top of page

大菩薩峠 2023.4.12~2023.5.11

4月12日(水)朝は晴、だんだん曇って夕方に雨。早く起き、眠い目をこすりながらパスタを茹でる。三十分ほど散歩して始業、金曜日に書き上げた短篇の推敲。五日経ったこともあり、冷静な目で読めていると思うのだが、これはけっこう良い作品ではないか。夕方まで推敲をつづけ、編集者に送稿。そういえばこの編集者には年末にも短篇を送って、読んだら連絡します、という返信のあと音沙汰がないのだった。原稿を読む暇もない人に原稿を送りつける、というのはなかなかひどい、と思いつつ、まあお互いこれが仕事なのだ。

 夜は村上春樹『女のいない男たち』を読。まえがきによると、〈女のいない男たち〉とは、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」のことだそう。今日送稿した私の短篇も、女のいない男、がモチーフになっていて、偶然のリンクを感じてなんかうれしかったですね。しかし村上のほうが、起筆時から明確なコンセプトを定めていたからか、単純に技倆の差もあるんだろうが、私のよりさらに二、三レイヤーが多い感じ。まあ私も、三十年後にはこのくらい良いものが書けるようになってるだろう。


4月13日(木)晴、黄砂で空が霞んでいる。朝からパエリアをつくる。今日も三十分ほど散歩。藤の花がきれいだ。

 昨日村上春樹を読んで脳が活性化した、ので、浮かんできたアイデアをこまごまと書きとめておく。一冊読んでる間に二つ出てきた、小説の種、になりそうなものが、一晩経っても悪くなく見える。

 昼に図書館に行って、朝の残りのパエリアを食って、夕方まで作業。夕食もパエリアだった。昨日送稿した編集者から返信。今月中に読んで連絡します、とのこと。けっきょく年末に送ったやつを、読んだのかい、読まなかったのかい、どっちなんだい、と私のなかのリトルなかやまきんに君が問いかける、が、返事はない。そもそもきんに君は過去を問わない。やるのかい、やらないのかい、と、彼が問うのは常に未来だ。

 そのあと日付が変わるころまでかけて梨元勝『噂を学ぶ 学問としてのスキャンダル』を読了。活字メディアは〈定着メディア〉と呼ばれ、ラジオは〈侵入するメディア〉とよく言われ、テレビは〈巻き込むinvolve〉ものだと分析されていた、と紹介したあと、いずれテレビ以上に日常化するだろう九ンターネット(本書刊行は二〇〇一年)は、「「定着する」「侵入する」「巻き込む」のすべてを備えて」おり、「この三つの上をいくとしたら、それはもう「洗脳する」以外ない」と指摘している、のは卓見だったな。


4月14日(金)曇。まだ花粉症の鼻炎薬を飲んでいる。朝はジャッと焼きそばを作り、すこし散歩。ここ数日、メンタルの調子が下降気味。寄るつもりだったスーパーに行けず、いったん帰って気持ちが楽になる薬を飲んで出直す。薬の効能か、今度はさほど問題なく、最低限の買いものができた。

 一日中、薬の副作用で喉が渇いていた。どうにも捗らないまま、二、三度外に出て、図書館で本を借りたり、コンビニで買いものをしたりすることで気分転換を図った、が、あっという間に暗くなって夜、納豆ご飯をかっ込んで、虚無の顔でみうらじゅん『人生エロエロ』を最後まで。「ツーといえばカー、カーといえばセックスという時代があった。」おれに必要なのはこの境地なんだろうな。


4月15日(土)大雨。気圧が低い。一日かけてゆっくりと、小熊英二『生きて帰ってきた男』。シベリア抑留を経験した父・謙二の伝記。自分の父親のこと、を考えながら読む。父親の生涯を『夜明け前』に小説化した島崎藤村、父親を文学の主題にすることを忌避し続け、ちいさなエッセイを一冊だけ出した村上春樹。私の父の生涯を、私が書くことはあるんだろうか。

 午後、二時間ほど本を閉じ、Wリーグプレーオフファイナルのトヨタ対ENEOS一試合目を観た。自動車対ガソリンだ。そのあとはまた小熊英二を読みつづけ、午前二時くらいにようやく読了。


4月16日(日)朝は快晴、昼過ぎに曇りはじめ、一時雹が降った、が、その後はまた快晴。昨日夜更かししたので遅くまで寝ていた。昨日は長時間読書をしながらナッツだの柿の種だのをダラダラ食べ続けてしまった、のでちょっと胃もたれ。

 昼ごろすこし散歩して、最近メンタルが落ちる日が続いていたので、今日は『最新科学が教えるスポーツメンタル入門』を読んだ。午後、良いスイーツを食ってから早めに風呂に入り、十五時からのファイナル二試合目にそなえる。試合のあとは『スポーツメンタル入門』を進読したり、すこし昼寝したり。夜中にパスタをつくり、腹をパンパンにした。


4月17日(月)雲の多い晴。午前中はにわか雨の恐れ、という予報だったが、降らず。妙に眠りが深く、寝起きが悪かった。コストコのパンと生野菜の朝食のあと、一時間ほど散歩と買いもの。メールを書いて作業の日。午後カウンセリングだからか、朝からナーバスになっていた。しかしとにかく、手を動かしてればメンタルは落ち着く。ドンドン書きましょう。

 昼休みに『大菩薩峠』筑摩書房愛蔵版の五巻を起読。道庵先生と米友の旅、前巻では大宮から熊谷のルートが、「大宮から上尾へ二里──上尾から桶川へ三十町──桶川から鴻の巣へ一理三十町──鴻の巣から熊谷へ四里六町四十間。」と紹介されていたが、本巻にはそのあと、軽井沢までの旅程も同様に示されていた。熊谷から軽井沢は、旧街道を実際に歩いた人がつくった「人力」というHPの記述から計算すると六十五・八キロ、所要時間は三十五時間半、であるらしい。道庵・米友は道中の神社に片っ端から参拝してるから、その寄り道もふくめればもっと長い旅だっただろう。私は軽井沢に行ったことがない(岩合さんの番組を観たので、とても良い猫がいることは知っている)が、新幹線がある現代、軽井沢は、近郊、とまではいかなくとも、小旅行、くらいの距離感だ。一日八時間歩いたとしても五日かかった当時とは感覚が違う。

 宿に着いて米友が風呂に入っていると、飯盛女が身体を流してくれる。彼女の名前はお玉というらしい。お君が郷里の間の山で芸人をしてたときの名前と同じだ。それ以来、米友は誰を見てもお君のことを考えてしまう。旅の途中、道庵先生は、お君を喪って落ち込む米友をこう慰めていた。「人間には魂と肉体というものがあって、肉体は魂について廻るものだ、肉体は死んでも魂というものは残る。早い話が、家でいえば肉体は、この材木と壁のようなものだ、たとえばこの家は焼けてしまっても、崩れてしまっても、家を建てたいという心さえあれば、材木や壁はいつでも集まって来るぞ。で、前と同じ形の、同じ住み心地の家を、幾度でも建てることができるぞ……いいか、その心が魂なんだ。だから人間に魂が残れば、死んでもいつかまた元通りの人間が出来上がって来る、だから何も悲しむがものはねえ……お前の尋ねる人も魂が残っているから、いつかまたこの世へ生まれて来るんだ、しっかりしろ」仏教では輪廻は苦行だが、道庵は救いとして捉えている。

 前巻で米友は、「ナニ、魂だけが来世へ行く? さあ誰がその魂を見た、その魂が来世とやらへ行って何をしているんだ。ナニ、この世で苦労したものが来世で楽をする? 誰がそれを見て来たんだ、魂が来世へ行って何を働いているか、見届けてきた人があるなら教えてくれ、後生だから」と言っていた、が、たまたま同じ名前だっただけ、とはいえ、お玉さんを前にすると、輪廻を信じてみたくもなってくる。

 奇術の見世物が当たったお角にはいろんなところから興行のオファーがくる、が、本人は疲れたから熱海でゆっくりしたい。帰ってきたら大当たりの記念に、浅草の観音様に何か奉納しよう、と思い立ち、ばったり会った絵師・田山白雲に、西洋風の絵画(西洋風の奇術だったので、奉納するのも西洋風のものが良い、と考えたらしい)を描くよう依頼した。

 白雲はお角が熱海から帰ってくるまで彼女の家に滞在することになり、参考に、と、聖母子像の油絵と、西洋と東洋の技法を調合した〈異風の絵〉を見せられる。白雲は油絵というのをじっくり見るのはこれがはじめてで、西洋画というもののことがまったくわからない。「知識は必ずしも芸術を生ませないが、知識なくしては芸術の理解が妨げられ、或いは全く不可能になる」ことを痛感して、「おれは、これから外国語をやらなくちゃならない」と一念発起する。それで語学教本を買い込んできて、〈エイ、ビー、シー〉から学びはじめる。語り手には〈泥棒を捉まえて縄を綯うよりも、モット緩慢な仕事〉と言われているが、立派ですよこれは。前巻で甚三郎は、白雲に絵画の講釈を受け、「学ぶべきものは海のごとく、山のごとく、前途に横たわっている」と痛感していたが、そこで講師役を演じていた白雲も、まだまだ絵を学び続けようとして、そのために語学を勉強しはじめた。お君の件で甚三郎はめちゃ悪印象ですが、この二人の勉強への姿勢は気持ちが良いんだよな。

 夜、ポトフを食いながらプレーオフファイナルの第三戦。三試合も観ていると、なんとなく推しの選手もできてきて、それがトヨタとENEOS両方にいるもので、延長戦でも決着がつかず、再延長戦までもつれ込んだ接戦の果てにENEOSが勝った試合を、うれしいような悔しいような思いで観た。すごい試合だったですね。実況や解説の言葉からも、これがまれに見る名勝負だったのが伝わってくる。今年はなんか、サッカーは二試合くらいしか観てないのに、バスケはめちゃ観ている。こんなに面白いスポーツだったんやなあ。47/524


4月18日(火)明るい曇。寝起きが悪い。昨夜のポトフを食って始業。しかしどうにも具合が悪く、ベッドで丸まってひたすら耐える。スマホを見ることすらできないほどしんどいのは久しぶりだった。何も食べないのも身体に悪い、ので、夜は親子丼を作る。ふだん、寝る前に翌日のタスクを書き出して一つずつこなしていくことにしているのだが、今日はその二割くらいしかできなかった。落ち込みそうになる、が、昨日のカウンセリングの成果か、体調悪いんだからしょうがないじゃん、と開き直るようなことを自分に言い聞かせる。

 夕方、身体を起こせるくらいには回復したので、隈研吾『建築家になりたい君へ』。隈は小学四年生で丹下健三の国立日比谷競技場を見たのがきっかけで建築家を志し、中学生のころには黒川紀章の思想の影響を受けてもいた。が、高校一年生のとき開催された大阪万博で、丹下の設計した「お祭り広場」や、黒川の「東芝IHI館」、「タカラビューティリオン」を見て、彼は失望する。「大阪万博の建物はすべて──丹下先生のものも黒川さんのも含め──、罪の意識が欠落した怪物に感じられたのです。」何にそんなにがっかりしたのか、おそらく大人になってからも繰り返しその失望感を思い出していたのだろう。

 隈は「丹下先生や、黒川さんという二人のヒーローを失って、僕の建築に対する夢は、風船が破裂するように、しぼんでしまいました。」とその経験を振り返る。それでも彼は建築の道を選んだ。ものをつくる人間には、こういう、憧れの存在に失望する経験、が必要なのかもしれない、とふと思う。このエピソードは隈のほかの本でも読んだ気がする、が、今日あらためて読んでこう思ったのは、最近の私が、〈夢水清志郎〉とか『小説のたくらみ、知の楽しみ』とか、かつて読んで感銘を受けた本が、時を経て再読しても自分にとって重要な意味を持っていることをうれしく感じていたから、かもしれない。私はまだ、そういう創造的な失望の経験をもっていない。それはたぶん、幸福なことでもあるのだろうけれど。47/524


4月19日(水)今日も明るい曇。三島由紀夫と日本刀で決闘する夢を見た。病院のような施設で、患者のいるプールに二階から落ちたりする激闘。なかなか強く、右腕を斬り落とされてしまった。決着がつかないうちに目が覚める。右腕を斬り落とされるといえば『大菩薩峠』のがんりき、プールといえば大江健三郎(『新しい人よ眼ざめよ』に、息子といっしょに通っていた市民プールで、三島の〈楯の会〉の元メムバーと会う、というエピソードが書かれていた)で、その大江の訃報をきっかけに、どう生涯の仕事を締めくくるか、というようなことを考え、最後の作品である『天人五衰』を完成させたその日に自殺した三島のことまで連想が広がっていったのだった、と、夢のモチーフの由来を想像することはできるのだが、だからっておれが三島と戦わなくてもよかろうに。

 昨日よりはマシな体調だったが、今日も捗らず。夕方まで、読書をしたり作業したり、を休み休み。とにかく無理は禁物。47/524


4月20日(木)快晴。暖かな日。作業をする元気がないので、朝の散歩のあとすぐ『大菩薩峠』。駒井甚三郎は洋行の準備のかたわら、キリスト教の勉強をしようと洋書を読んでいる。「全く世の中は儘にならないもので、田山白雲はああして狂気のようになって、いろはからその知識を探り当てようともがいているのを、駒井甚三郎は何の予備もなく、何の苦労もなしに、かくして読み、且つ訳している。」と地の文では言われているが、甚三郎にも〈エイ、ビー、シー〉から学びはじめた日があっただろう。

 そこへとつぜん、誰かが外から窓をノックしてくる。それは〈岡本兵部の娘〉、白雲が房州の旅の途中で出会った、石の羅漢像の首を抱いて子守歌を口ずさみ、涙を流しながら、「この子の面が茂太郎によく似ているでしょう」、と初対面の白雲に話しかけた〈狂女〉だった。上がりこんできた彼女は〈里見もゆる〉と名乗る。なんだかんだ悪人ではない甚三郎は、金椎といっしょに彼女を受け入れ、どうも共同生活がはじまりそうな感じ。神尾主膳・お角・お銀・竜之助・弁信がいっしょに住んだ家は〈化物屋敷〉と呼ばれ、お絹・七兵衛・千隆寺の住職、の四人が今住んでる家は〈以前の染井の化物屋敷に劣らぬ怪物の巣〉と形容されていた、が、甚三郎・金椎・もゆる、の三人もたいがいヘンな取り合わせだ。

 その主膳の家では七兵衛が夜な夜な、鎧櫃に入れた大金をこれ見よがしに数えている。お絹と主膳がその金を奪おうとした、が七兵衛にバレてしまい、しかしそれを機にそれを機に三人は意気投合する。七兵衛はここまで、たまたま拾ったお松を実の娘のようにいたわっていて、良い人、みたいな印象だったのだが、ここで悪役(という印象を私が持っている)主膳と結びつくのか。しかしこの、良い人、悪役、というのも、著者が作品冒頭で戒めていた〈一染の好憎〉なんだろうな。

 七兵衛は、自分は〈質の良い方の盗人だ〉と言う。「盗んで人を泣かすような金は盗まず、盗んだ金を自分の道楽三昧には使わず……ことに自分は盗みをするそのことに魅力を感じているのだから、盗んだあとの金銀財宝そのものには、あまり執着を感じていない。」こういうのを読むと、鼠小僧みたいな義賊のようだが、べつに七兵衛は盗んだ金を貧しい人に施したりはせず、自分でためこんで、ときどき眺めたり数えたりして悦に入る、という感じ。盗みはスポーツで、金銀財宝はトロフィーみたいなもの、ということか。七兵衛の〈大望〉は、かつて家康が〈豊臣家から分捕った「竹流し分銅」という黄金〉を盗み取ること、だという。徳川の埋蔵金だ!と、九十年代の、埋蔵金発掘番組の記憶がうっすらある者として思ったのだが、そもそも本作の舞台は徳川幕府の統治下の時代なのだった。徳川埋蔵金伝説は、無血開城した江戸城の金蔵が空っぽだったことが発端らしいけど、七兵衛がうまいこと盗みおおせたのだ、と考えるとちょっとロマンがありますね。

 いっぽう竜之助は、変わらず白骨温泉で湯治を続けている。お雪が弁信に書いている手紙によると、「お喜び下さい、あの先生の眼がだんだんよくなりますのよ。」とのこと。そして後家さんは、連れてきた若い男(浅吉)を「あの野郎、もう長いことはないよ」などと言っているらしい。「浅吉さんを連れて来て、さんざん玩具にして、それがようやく痩せ衰えて行くのを喜んで眺めているようです。」とお雪は書いているが、冬山の温泉街に閉じ込められて精を吸われ、衰弱していく、というのはほんとにこわいな。と思ってたら、浅吉は、三日間行方不明になったあと、沼に沈んでいるのを発見された。しかし後家さんは気に病む様子もなく、お雪といっしょに風呂に入って、「お雪さん、あなたのお乳が黒くなっているのね」などと言う。やべえやつだ。と思ってたら今度は後家さんまで沼に沈んで死んでしまった。眼が良くなってきたという竜之助と、関係があるのかどうか。

 午後、先月送った長篇について、編集者とオンラインで打ち合わせ。良い話ができた。そのあとすこし散歩して、夕食は山のような豚キム炒めを作って生野菜といっしょに食った。しかしそのうち腹がギュルギュルいいだして、風呂上がりには腹痛が耐えられなくなる。トイレにこもり、緑色の便をしたら少しは楽になったが、身体を縦にすることができず。気絶するように寝た。104/524


4月21日(金)今日も腹具合が悪い。朝食はスキップして散歩、二十分ほど。しかし腹痛がひどく、机に向かってるのすら苦痛。

 たまらず横になり、Twitterを見ていると、洋書のオンライン書店が、二十五歳で夭逝したウクライナの画家マリア・バシュキルツェフについてツイートしてるのを見かける。死の数ヶ月前、身体のいちじるしい衰えを感じた日の日記に、彼女はこう書いていた。「ほんとうに、私はどんなにしてもこの世の中に生きていたいという、望みではないまでも、欲望をもっていることは明らかである。もし早死をしなかったら私は大芸術家として生きたい。」参っちゃうな。この日記は宮本百合子「マリア・バシュキルツェフの日記」のなかで紹介されていたもので、日記それ自体は日本語訳されていないらしい。

 家にいても気が塞ぐだけなので、午前のうちにもう一度、昼過ぎにもう一度短距離の散歩。そのあともずっと、横になって鈴木涼美『8cmヒールのニュースショー』を読んでいた。イヤミが露骨すぎてどうにも品がない、上品さをめざしているわけではないのだろうが……。

 夕食に小籠包と生野菜を食いながら岩合さんの猫番組を観、デイヴィッド・シルヴェスター『フランシス・ベイコン・インタヴュー』を眠くなるまで。104/524


4月22日(土)雲の多い晴。腹具合の悪さはまだ続いている、が、昨日よりは少しマシ。早起きして、しかし机に向かうほどの元気はなく、読書をして過ごす。明日が統一地方の投票日で、外を街宣車が行き来している。「土曜の朝からたいへんお騒がせしております」「大きな声でご迷惑おかけしております」と言っているけれど、謝りながらも止めるわけではなくご迷惑をおかけしつづける、というのはたいへん日本的だ。

 日記を読み返してると、四月十三日のところで、〈インターネット〉と書くはずのところを〈九ンターネット〉と書いていた、のに気づく。いい誤字だ、と思ったので、これは残しておこう。

 午後、『ベイコン・インタヴュー』を読了。冷蔵庫を空にしようと、豚キムチとポトフを大量に作り、食いながらヴィッセル対マリノスを観て、試合後は夜まで資料読み。104/524


4月23日(日)快晴。昨日の夕食の残りを温めて食い、コーヒーを淹れる。

 今日は投票日なので、選挙公報を見ながら投票先を考える。複数人当選する選挙のとき、私はいちばん当選してほしい人ではなく、当選してほしい人のなかで当落線上にいそうな人に投票することにしている。ひとまず五、六人に絞った、あたりで、急に具合が悪くなる。徒歩数分の投票所まで行けるかどうかもおぼつかないほどの不調。

 薬を飲んで横になってるうちに少しは楽になってきた、ので、昼ごろ無理矢理外に出る。これまでパニック発作が起きそうなときでも、無理矢理出ればそれなりに歩けた、という、過去の成功体験にすがるように歩いて、けっきょく何の発作もなく投票場の中学校に着く。発作は起きなかった、とはいえ息苦しさは変わらず、朦朧とした状態で記載台の前に立ち、誰の名前を書こうか、しかしぜんぜん頭が回らない、と思っていたら、朝リストアップしたうちの一人の名前だけが浮かび上がってきた。その名前を祈りのように書き、投票。やることを終えたら少し楽になり、そのあと二十分ほど散歩して、食材を買う。

 帰宅したら『大菩薩峠』。道庵・米友の旅はつづく。「軽井沢から沓掛まで一里五町、沓掛から追分まで一里三町。」「追分から小諸までは三里半。」みたいに、経由地と距離が引き続き細かく記載されている。考えてみればここまでずっと、中仙道の宿場名とその距離がすべて書かれている。中里介山、きっと、地図かなにかを片手に書き写しながら、楽しかっただろうなあ。追分のあとは小諸までしばらく宿場がないから、追分ではしっかり休ませないとな、とか考えただろうか。

 中里が四歳のときに東海道本線が全通して、東西の人流・物流は太平洋沿岸に集中した。中仙道の重要性が大きく低下していた昭和のはじめに、賑わっていたころの街道を旅する二人の姿を描く、というのは、聞こえない喧噪に耳を澄ますような仕事だったのだろうか。

 米友は軽井沢のお玉に未練タラタラながら、道庵に説得されて旅を続けている。善光寺に着いた二人は、「江戸へ五十七里四町/日光へ六十里半/越後新潟へ四十八里二十七町」という道標を見る。というのを見ても、どのくらいの距離なのか、ましてそれを歩くとどのくらいかかるのか、は、メートル法と鉄道に慣れた現代の私にはわからないのだが……。当時の読者はどうだったんだろう。軽井沢での米友の立ち回り(荒くれ者の馬子をやっつけた)のおかげで、武芸者の主人としてチヤホヤされた道庵、その扱いが気持ち良かったらしく、武者修行の旅を装うことを思いつく。かつて体格は良いけど武術はからっきしの男が、友人にそそのかされてそういう旅をしたらしい。道場を訪れて、師範との立ち会いを所望し(普通ならその前に弟子が力を試すのだがそれは拒否して)、打ちかかられたらすぐに降参して、「恐れ入りました、われわれの遠く及ぶところではござらぬ」と平伏してみせる。最初から勝つ気がないのだから殺気を纏うこともなく、攻撃するつもりがないから相手が高度な駆け引きを仕掛けてきても乗らない(そもそも駆け引きに気づかない)、木刀を打ち合うこともなしに師範の力量を見極め、負けを認める潔さもある、ということで、打ち合いのあとは酒食でもてなされ、武芸仲間として路銀まで持たせてくれたりする。

 そういうサッカー選手がいたですね。カルロス・カイザー、虚偽の新聞記事やコネ、仮病や怪我のふり、ありとあらゆる手段を駆使して、ほとんど試合に出ないまま、十数年間プロ選手として活動しつづけた、八十年代のブラジル人選手。この人については、ドキュメンタリー映画もあるし、日本でも何度かテレビで取り上げられたりしてるけど、いつか小説にしたいんだよな。

 江戸では白雲が勉強を続け、福沢諭吉の『西洋事情』を読んで感銘を受けつつ、しかしやっぱり欧米の本を原書で読まなければほんとうには西洋のことをわからない、と物足りないものを感じる。がんりきに拉致されてきてお角の家にいた茂太郎を連れて、外国語が堪能な甚三郎を尋ねるために房州へ向かった。

 いっぽう兵馬は、仏頂寺と丸山と三人で松本の街に着いた。ちょうど同じころ、道庵と米友も松本に着く。宿に着いた兵馬は、二人がここでも起こした騒ぎを耳にして、窓から見物してるうちに道庵の姿を見もする、が、江戸の医者が松本で武芸者のコスプレをしてるとは思いもしないから、それが道庵だと気づかない。道庵と米友は市川海土蔵(海老蔵の偽物)の公演を観に行った。客席には仏頂寺と丸山もいる。田舎芝居に苛立った道庵は野次を飛ばし、これが偽物だと早い段階で見抜いていた仏頂寺はイライラを募らせて、ついに舞台に躍り上がってしまった。

 吐き気がひどくて読み進められず、薬を飲んだり副作用でウトウトしたりしながら、ふだんの倍の時間をかけて五十ページほど読み進めた。夕食にチキンタツタを食って選挙速報を観。159/524


4月24日(月)曇。起きてすぐ選挙の結果確認。私が投票した人は当選していた、が、統一地方選全体としてはしんどい結果だった。茹で卵を食ったりリンゴを剝いたり、チビチビ食べながら読書。

 昼、『大菩薩峠』。仏頂寺が舞台に飛び出して海土蔵の嘘を暴き、折檻をしていると、道庵まで上がってきて、扇子で軽く叩く、くらいでその場をおさめた。年の功だ。

 この騒動は街道の噂になって、だいたい仏頂寺を賞讃するような論調なのだが、一部、「横暴である、暴力団の行為である、暴力を以て芸術を蹂躙するのはよろしくない」と批判する者たちがいる。「海老蔵とそのまま出せば冒涜にもなろうが、ちゃんと遠慮して海土蔵としてあるではないか、人間には呼び名の自由がある──なんぞとガラクタ文士が理窟を捏ね出しました。/この連中は常に、クッついたり、ヒッついたりする物語を書いて、おたがいに刷物を配っては得意がっている。親たちがそれを意見でもしようものなら躍起となって、芸術は修身書ではありませんよと叫び出す。」ここから語り手は脱線をはじめて、文学談義をはじめる。


 幕末維新の時代は、政治的にこそ未曾有の活躍時代であったれ──文学的には、このくらいくだらない時代はありませんでした。

 これを前にしては、西鶴の精緻が無く、近松の濃艶が無く、馬琴の豪壮が無く、三馬の写実が無く、一九の滑稽が無い──これを後にしては紅葉、漱石の才人も出て来ない。況んや上代の古朴、完勁、悲壮、優麗なる響きは微塵もなく、外国の物質文明を吸収することはかなり進んでいたが、その文学を紹介し、これを味わうものなんぞはありはしない。

 有るものはガラクタ文士の小さな親分。有っても無くてもいいよまいごとを書いて、これを文芸呼ばわりをし、前人の糟粕を嘗めては小遣どりをし、小さく固まってはお山の大将を守り立てて、その下で小細工をやる。その小細工だけは一人前にやるが、彼等から、めぼしい作物というものが一つでも出たということを知らない。


 日本の文芸界隈というのは幕末の時代から変わってないな。この語り手は、同時代のヨーロッパではトルストイが『戦争と平和』を書き、ユーゴー『レ・ミゼラブル』を書き、ジョン・ラスキンが〈社会改良の理想に進んで行った〉、とも指摘している。

 プルーストの『失われた時を求めて』は文学論こそが主題だったようなものだし、一九一三年から、第一次世界大戦と著者の死(一九二二年)を挟んで一九二七年まで、九度に分けて出版されたこともあり、既刊への文学界や読者の反応、をもとにした記述もいくつかあった。中里も、『大菩薩峠』への反応が期待ほどではなかった失望を書きこんだのかもしれない。

 いっぽう、甲府の街で兵馬と別れたお銀は、行く先を失ってふらふら夜道を歩くうち、故郷の村の近くまで来ていることに気づく。しかしこれまでの経緯を思えば素直に帰れはしない。泣きながら森のなかに迷い込んだ、ら、盗賊に裸に剥かれた弁信が木から吊り下げられてるのにバッタリ行き会う。そんな偶然あるかよ!となったが、このくらいの偶然で動じていては『大菩薩峠』を読めない。しかしお銀、木から下ろしてやるまでそれが旧知の人だと気づいてなかったようなのだが、夜の森のなかで木からぶら下がった全裸の男を助けてやるの、これまでめちゃくちゃタフな人生を送ってきたのに、人が良いというかなんというか。琵琶も壊され、裸に剥かれた弁信を、さすがに葛藤を飲みこんで実家に連れていった。

 いっぽうお松は、竜之助の実家である机道場だけでなく、兵馬の実家の宇津木道場でも寺子屋をはじめ、いつの間にか一円の教育の中心みたいな存在になっている。馬に乗って各地の寺子屋を巡り、忙しく充実した日々。「お松自身にとっては、この頃ほど自分の現在というものに、喜びを感じていることはありません。」

 七兵衛は〈竹流し分銅〉を求めて江戸城に侵入する。そこへ、薩摩屋敷に集っていた勤王派の浪士たちも忍び込んできている。火をつけて地図を見たり煙草を吸ったり、果てはのん気に鼻歌をおっぱじめるシロウトぶりで、七兵衛は悪戯っ気を起こして、彼らの荷物をこっそり盗んでしまう。どうやら彼らは、西郷隆盛の指示で放火をしにきたらしい。七兵衛はそれを未然に防いだことになるのだが、これがのちの江戸城無血開城につながる、のかしらん。『徳利長屋の怪』では夢水清志郎左右衛門が西郷と勝海舟の会談をセッティングして無血開城のきっかけを作った、ということになっていたが、史実の裏で架空の人物を暗躍させる、というのは、時代小説の常套なんだろうな。

 午後、だんだん具合が悪くなっていく。カップ麺やポテチなんかをダラダラ食べながら、菊村到の短篇集『硫黄島』。とても良かった。サバイバーズギルト、という主題がうっすら通底してるかんじ。太平洋戦争の軍務経験(本州から出ずに終戦を迎えた)や、戦後の新聞記者としての取材経験なんかを元にした、手触りのある描写。実体験というのはやっぱり強いんだよな。松本清張が、芥川は頭で小説を書いてるから長く続かず、〈ぼんやりした不安〉なんかに捉えられてしまった、その点菊池寛は、極貧生活を体験していて強いんだ、と、こないだ読んだ『清張地獄八景』に収録されていた講演で話していた、ことを思い出す。

 いちばん好きだったのは、南京のちかくで死体安置所の不寝番をする兵士たちを描いた「しかばね衛兵」。濡れた死体からしたたり落ちる水の音が聞こえる、という兵隊仲間の吉田の指摘に続いて、主人公の沢はこう述懐する。


 もし死体があの水の音を聞いていたとしたら、どんなぐあいだろうな、そう沢はおもった。いや、あいつはあの音をああやってからだをふくらましながらいやに意地わるい気持で辛抱強く聞いているのかもしれない。死体というのはそういうものなんだ。あいつらは何だって知ってるんだ。あいつらは、けっして自分が死体だなんておもってやしないんだからな。じっさい、あいつらはいつだってそうなんだ。あいつらはもう眉ひとつ動かすのもめんどうくさいといったようなあんばいで、ああやってじっとしずかにからだを横にしているくせに、生きのこったやつらに対する関心だけはおどろくほど強くて、どんらんにおれたちの世界をみつめている。あいつらにみつめられているとおもうだけで、もう生きている連中は存在の主導権をあいつらに送り渡してしまわなければならないような重たい気分におちこんでしまうんだ。

 あいつらがおれたちから自由をもぎとることができるのは、たんにあいつらが死体だという理由によってなのだ。あいつらはただあいつらがすでに死んでしまっているというそのことだけで、おれたちを支配しているのだ。そのくせあいつらは自分が死体だなんてこれっぽっちもおもったことがありはしないんだからな。


 ちょっと大江の「死者の奢り」を思い出す。菊村が軍務のなかでこれに近い経験をしたかどうかは知らないけど、「死者の奢り」の観念的な死体観と比べて、肉体そのものの手触りのある描写──じっさい、積み上げられた死体というのは、肉体そのものとして以外のあらゆる観念を失っているのだ。そして清張の指摘と思い合わせると、最初期は観念で書いていた大江は、脳に障碍を持った子供を長男として育てることで、自らの書くべき〈実体験〉を獲得した、と言えるのかもしれない。それも小説を中心に置きすぎた考えかたか。「死者の奢り」は『文學界』一九五七年八月号、「しかばね衛兵」は『別册文藝春秋』一九五八年一月号の発表で、版元が同じなのは偶然としても、半年も離れてないんだな。

「奴隷たち」という短篇はシベリア抑留が主題で、ソ連兵が捕虜を五人ずつ整列させて数えていく、という描写があった。「五人ずつたばにしてかぞえたのは、かれらが掛け算になれていなかったからである。」これを読んで思い出したのは小熊英二『生きて帰ってきた男』の、謙二のこういう語りだ。


「衛兵所の前に整列させて、警戒兵が人数の確認のために番号をかける。ところがロシア人は九九の習慣がないから、列を掛け算せずに、五人ずつまとめて数えていく。警戒兵がわからなくなるとまた最初からだ。寒くてたまらないから、足踏みしながら、ずっと整列させられていた。なんて頭の悪い連中なんだ、とそのときは思った」


 たまたま近い時期に同じ主題の作品を読んだ、というだけだし、抑留経験者の手記では定番のエピソードなのかもしれないが、印象的なリンクだった。四月に入ってから、ちょっと無理をしてでも毎日一冊読むことにしていて、こうやって読んだもの同士が頭のなかでスパークする(〈スパーク〉というとすぐに〈ジョイ〉と続けたくなるの、やめたい)には、やっぱりこれくらいの読書量が必要なんだよな。もっと読みましょう。しかし読んでたらもう夜中で、力尽きて寝。214/524


4月25日(火)朝は晴、昼ごろからぐんぐん曇り、気圧も急降下。気圧性の不調、なのか、先週からの不調がずっと尾を引いているのか、ずっと具合が悪い。タフな頭痛で、朝からロキソニンを飲んだ。

 身体を縦にするのもつらく、ふらふら散歩をしたあとは昼過ぎまで伏せっていた。そのあとようやく身体を起こし、今日締め切りの地元紙のコラムに取っ組む。夕方ちかくまでかかって完成。すぐに送稿して、今日は無理せず店じまい。

 夜はいがらしみきお『ぼのぼの人生相談』。ウェブサイトで募った人生相談と、ぼのぼのとシマリスくんをはじめとするキャラクターたちによるその回答集。『ぼのぼの』は哲学的、みたいな評価が高いから行われた企画、なのだろうが、キャラたちがみんなめちゃ饒舌でびっくりした。私の知っているシマリスくんは「ぼのぼのちゃん、生きてるってたいへんなのよ。たいへんじゃない生き方なんてねいのでぃす。」とか「思い出って森に積もる枯れ葉みたいよ。」なんて言わないし、ぼのぼのも、「なんだかこの世界って、(…)誰かが作ってできるもんじゃないぐらいカンペキだけど、誰かが作らないと絶対出来ないぐらいカンペキだと思うよ。」なんて言わない。本書は『ぼのぼの』が三十九巻まで出た時点の刊行で、私はまだそこまで読んでないので、その間にキャラが変化した、という可能性もありますが……。

 哲学的な漫画、というと『ピーナッツ』を思い浮かべるのだが、『ピーナッツ』はキャラクターたちの台詞で哲学をやっていた、のに対して、『ぼのぼの』は問いかけと〈間〉でそれを演出していた。そしてキャラたちが硬直しているとき、背景で(ストーリーにはぜんぜん関係ない)虫が這っていたり鳥が横切ったりする、のを描くことで、時間の経過を表して間を持たせていた。しかし『人生相談』の回答はぼのぼのたちの会話だけで構成されていて、その間を台詞で表現しなければならない。そして漫画なら筋に関係ない出来事や背景を描き込めるし、すっとぼけた絵柄のキャラが硬直してるだけで間が持つのに対して、地の文のない台詞で〈間〉を表せるのは「……」とかの無機質な記号しかない。ということで彼らは、キャラに似合わない饒舌を演じざるを得なくなる……。とはいえ、漫画では沈黙という形でしか出力されなかったキャラたちの思考に触れれらるようで、体調のひどさが気にならなくなる楽しい読書でした。

 シマリスくんのお父さんがこう言っていた。「死んだらなにも起きないんだよ。なにも見えないし、風がそよとも吹かないし、なににもさわれないし、誰も自分にさわってくれないんだよ。だったらどんなに苦しくても、まだ生きてる方が楽しいだろう。」そうだよなあ。ここ二、三年、ずっとタフな不調が続いているけれど、それでも人生に楽しいことは多い。「生きてるのは楽しいんだから、こんなに苦しいのもしかたないさ。」という言葉に、なんだか励まされてしまったですね。

 いっぽうでぼのぼのは、「ボクさ、生まれ変われるんだったら、もう1回同じひとたちが出て来る人生がいい。」と言い、「ぼのぼのちゃんて、ほんとに幸せだったのねぇ。」と感動するシマリスくんに、「うん。ボク幸せだったんだと思う。」と返している。これも良かったですね。生命賛歌、というか。生きるのがしんどすぎる、と私が感じているから、こういうやりとりに感じ入ってしまうのか。214/524


4月26日(水)雨。今日も朝から伏せって、『大菩薩峠』を読。

 白骨温泉のお雪は、毎日のように弁信に手紙を書いている。お雪は、「お腹の中で、何かが動きつづけているようです。」と書き、「わたしは妊娠したのじゃないでしょうか。」と考えている。しかし本人は、妊娠するようなことをした記憶はないらしく、処女受胎だ、と考えると、彼女に「お乳が黒くなっている」と指摘したあの後家さんは、マリアに受胎を告げた大天使ガブリエルではないか。甚三郎の従者金椎がクリスチャンであることと、何かつながってくるのかしらん。

 しかし、考えてみると、後家さんの言葉や妊娠の疑いといった記述はすべてお雪の手紙の文面として書かれているので、天真爛漫な性格に描写されているとはいえ嘘の可能性もあるし、そもそも宛先の月見寺に弁信はいない。なにより目の見えない弁信は、自分一人でその手紙を読むこともできないのだ。そしてお雪はそのことをわかりながら手紙を書きつづける。虚空に向かって告げられた処女受胎。お雪は人が変わったように内向的になり、誰とも言葉を交わさなくなっていった。

 白雲と茂太郎は無事に甚三郎のところに着いた。が、甚三郎と白雲が外出して、金椎が家事の合間にうたた寝をしているところに、とつぜん〈眼が碧で、ひげの赤い異国人〉が忍び込んできた。炊事場の食材をむさぼり食い、酒を飲んで、ゴキゲンになって踊りはじめる。そして屋敷のなかをうろついて、もゆるが昼寝中の寝室に入った。酒で気が大きくなった男は、彼女の頰をツンツンして起こしてしまう。昼寝から起こされたと思ったら「髪の毛のモジャモジャな、眼の碧い、鼻の尖った、ひげの赤い、服の破れた大の男が、今しも自分を上から圧迫するようにのぞき込んで、棒のような指で、自分の頰をつついて」るの、あまりにもこわい。

 昼ごろ、グラノーラだけ食って一時間ほど寝。少し楽になって、ちょっとだけ作業もできた。早めに店じまいして、ウーバーイーツで頼んだ良い寿司を満腹になるまで食う。そのあと漱石の『硝子戸の中』。私は早稲田大学の近くに三年ほど住んでいて、夏目坂も幾度となく歩いた、ので、文中に出てくる地名も、これはあのあたりだな、と、上京してきた数年前以降のことしか知らないのだが、自分の記憶と照らし合わせながら読める、のは、鳥取や札幌に住んでたときにはできなかった読みかただ。

 たびたび知人や家族、猫の死について語っていて、おそらく即興的にこの随筆を書いてたのだろう漱石は、身辺の死をつづりながら、そう遠くないだろう自分の死(本書は〈修善寺の大患〉の四年後、死の前年に連載された)について考えてもいたのだろう。漱石のもとを訪れる知人も、病気の調子はどうだ、治ったのか、と尋ねてくる。彼の病はもはや完治するようなものではなく、「どうかこうか生きています」と答えていたのを、T君(寺田寅彦のことらしい)との会話をきっかけに、「病気はまだ継続中です」と改めた。「私は丁度独逸が聯合軍と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやって貴方と対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕の中に這入って、病気と睨めっくらをしているからです。私の身体は乱世です。何時どんな変が起らないとも限りません」私の身体は乱世です、という言葉に、ふと大江の「私たちは健全です」を連想した。新作の発表がないことや酒量が増えていて妻が心配しているという噂について問われた大江が、記者を振り切るように放った、〈健全〉という大江的な語を週刊誌の記事で読んだことを、先月思い出したばかりだった。大江と同じように健康について問われたとき、(相手が不躾なゴシップ記者か見舞いに来た知人か、という違いはあるが)漱石は、きわめて漱石的なユーモアで答えたのだった。なんだか考え込んでしまったですね。

 ともあれ、この感想は、心身を病んで日々しんどい私が、不調で仕事も手に着かない日に読んだ、ことが影響しているような気がする。健康になってからまた読みましょう。266/524


4月27日(木)快晴。早めに起きてパスタを茹でる。散歩して、家事を済ませて『大菩薩峠』。甚三郎の家に入ってきた不審者は、甚三郎といっしょに帰ってきた白雲にやっつけられる。目覚めて説明したところによると(甚三郎は英語ができる)、彼はオランダ生まれの英国人で、日本の近海で密漁をして、その帰りに同じ船の乗組員とトラブルを起こして逃げ出したのだという。洋行を志す甚三郎と、絵画を中心に西洋文化を知りたい白雲は、家に忍び込んで食材を食い散らかした彼をあっけなく受け入れ、いっしょにめしを食う。

 いっぽう兵馬は、仏頂寺・丸山といっしょに、浅間の温泉宿に滞在している。二人がどこかへ行って兵馬一人の深夜、泥酔した芸者が押しかけてきた。どうやら部屋を間違えたらしく、兵馬が対応に困ってるうちに、彼の布団に入って眠り込んでしまった。朝起きて恐縮する女に事情を説明して兵馬は出立した、が、その部屋に戻ってきた仏頂寺たちのもとへ、ガラの悪い男たちが押しかけてくる。事情はよくわからないながら、仏頂寺たちもガラが悪いので彼らを撃退して、宿の主人に事情を聞いてみると、どうも男たちの主が、自分の囲ってる女がこの部屋の宿泊客と姦通した、と憤慨しているらしい。

 誤解がとけて仏頂寺たちも浅間を発った、が、翌朝、その芸者の着物が井戸の底から見つかる。どうやら身投げを装って逃げ出したらしい。同じ浅間に滞在しながら、旧知の兵馬とはけっきょく会わずじまいだった道庵と米友も出発した。一瞬重なったかと思ったらまた離れる。しかし道庵は、武者修行のコスプレに飽きたらしく、こんどは「おれは今日から百姓になる!」などと言いはじめた。

 兵馬は浅間から、中房という、白骨温泉とは違う方向にある温泉地に着いた。あまり宿泊客も多くなさそうな温泉宿で、あやしい気配のする部屋に討ち入ってみると、そこには浅間で会った芸者がいた。ラブコメみたいな再会をするな。

 散歩して、午後は作業。具合が悪くても進めなければ。夕方、白米と生野菜を食いながら、John EscottのDead Man's Islandを読む。あらすじが面白そうで借りたサスペンス。ちょっと読めばオチが想像できてしまうほどにオーソドックスだった……。本書はOxford BookwormsのStage 2というレベルで、私でも英語のまま、頭のなかで訳さずに理解できた。『小説のたくらみ、知の楽しみ』で、大江はとにかく読みまくってる、それもできるかぎり原語で、というのを改めて読み、そういえば村上春樹も、日本語訳されてない英語の小説をたくさん読んで、その感想をエッセイに書いたりしていた、ことも思い出した。それで私も、二人ほどの語学力もないのに、英語で読みたい!と思ったのだった。そこでいきなりジョイスとかウルフとかに行かず多読教材を手に取ったのは、身の丈をよくわかってますね。甚三郎も白雲もずっと勉強を続けてる。私も頑張りましょう。

 勉強は未来の自分のためのものだから、パニック障碍で将来に悲観してる今の私には良い薬になるかもしれない。と書きつけて思ったのだが、勉強だけじゃなくて、たとえば筋トレとかもそうだな。勉強、筋肉、そしてもちろん小説も、未来のために書くものだ。バンバっていこう、と、日記を書きながらだんだん元気が出てきた。いいことですね。321/524


4月28日(金)快晴、あまりにも良い天気。腹を下してから一週間、ようやく朝から身体を起こして活動ができるくらいに治ってきた。シャワーを浴びて赤いキウイを食い、散歩したあとは作業。

 昼休みに『大菩薩峠』を進読。中房では竜之助を見つけられず、兵馬は、芸者の松太郎といっしょに浅間へ向かう。道中の茶屋で、二人を追ってきた仏頂寺と丸山と出くわした。女を連れ戻しに来たのだ、と言われて兵馬は、素直に松太郎を二人に預ける。が、どうも落ち着かない。「奪われた心。奪われたのではない、いわば厄介払いをしたのだが、なんとなく安からぬ心を、如何ともすることができない。」と後ろ髪を引かれている。

「自分はそのあとを追わねばならぬ、追いかけて、二人の手からあの女を取り戻して……取り戻さないまでも、あの女の先途を見届けてやらねばならぬ。これは単に女というものに対するの未練執着ではないのだ、義の問題だ、人間の道だ。」と意気込んでいる、が、なんせ遊女の東雲に入れあげて金のために暗殺を請け負ったりした(そして勘違いで赤の他人を殺した)兵馬なので、未練執着にしか見えない。おれの女を奪われた!みたいな剣幕で三人を追って駆け出したが、そうやって思い込みが激しいから東雲にいいようにあしらわれたのではないか。復讐の鬼、みたいな感じかと思いきや、だんだん女に弱いという人間味が見えてきて、兵馬はいいキャラだ。

 午後、散歩に出る。四十分ほど。久しぶりに入ったスーパーで、セルフレジの前にスタッフが増員されていて、会計の前にカゴのなかを確認する、というオペレーションに変わっていた。なんのためのセルフレジなんや、と思ったが、盗難が増えたりしたのかもしれないな。372/524


4月29日(土)晴、午後はだんだん曇って、夜ザッと降る。昨夜三時ごろまで起きていた、が、七時台に起きた。ここ一ヶ月くらい隣家が、外壁塗装用に足場で囲われていたのだが、今朝それが解体された。

 遅い朝食に焼きそばを食い、ニコニコ超会議やWリーグのオールスター(一日目)をちょっとずつ観、のんびり過ごす。ゴールデンウィークだ。

 午後、図書館に行ってすこし散歩。明日は天気が荒れるということで食材を買い込み、帰ってシビル・ラカン『ある父親』。シビルは、他人が書いた父ジャックの伝記で臨終の様子を読むことで、「今までになく父が身近に感じられた。」という。そしてその日を最後に父を思って泣くことはなくなった、という記述で本書は閉じられるのだが、テキストを読むことで父の死を終える、というのが印象に残った。言葉の人だ。

 夕方になって『大菩薩峠』。主膳は江戸の屋敷でのんびり書道をたしなみながら、暇つぶしに近所の子供らと遊ぶのもいいかもなあ、などと考えている。お絹もなんだかダラダラ遅くまで寝ている。平穏な日々。そんな主膳に七兵衛が、薩摩屋敷の者たちが江戸城を焼き討ちしようとしてるらしい、と話す。さすがの主膳も、「徳川の屋台骨が崩れるとすれば、その責任はいわゆる旗本にある」と、かつて悪徳旗本だった自らを省みる。これまで悪役的に描かれ続けていた主膳が改心して七兵衛とともに暗躍、江戸城の無血開城をみちびく、となったら面白いけど、そんなハッキリした小説じゃないんだよな。

 いっぽうお松は、武蔵野の各地に寺子屋を運営しているし、与八が捨てられていたという街道沿いに地蔵堂をつくらせ、そこへ旅の人が自由に使えるようにと草鞋を置いたりしていて、すっかり慈善家みたいになっている。いっしょに巡礼の旅をしていた祖父を辻斬りに殺され、頼った親戚には売られ、京都の遊郭にまで流されて、めちゃくちゃたいへんな前半生を過ごしたからこそ、なのかしらん。ここらへんは、タフな生い立ちで性格がゆだんでしまっている、にもかかわらず根本的に人が好いお銀と通ずるところがある。

 お堂には旅の人や地元の人なのか、絵馬や達磨、御幣やお札が奉納されている、が、そのなかに、〈獄門台に梟されている人間の生首を一つ描いてある〉絵馬があった。裏には〈巳年の男〉とだけ書いてある。あまりにも不穏だ。421/524


4月30日(日)曇、午前すこしだけ雨が降っていた。遅く起きてすぐ大量にパスタを茹で、アラビアータで朝食兼昼食。満腹になってすこしウトウトして読書をして、十六時からWリーグのオールスター二日目。

 十数年前までやってたJリーグのオールスターと比べて、お祭りの要素が強い、というか、あんまり真剣勝負ではないかんじで、ちょっと拍子抜けした、が、みなさん楽しそうで何より。

 そのあとはマックのごはんバーガーを食べる。悪くないのだが、米と具は別々に食いたいな……と、ごはんバーガーを食べるときいつも思うことを思った。421/524


5月1日(月)晴。長めに散歩して始業。十日くらい不調で仕事が捗らなかったので、さすがにそろそろ立て直さなければ。

 昼休み、今日は『大菩薩峠』を読まずに長い散歩。近所の中学校がちょうど昼休みだったらしく、校庭に制服を着た人がたくさん出て走り回っていた。横目で見ただけなので何をしているのかはわからなかったが、ボールが跳ねる音といくつもの足音、頑張れー!という声が聞こえて、外の歩道を歩いてるだけの私まで応援された気持ちになる。そのあと人通りの多い道で、一分くらい前を歩いてた人のTシャツの背中に、BELIEVE SOMETHING MAGICAL IS ABOUT TO HAPPEN TO YOUと書かれてるのに気づき、それもなんか励まされた。外を歩いてるだけで励まされるなんて、この世界もまだまだ捨てたもんじゃない。

 午後は短篇を書き進める。まだ軸になるモチーフと全体の雰囲気、しか決まっておらず、ストーリーや輪郭もつかめていないので、慎重に。今日は夕方まで、二割引のランチパックと茹で卵しか食べずに過ごした。夜、さすがに腹が減ったので、餅を二つ茹でる。

 それから小沼純一『オーケストラ再入門』。バリのガムラン(「大勢の人が集まって音楽をやる。その音楽で何かを提示する」というのが本書における〈オーケストラ〉の定義なので、管弦楽じゃない音楽も紹介されている)が興味深かった。


 バリのガムランは「コテカン」という番いのリズムを奏でていく音楽で、たとえば「ドミレファ」というメロディーがあると、一人で「ドミレファ」と叩くのではなく、三人、四人で音を分けて叩くわけで、スピーディーに奏するのはとても難しい。この「みんなで分けて叩く」というやり方は、バリの社会のありようを反映しているようでもあります。バリの社会は農業が中心ですが、農作業のやり方、分業のシステムが反映されているとも考えられるわけです。


 私は小学校でサッカー、高校でラグビーをやっていたので、チームプレイの経験はある、のだが、当時はあまり、個々の役割が組み合わさってひとつの目的(ゴールとかトライとか)が達成される、みたいな意識は薄かった。中学に入ってサッカーではなく陸上競技を選ぶとき、自分のミスを人にカバーさせたり、そのミスのせいでチーム全員が負けるのは嫌だ、と考えていたことも憶えている。その後、同人誌をつくったり(新型コロナが終息して、私のパニック障碍が文フリ会場に行けるくらい回復したら続刊を出す予定)、職場ではバイトリーダーになったりと、グループで動くこと、への苦手意識はなくなったが、今でも、何かを考えるときはまず自分を起点にしてしまう。音楽で喩えるなら、まず自分をソロのプレイヤーだと考える。集団の一員だとしても、ロックバンドみたいな、各楽器を一人ずつが担当するようなグループを想像する。複数人で一音ずつ出す、なんていうのは、(こうして本で紹介されるくらいなのだから世界的にも珍しい例なんだろうけど)思いつきもしない。集団の一部としての機能を果たすこと、自分の音だけを出し、それ以外を手放すこと。そういう、人にゆだねること、への忌避感というか、罪悪感みたいなものを私はずっと持っていて、それがいろいろプレッシャーを背負い込んでメンタルを傷めてることにつながってるのでは、と、もはやオーケストラとはぜんぜん関係ないことを考えた。421/524


5月2日(火)快晴。起きて洗濯ものを畳み、生野菜とリンゴで朝食。四十分ほど散歩をした。路肩の新緑が、ずいぶん青々としている。初夏のはじまり。帰宅して家事を済ませて始業。

 昼は冷蔵庫のものをゴチャッと食べて『大菩薩峠』。自分が建てたお堂に不穏なものがあるのを嫌がったのだろう、お松は生首の絵馬を机道場に持って帰り、与八に処分を頼んだ。

 彼はその夜、備蓄の米を取りに行きがてら水車小屋に泊まることにする。囲炉裏で絵馬を焼いてしまおうか、と思ったころ、七兵衛が小屋に忍び込んできた。七兵衛はどうも、このへんで盗みをやって追われていたらしい。怪しみつつもわりあい穏やかに言葉を交わし、与八がお茶の準備をはじめたところで、七兵衛が生首の絵馬に気づいた。

「誰がこの絵馬を持って来たんだって?」「お松さんが持って来ました」「お松さんが、どこから持って来たの?」「それは知らねえ」という会話で、七兵衛には与八がお松の縁者だとわかただろうが、その点については何も言わず。与八に年齢を尋ね、どこで生まれたかわからない捨て子だった、と聞かされて、「幾度か、深いうなずきの後に、吸い取るような眼つきをして与八をうちながめ、」何かを数える仕草をする。そしてこう言う。「それでわかった、それで委細がわかりましたよ、お松さんという人が、ああして新町へお堂を建てたり、そのお堂の中に納めてあった絵馬が、こんなところへ来ていたりする因縁が、よくわかりましたよ。」

 七兵衛はさっき、「どこから持って来たの?」などと訊いていたが、与八は、お松がお堂を建てたことや、そこに生首の絵馬があったことは言っていない。そして七兵衛は水車小屋から出ていき、遠くから小屋を見下ろしながら目に涙を浮かべる。これはどうも、与八の父親は、そしてお堂に生首の絵馬を奉納したのは七兵衛らしい。

 しかし彼は、「委細がわかりましたよ」の台詞に続いて、「わが子を捨てるほどの親を、血眼になって探し廻るような仕事はよした方がようござんすぜ、子を捨てるほどの無慈悲な親に、ロクな奴があるはずがありませんからね。」とも言っていた。泣かせるなあ。

 場面変わって、道庵・米友は木曽福島にいる。宿を出てしばらく行ったところで、ふと忘れものに気づいた道庵は、米友に頼んで取りに行かせた。米友は、福島の獣皮屋の前で立ち止まり、客寄せのために熊が入れられた檻を熱心に見つめている。地の文の語り手は、動物学的な知識──世界各地の熊の種やその身体的特徴、生態や学名なんかを長々と並べながら、しかし「こんなようなふうにまで学的に見ているわけでもないでしょう。」とちゃぶ台をひっくり返す。そしてなぜか、「一万円の自動車を飛ばし、金にあかして多数の犬を弄んだという金持の文士が、民衆を標榜して打って出ると、それに五千の投票が集まるという、甘辛せんべいみたような帝都の人気を、苦笑しているわけでもないのであります。」と、註によるとちょうど連載当時、一九二八年の衆院選に出馬して落選した菊池寛に当てこすりをしている。中里は社会主義に傾倒していた、というのをどこかで読んだが、庶民に媚びを売るブルジョワを嫌っていたのだろう。松本清張は、菊池の文学は貧乏暮らしの実体験に根ざしているから強いんだ、と言っていた、が、それとは対極的な菊池観だ。

 文脈上まったく必要のない記述だが、新聞という(菊池の選挙結果を報じただろう)媒体に連載されたことを考えると趣がありますね。しかし数年後、一九三六年の衆院選に出馬した中里は最下位で落選し、一九三七年には菊池が東京市議選で当選した、のはなんとも皮肉なことだ。

 そのあと一時間ほど散歩した。快晴で、ずいぶん汗をかく。しかし昼休みの一時間は『大菩薩峠』を読むのにあてたのにそのあとでまた一時間散歩するというのは、昼休みが長過ぎではないか。まあいいか。

 帰ったあとはセッセと作業。夜はまたアラビアータを、隠し味にチョコを溶かして作る。料理にチョコを入れるの、NHKのレイチェル・クーの番組でやってたのだが、はじめての風味。いろいろ試してみよう。

 そのあとは日付が変わるころまでかけて京極夏彦『今昔百鬼拾遺 河童』。巻末の、この作品はフィクションであり実在の人物等とは関係ありません、というお決まりの注記につづけて、こう書いてあった。「また、Twitter上で行われた『虚談』刊行記念クイズ正解者十五名の氏名が作中に盛り込まれておりますが、実在する正解者と作中のキャラクターは無関係です。」昭和二十九年という時代設定にしては現代風の人名がいくつか出てきたのはそういうことだったのか、となった。

 京極は『ルー=ガルー』執筆時にも近未来の設定を公募してたし、こういう企画ははじめてではない、のだが、たしか水木しげるの、娘が同級生と、父親の漫画に登場させる、と勝手に約束してしまい、あまりうれしくない役(性格が悪いのだったか、殺されるのだったか)で出した、みたいなエピソードを思い出したですね。477/524


5月3日(水)晴。五連休の初日。小説家というのはカレンダーに関係のない仕事、といいつつ、どうしたって気持ちはゆるみ、遅くまで寝ていた。昨日のパスタの残りを食って読書の日。臼田捷治『装幀列伝』、興味深い内容だった。

 中島英樹が装幀を、奈良美智が絵を、吉本ばななが小説を担当した『ひな菊の人生』という本について、こういう記述があった。


 また、すでに触れた『ひな菊の人生』は函のなかに吉本の小説と奈良の装画が二分冊で収まっている。そして、それぞれの表紙の素材がベルベットを思わせる植毛加工紙のため、互いの摩擦で二冊同時でないと函から取り出しにくくなっている。

「普通するように小説のなかに絵を入れてしまうと、絵が挿絵になってヒエラルキーが出てしまう。ここでは絵と小説が、性格の違う双子のような関係にある。ですから、二冊いっぺんでないと出しにくい仕様になっているところが重要なんです。そのために函の内法も一ミリほど詰めています」と中島は意図を語る。


 ここを読んで、私は『震える虹彩』のことを思い出した。岡田和奈佳が装幀を、私が小説を、安田和弘が写真を担当した本だ。一冊の本の、片面には著者名として私の名が、反対側には安田くんの名が書かれている。右開きで開くと小説がはじまり、反対側から開けば写真がはじまる。どちらもほぼ同じページ数だから、奥付は真ん中にある。岡田さんはその意図をどう説明していたのだったか。小説と写真が、主と従ではなく、互いに背を向けて並び立っているような造本。そういえば『震える虹彩』も、ちょっと函から出しづらかったかもしれない。

 そう思って『震える虹彩』を久しぶりに見返したりしていたのだが、これはほんとうによい本だ。よい小説とよい写真によい装幀をほどこせば、それはまあよい本になるのは当然なのだが、その三分の一が自分の仕事だ、というのはうれしいことだ。477/524


5月4日(木)快晴。遅めに起きる。やや頭が痛い、が、薬を飲むほどではなし。チンする白米に非常食のレトルトカレー(賞味期限切れ)をかけて昼食とする。

 そのあと『大菩薩峠』を最後まで。お銀と弁信はお銀の父・藤原伊太夫の屋敷に滞在していた、が、ある夜、その屋敷が火事でほぼ全焼した。たまたまそのとき散歩をしていた弁信のところへ、息を切らしたお銀が駆けてくる。そして弁信は、そのお銀の息づかいに、何か悪いことをしてきた人間の気配を感じ取った。かつて父親の後妻によって、火鉢だったというから炎が燃えさかっていたわけではないだろうが顔面に大火傷を負った、すこし前には江戸で、主膳の屋敷の蔵に閉じ込められて火を放たれもした、そのお銀が放火をする、というのは、業の巡りを感じる。

 糾弾する弁信に向かって、お銀はこう言った。「人の惜しがるものでも、惜しがらないものでも、火はああして平等に灰にしてしまいます」ここで〈平等〉という言葉が出てくるのはすごいな。そしてこう言いつのる。「火は愛です、絶大の愛です、誰が、火を恐ろしいと言いましたろう、誰が、火を災といいましたろう、あのくらい、隔てなく愛するものはこの世にはありません、ひとたび火の洗礼を蒙った人には、微塵も未練というものが残らないではありませんか、あの絶大な愛の力に溶かされ、包まれ、同化されてゆかない何物もないではありませんか、火は力です、火は愛です、わたしはあの火にあこがれる」形あるものはいずれ滅びる、というのはよく言われるが、お銀は滅びをもたらすものを〈愛〉と呼ぶ。

 そして彼女は、人間の〈普遍な愛情をさまたげるもの〉をこう列挙する。「系図です、家柄です、それと財産です、女にとっては容貌です。」彼女は義母によって〈容貌〉をそこなわれ、「眼が見える人は一人でも、わたしを可愛がる人はこの世にありません」と断言するほどに屈折した心を抱いた。「まあごらんなさい、火という大明王が、その小さな愛情と、未練と、貪欲とを、木葉のように、広大なるつぼ(引用者註・〈るつぼ〉に傍点)の中に投げ入れて、微塵の情け容赦もなく、滅除し、済度して行く、あの盛んな光景を──」。この火事で、お銀の義母とその息子が焼死した。524/524


5月5日(金)快晴。四度寝くらいした。モゾモゾ起きて、今日もチンする白米を食って読書。アベル・カンタン『エタンプの預言者』をちょっと読んでから、昼食はウーバーイーツで頼んだイタリアンをむしゃむしゃ食う。

 そのあと辛島デイヴィッド『文芸ピープル』。私はたいへん興味深く読んだのですが、しかしこういう文芸界隈の楽屋ネタみたいな本、どのくらい需要があるんだろう。

 本書には、NYの老舗独立系出版社ニュー・ディレクションズの編集者タイナン・コガネが最近担当した仕事、が紹介されていたのだが、そのなかの、〈ドイツ人作家のユーディット・シャランスキーによる、サッフォーの詩の断片、絵画、映画、島、カスピ虎など、かつて存在したが失われたり破壊されたりしたものに関する作品集〉がちょっと気になった。調べてみると、原題はVerzeichnis einiger Verlusteで、英語版はAn Inventory of Lossesという題らしい。そして日本語版も、『失われたいくつかの物の目録』として、二〇二〇年三月に河出書房新社から刊行されていた(細井直子訳)。しかしこの、コガネの担当書についての記述は『群像』の同年十二月号掲載だし、『文芸ピープル』刊行は二〇二一年三月で、そういう書誌情報くらいは註か何かででも書いたほうがよかったのでは……?

 そのあとも、風呂のなかでトリ・テルファー『世界を騙した女詐欺師たち』を進読したり、漫画を何冊か読んだり『大菩薩峠』を再起読したり、読みつづけた日。111/524


5月6日(土)雲の多い晴。風が強い。遅くまで寝ていた。昨日の残りのピザを食い、図書館に行ってから三十分ほど、坂の多いルートをウロウロ散歩。朝は初夏の陽気で、汗ばむ。帰宅して日記を書き、朝食い残したピザとグラノーラで昼食。

 ちょっとずつ読んでる『センゴク 天正記』が、ついに鳥取の渇え殺し編に突入した。一五八一年、羽柴秀吉が鳥取城を兵糧攻めして、食糧が払底した城内では、死んだ馬や雑草や虫、最後は餓死した人肉まで食べるような飢餓状態に陥った。たぶん全国的に秀吉といえば、刀狩りや太閤検地、信長の草履を懐で温めたり一晩で城を建てたりというエピソード、あたりが有名なのだと思うが、鳥取では(鳥取城跡に建てられた高校の卒業生である私の周囲では)それらに並んで、この渇え殺しが知られている。

『センゴク』、第一部からここまでの二十数巻ずっと、主人公の仙石権兵衛秀久に、彼が仕える信長や秀吉に肩入れして読んでいた、のだが、渇え殺し編がはじまったとたんに(高校のすぐ近くに銅像の建っていた、渇え殺し当時の鳥取城主・吉川経家が出てきたとたんに)心情的な敵味方が逆転してしまった。作品はもちろんだけど、その自分の反応が面白かったですね。

 エピソードの冒頭、吉川経家が入城する場面に、章題として〈中国攻略編[鳥取の渇え殺しの章]〉と見開きで大書されているから、これから兵糧攻めがはじまることは、その史実を知らない人でも想像できると思うのだけど、鳥取に縁のない読者は渇え殺し編をどう読むんだろう。ダラダラ四時まで漫画を読んで、ひどい夜ふかしをした。282/524


5月7日(日)一日雨。一日籠もって過ごした。午後は読書、昼にカレーうどんを茹でて食い、午後はアベル・カンタン『エタンプの預言者』。すこし昼寝を挟んで、夜までかけて読了。良かったですね。皮肉と切実さ。リベラルを自認する老歴史学者がネットで大炎上する、というのが大筋で、どうしたって、つい先日、安倍元首相が暗殺されて良かった、というような発言をしてネットで大炎上し、ダサい釈明をかました初老の小説家のことを考えてしまう。が、本書の主人公にはあの小説家のような醜悪さはあまり感じない。それはこの主人公が、匿名の批判や、炎上した本で対象としている詩人とその文学に対して、彼なりに真摯な姿勢を保っている、からかもしれない。407/524


5月8日(月)朝まで降っていたらしいが、遅く起きたころには止んでいて、そのあとは一日曇。目を覚ました十五分後に散歩に出、三十分ほど歩く。昨日までの日記を書いたり、今日締め切りの地元紙のコラムの構成を思案したり。昼食は昨日のカレーうどんのスープが大量に残ってるので、白米を突っこんでおじやにした。

 昼休みがてら読書をして、午後はコラムを起筆。難渋しながら夕方にようやく書き上げた。すこし寝かせることにして、中華風お粥を作ってから散歩、肌寒いので後半は走った。

 夜は寝るまで佐藤友哉『俳優探偵 僕と舞台と輝くあいつ』を、人生の半分を佐藤ファンとして生きてきた者として感慨深く読む。主人公は二・五次元俳優なのだが、ほかの俳優が上げた悲鳴を聞き、それが脚本の求める演技から逸脱している、と感じて、こう述懐する。「演劇にリアリティが求められるのは当然だが、生々しい演技をただやればいいわけではない。それぞれの世界観に合ったリアリティが大切だ。たとえば二・五次元舞台は、登場人物の髪が赤だったり金色だったりと非現実的だが、観客がそれを受け入れるのは、『原作に合わせたから』。戦争の場面でいきなり歌い出してもリアリティがあるのは、『ミュージカルだから』。日本人の役者が外国人を演じても不自然に思わないのは、『海外が舞台だから』。このように、演技というものにはそれぞれの枠の中で、それぞれのリアリティがあった。」

 この語り手は単に、そーゆー設定だから、くらいのレベルでしか捉えていないが、舞台では、大道具や音楽や効果音、衣裳、そしてもちろん俳優たちの演技、舞台上のあらゆる要素がそれぞれに補完しあって、その場のリアリティを作り上げている。これは小説にも通ずることだ。京極夏彦作品があれだけ非現実的な会話文と奇矯なキャラクター、実現不可能そうなトリックを扱っているのに成功してるのは、それでもリアリティを確保できるだけの強固な〈枠〉を構築できているからだろう。

 語り手は、売れるために演出家に迎合する演技をする事務所の同期・水口を見てこう考えている。


 もちろん僕だって有名にはなりたいが、そのためだけに舞台に立っているつもりはない。『俺は安っぽい仕事しないぜ!』とか、『俺は金のために役者をやってるんじゃないぜ!』とかに代表される、熱くて、寒くて、香ばしい要素が、僕には自分でもげんなりするほど多くあった。地位や名誉や金を手に入れるのではなく、美しい場所に立ちたかった。自分だけの居場所を見つけたかった。

 そういうものから手を引き、日本で一番有名な役者になるためだけに生きているのだとすれば、水口はやはり、悪魔に魂を売ったのだ。

 水口の才能にだれよりも早く気づいたのは僕だった。ただひたすら自分の才能を見せつけるだけの演技は、客席からも同業者からも評判は最悪だったが、僕は、僕だけは、そんな水口を評価していた。舞台上で動き、舞い、叫ぶ水口は、発狂のよろこびに満ちていた。

 あのころの演技を、僕は生涯忘れない。

 自分の魂をみがくことだけに集中していた水口が、僕は大好きだった。


 これは佐藤自身のことですね。二〇〇一年のデビュー作『フリッカー式』にはじまる〈鏡家サーガ〉でごく一部での熱狂的な支持と顰蹙を集め、編集者には〈重版童貞〉と呼ばれ、翌年上梓した四作目『クリスマス・テロル』の終盤ではいきなり著者が登場して「鏡家サーガは、もう書けません。/金にならない人間をいつまでも置いておくほど出版業界は裕福ではないし、それに才能ある後続部隊に道を空けるため、前線に紛れこんだ三流を排除するのは極めて自然な行為だ。」と言い放った。

 その後、二〇〇九年の文庫版『クリスマス・テロル』に収録された自作解説の言葉を借りれば「佐藤自身は文学の世界で評価を受け、」小説家として「進みつづけている。」

「文学の世界で評価を受け」た作品のひとつである三島由紀夫賞受賞作『一〇〇〇の小説とバックベアード』(二〇〇七年)には、こういう台詞があった。「「言葉は残ります」声が再び流れる。「純粋で純然たる『小説を書いた』という事実さえあれば、言葉は絶対に消えません。(…)だからどんなにつまらない、どんなに下手くそな小説でも、一つ残らず浄水場を通過し、濾過され、循環するのです。言葉は残るのです。(…)」」

 そして二〇一三年の『1000年後に生き残るための青春小説講座』では、「作家の一部が、「自分の小説は消費物です」「読んだ端から忘れられてもかまいません」「むしろ歴史に残らないものを書いています」といった、わけのわからない発言をするのも、自分が書く「本の力」を信じられなくなったからだ。今生きている読者と、もらえる印税の額しか、信じられなくなったからだ。」という批判を前置きに、佐藤自身の〈「僕が文学だ!」と感じられた一瞬〉について振り返る。彼によると、〈1000年後に生き残る〉方法は、けっきょくのところ「ひたすらに「本の力」を信じて、何も考えずに書きつづけ」ることなのだ。

 そういう思索を経て佐藤は、二〇一七年の『俳優探偵』の終盤、小説家ではなく、かつて見た演劇で感じた衝撃(作中では〈電流〉と表現される)を追い求めて俳優として活動する主人公と、かつて自作が、語り手の兄を含む他人の死を引き寄せた経験をもつ脚本家にこういう会話をさせる。


「俺はやるんだ。やるって決めたんだ。俺の演技が、だれかにとっての電流になるまで」

「電流とは危険なものだ。きみのお兄さんが遭遇したように、命にかかわることが起こるかもしれないぞ」

「それでもやるんだ。俺の電流がどんなものであったとしても……俺は役者をやめない」


 そして語り手はこう宣言する。


 「俺はまだ満足しないぞ。この世界の中心に立つまでは」


 ……と佐藤のキャリアを概観すると、この宣言は佐藤自身のものだという風に読める。それ以前から小説を書いてはいたが、『一〇〇〇の小説』を読んで本気で小説家を志し、デビューしたものの二作目が出せずに折れそうだった心を『青春小説講座』で励まされた者として、この宣言は胸に沁みたですね。強火のユヤタン担なもので(といいつつ刊行から六年経ってようやく読んだのですが)、過剰に深読みして長々と日記を書いてしまった。495/524


5月9日(火)晴。起きてすぐ、大菩薩峠文章を起筆。昼休みに昨日のお粥の残りを食いつつ、真鶴・道草書店の店主に取材した『いいいじゅー!!』を観。この番組は移住で人生好転した人がたくさん出てきて、うらやましくなる。

 午後ももくもく作業して、日が暮れるころに完成、明日まで寝かせる。一日中ダラダラと、ナッツやポテチなんかを食べてたらあまり腹が減らず、夕食はスキップする。風呂に入って眠くなるまで読書。


5月10日(水)晴。久しぶりに強めの頭痛。薬は飲まず、がまんしながら一日作業。頭痛から逃避するように没頭していた。夜は長谷川あかり氏のレシピを参考に、柚子胡椒生クリームソースで鶏むねとアスパラを煮込む。


5月11日(木)朝は晴れていたが、昼ごろには雲が多くなり、午後は雨。昨夜ドライマンゴーを突っこんでおいてたヨーグルトを食い、四十分ほど散歩。

 最近、パニック発作はあまり起きなくなってきた、が、そのぶん、この角を曲がると発作が起きそう、あの店まで行くのはしんどそう、みたいな予測が立つようになり、行動範囲がより強く制限されている感じ。なんとかしてその範囲を広げたい、というか行動範囲という考えかたそのものから脱却したいところ。

 今日は大菩薩峠日記を公開用に手入れする日。四月から、毎日一冊読了する、というのをやっている(体調不良で一度だけ断念したが、すぐに二冊読んで遅れを取り戻した)こともあり、自分にとっては楽しい思考のスパーク(ジョイ)が増え、日記の分量も増えている。日々の出来事だけでなく、そういう火花を書きとめること、というのが、ウルフの『ある作家の日記』を念頭に置いているこの日記の目的ではあるのだが、分量が増えればそれだけ手間も増えるのだ。いいことですね。

 雨は夕方ごろに止み、少し散歩。夕食にはまた長谷川氏のレシピで、納豆トマト味噌汁というよくわからんものをつくる。


bottom of page