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召し上がれ!

 昨夜の鍋の残りに、これも残りものの白米を投入して雑炊めいたものを作って食べた。くたっとした白菜、結び目からほどけ落ちた白滝、鶏肉のかわりに入れたベーコンの切れ端。よく味が染みて美味しいが、レンジでチンしてひと煮立ちさせただけなので、料理をした、という実感はほぼない。

 もちろんそれ以前にも、ごはんを丸めるだけのおむすびを握ったことくらいはあっただろうが、私がはじめて作った料理は厚焼き卵だった。小学校の、まだ低学年で、同級生のなかでも小柄なほうだった私はスツールの上に立ち、ほかに使いみちのなさそうな四角いフライパンの柄をあぶなっかしく握っていた。傍らには母が立ち、固まりはじめるまでゆっくり混ぜて、焦げちゃうからもうちょっと弱くして、あぶない、そこは触っちゃだめ、と絶え間なく注意を与えながら私を見守り、うしろの食卓では兄が、たまゴーゴー、ひよコッコ、にわとリリーン、と何だかよくわからない歌を口ずさみながらできあがりを待っていた。

 菜箸の持ちかたもおぼつかない子供が上手く卵を巻くことができるはずもなく──だから正確には私がはじめて作った料理はスクランブルエッグだったのだがそれはいいとして──、しかも四半世紀後のいまに至るまで重度の甘党の私は母の目を盗んで砂糖まで入れていたらしく、できあがった料理は兄はもちろん、作った本人にとっても食べられたもんじゃなく、けっきょく残してしまったのだが、母は、おいしいよ、と言って完食してくれた。母さん味覚やべーよ、おれがはじめて料理したときも、真っ黒焦げのベーコンをうまいうまいって食ってた、と兄が囁いた。子供がはじめて作った料理はたとえどんな失敗作でも世界でいちばん美味しいものだと、当時の私たちは知らなかったのだ。

 小学生だったころ、私はそうやって何度も卵を焼いた。さすがの母も耐えられなかったのか、四度目くらいからは味付けをする私の手許をじっと監視して、砂糖を入れられないよう見張っていた。

 それから四半世紀ほどが経った。野菜や肉、ほかの食材といっしょに炒めることが多く、味をつけた卵だけを焼くことはあまりない。そのせいか今でも、食材を切らした日、相変わらず拙い手つきで卵を巻いていると、あの日のキッチンの記憶が蘇ってくる。読んだ本にすぐ影響されるたちで、私は『ぐりとぐら』を本棚に戻しもせずに、居間で何かしていた母のところに駆けよって、でっかいカステラつくる!と言ったのだった。母はガスコンロの操作法も知らない小学生の無謀な意欲を巧みに導き、私は、その年齢でもなんとかなりそうな卵焼きを作ることになった。兄がいつから食卓に座っていたかはわからないが、きっとキッチンの楽しげな声を聞きつけて来たのだろう。

 私はできあがった卵焼きを皿に載せ、食卓に置いて、召し上がれ!と言った。母と兄が声をそろえて、召し上がる!と答えていたので、きっとそれは我が家で子供が作った料理を食べるときの定番の掛け合いだったのだと思う。長ずるにつれてそのどこか芝居がかった響きが気恥ずかしくなり、中学校に上がったころから今にいたるまで、私は、召し上がれ、という言葉を口にせずに料理を作り、食べてきた。

 召し上がれ。乞うご期待。来週もまた、観てくれるかな? いいとも、という答えが返ってくることを疑わないこれらの言葉を、何のてらいもなく口に出すことは難しい。私はひとりの読者として、著者が「駄文」「拙作」と卑下する作品を、あまり読む気にはなれない。〈既成の文学をひっくり返すエポックな作品〉みたいにブチ上げるのもどうかと思うが、読む前から自作の価値を下げるようなことは、少なくとも自分は、しないようにしている。

 そういうことを考えるようになったのは、二〇一九年の五月に、シンガーソングライターの関取花さんが、アルバム『逆上がりの向こうがわ』でメジャーデビューするに際して公開されたインタビュー[i]を読んだのがきっかけだった。私は関取さんのことを、私が書いた「クイーンズ・ロード・フィールド」という小説と、関取さんの「恋地蔵」というエッセイが、たまたま文芸誌の同じ号(『群像』二〇一七年八月号)に載ったことで──つまり歌い手としてより先に、短い紙幅のなかにせつなさとユーモアを共存させるすぐれたエッセイの書き手として──知った。彼女はインタビューのなかで、〈メジャーデビューしたからこそやってみたいこと〉を問われて、こう断言する。

「紅白歌合戦」にすごく出たいです。

 私が「紅白」をぜんぶ観ていたのは小学生のころまでで、中学校に上がって以降の大晦日の夜は、格闘技や長尺のお笑い番組を観ながら、試合の合間やCM、好きな歌手が出るときだけNHKにチャンネルを合わせる、という程度に、「紅白」への関心が薄れていた。それでも──性別を基準にふたつのチームに分けるという形式や〈AI美空ひばり〉のような問題も多々あるが──、この国で最も有名な歌番組であることに違いはなく、誰が出場するのか、というのは、いつも気になってしまう。毎年数組の初出場歌手がおり、彼らはニュースのなかで喜びを語っている。「紅白」に出るのは人気歌手として認められた証だが、メジャーデビューした直後に、その目標を公言することは、特に「紅白」の権威がかつてほど高くない今では珍しいことだと思う。

 関取さんは「紅白」に出たい理由として、亡くなった母方の祖父母への思いを語っている。

いつか天国で2人に会ったときに「紅白に出たんだよ」と伝えたら喜んでくれるだろうなと想像しました。母の実家は東北の田舎でライブハウスは知らないかもしれないけど、紅白は絶対に知ってるじゃないですか。「紅白に出ないと届かないな」といつも思います。

 別の場所でも関取さんは、「人生の優先順位1位が親孝行なんですよ」[ii]と言っている。家族への思いや「紅白」という明快な目標を率直に語ること。関取さんは「べつに」や「あの子はいいな」といった楽曲を歌う〈ひがみソングの女王〉という触れ込みで売り出されていたが、他の曲の歌詞やエッセイを読めばわかるように、彼女はつねに、その時々の素直な感情を語り、書き、歌っているだけなのだろう。ただ、終電間際の改札前でいちゃつくカップルやなんかよく分からんけど人生エンジョイしてる奴への〈ひがみ〉の感情を歌にする人が少ないから、その面にスポットライトが当てられていたのだ。

 メジャーデビュー後、関取さんはいくつかの媒体でエッセイの連載をはじめ、私はそれをおりに触れて読んでいる。そういった文章を集めた『どすこいな日々』が、このたび晶文社から刊行された。『成りあがり』や『ロックで独立する方法』のような成功した歌手の自伝やエッセイを私は家に置いている。そういった本を、腰を据えて再読することはないが、精神的に落ちそうなときや疲れたときに開き、自分を奮起させる。いっぽう、『どすこいな日々』に書きつけられた言葉には、そういったこちらに伝染してくるような押しの強さはない。そのかわり、このエッセイ集の書き手は、読み手の日常の、あらゆる瞬間に寄り添い、肯定してくれているような気がする。

 気取りもてらいもなく、アジテーションでもない。ここに書きつけられているのは、歌手を志し、その夢を一歩ずつ実現させている一人の人間の日常と思考だ。メジャーデビュー前夜の静謐な感慨(「貯金の使い方」)、ライブハウスのステージ上に自分の居場所を見出した瞬間の記憶(「だから私は」)、そして「さけるチーズを裂かずに食べる」という、きわめて冒涜的な自分へのご褒美(「私はプチセレブ」)。あたりまえにそのへんにある生活と感情が、解像度の高い文章で綴られている。

 それもこれも寒いのがいけない。正直、こうしている今もベッドに潜りながらブログを書いている。眠い。やめたい。だから、やめる。本休日、ここに極まれり。[iii]

 これは、「考えることを一切放棄して、己の欲求のままに過ごす日」をつづった一篇の結語だ。「人生なんて壮大なネタ探しみたいなもの」[iv]と関取さんは書いている。関取さんにとって(そして小説家である私にとっても)、あらゆる経験が作品化しうる。だからこそ、人生のすべての瞬間を意識的に過ごさなければ、と肩肘張って生きがちだ。思えば小説家を志してから十数年、私は無心で、自分の楽しみのためだけに小説を読んだことがない。心地よい緊張感がありつつも、「だから、やめる」と言って休むことを、私はずっと自分に禁じてきた気がするし、それを公言することもためらっていた。その気負いが、本書を読んでいる間は解きほぐされていた気がする。関取さんは「割とダメなやつ」[v]を自認しながらも、もちろん、音楽に対しては一切の妥協を許さない。真摯に音楽と向き合い、思うように曲作りができない自分へのもどかしさつづられている(「歌のかけら」)。

 くっだらない話もあるし、自分の仕事についての真剣な振り返りもある。古いものは二〇一五年から、五年ほどかけてさまざまな媒体に発表された三十三篇に通底しているのは、自分の作品に対する、そして他ならぬ自分がその作品を生み出すのだ、ということに対する自負だ。たぶんこの著者は、自分の文章を「駄文」や「拙作」なんて呼ばない。

 本書の末尾で、関取さんは読者にこう呼びかける。

 せっかくこうしてこの本を手にとってくださったのも何かのご縁だと思いますし、よかったらいつか関取花のライブにも遊びにいらしてください。『どすこいな日々』から生まれた話や歌、他にもまだまだあるんですよ。[vi]

 この言葉に見送られて本書を閉じた私は、母と兄に向かって、きっと満面の笑みを浮かべて、召し上がれ!と叫んだ自分のことを思い出した。自作への、そしてこれからもよい作品をつくりつづけてゆく自分自身への信頼。本書に触発されて私がこの文章を書いている今も、著者はきっとどこかで、私と同じように、自分の目指す場所にたどり着くために努力をしている。ときおり、ちょっと頻繁に自分を甘やかしながら。そのことを、私は心づよく思う。

 今後、たぶん、私はどこに住むにしても、この本といっしょに引っ越していく。本棚にずっと挿していて、ふとしたときに抜き出し、一、二篇読み返す。そうやって心をくつろがせて、また次の日常をはじめるのだろう。


[i] インタビュー「推し曲そろえて決意のメジャーデビューへ」2019年5月8日公開、2020年12月8日閲覧。https://natalie.mu/music/pp/sekitorihana07 [ii] インタビュー「関取花が新作で魅せたひと味違う世界観とは? そして大切な人たちへの変わらぬ愛について」2020年3月14日公開、2020年12月8日閲覧。 https://ongakutohito.com/2020/03/14/sekitori-hana-interview/ [iii] 「本休日」(『どすこいな日々』47ページ) [iv] 「メッセージが一件」(同書166ページ) [v] 「まえがき」(同書6ページ) [vi] 「あとがき」(同書170ページ)

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