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2021.12.31

 行ったねえ。恋人が、みんなといるときよりゆったりした口調で言った。

 行ったねえ。私も同じように返す。どちらからともなく手をつなぎ、北口から駅を出た。南口側ほど栄えてはいないが、こちらも駅を出てすぐは飲食店街だ。といっても、大晦日にもなるとチェーン店の多い南側と違い、北側はもう仕舞った店が多く、営業してるのは松屋とコンビニだけだ。バス停にバスが停まっていて、何人かが出発を待っている。排気ガスのにおい。

 持とっか。思いついて指を抜いて手を差し出す。

 ん、ありがと。恋人がリュックから片腕を抜き、こちらがわの肩を向けてくる。ベルトを受け取って持ち上げた。

 重っ。

 重いよー、一式入ってたんだから。恋人は肩をぐるぐる回して自分で揉んだ。

 こんな重いのずっと持ってたんだ。

 そうですよ。ご存知なかったでしょう。

 なんで敬語?と私は笑ってしまい、つられて恋人も吹きだした。

 駅を出て二、三分も歩けば住宅街に入る。その境目あたりにアジア雑貨の店がある。私たちはどちらもあまり興味がなく、入ったことはないが、前を通ることは多いし、そのたびに、毎日変わるお香を嗅いで、今日いい匂い、とか言いあい、軒先に並んだ三千円均一の服を横目で見ながら、わたしたちああいうの着ないよね、とか言いあう。その店も今はシャッターを下ろしていた。貼り紙に商店会の名入りで、門松の絵といっしょに、定型文の挨拶と、新年の営業日のお知らせ。日付の〈五〉だけが手書きだ。ふだんの日中なら、前を通り過ぎると、音楽が聞こえなくなってもまだ匂いがついてくるのに、今日は無臭だ。かといって街のにおいの解像度が上がるわけでもない。

 リュックのなかで恋人のスマホが二、三度立て続けに震える。でも、この重いリュックを降ろしてスマホを出すのが億劫で、なにも言わない。

 そういえばさあ。恋人が、私の後ろ暗さを見透かしたように声をかけてくる。なんかカオルくんも、年内にしめきりなかったっけ? あの、どっかの国の。

 モンゴルですかね。

 そうそれ。終わった?

 うん。下書きフォルダから適当に見繕って送ったよ。

 ん、見繕ったって何を?

 謝罪メール。

 あ、そ。呆れたように言って手を伸ばしてき、また絡める。なぜか機嫌が良くなっているようだった。

 また彼女のスマホが震える。もしかして、と空いた手で自分の尻に触れると、私のスマホも同時に震えている。手の動きに気づいた恋人が、どしたの、と訊いてきた。

 たぶんグループLINEだと思う。さっきからスマホ、賑わってて。

 ああ。恋人が頷く。自分で背負ってたときからしきりに震えていたのだろう。住宅街の、片側一車線の細い道だ。そのぶん歩道も狭い。向こうから走ってきたウーバーイーツの自転車を、私たちが車道に降りてやりすごす。すれ違いざまにぼそりと声がした。小声で聞きとれなかったが、巻き舌の響きが耳に引っかかって残る。

 今なんて? 恋人にも聞きとれなかったようだ。

 わかんない。日本語じゃなかったかも。

 外国語ってこと?

 かも。ボナノッテとかかな。

 それか英語かもね。道空けてくれてthanksとか。

 あとはドイツ語。

 えー、いまの人ヤスミン? 恋人は笑い、手をぎゅっと強く握ってきた。リョウシュンさんたち、いい人だったね。

 ね。お茶は薄かったけど。

 やっぱそう思った? ちらりとこっちを見て目を細める。何度もお湯を差したのだろう。ふだんはコーヒーか紅茶ばかりであまり煎茶は飲まないが、お寺でもらったお茶は、豆をけちったときのコーヒーと似ていた。味はぜんぜん違うが、鼻と喉が感じるもの足りなさが同じで、だからこそなんだか落ち着けた。

 正直めっちゃ嫌だったけど、お墓でミーティング、終わってみれば悪くなかったな。正直めっちゃ嫌だったけど。

 二回言うじゃん。

 最初は怖かったもん。恋人が唇をとがらせて、マスクのまんなかがすこし突き出す。でもよかった、たまたま入ったのがあの──、まで言って言葉が止まる。あの──、カオルくんあのお寺、なんて名前だったっけ。

 あそこは、えっと──。たしか山門に扁額があった。スマホの地図で見たときも卍のマークをタップするとその名前が飛び出した。しかし考えてみても思い出せない。懐中電灯に照らされた山村家之墓、いきなり飛び出した流暢な英語、ビニール袋に放られる湯飲みの音は思い出せるのに──。と必死で考えていると、恋人が、ふふ、と笑った。その笑いがつないだ手を伝わってきて、寺の名前ではなく、友人の声が耳の裏側に蘇る。よー、ねん、でぃ、と私たちは言い交わして笑った。

 もうすぐマンションのある路地の入口だ。大晦日の夜、車通りは少ない。大学のすぐ近くだし、学生たちは帰省しているのかもしれない。除夜の鐘にはまだ早いが、私たちも普段なら紅白を観ている時間だ。みんな家に入って、でも年越しを目前に、この時間の街は静かにざわめいている。

 あー、わたしなんか小腹空いたな。

 さっき食べたのに?と思わず返したが、私もなんだか口寂しい。あれあるよ、トルタなんとか。

 パラディーゾ。

 そうそれ。あと帰ったら、みやびさんが買ってくれた牛乳かんも。

 牛乳かん! そうだった、忘れてたよ。

 紅白観ながら食べよっか。

 年越し牛乳かんだ。うれしそうな声で言う。恋人はみかんが入った牛乳かんは牛乳かんと認めない。つややかな純白の牛乳かんは、年越しより元旦が似合ってるのでは、と思いついたが、いつ食べても美味ければいいか。

 道の反対側に、我が家の路地が見えてきた。今歩いてる道より暗く、知らない場所なら入るのが躊躇われるかもしれないが、そこは、ずっと住んでる私たちの体温を帯びた、安らげる場所だ。あの暗がりのなかで私たちは、春が来る前に六年になる。ざっと二千日だ。でも振り返ってみればあっという間で、たった一夜の夢だったような気がする。夢から目覚めるところで終わるのはご法度、という、高校生のころ読んだ小説読本の記述が頭をよぎる。私はその本を読んで以来、つまり小説を書きはじめてからずっと、ぜんぜんそんなシーンじゃなくても、作品を閉じようとするとき、その記述を思い出す。これからも、小説を書きつづけるかぎりずっとそうだ。そんな雑念にじゃまされながら擱筆するとき、隣の部屋では彼女が仕事をしていて、ときどきベランダに出て煙草を吸っている。これから先、引っ越すこともあるだろうが、どこの暗がりに住むときも、この人が隣にいればいい。つないだ手に力を入れると、彼女も握り返してきて、楽しかったな、と言った。

 うん、いい午後でした。

 わたしは気が気じゃなかったけどね。

 ごめんごめん。

 路地の手前の信号が青になる。歩行者は赤だ。私たちが立ち止まると、見える範囲の信号機も、ひとつずつ色を変えていく。楽しかったからいいよ、と言いながら、彼女は左右を見渡す。車も人もどこにも見えない。私たちだけだ。楽しかった、ともう一度彼女が言い、楽しかった、と私も帰す。どこかから和風の出汁の匂い。そういえば今年は年越しそばを食べずに終わりそうだ。

 車、来なさそうだよ、と彼女は呟いた。行けるかな。でも私は返事をしない。彼女が一歩踏み出そうとするのとほとんど同時に、あのさ、と呼びかける。みやびさん。

 ん、なに?

 結婚しない?

 え、と言って彼女は、つんのめったように二、三歩進んでから、横断歩道の白いところの上で振り返る。なんだか久しぶりに正面から向き合った。もう何年も見慣れた顔だ。この一年でずいぶん髪が伸びた。マスクに隠れてよく見えないが、驚いた表情を浮かべている。なに言ってんの。

 なにって、つまり──そういうこと。

 いやいやいや。わたしたち、もうとっくに結婚してるじゃん。

 妻はそう言って、呆れたように首を振る。そっか、と私は呟いた。言われてみれば、昨日籍を入れてから、もう一年が経っている。


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