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受け渡される人生の時

 スワンは遠からず死ぬ。『失われた時を求めて』七巻『ゲルマントのほう Ⅲ』は、死病を告白したスワンにむけてゲルマント公爵が投げかける台詞で幕を閉じる。「やあ、いいですか、そんな医者どものたわごとに打ちのめされていたらダメですよ、まったく! どれもこれも藪医者なんだ。あなたはピンピンしている。われわれみなのお葬式を出すんですよ!」しかしそもそも、ゲルマント家の人間でないスワンが〈われわれみなのお葬式〉を、参列するならまだしも〈出す〉はずがない。だからこの、〈まるで舞台の袖に向けて発するような大音声〉は、その比喩のとおり、舞台上で叫ばれる偽りの励ましでしかない。公爵にとっては、スワンの病より、遅刻しそうな晩餐会のほうが重要なのだ。そのことは、身中に苦しみを抱えているスワンには誰よりもよくわかったはずだ。その場に居合わせた語り手はどう思っただろう。公爵の台詞で終わる本巻には、〈私〉の受け止めは書きつけられていない。本作には、プルースト自身の体験がふんだんに織り込まれているという。だとしたら、このスワンの死病の告白と公爵の励ましも、実際に彼が耳にしたことだったかもしれない。

 訳者は綿密な調査をもとに、さまざまな人物やその言動、出来事やモチーフの参照先を同定している。しかし、五十一年間のプルーストの生涯には、書簡やエッセイのようなテキストとして残されなかったもののほうがきっと多い。祖母の死、友情、社交界で交わされた、実際にはこの小説に書きこまれたよりも膨大な会話の数々、そして恋愛のこと。

 本巻での〈私〉は、ステルマリア夫人に懸想している。ステルマリア夫人は、一巻で描かれた語り手のバルベック滞在中に見かけたときと、本巻で語り手とやりとりする手紙と、彼が迸らせる妄想のなかにしか登場しない。そして訳者あとがきによれば、彼女は「このあと本作から完全にすがたを消してしまう」。とはいえもちろん、彼女はあくまでも〈本作〉に現れないだけで、実際には〈私〉との接点がもっとあったのかもしれない。いずれにせよ、ステルマリア夫人は〈私〉の誘いを断った。語り手はしばし呆然とし、食器棚の角に丸めたまま放置されていた絨毯に顔を突っこんで号泣する。しかし、友人のロベール・サン=ルーが突然訪れてきたことで、その悲しみも、わりあい呆気なく終わる。

 語り手はサン=ルーとレストランを訪れる。彼は〈私〉との会話を中断して、たまたま会ったフォワ大公と話す。そして戻ってくるとき、ロベールは壁際のシートの上を跳ねるように歩く。

「サン=ルーは大広間にはいって来るや否や、広間の壁に沿ってめぐらされた赤いビロード張りのシートのうえに軽やかにとび乗った。(…)テーブルとテーブルのあいだにはある高さに電気のコードが張ってあったが、サン=ルーは意に介さず、競走馬が障害物をとび越すようにそれらを巧みにとび超えてみせた。(…)そして今度は友人たちの背後を通らざるをえなくなったサン=ルーが、シートの背もたれの縁のうえによじ登り、そのうえを平衡をとりながら進んだときには、部屋の奥から遠慮がちな拍手喝采がわきおこった。ようやく私のところまで来たサン=ルーは、まるで玉座の前に進みでた首領のごとく的確にぴたっと止まり、私に一礼をして、うやうやしい忠誠のしぐさでビクーニャ織のコートを差し出すと、すぐさま横に座って、私が身動きひとつしないうちに、軽くてあたたかいショールのようにそれを私の肩にかけてくれた」。何度読んでも気持ちの良い場面だ。訳註とそこで引用された書簡によると、「プルーストが愛情を寄せた七歳下の外交官で、第一次大戦に従軍して戦死した」ベルトラン・ド・フェヌロンは、かつて「カフェのシートのうえを歩いた」ことがあるという。この場面の爽快さ、コートを掛けてもらった〈私〉の感情を説明するのに、このうえなく明快な説明ではある。が、著者の、小説に書き込みはしなかった感情を参照して納得するのは、どこか後ろめたい。

 プルーストは同じ書簡に、「サン=ルーには鍵となるモデルはありません」とも書いている。とはいえ、壁に掛けた銃が発砲されなければならないように、晩年の語り手が若き日のサン=ルーを回想する場面に滲み出た哀しみは、いずれ生起しなければならない。〈一九一四年に戦死した私の哀れな友人〉を想起しながらこれほどにエモーショナルな描写をしてしまった以上、作中でその立ち回りを割り振られたロベールも、どこかで〈哀れ〉な死を描かれなければならないのではないか。

 そう考えながら読み進めていくと、〈私〉が彼について、頻繁に過去形をつかって語っていることに気づく。

 人はしばしば、たとえば関係の終わった恋人について語るとき、あの人はスピッツ好きだからさ、というように、いまだにその恋人が隣にいるように現在形をつかう。ゲルマント邸で、社交人士たちのやりとりに耳を澄ませながら、語り手はこうも分析している。「レ・ローム大公妃は大公が妻に惚れていたごくごく短い期間とはいえ決まりごとのように義母の悪趣味を嘲笑していたので、妻への愛情がなくなった後も氏の脳裏には、みずからの母の凡庸な才気への軽蔑の念が、そもそも母にたいする深い愛着や敬意と結びついて生き残った」。恋情が失われたあとも残ってしまう感情がある。関係のなかで、その人との間の感情よりも、その人によって方向づけられた感性のほうが、身体に染みついていつまでも消えず、その性向は思慕が終わったあとにも続いていく。だから現在形をつかうのだ。今もどこかでスピッツを聴いているかもしれないかつての恋人について、薄れはしても消えることのない、その人と出会い、ともに過ごし、そして関係が終わった記憶を、かたわらで参照しながら語っているから。

 ロベールのことを過去形で語るのは、〈私〉の晩年において、彼の存在がすでに失われていることを示唆している。それがフェヌロンのような死によるものか、それとも、決定的な仲違いによるものなのかはわからない。いずれにせよ、ロベールの突然の訪問によって、ステルマリア夫人に袖にされた哀しみは薄れた。彼との夕食につづいて、ゲルマント公爵邸での晩餐会の様子が描かれる。ゲルマント夫人への恋は、母が祖母のことを持ち出して窘めることで終わった。祖母が死んだあとも、夫人への思慕がよみがえることはなく、〈私〉は社交界に身を投じていく。

 死んでいこうとする親族は、その死と死にまつわる一連の儀式が終わってようやく、その存在自体がずっと心の重石になっていたと気づかれる。人を看取るとき私たちは、その人とともに過ごした時間を偲んで涙を流す。その時間が過ごされたという事実は失われないのに。人は限りある人生の時間をいろいろな人と共有し、受け渡し合った時間の集積として関係は成熟していく。私たちが悲しむのは、その人が、自分と過ごした記憶を抱えたまま消滅してしまうからだ。あるいは、本作の題の〈失われた時〉とは、そうやって死とともに消滅する、誰かに受け渡した自分自身の人生の時のことなのではないか。

 とはいえ、まだようやく折り返し地点に着いたばかりで、先の展開を予想するのは勇み足だ。社交を続けながら〈私〉は、祖母の死をほとんど顧みることもない。語り手によれば、公爵夫人にとって、ゲルマント家で重んじられる〈才気〉という概念は、〈才気とは知性がもっと高次のはるかに洗練され類まれな形にまで高められ、ことばに顕在化した才能の一形態〉なのだという。ここに、なぜ彼らがこんなにも社交に血道を上げるかが表れている。社交は、誰かと交情をむすぶことが目的ではなく、自らの〈才気〉を顕示するための場なのだ。公爵夫人が〈私〉を晩餐会に招待するとき、「あら、社交界はお嫌い?」と問うのも、その顕示欲のレースに乗れるのか、という挑発だったのかもしれない。

 そして本巻において、社交界の役割はもうひとつある。末尾ちかく、ゲルマント公爵邸の玄関先で、スワンは自分が死病に冒されていることを告げる。すこし前には、公爵の従兄の危篤の報せを受け取ってもいる。しかし、従僕が告げる「まもなく侯爵さまのご臨終かと、みなさまご嗟歎のごようす」の言葉にも、公爵は「おお! 生きているか」と返して地口を飛ばす。夫妻の語りは社交のモードに固定されたままだ。この空虚な明るさは、死という忌みごとから目を、気を逸らす身ぶりなのだろう。祖母を亡くしてほどなく社交界に参入していく〈私〉は、本能的にそのことを分かっていた。しかし、ゲルマント邸で、本巻の半分におよぶ長大な社交の場を経験したにもかかわらず、唐突にはじまったこの会話に乗れない〈私〉は、単に社交人士として未熟なだけではなく、まだ祖母の死を終えられていないのかもしれない。

 祖母は死んだ。スワンは遠からず死ぬ。そして、もしかしたらサン=ルーも。語り手はこれからいくつもの死を見送って、その途方もない悲しみから目を逸らす流儀を体得していくのだろう。とはいえ、もちろん、サン=ルーの死は、本巻までを読んだ私が想像しているだけにすぎない。もしかしたらプルーストは、フェヌロンのかわりに、作中でだけでも、この友人を生きさせることにするかもしれない。祈りを込めて。

 しかし、もしロベールが、物語の要請を乗り越えて生きのびたとして、そこから先は、フェヌロンとの関係をもとに書くことはできない。物語に背を向けて彼との交情を書きつづけることはきっと虚しい。


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