道の上に落ちはじめた。彼は、つい近くにはげしい雷鳴をきいてふるえあがった。そして、柱廊のついた破風のかげ、石段にそって歩いて行った。と、ひとつの会堂の入口が、すぐ目の前にあいていた。彼は、そのなかへはいって行った。〉ほんの六センテンス、長大な作品の最後に振り返るにはひどく短い。

 私は『黄色い本』を先に読んでいた。だから同書で印象的に描かれていたこの場面のことを、本作を読みはじめながら思い出していたし、ジャックが家出先のマルセイユで、それまでぴったりと行動をともにしていたダニエルとはぐれてからは、高野の漫画の絵と同じように雨のなかを一人で歩く場面を探しながら読んでいた。ごく短いこの一節を、私は高野に示唆されなければ、これほど強く印象にとどめることはなかっただろう。

 

 山内義雄訳、黄色い表紙の白水社版第一巻には、第一部〈灰色のノート〉から第三部〈美しい季節〉の前半までが収録されている。主人公ジャックの年齢でいえば十四歳から二十歳、人格が形成されていく時期だ。ダニエル・フォンタナンとの疑似恋愛のような特別な友情、学校や感化院での抑圧と性の目覚め、無垢な少年が大人になりかわろうとする日々。

 性と死、というのは、古くから文学で追求されてきたテーマだ。本巻で著者のマルタン・デュ・ガールは、ジャックとダニエル、そしてジャックより九歳年長の、ということは小説がはじまった時点ですでに二十三歳だった兄アントワーヌの三人に、この二つのテーマにまつわる経験をさせている。

 第一部〈灰色のノート〉において、マルセイユでジャックとはぐれ、工場の脇の暗がりで野宿をしようとしていたダニエルは、通りがかった女に拾われる。翌朝、スカートのホックを外してベッドにもぐり込んだ彼女は、「あっためてよ」と、〈ささやくようにそう言った〉。作中で彼女の名前が明かされることはない。

 彼女の家を辞し、ジャックと再会したダニエルは、一夜をどこで過ごしたか訊かれて、「あの、ベンチの上でさ……それに、ぼくは大部分歩きまわっていた」と答えた。交換日記のようにジャックと交わした手紙のなかで、〈ぜったい誠実なひとりの友〉であり、〈絶えずきみを思い、あらゆることについてきみとともに愛し、きみとひとしく感じている〉と自認するダニエルが、もしかしたらはじめて、ジャックに対して嘘をついた瞬間だ。

 そんな二人の前で事故が起こる。荷物を満載した四頭立ての馬車が下り坂でブレーキをかけそこね、荷物は散乱、馬のうち二頭は立ち上がれないほどの重傷を負い、一頭は鼻から血を噴き出して死んだ。〈ぶどう酒の流れるみぞの中に横たわり、ねずみ色の頭をぴったり地につけ、舌をだらりと出し、海緑色の目をなかば閉じ、両脚をからだの下に折りまげ、さも死にながらも、屠殺者の運び去るのになるたけ便利なかっこうを取ろうとしてでもいるようだった。〉ぶどう酒と馬の血が混ざり合って流れていただろうこの〈みぞ〉は、ジャックとダニエルという無二の友の間にはじめて現れた断絶でもある。

 第二部〈少年園〉の末尾では、チボー家の家番であるフリューリンクばあさんが病に没し、孫娘のリスベットがストラスブールからやってくる。彼女はかつて祖母が卒中で倒れたときも、看病のためにチボー家に滞在していた。その間に彼女は、ジャックとはキスを交わしたり身体を触り合い、ドイツとの国境の街から来た人らしく、ドイツ語で〈かわいい人〉を意味するLieblingと呼びかけもするような関係になっていた。

 フリューリンクばあさんの葬儀の前夜、アントワーヌが医師の仕事のために不在の家で、ジャックとリスベットは身体を重ねる。ブラウスをはだけ、服の下の素肌をジャックの手がまさぐるのを感じながらリスベットは、「いっしょに、フリューリンクおばさんのために祈りましょう」と〈つぶやくように〉言った。〈彼は、少しも微笑しようという気持になれなかった。彼は真剣に抱擁していた。それはたしかに、祈ってでもいるようだった。〉死者への悼みと性欲が、この場面ではまったく同じ仕草として表現されている。

 そして第三部〈美しい季節〉のなかではアントワーヌが、性と死にまつわる経験をする。父親の秘書シャール氏の〈ばあやさん〉の姪であるデデットが交通事故に遭い、氏の家に駆けつけたアントワーヌが手術をすることになった。先に呼ばれていた若い医師や隣人の女性ラシェルの協力もあり、手術は無事に成功するのだが、一時は自発呼吸が止まるほどの重傷だった。

 若い医師が去ったあと、ともに難局を乗り切ったアントワーヌとラシェルは、疲れ切ってその場で眠りこむ。翌朝、半眠半醒の状態でアントワーヌは、太腿のごく一部、〈てのひらほどの大きさもない面積〉が触れあっていることに、〈一種の肉欲的な快楽〉を感じる。そしていったん別れた二人はその日の昼に再会し、ラシェルは自分の家にアントワーヌを引っ張り込む。キスを交わし、「ああした晩って、興奮しますわね……」と〈つぶやくように〉言うラシェルの向こうには、開け放たれたドアから〈桃いろの絹をつけたベッド〉が見えている。

 三度とも、最後は女性のほうから誘いかけるようなことを小声でつぶやいたり囁いたりする、というのはちょっと著者の手癖なのか趣味なのか、何かしらの性向を感じないでもないがそれはさておき、本作において、三人の性体験の前後には必ずといっていいほど死が描かれている。デュ・ガールは、生と背中合わせに存在する二つのテーマを、主要登場人物たち三人の経験を通じて反復することで強調して描く。

『チボー家の人々』五巻本の第一巻は、もともとは全八部、全十一巻で出版されたLes Thibaultの、第一巻から第三巻にあたる。その三冊が一冊にまとめられているのは日本独自のことで、出版当時すでに晩年で、訳者あとがきによれば〈たえず健康上の脅威にさらされ〉ていた著者の意向だったとは思われない、が、こうして一冊のなかで三つの性と死が反復されているのを読むと、必然性のあることだったようにも感じられる。

 

 冒頭で引用した一節に続いて実地子は、ジャックがメーゾン・ラフィットの小径で誰かとキスをする場面や、スイスのどこかでチョコレートを煮立たせている場面に言及している。第一巻の終盤、高等師範学校(エコル・ノルマル)に合格したジャックは、学校がはじまるまでの二ヶ月を、父の別荘があるメーゾン・ラフィットで過ごしはじめた。三つの性と死を読み終えて、私はまた、高野の絵と合致する場面──菩提樹がちかくにある小径で、女性はテニスラケットらしいものを持っている──を待ちかまえるようにして二巻を開く。

 

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