春のつづき ──『恋愛以外のすべての愛で』あとがきにかえて
- 涼 水原
- 6月18日
- 読了時間: 6分
「翌日読んでもらいたいささやかなあとがき」や「リリーへの手紙」が好きだった。いずれも著者のデビュー作である、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司には別名義での作品がすでにあったが)や村上龍『限りなく透明に近いブルー』の巻末に附されたあとがきだ。作中に書かれたことが著者の身に実際に起きた出来事であるように、あるいは作品の主人公が自らこの小説を書いたのだというように、後日譚を語り、登場人物に呼びかける。虚実は曖昧になり、本を閉じた私は、ふと今自分のいる勉強部屋が、現実のものなのか、薫くんやリュウ──二作の語り手はいずれも著者と同じ名を与えられている──の暮らす作中の世界と地つづきなのかわからなくなる。部屋を出て階段を降りれば現実の私の母がおり、やがて兄や父も帰ってきて、夕飯を食べるうちにその感覚は薄れていくが、ふとあとになって思い返すたびに、あのとき自分がいたのはどちらだったか、と考える。
人は誰でも一生にひとつは小説が書ける、という紋切り型がある。小説はある人の人生を切り取ったものだから、自分の人生を書けばそれでいい、ということだ。しかし、小説家という職業は、いくつも小説を書く必要がある。積み上げた著作が自分の身長より高くなれば一人前だ、という逸話をどこで読んだのだったか、いしいひさいち『コミカル・ミステリーツアー』(創元推理文庫)だったように記憶していたが、いまパラパラとめくってみても、該当するような台詞は出てこない。いずれにせよ、幼いころに父の本棚から取って読んだ同書は、私にとって、小説家、という職業を考えるときの原風景になった。あの作品に出てくる小説家はだいたい、同じトリックを使いまわして短篇を二つ書いたり、キャリアが長いわりにほとんどの作品が絶版になっていたり、のちに同業者になってみればあまり見習いたくない人ばかりだったが、当時はその、自由でふてぶてしく、苦吟しながらも楽しげに働く姿に憧れたものだった。
アイディアが豊富にありすぎて死ぬまでに書ききれない、という悩みを、いくぶん誇らしげに吐露するエッセイで読んだことがある。羨ましい、と思う。いま書きたいこと、手元にある知識や技術で書けること、自分が書くべきこと。私の場合、次に書くもの、は、前作の執筆中にすでに一つか二つに絞られていて、そういう贅沢な悩みを抱いたことがない。
人は自分の手元にある材料からしか書けない。実体験はもちろん、読んだ本や観た映画、人から聞いた話、それらをもとに走らせた想像。小説家はそれぞれに自分の気に入りの経路を持っているから、人によって、人生経験がなければ書けないと断言してみたり、読書量の豊富を力説したり、人間関係の幅広さを誇ったりする。
私は幸運にも(と今では躊躇いがちにしか書けないが)大学生だったころ、社会に出るより早く小説家になった。人生経験にも、それにともなって広がる人間関係にも乏しく、同年代のなかではわりに本を読んでいるほうだったが、それも同業者のなかではきっとごく少ない。労働経験は接客のアルバイトだけで、就職試験も受けたことがない。学生時代に世に出た多くの書き手と同じように、自分のなかに参照できることはそう多くなかった。
自分の人生ではないところから小説を引っぱり出してくる必要がある。あるいは、同じ出来事を繰り返し、違う書きかたで描きつづけるか。デビューから今年で十四年、そういう書きかたをしてきた。それが良かったのか、悪かったのか。成し遂げたことは多くないにせよ、今も小説家として書きつづけられているのだから、とにかく間違ってはいなかったのだろう。
今日、星海社FICTIONSから本が出る。『恋愛以外のすべての愛で』という題の、書き下ろしの長篇だ。担当の丸茂さんと最初に打ち合わせをしたのは、新型コロナ禍より前、たしか二〇一九年のことだった。難病ものを書きましょう、ということは、話し合いの初期から決まっていた。いくつかの有名な作品を挙げつつ、じゃあ今さらその主題に参入する者として何が書けるのか、という話をした記憶がある。その年のうちにプロットをひとまず確定させて、実際に着手したのは三年後、二〇二二年のこと。それまでアルバイトで働いていた図書館から、五年の雇い止めで退職したあとのことだった。
初稿を二〇二三年の三月に書き上げた。多忙な編集者と怠惰な小説家とのやりとりには時間がかかり、そこから刊行までには二年を要した。Re°︎さん(ほんとうに申し訳ないのだが、何とお読みするのかずっと存じ上げず、単行本の見返しの略歴欄で読み仮名が振られているのを見てはじめて知った)の美麗なイラストと、星海社の創業時からの特徴である、天アンカットや版元ロゴ入りの厚みのあるスピンという造本。『死体泥棒』や『星の海に向けての夜想曲』を愛読してきた者として、そのレーベルから自分の本が出るのはうれしいことだ。
『恋愛以外のすべての愛で』の語り手は、大学在学中に新人賞を受けてデビューしたものの、単著が出せずに数年が経った小説家だ。私自身は〈純文学〉や〈エンタメ〉、〈ライトノベル〉と分ける考えかたを取ってはいないが、作中ではそういう分類をしていて、彼は〈純文学〉の書き手だ。彼は同様に小説家志望だった幼馴染みのすずといっしょに、小説を合作することにする。難病ものの小説を。しかし幼馴染み自身が、実は余命宣告を受けるような難病に冒されていて──というのがおおまかなストーリーだ。
その経歴や、(作中では地名を明言していないが)故郷の様子は、著者である私のそれとよく似ている。作中、登場人物が読んできた小説から引用されているいくつもの文章も、──作中で語り手が述懐し、帯に引用されている言葉を借りれば──私が愛読し、心のなかにしまい込んできたものだ。そのほかにも、私小説のような結構をもつ本作に私は、これまでに経験したいくつかの出来事や、実際に見聞きした事物を書き込んだ。もちろん、実体験とは何の関係もない出来事も。
本作では、ある年の初夏から翌春までの十ヶ月ほどの出来事が描かれている。作品が終われば読者は、そして私も、その春のつづきを、想像することしかできない。『赤頭巾ちゃん気をつけて』や『限りなく透明に近いブルー』の〈僕〉がそうしたように、私の〈ぼく〉も、その十ヶ月を振り返り、すずに向けて何か語りかけてもいい、と思った。でも、〈ぼく〉からは言葉が出てこなかった。作中で語り尽くしてしまったのかもしれないし、もしかしたら、この長篇のなかで起きた出来事について、まだ心の整理がついていないのかもしれない。
語り手が沈黙している間も、著者や編集者、その他この作品に関わる人々は粛々と自分の仕事をつづけ、本書は無事に上梓された。これまでに私が書いてきたような作品とは大きく雰囲気が違う本になった。読者層もおそらく、あまり重なっていない。星海社FICTIONSのファンは本書を、まったくの新人による作品のような気持ちで開くのかもしれないし、水原作品を読んできてくれた人たちは、これまでと違う風合いの本作を、驚きをもって手に取るかもしれない。本作がどう読まれるのか、発売日の今はあまり想像できない。著者としては過去のすべての作品と同様、自分なりに心血を注いで書いたつもりだ。
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