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恋について

 鷲鼻で目は緑色、額は広く禿げつつあり、女好きの、中年にさしかかった独身男。一九八四年の映画では三十代半ばのジェレミー・アイアンズが演じていた。『失われた時を求めて』の語り手は、スワンの恋を語り起こすにあたってこう切り出している。「人生のこのような時期になると、人はすでに何度も恋愛を経験しており、もはや昔のように心が不意打ちを食らってなすすべもないまま、恋愛がひとりでに思いがけない固有の宿命的法則にしたがって進展することはない」。自分はどぶに捨てるようなセックスを何度もしてきた、と上野千鶴子がどこかで書いていた。スワンの恋愛はどうだっただろう。スワンが誰かの〈どぶ〉だったこともきっとあったのだろう。そして『失われた時を求めて』が、晩年を迎えた〈私〉の夜夜中の回想としてはじまったことを考えると、この恋愛観は生涯を通じて〈私〉が獲得したものでもあった。「愛しているという喜びゆえに愛しているだけで満足する術をこころえ、強いて相手からも愛されることは求めなくな」ったはずのスワンはしかし、第一篇第二部「スワンの恋」のなかで、この言葉とかけ離れた恋をする。この恋はスワンにとっても、ずっとあとに顛末を聞かされた〈私〉にとっても意想外のものだった。そしてその恋愛譚の冒頭に、その後の展開とは反する、こんなすれっからしの恋愛観を書きつけたのは、〈私〉の、スワンや〈私〉自身の恋愛観に対する皮肉だったのではないか。

 二人の恋のはじめごろ、スワンは、オデットからもらったキクの花を、家に帰るまでずっと唇に押し当てて、枯れたら机の引き出しにしまいこむ。オデットも、スワンが家に忘れていったシガレット・ケースを送るとき、「どうしてこの中にあなたのお心も忘れてくださらなかったのでしょう、それならお返ししませんでしたのに。」と書き添える。二人はまだお互いに、他ならぬこの人に惹かれているのではなく、恋愛という遊戯を楽しんでいるように思える。

 しかし、スワンはあっけなく恋に落ちる。彼が持ってきた版画に見入るオデットの姿が、ボッティチェリの絵に描かれたチッポラという女性にそっくりだったからだ。これ以降、スワンはオデットを、肉体を持った人間である以上に、〈繊細で美しい線の錯綜〉としてみるようになる。彼は百数十年後、多くの人々が、アニメやゲームの登場人物に扮して楽しんでいることを知ったらどう思うだろう。オデットにボッティチェリの絵の服を着せたりするだろうか。

 スワンの恋のクライマックスは、二人がはじめて接吻をした夜だ。二人はヴェルデュラン夫人の夜会からいつも一緒に帰った。しかしスワンが気まぐれに仕掛けた駆け引きが成功してしまい、オデットは、スワンが夜会に到着する前に帰ってしまった。プレヴォーというカフェでココアを飲んでいるから、という伝言を信じてスワンは馬車を走らせるがすでにおらず、彼はオデットを探して夜のパリを駆け回る。ようやく巡り会ったオデットと一緒に馬車に乗り込み、スワンが、彼女が胸に挿したカトレアの花が傾いているのを直して、それをきっかけに二人はキスをした。印象的だったのはそのあとのことで、スワンはその後もオデットの身体に触れる口実としてカトレアを持ち出すようになる。一度成功した手管をその後もずっと使い回すのは、なんというか童貞くさいような気もするが、スワンはこれで百戦錬磨なのだから、むしろそれほどに今回の恋に一生懸命だったのか。そして二人の間では、〈肉体所有の行為〉(すごい言葉だ)、「愛の営みをする」という意味で〈カトレアをする〉という言葉が使われるようになる。仲間とは違うサインで呼び合うたび強くなれる、とSPEEDが歌っていたのは一九九七年だが、本書はその八十四年前に発表された。愛する二人の間だけで機能する特別な言語は、世界中で無数に生まれ、そして二人が別れることで、あるいは死によって失われていく。

 本篇の白眉はそのあと、スワンの恋が潰え、彼がそのことをゆっくりと理解していく過程にある。恋のライバルであるフォルシュヴィルの登場によって、ヴェルデュラン夫人のサロンのなかで、スワンの立場がだんだん悪くなっていく。嫉妬に狩られたスワンは、オデットが「足首でもくじかないものか」とか「オデットが事故に遭って苦しまずに死んでくれたら」とか考え、オデットの家を覗き、オデットの小旅行先にこっそり行って、そのくせ行った先では彼女を避けて行動して、とだんだん常軌を逸していく。「愛しているだけで満足する」恋愛巧者の見る影もない。オデットの、フォルシュヴィルとスワンを天秤にかけた恋の駆け引きを、それが底の浅い駆け引きにすぎないと見透かしながらも翻弄されて、スワンは憔悴していく。ときおりオデットに優しくされたときですら、スワンは「すぐにふたりしてオデットの家に帰って「カトレア」をしなければならない」と焦りだす。〈カトレアする〉という二人だけの親密な言葉は、ここではすり切れた恋心の残滓の象徴に成り下がっている。しかも彼女の家で接吻をするうちに、どうやら部屋のどこかに別の男が隠れていて、オデットは彼に見せるために自分を連れ込んだのだと悟る。オデットへの猜疑心の悪循環の果てに、スワンは、〈大理石〉という何でもない単語や〈ブーズヴァル〉という地名を新聞で見かけただけで、オデットとの甘やかな記憶に、フラッシュバックのように襲われるようになる。そしてオデットは、スワンの誘導尋問によって、二人がはじめて〈カトレア〉をした夜、ほんとうは、フォルシュヴィルの家に行っていたのだと明かす。スワンがいちばん幸せだった瞬間すらも覆されて、そこから遡るようにして、二人の過去のすべてがオデットの嘘に浸されて、スワンの恋は終わる。


 打って変わって、「土地の名─名」と題された第三篇がはじまる。スワンの大恋愛のあとで描かれるのは、幼少期の〈私〉の、スワンの娘であるジルベルトへの初恋だ。しかし、スワンの恋の顛末を知っている読者の目には、幼い少年の無垢な恋物語すらも、スワンの恋に染められて見える。たとえば本篇の序盤で、〈私〉は、まだ見ぬさまざまな土地の名から、その語感や地名の文字列をもとに色鮮やかなイメージをふくらませる。〈クータンス〉は大聖堂のてっぺんに載せられたバターの塔、〈ケスタンベール〉は川辺の道に散らばる白い羽根と黄色いくちばし。ある言葉から、自分自身にとってだけ意味をもつイメージを呼び起こしていく、幼い少年の微笑ましい夢想。しかしこの恣意的な想起のありかたは、スワンが〈大理石〉や〈ブーズヴァル〉という語からオデットのことを思い浮かべたのとよく似ている。

 これ以降も、〈私〉とジルベルトの恋は、スワンとオデットの恋とよく似た道行きをたどる。それは、ジルベルトがスワンとオデットの娘だからだろうか? 少しずつ発展していく二人の初々しい恋のかたわらにときおり顔を出すスワンとオデットは、自分たちによく似た幼い二人をどんな思いで見ていただろう。〈私〉は思うように進まない恋に焦り、嫉妬し、猜疑心を抱く。きっと虚心に読めば何てことのない恋心も、その果ての奇行をつぶさにたどった読者の目にはちがう意味を帯びて見える。

 あんな破綻を迎えたのに、オデットとの恋を「自分の人生を何年も台なしにしてしまった」と総括したのに、スワンはオデットと夫婦になっている。語られない十数年に、二人の間に何が起きたのかは、私が読んだところ──一巻と二巻、七巻では明かされていない(ように思うが、ここまでですでに千数百ページ読んでいて、人生がそうであると同じように、そのすべての記述を憶えていることはできない)。プルーストは、スワンとオデットの恋を丹念に描き、その破綻から二人の結婚や娘の出産と成長は描かなかった。描かれた恋と、描かれなかった結婚──その道行きはきっと〈恋〉と名指されることはない。嘘になってしまった〈カトレア〉の隠語を、二人はときどき思い出すだろうか。

 そして本巻の末尾、ブーローニュの森での、〈私〉とスワン夫人──オデットのいきさつを描いた直後、不意に時間の流れかたが変わる。長い時が経って変わり果てた森の──そして無垢な少年から(プルーストと同年齢であれば)中年へと変貌した彼自身の心のありようを描く十数ページ。幼少期の初恋から現在までのすべての森が、この短い一連に描きこまれる。ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』の第二部「時はゆく」がこんなふうだった。ラムジー家の夏の別荘のある島、そこに流れた十年の歳月を、凝縮された文章で描写する。延々と文章の続く、長い長い作品であっても、プルーストは、描くことと描かないことを丹念に選び抜く。死ぬまで続く人生に比して言葉は短すぎる。『失われた時を求めて』は、もしかしたら、まったく長い作品ではないのかもしれない。


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