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長い寝覚め

 もう取り壊された実家に住んでいたころ、私の部屋は路地に面した二階にあった。軽でもすれ違えないほどの細い路地で、突き当たりまで左右に三、四軒ずつあり、すべて借家だったはずだが、私たちがそこに住んでいた十数年の間、住民が入れ替わることはなかった。向かいの家は我が家と同じ二階建てで、そこの父親はたしか市内の、私が通わなかった高校の語学教師で、ときおり早朝に低くぼそぼそと外国語を読み上げるのが聞こえた。私の部屋の照明をつけると、障子と磨り硝子を通りぬけた光が向かいの外壁を明るく照らす。九歳ではじめて自分の部屋を与えられたころは、ボヤッとした私の影が見えるのが楽しくて、窓に向かって踊ったりしていた。お向かいにとっては迷惑なことだっただろうが、子供のすることだからか、苦情を言われたことはたぶんない。それにキッチンがあるらしい一階は夜中まで明かりがついていたし、二階は使っていないのか、窓の向こうはいつも暗かった。

 私の部屋の下には両親の寝室があり、磨り硝子の窓も同じ方に向いていた。両親は、朝は外の光を浴びて目覚めたいからといって、大して日当たりのよい部屋でもないのに夜寝る前は明かりを消して障子を開けていて、そうすると、向かいの壁が照らされているのが見える。訝しく思って窓を開けると、ボヤッとした人影が踊っている。九歳児が起きているには遅い時間で、父が階段の下から、早よ寝んさい、と怒鳴り、向かいの外壁が両親の部屋からも見えるということを思いつかない私は、なぜ起きていることがばれたのかわからず、親というものの神通力が恐ろしくなり、日付が変わったあとはどんなに眠くなくても絶対に明かりを消すことに決め、その習慣は進学のために実家を出る十八歳まで続いた。眠れない夜は障子を開けて、路地の入口の街灯の光が窓からさしこみ、反対側の壁を照らしているところに本を掲げて読んだ。小説は文字が多くてうす暗いなかでは読みづらく、そういうときに読むのはだいたい漫画で、それでも熟読なんてできないから、一度読んで筋を知っている『赤ずきんチャチャ』とか『東京BABYLON』とか、進学で家を出た長姉が置いていったものばかり読んだ。作品の内容はもうほとんど憶えていないのに、弱い光に照らされた星史郎の表情なんかは、前後の文脈を欠いたまま、ずっと記憶に刻まれている。

 独り暮らしをはじめれば、何時まで起きていようと叱ってくれる人はおらず、暗いなかで漫画を読むこともなくなった。それから十数年経って、眠れない夜にものを考えることも減った。明日も早いのだから、と漫画を閉じて布団に入っても、眠くないな、と考えるだけで目は冴えて、煤けた天井の、たぶん木ではないけど木目がプリントされたパネル同士のつなぎめを目で追ったり、そこから屋根が割れて星空が見える様子を想像したり。スマホを手に入れてから、そういう夜がなくなった。眠れなければSNSを見、最新の投稿まで読んだらサッカーニュースのサイトを開き、未読のものをぜんぶ読むころにはSNSに新しい投稿があり、そのあとは政治とかのニュースも見て、Youtubeを開いて海外サッカーの好プレーとか乱闘の動画を観て、木材とかレジンで固めた材料をスピンさせて彫って何か作る、みたいな動画も観てしまう。そうするうちに朝になっていて、力尽きて二、三時間寝る。最近そういう日ばかりだ。

 岩波文庫版の『失われた時を求めて』(吉川一義訳)は、「長いこと私は早めに寝(やす)むことにしていた」と語り出される。訳者は巻頭の「本巻について」のなかで、この場面を「「私」の晩年にあたる」と指摘している。死を目前にした語り手の、不眠の夜。夢うつつに頭のなかで過去を巡らせるのは、冒頭と有名なマドレーヌの挿話の直前、そして末尾の三度だ。スマホなんてなかった時代の「私」はこうやって、眠れぬ夜をやり過ごした。それがこんなに長くなるなんて、いくらなんでも眠れない日が多すぎるようにも思うが、しかしプルーストの写真はだいたい目の下に濃いクマがあり、ほんとうにぜんぜん眠れない人だったのかもしれない。

 生涯を過ごしてきたさまざまな〈部屋〉を経めぐった回想は、幼少期にバカンスで滞在したコンブレーに逢着する。そのころも、語り手は寝付きの悪い夜、母親におやすみの接吻をせがんでいる。何の因果か生まれ落ちてしまった少年が、未知のことばかりの世界でどうやって成長していくのか。私は七巻での語り手の姿を知っている。彼が本巻をはじめに、長大な、その長さそのものが作品を象徴するほどの長大な回想をつづけることも知っている。そういう人物がかたちづくられた日々のことが、四百ページにわたって描かれる。

 本文中にときおり、ずっと後から振り返ったような記述が挟み込まれる。「ゲルマントにかんしては、私は将来もっと詳しく知ることになるが、それはずいぶん後のことに過ぎない。私の思春期のあいだ、メゼグリーズは地平線のように到達できないところ、どれだけ遠くまで出かけても、もはやコンブレーのそれとは似ても似つかない土地の起伏により、視界から隠れてしまうところであった」と語り手は述懐する。私はこの「ずいぶん後」を知っている。私は某誌の企画で、七巻『ゲルマントのほう Ⅲ』だけを読んだ。ゲルマントのほうで起きることの顛末を、将来の「私」が知ったことを知っている。ゲルマントのほうで起きる、祖母の死を、いくつかの恋と幻滅を、スワンの死の予告を。きっと一巻から順に読む読者が思わせぶりな伏線として読み飛ばすだろうこの記述がつよく印象に残った。

 そういう瞬間は何度もあった。七巻を先に読んだ私の前にはすでに死を終えた人として登場した語り手の祖母が、本巻ではまだ元気で、甥(ゲルマント公爵や、七巻で語り手が帽子を破壊するシャルリュス男爵を指すとも考えられる、と訳註にある)のことを「いやはや、娘や、あれは品がないね!」と、いくぶん楽しげにこき下ろしたりする。死を約束された人物がいきいきと喋っていることを、私はものがなしさを感じながら読んだ。しかし私たちは、どんなに明るく元気な人でも、誰もがいずれ死ぬことを知っている。私の祖父母は私が生まれたときからすでに高齢だった。私は生前の祖母や祖父と話しながら、幼い子供の残酷な目で、老い衰えた様子を見、この人たちはもうすぐ死ぬんだろうか、と思ったことを憶えている。覇気や肌のハリ、声の力のなさ、落ち沈んだ思考、この人には死期が近づいている、と考えながら誰かと話すことはたまにあり、しかし、私たちは小説を読むとき、会話や地の文でそう説明されなければ、その人物の死が近いと考えることはない。

 昔住んでいた街で毎年の春、大規模なダンスコンテストが、市の中心部の公道を封鎖して行われていた。ファイナルコンテストに出場できるのは十チームで、順位の低いほうから演舞をする前に、十一位だった(つまり次点で予選落ちした)チームが踊った。審査員たちがファイナルの十チームを採点するにあたって、十一位のチームの演舞を八十点として基準点を定めるためだという。ファイナルは〈西八〉という、町の区割りをいくつも跨いで東西に延びる公園の、住所でいうと西八丁目のエリアにつくられたステージで行われる。最終日の西八は、参加する全チームにとって憧れのステージで、惜しくも十一位、ファイナル進出はなりませんでしたが、夢の西八で万感の演舞を披露します!みたいなことを、テレビの生中継でアナウンサーが叫ぶのが毎年のお決まりだった。シリーズを一巻から順に読みはじめる前に読んだ『ゲルマントのほう Ⅲ』は、私にとって、十一位のチームみたいな、作品全体の基準点になってしまったのかもしれない。私は一巻を読み終わり、二巻を手に取ろうとしているいまも、あの七巻の前日譚を読み続けているような気がしている。それは、仕事のためにいささか妙なはじめかたをしたのが原因で、そういう得がたい出会いをしたことを、私はけっこう楽しんでいる。

 緻密な伏線、四百字詰原稿用紙で一万枚にもおよぶ長さなのに語のひとつひとつにまで気の払われた文章、そしていくつもの美しいシーン、語られるべき要素は無数にありながら、私が最も印象に残したのは、(どうやら語り手が晩年まで執着することになるらしい)眠ること、ちょっとした覗き趣味や性欲、そしてコンブレーでの家族の習慣らしい散歩だ。こうして数え上げてみるとずいぶん健康的だ。語り手は、友人のブロックを通じて知ったベルゴット(訳註によるとアナトール・フランスを念頭においているらしい)の作品についてこう語る。「ずっと後に私は本を書きはじめたが、その出来が充分とは思えず、とうてい同じ調子で描き進められないと感じていたのに、それと変わらない文章にベルゴットの本で出会うことがあった」。私は自分自身をオートフィクションの書き手だと位置づけていて(〈私小説〉という語はすでに意味が拡大しきっていて、Wikipediaには「自伝的でない純文学を見出すのはかなり困難になる」とすら書かれている)、『失われた時を求めて』はその最大の例だ、と思いながら読んでいたのに、この記述にぶち当たるまで、語り手が後に作家になることに思い至らなかった。

 書く人にいずれなる人の幼年時代の回想は曙光によって遮られ、晩年の語り手が完全に覚醒したところで本巻は閉じられる。世界中でくり返し訳され、読まれ、論じられることになる長大な作品の、長い長い冒頭の終わり。「その住まいが追い立てられたのは、カーテンの上部に惹かれた青白い線とともに夜明けの光が指をあげて訂正の合図をしたからである」と末尾の一文を書いて万年筆を置いて、プルーストは何を考えたのだろう。


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