2021.2.12

 私たちは視界のありようを切りかえられるし、実在しない光を見ることもできる。それは小説を書くとき、作品ごとにちがうパーソナリティの語り手を設定し、その視界を、その言葉で描写させるのと似ているような気がする。だから──という接続は強引だろうか、とふと思うが、それをいうならここまでの思考がすでに、牽強附会もいいとこだ──私はかれこれ三十数年、ぐんぐん悪くなっていく視力にあわせて買い換えつづけた眼鏡をぜんぶ、いまも捨てずに持っている。裸眼ならぼやけきって何もわからない物の輪郭がやや引き締まる、というくらいの弱いものから、料理のときに自分の指と食材が見分けられる、すれちがう人の顔が判別できる、本が読める、文章が書ける、とだんだん強くなり、標識の文字が読み取れるものがいちばん新しく、そしてそれよりもコンタクトレンズのほうが度が強いが、それでもせいぜい一・一くらいで、ちいさいころの私の視力は一・九くらいあり、私はそのころの、きっとすべてが鮮明で目が痛くなるほどだっただろう視界のありようを憶えていない。

 私はたまに、街を歩きながら眼鏡を外す。ぜんぶぼやける。看板の文字も、ガードレールも車も、隣を歩く恋人のことも見えなくなる(とはいえ、そんな無謀なことができるのも、危なくなったら彼女が手を引いてくれる、という安心感があるからだ)。そうすることで、私は私の日常とは違う、居心地の悪い視界があることを思い出す。そうやって、自分のなかに、自分から遠い感覚をたくわえておく。街をふらふらと危なっかしく歩くことも、私にとっては小説を書くこととつながっている気がしている。

 そういうことを書いた。