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大菩薩峠 2023.5.14~2023.6.9

5月14日(日)午後三時からBリーグチャンピオンシップの千葉対広島の二試合目。千葉が、おそらく当初のゲームプランとは違う展開を強いられながらも、それでもリードを広げていくのを観ながら、実況の篠田和之アナウンサーが、こういうことを言っていた。「いわゆる「やりたいことができなければやれることをやりなさい」っていうのをよく言いますけど、今、千葉は自分のやれることをやってるんですね。」これはなんか、響いたな。とにかくやれることをやるのだ。二十九点差という大差で千葉が勝ち、結果だけ見ればワンサイドゲームみたいな印象だけど、このひと言が聞けたのは良かった。


5月15日(月)小雨、低気圧。散歩して始業した、が、頭痛がだんだん強まったので、テイラックを飲む。午後四時ごろにはやめに終業。シェイクシャックの良いバーガーを食ってチャンピオンシップの千葉対広島の最終戦。ほとんどの時間で千葉がリードして、そのまま二勝一敗でセミファイナルに進出した、が、どっちが勝ってもおかしくなかった。


5月16日(火)快晴。すこし風邪っぽい。どんな夢を見たのかは憶えていないが、朝起きてしばらく、週六でバイトしてたころは、週に一度は神保町まで行って半日スタバで原稿を書いていた、そうでなくても近所の喫茶店でカリコリしてたんだよな、と考えていた。そうやって「蹴爪」や「クイーンズ・ロード・フィールド」を書いたのだった。

 一日作業の日。体調不良で中断してた短篇の立て直しと、長篇の改稿。夜は稲田俊輔のレシピの、トマトだけパスタ、というのを食い、寝るまで読書。


5月17日(水)晴。入眠に失敗して四時前まで起きていた、が、目を覚ましたのは八時ごろで、一日眠かった。

 昼休みにパンをかじりながら小林康夫『出来事としての文学』をすこし読んで、炎天下、といいたいくらいの日射しのなかを散歩。汗だくになった。

 今日はどうも捗らず。眠かったからかな。先月、たぶん食あたりで緑色の便が出てから二週間くらい腹を下し続け、ひとまず回復したものの、それ以降もじんわりした不調が続いている。

 夜は大量の芋を揚げ、『クローズアップ現代』の、ジャニー喜多川性加害問題をようやく取り上げた回。私はもう、この加害者の名を冠した事務所のタレントを虚心で観ることはできない気がする。幼少期から『SMAP×SMAP』、『学校へ行こう!』、『ザ!鉄腕!DASH!!』あたりを観て育って、もちろんその出演者たちが被害を受けていたかどうかなんてわからないのだけど、当時の自分が毎週のその時間を楽しみに過ごしていた番組の記憶が、ちがう色を帯びてしまう感じ。観終わったあともしばらく呆然としていた、ら、『クロ現』の次の番組(『解体キングダム』)には私と同世代のジャニーズタレントが出演していた……。

 そのあとは日付が変わるころまでかけて『出来事としての文学』を読了。ゴリゴリの文学論を読んだのはなんだか久しぶりだ。しかし取り上げられていた作品の大半が私は未読で、こういう本を読むとほんと、自分の読書量の少なさを痛感する。良い本をもっとたくさん読もう。


5月18日(木)快晴、五月なのに真夏日。わりと早く目が覚めて、家事をこなしてから散歩。歩いてるうちに発作の予兆を感じ、いったん帰宅、気持ちが楽になる薬を飲んで、効くのをまってから始業。

 午後、そう厚くない本なのに、読んでいると自分のトラウマ、とりわけパニック発作の感覚がよみがえってきて、たびたび中断しながら読んでいたアラン・ゴールドバーグ、デビッド・グランド『ブレインスポッティング・スポーツワーク』を読了。これは今の私に必要な本だった。カウンセリングでこのブレインスポッティング(BSP)という手法を知ったのだけど、本書を読んで改めて、BSPは私に向いてるような気がしている。

 夕方もすこし散歩して、テイクアウトの焼き鳥と釜飯を食う。今日は岩川ありさ『物語とトラウマ』を起読、まえがきだけ読んだ。


5月19日(金)山内令南さんの命日。もう十二年、干支が一回りしてしまった。朝は曇、午後は雨。起きたときから低気圧性の不調で、今日は長時間の散歩は無理かな、と思っていたが、外出してみるとずんずん歩けた。予期不安というのは実現しないものなのだ。一時間以上ウロウロして帰宅、汗だくになった服を着替えて始業。頭に靄がかかってなかなか集中できない。昨日、気持ちが楽になる薬を飲んだあとはずっと頭がクリアで作業もわりと捗った、のだが、かといって毎日飲むのは(漢方だから副作用はないらしいけど)躊躇われる。

 雨が降ってきたのをしおに早めの昼休みとして、『大菩薩峠』の六巻を起読。兵馬は竜之助を追うのを一時中断、縁ができた芸者の松太郎と、彼女を連れ去った仏頂寺と丸山を追いはじめ、偶然にも、竜之助が湯治をしている白骨温泉に着いた。疲れと寒さで体調を崩し、お雪が看病をしてくれる。二人は月見寺で会っているのだが、お互い気づかず。

 お雪は、一緒にここまでやって来た竜之助の部屋を、あまり訪れないという。弁信への、出されなかった何通もの手紙には、妊娠したかもしれない、というようなことも書いてあったが、それと関係あるのかどうか。妊娠については、手紙での言及のみで、地の文での描写はなく、ほんとうではない可能性も残っている。

 部屋でひとり過ごす竜之助の前には〈ピグミー〉が現れる。これはお銀の実家の屋敷でひとり過ごす弁信の前にも現れたもので、実在の民族のことではなく、註によると〈幻想の存在になぞらえ〉たものだそう。妖精さんですね。弁信のところに出たときは、竜之助に斬られそうになったことを思い出させ、そのとき負うはずだった刀傷と出血を幻視させた。竜之助には、その刀の銘についてうるさく言って真っ二つに斬られる。竜之助はさらに、かつて妻とし、自ら斬り殺したお浜が、竜之助に斬られた人々の血に染まった着物を畳みながら、この温泉地に、彼女にとっては義弟でもある兵馬が来たことを告げる。そしてピグミーはお雪の前にも現れた。「ここに出現するピグミーは、全く眼の見えない人か、或いは眼が見えても、見えないと同様に、眠っている人にしか現れないらしい。」というたいへん都合の良い幻想。

 午後ももくもく作業をして、悪くなりそうな食材をぜんぶ味覇で炒めて米に乗っけて夕食とする。そのあと尹雄大『つながり過ぎないでいい』を読みはじめ、読了するころには脳がしおしおで、明かりも消さずにパタリと寝。45/523


5月20日(土)曇。どうにも気持ちが沈んでいる。回らない頭で森博嗣『もえない』を読。午後、Bリーグのチャンピオンシップのセミファイナル第一戦、琉球対横浜BCと千葉ジェッツ対アルバルク東京を立て続けに観。そのあと風呂に入って、しかしどうにも寝つけず。45/523


5月21日(日)曇、ときどき日射し。安達茉莉子『私の生活改善運動』を起読して、サクサク読めそうな文章と分量なのに、なかなか進まず。すこし散歩に出たのだが、どうにも落ち着かないので短めに切り上げた。吐き気が強かったので胃薬と気持ちが楽になる薬を飲んでしばらく安静にしている、と、ちょっとは良くなってきた。

 散歩に出、近所の公園をいくつか回って静かなところを探し、ベンチで読書。外での読書に気持ちの良い季節。北大に住んでたころは、文学部のすぐちかくの芝生に座って、足に登ってくる蟻をぽりぽり落としながら一冊読了、みたいなこともよくやってたんだけどな。そういうことを考えてたらだんだんしんどくなってきて、足を虫に刺されもしたので、三十分ほどで切り上げる。

 帰宅してセミファイナル第二戦。琉球が勝ったのを観てから、長谷川あかりのレシピで塩レモンセロリ焼きそばを作り、食いながら千葉対東京も観。千葉が圧倒的に強い。ファイナルは琉球対千葉、どうなるのか。

 そして立て続けにABEMAでブライトン対サウサンプトン。アウェイのサウサンプトンは現在最下位で、来シーズンの二部リーグ降格が決まっている。それに対してホームのブライトンはヨーロッパリーグの出場権争いをしていて、そのチーム状況がモチベーションにも出たのか、ブライトンが勝った。しかし試合中、アウェイなのにサウサンプトンのファンがWhen the Saints Go Marching Inの大合唱(サウサンプトンは愛称をthe Saintsといって、この曲がチームのアンセムになっている)をはじめていて、なんかうれしくなったですね。

 ちょうど昨日、日本では、同様に最下位のガンバ大阪(Jリーグはシーズン序盤で、降格するかどうかはまだ分からない)のサポーターグループが、その低迷を理由に応援のボイコットを表明していたところだった。好きなチームをどう応援するか、なんてのは個人の自由なので、ガンバのサポグループの行動を云々する気はないが、低迷するときにこそ熱心に応援するファンのほうが好ましいし、そういうファンに応援されてるチームの好感度も上がる。というかそもそも私は日本の、太鼓と鳴り物で騒がしい応援のスタイルがあまり好きではないんだよな。新型コロナの対策のため声出しも楽器演奏も禁止されてたころの、基本的には静かで、良いプレーをした瞬間にスタジアム中が深いため息と拍手で満たされる、という空気が好きだった。

 ブライトンとセインツの試合は、チョン・テセ氏のゴキゲンな解説も含めて、とてもよい雰囲気だった。ABEMAでプレミアとブンデスが、一部とはいえ観られるのだから、もうJリーグの試合は観なくていいかもしれない。しかしさすがに、一日三試合、インタビューやハーフタイムショーなんかを含めて計七、八時間も観つづけていて、疲れ切る。トリプルヘッダーだ、と思ったが、私はずっとゴロゴロしてただけだ(ベッドに寝そべりながらテレビが観られるような配置にしているのだ)。45/523


5月22日(月)曇。兄と日本刀で斬り合う夢を見る。こないだ(四月十八日の夜)は三島由紀夫と斬り合っていたのだが、最近夢が殺伐としている。というかおれがこんなに斬り合いの夢を見るのは、辻斬りばっかりするやつが主人公の小説を、そろそろ半年くらい読んでるからなのではないか。今日も決着がつく前に目が覚めたが、兄は三島より強かった。三島はキエーッと声ばかり威勢が良く、しかしじっさい刀の扱いは下手だった、と石原慎太郎がどっかで語ってたのを(石原がつねにそうであったように、語る対象を弱く見せることで自分の強さを誇示する、という言及のしかただった気がするので、多少割り引いて考える必要はあるが)思い出す。疲れ切って目覚めた。朝から気圧が低いこともあり、体調はうっすら悪い。それでもがんばって三十分ほど散歩。ひどい汗をかく。

 昼休みに『大菩薩峠』を進読。体調が良くなったあとも兵馬は白骨温泉に逗留している。お雪は〈ほかに女手の一つもない大きな宿屋の中のことですから〉という理由でほかの宿泊客の世話をしていて、語り手には〈社会奉仕〉とまで言われているが、宿のスタッフはいないのかしらん。周囲から隔絶された男ばかりの土地に女が一人、というと、どうしても『東京島』のことを考えてしまうのだが、周囲から隔絶された男ばかりの土地に女が一人、という点以外に共通点はないのだった。

 お雪が大浴場に入ろうとすると先客がいて、物陰からよく見るとそれは兵馬だった。ここでお雪はようやく、彼がかつて月見寺で会った人だ、と気づき、けっきょく風呂には入らずに出ていく。江戸時代の銭湯は混浴、というのは知識としては知ってたけど、こうやって小説の場面として読むとなかなか違和感がある、というか少年漫画の読みすぎで、混浴シーンを見るとラブコメのお風呂回(というのが少年向けのラブコメには必ずあって、主人公がヒロインの裸を見ちゃったり石鹸で滑って抱きあいながら転んだり桶で殴られたりするのだ)のことを考えるような人間に育ってしまった。

 同じ宿に泊まってるのだから、そのうち兵馬と竜之助の激突が描かれる、と思ったのだが、けっきょく何ごともないまま兵馬は(仏頂寺たちも)白骨を発った。「この場合、白骨温泉に落合った二ツの星が、どちらが惑星で、どちらが彗星だか知らないが、二つ共に、一定の軌道をめぐっていないことだけはたしかのようです。」語り手はこの章のしめくくりに、ハレー彗星は地球に衝突するかもしれなかった、というエピソード(一九一〇年に地球に最接近したとき中里は二十五歳で、彗星の尻尾が地球の酸素をすべて奪ってしまう、という風説による、『ドラえもん』の「ハリーのしっぽ」というエピソードや『空気のなくなる日』で描かれた混乱を体験していた)を前置きに、いきなり自分の話をはじめる。


 昭和三年七月三日(西暦千九百二十八年)江戸川大曲で電車の大衝突があった日の数分前、同じ地点を通過した大菩薩峠の著者は、現在、武州御山麓の道場でこの小説の筆を執っているが、その数分時が、著者にもたらす運命の禍福に至っては、著者自身といえども予知することはできなかった。

 われわれは筆の調子で宇津木兵馬を引張り廻すのでもなければ、原稿の回数をひきのばすために、無用のペン先を弄するわけでもない。

「毫釐有差天地懸隔」の道理が、可憐なる大菩薩峠の作者に、こうも筆を運ばせる。


 菊池寛の衆院選立候補と同様、直近の、連載されたのと同じ紙面で報じられただろう出来事を、ほとんど必然性が感じられないのに書きこんでいる。大学院のゼミで『虞美人草』を読んだとき、朝日新聞での連載当時、ほかのニュース──Wikipediaに載ってるものだと、福岡の炭坑で三百人以上が死ぬ爆発事故が起きたり、山梨で水害が起きたり、日韓・日露の協約がむすばれたりしている──といっしょに読んだはずだから、きっと、文庫とかで読んでる自分たちとは読み味がちがったはずだよね、みたいな話になった。連載時は各回の末尾になぞの格言が書き添えられてもいて、これは何だろうねえ、とみんなで考えつつけっきょく最後までわからなかった、ということもふと思い出す。

 いつの間にか九十九里浜に移動していた駒井甚三郎と田山白雲は、浜辺に投罎通信が流れ着いてるのを見つける。通信、というか、ウィリアム・ペンの言葉、甚三郎の要約によると「権力を用うる政府の最大主眼は、人民と相敬重することにあって、権力の濫用から、人民を確保しなければならぬ、服従無き自由は混乱であって、自由なきの服従は奴隷である」という意味の英文が書かれている。

 そして彼らが目指してるらしい銚子では、マドロス氏(甚三郎の家に上がりこんできた赤毛のオランダ人を、〈水夫〉を意味するオランダ語にちなんで、地の文はそう呼んでいる)が溺れている。銚子の車大工の家に滞在しているらしいが、いったい何があったのか。

 夜はてきとうポトフをつくって食いながら、川名壮志『記者がひもとく「少年」事件史』を読。〈少年〉が起こした事件史を概観しつつ、そもそも一九四九年施行の少年法で規定される〈少年〉とは何か、というところまで問いが深まっている。大江が「セヴンティーン」や『叫び声』で題材にした事件のことも紹介されている。おれもこういう、同時代の事件を題材に書いてみようか、と思ったが、そういえばすでに一作長篇を書いて、今週編集者と打ち合わせをするのだった。

 しかしやっぱり、本書では一九六五年の事件の犯人(十八歳)の実名を報じたことについて、「社会的利益を守る方が優先と考えたためであって、二度とこのような事件をくり返さないという願いと、氏名の発表によって、周囲の人たちがどうして未然に事件発生を防げなかったかという反省の材料にしたい」と説明してるけど、どうもロジックがわからないんだよな。山口二矢なんかは、法的には〈少年〉と呼ばれる年齢でも、政治的な思想が動機だったこともあり、かなり大人にちかい存在として捉えられていた。それが、高度成長期あたりから、教育や家庭環境に原因を求め、子供の犯罪として報じられるようになった。そして現代、犯人の個人情報は、報じられなくてもSNSやなんかで流布して、社会的制裁を受けるようになった。その変遷が興味深く、小説の種になりそうなものもいくつか見つかった。図書館で見かけて何の気なしに借りた本でこういうことが起こる、読書ってのは良いもんですね。99/523


5月23日(火)雨。ぐっすり寝ていた。気圧性の不調。雨のなかを五分くらい散歩してゆっくり始業。昨日のポトフをちょっと食い、原稿をちょっと進め。ちょっとではいけないんですが、無理は禁物なのでちょっとずつ。一時間ほど昼寝を挟んで、体調と相談しながら、作業を進めたり、読書をしたり、漫画を読んだりして一日過ごす。

 夜は植本一子『働けECD』を読。これが一冊目の本で、ブログの書籍化らしい。文学的な飛躍と生活者の凡庸、のバランスが、日記という日常の記述を赤の他人の鑑賞に堪えるものにするには必要だと思っていて、植本は本書のなかで、前者をECDに、後者を自身に(植本も写真家というアーティストではあるのだが)割り振っている気がする。だから日記のなかで、写真に対する植本自身の思いが語られることはほぼないし、ECDが家事や育児に参画するのが特別なことであるように繰り返される。

 そして最初のころはまだ、著名人の妻としての書きぶりのところがあった、のが、二人目の子を産んで、東日本大震災があって、と、日々が変容していくにしたがって、植本自身も一人の書き手になっていった、という感じ。

 じっとりした具合の悪さが一日かけて積み上がり、閾値を超えて、夜、とつぜん具合が悪くなる。耐えてるうちに少しずつ回復してきて、力尽きて寝。99/523


5月24日(水)快晴。起きたら具合は回復していた。生野菜とパンの朝食、一時間ほど散歩して食材の買いものを済ませ、必要な資料を図書館で借り、帰宅してすかさず始業。

 昼休みに『大菩薩峠』を進読。どうも甚三郎は、船を動かす蒸気機関をつくりかねていたらしく、そこへマドロス氏が、銚子の海にロシアの密漁船が沈没したという話をしたらしい。そそれで甚三郎は、あわよくばその船を引き揚げて参考にしよう、ともくろみ、マドロス氏はその調査のために一足先に銚子入りした、という経緯らしかった。失脚した旗本、腕っ節の良い巨軀の画家、日本語を解さない赤毛の水夫、と、どうも珍妙な三人衆だが、漁民たちと打ち解けて、ときには宴会もしつつ、怪しむ役人も上手くいなしながら、着実に引き揚げ作業を進めていく。

 いっぽう、房州の甚三郎の家には、金椎・もゆる・茂太郎の三人が残されていた。この三人を残して遠出する、というのはなんか不安な気もしますが、案の定、というか、茂太郎は家を飛び出して山中にいる。以前、訪れた牧場で出産に立ち会い、名前をつけてやった仔牛と再会した茂太郎、牛に連れられてその牧場を再訪した。牧場主は彼に〈白牛酪〉というのを振る舞う。バターのことらしい、が、〈主として将軍の御用であるほかに、極めて僅少の部分が、大名その他へわかたれる〉貴重な〈薬品〉であるという。ちょっと前、銚子でマドロス氏が、牛の乳を勝手に搾って飲んでるのを見て、子供たちが、「牛の子の飲むべき乳を──人間が横取りして飲んでしまうなんて、なるほど、毛唐というものは随分ひでえことをするなあ」などと考えてもいた。一九二〇年代の、日常的に牛乳を飲み、バターも(庶民にとっては高級品だったかもしれないけど)使ってた読者からはずいぶん遅れた人々に見えただろう、し、半世紀あまり前の幕末を思い出す読者もいたかもしれない。考えてみれば、獣のお乳を飲む、というのは、なんか妙な習慣だ、と書いた今日も私は牛乳を一リットルくらい飲んだ。さいきんほんと高くなりましたよね。

 午後、窓を開けて作業していたら、たぶん小学生くらいの男の子の声で、「王のちんこ、王のちんこ!」と叫ぶ声が聞こえた。足音は複数聞こえていたが答える声はなく、彼も二度叫んだだけで黙りこむ。午後二時四十二分、と、なんとなく時間を書きとめておいた、のでここに転記する。

 夕方までカリコリやって短距離散歩をした、ら、近所の弁当屋さんの、店先に〈全品50% off〉の札を貼りに出てきた店長と目が合ってしまい、夕食が決まる。腹いっぱいになってから『松本清張短編全集』の八巻。「遠くからの声」がおセンチで良かったですね。清張はミステリや社会派のイメージが強いし、じっさいそういう作品の筆の冴えはすごいものがある、のだが、こういうエモーショナルな小品も良いのだ。読んでる間に、来月発表する短篇のゲラが届く。148/523


5月25日(木)曇のち晴。睡眠時間が少なく、朝からあまり頭回らず。今日が締め切りの地元紙のコラム。しかしどうも、何を書いたものか決めあぐね、複数のテーマで書き出しては消し、を繰り返す。昼食のあとも捗らず、たまらず三十分ほど散歩。歩いてるうちになんとかネタをひねり出し、帰宅即起筆、一時間ほどで完成。

 すこし寝かせることにして別の作業をしていた、が、千字のコラムに難渋した徒労感があって、こっちも捗らず。早めに今日は終業としてタッカンマリを作る。ザクザク切ってグツグツするだけなので、たいへん楽。チュモッパといっしょに食ったら美味すぎて食いすぎ、打ち上がって早寝。148/523


5月26日(金)曇。早く寝たので早く起き、今日締め切りのゲラ作業。朝のうちに仕上げて返、散歩に出。買いものをして帰り、井上ひさし歌詞集『だけどぼくらはくじけない』を読む。私は「ゲバゲバおじさんの歌」が好きでした。


あしながおじさんは 手紙をくれた

となりのおじさんは お金をくれた

むかいのおじさんは おかしをくれた

ゲバゲバおじさんは なんにもくれない


 素晴らしいですね。そのあとでようやく始業。始業、といっても、午後打ち合わせをする長篇を、送稿から九ヶ月ちかく経ってるもので、内容を思い出すために読みかえす、という作業。

 その合間に『大菩薩峠』。尾張国・名古屋は豊臣秀吉生誕の地なのにぜんぜん秀吉のことを顕彰してない!と憤った道庵は、勝手に生誕記念祭を開催する。しかし、怪しい流れ者がなんかやろうとしてる、ということで(米友が席を外してる間に)取っ捕まって、名古屋城へ移送されていった。道庵・米友の珍道中、道庵が勝手にどっかに行ってしまい、米友がプリプリしながら追いかける、みたいな展開が繰り返されていて、『水戸黄門』的な様式美を感じる。

 そして同時期、勤王派の浪人である南条と五十嵐、二人に付き従うがんりきの三人も名古屋入りしていた。南条と五十嵐は、甲府城を襲撃しようとして牢に入れられていたし、相模でも陣屋に放火していて、名古屋城でも何かひと仕事しようとしているらしい。

 自分の実家に火を放ち、義母と義弟を焼死させたお銀は、それから焼け残りの土蔵に籠もって泣き暮らしている。思えばお銀は江戸でも、主膳の屋敷の蔵で起居していたのだった。

 居候先がそんな状況ということもあり、弁信はまた一人で旅に出、白骨温泉に向かう。「お雪ちゃんがいるからでございます、あの子がしきりに、わたくしを招くものでございますから──といったところで、手紙を一本もらったわけでもなし、飛脚が届いたというわけでもありませんが、どうも、あのお雪ちゃんが絶えず、わたくしに呼びかけているのが、かわいそうで、気の毒で、たまらない気がするものですから、どうしても行って上げたい気になってしまいました。」お雪は弁信に宛てた手紙を何通も書き、出さないままにしまい込んでいた、が、届いていたのだなあ。

 そのお雪は白骨温泉で、旅の神楽師が伝書鳩の文箱を作っているのを見る。伝書鳩というのは鳩の帰巣本能を利用したものだから、どこにでも手紙を届けられるわけではなく、宛先は鳩が自分の巣だと認識してる場所に限られる。白骨には今、三箇所(飛騨の平湯、信州松本、そして名古屋)に手紙を届ける鳩がいて、お雪は、名古屋行きの鳩を借りて、弁信に宛てた手紙を託そうとしている。どこにいるかもわからない弁信に伝書鳩を送るなんて、〈ほとんど当てのない海中へ、石を投げ込んで鯛を取ろうとするような〉もんだ、と至極もっともなことを言われて、お雪はこう言い返す。「でも弁信さんは別物よ、あの人は、とても勘のいい人ですから、この鳩が、わたしからのたよりを持っていることを、頭の上を飛んで行く音で、ちゃんと聞きわけるかも知れませんのよ」そしてさらに思いつく。「あ、そうそう、そういう場合は、弁信さんよりも茂ちゃんだと一層いいわ、あの子ならこの鳩を呼び寄せてしまいます(…)もし二人が一緒にいてくれると、弁信さんがこの鳩を勘でかんづいて、茂ちゃんに耳うちをすると、茂ちゃんが口笛を吹いて、この鳩を呼びとめてしまいます」これには神楽師も、「ほんとうにお雪ちゃんの周囲には、変りものばかり集まるんですね」と呆れている。

 午後もずっと自作の見直し。私はなんせ自分の文章が好きなもので、急いで目を通す、程度の読みかたながら、これは良い作品だ……と虚脱しながら打ち合わせに臨む。しかし、いくらなんでも長すぎる、というかあーた程度の実績で長篇を発表するのは無理でしょ、とのこと。実績、というのは要するに、何かしらの賞を受けることだそう。まあ予想していたことではある。けっきょく序盤の百六十枚ほどを、それ単体で中篇として整えて掲載、ゆくゆくは完全版として発表するのを目指す、ということになった。

『蹴爪』以降単行本の商業出版がなく、複数の編集者に打診してみても、何かしらの賞にノミネートしないと本は出さないよ、と言われた。賞のために書くなんて俗物的だ、それより自分の文学を突きつめるのだ、というのはよく言われることだし、私もそう思うのだが、そもそも業界が賞を中心に回っているらしい、と、デビューから十二年経って気づくのはあまりに遅い。199/523


5月27日(土)曇、昼間は日射しが強かった。今日は遅くまで寝ていた。生春巻を巻いてBリーグチャンピオンシップファイナル、千葉対琉球の緒戦。二度の延長の果てに琉球が勝った。Wリーグもファイナルで二度延長してたし、私がバスケを観はじめた今年はなんかすごい年みたいだ。

 結局三時間半ほど観て昂ぶり、強い日射しの下を三十分弱散歩。帰宅して、ベランダにヨガマットを敷いてごろごろしながら『大菩薩峠』。白骨温泉で、ここまでお雪以外の同宿人とは交流をしようとしなかった、兵馬が滞在している間もそのおかげで何ごともなく済んだ竜之助の部屋を、旅の神楽師の一人が訪れる。が、とくに波乱はなく、竜之助も思いのほか穏やかに、失明した経緯を話す。

 白骨を離れた兵馬は、ほどちかくにある飛騨・平湯温泉に投宿し、義姉・お浜の夢を見る。兄・文之丞の妻であり、竜之助とともに江戸に出奔し、数年後竜之助の手にかかって殺されたお浜は、しかし兵馬にこう言う。「わたしは今となって、文之丞も、竜之助も、どちらも罪がないと思います、どちらも行くべき当然の道を歩かせられたのですわ。そんなら、わたしひとりが悪者かというに、そうでもありません。わたしもまた、わたしの行く道を行かせられただけのものです。それで、もうたくさんなのに、兵馬さんまでが、またわたしたちと同じような道を行こうとなさる、ほんとにお気の毒に思いますわ」そしてこう続ける。「許してお上げなさい、そうすれば、お前さんも救われます」

 復讐は何も産まない、とかならありふれてるけど、誰もみな自分の行くべき道を歩んだだけだ、というのは、仇討ちを止める理由として奇妙で、それでいうなら、江戸時代の価値観では、肉親を殺されたら仇討ちをすることこそ武家の〈行く道〉のような気もするが、どうなんだろう。これまで竜之助を追いかけつつ、女のことでふらふら脱線している兵馬こそが、そんな道を行きたくない、と思っている、ということなのかもしれない。

 兵馬は宿で、また仏頂寺と丸山の二人と出くわして、これから飛騨・白川郷へ向かうらしい。

 いっぽう、とっ捕まえられて名古屋城に移送された道庵はいつの間にか釈放され、米友とも合流して、限られた人しか登れないはずの天守閣から街を見渡している。天守の上からは伊勢の鈴鹿山なんかも見えるらしい。米友の、つまりお君の故郷である伊勢。お君とともに盗っ人と勘違いされたことで逃げ出さざるを得なくなった故郷をいま遠く見、失われた〈魂の片割れ〉のことを思い涙する。

 城にいた僧侶に誘われて、二人は万松寺に向かった。道庵は寺に上がり、米友はそのへんをウロウロするうち、ふと境内の桜の下でうたた寝してしまった、と思ったら、そこへ〈一隊の女連〉がやってきて、花の季節にはここで稚児踊りがあるんだ、と言い合い、桜の周り(つまり米友の周り)で踊りはじめた。さすがに目が覚めた米友、そのなかに昔なじみの顔を見つける。それは、かつてお君がお玉という芸名を名乗っていたころ、彼女と二人で組んでいたお杉だった。が、米友は処刑されたはず、と思っているお杉は恐ろしげにこう言う。「怖い、米友さんは米友さんに違いないと思うけれど、米友さんのはずがない、本当の米友さんのはずがないわ、わたし怖い、全く別の人か、そうでなければ、米友さんの幽霊でしょう、怖いわ、わたし逃げるわ」

 かつて、盗っ人と疑われたお玉はこう独りごちていた。「わたし、逃げるわ、何も悪いことをしないのに捉まっては合わないから逃げるわ、あとでわかることでしょうから逃げるわ」状況は全く違うとはいえ、かつて組んでいた二人が、同じ言葉を口にした。旅の途中で米友は〈お玉〉という飯盛女に出会っていた、が、そのお玉は、彼の〈魂の片割れ〉と似ているのは名前だけで、中身はまったく違っていた。いっぽうで、見た目も名前も違うけど、お杉はお君と同じ言葉を口にした。面白い構図。そういえば、一巻でお浜が、文之丞を殺した竜之助にすがりつきながら、こう言っていた。「逃げましょう、逃げましょう、死ぬのはいやいや、逃げて二人は生きましょう」竜之助はその後、一時は江戸に腰を落ち着けたが、兵馬に追われ続けている。お君は故郷から逃げて、死ぬまで〈あとでわかる〉ことはなかった。米友の疑いは晴れたのか、どうか。逃げること、というのは、本書を貫く大きなモチーフなのかもしれないな。

 二、三冊読んでるうちに寝てしまい、日が暮れてから寒さで目覚める。十時半から今度はABEMAでフランクフルト対フライブルク。ブンデス最終節で、これも良い試合でした。253/523


5月28日(日)明るい薄曇、夜から雨。昨夜のハーフタイムにでかいカップ焼きそばを食ったこともあり、起きたときからやや胃もたれ。起きてちょっと作業をやってから時雨沢恵一『キノの旅』の十八巻。本書は二〇一四年の十月に書き下ろしで刊行されたのだけど、四年に一度開催される国際スポーツ大会(作中では〈大戦争〉と呼ばれる)をモチーフにした「スポーツの国」という短篇や、「止まった国」のなかの、地下空間の広さを描写する〈例えるなら、ボールを足だけで運んでゴールに入れる球技場ほどの広さ〉という比喩(しかしこの表現は時雨沢にしては異例に下手だ)とか、同年の六、七月に開催されたサッカーのワールドカップの影響があるような、ないような。しかしこれ以降のワールドカップイヤー(二〇一八、二〇二二年)には『キノの旅』は出てない、し、これ以前のを読みかえすほどの気づきでもない。次回は二〇二六年。

 昼過ぎ、ビリヤニを食いながらBリーグファイナル。今日も琉球が勝った。セミファイナルであれだけ強かった千葉が二連敗するというのは、これぞスポーツの面白さ!という感じ。そのあともずっと読書。眠くなるまで、『物語とトラウマ』を半分くらい読む。脳がしおしおになったので早めに明かりを消して寝。 253/523


5月29日(月)午前は雨、午後ちょっと止んでいたが夜も雨。うすく窓を開けていて、作業をしながら雨の音が気持ち良い。

 十一時半からオンラインでカウンセリング、一時間ほど話す。とにかく体調が、とりわけ腹具合がメンタルとリンクしてしまっていて、もともと緊張がおなかにくるタイプだったのが、最近では、ちょっとした腹具合の悪さがメンタルに逆流してしまう、という話になる。その流れでカウンセラーさんが私の話を要約するように、まあどんな健康な人でもたいした理由なくおなかが痛いみたいなことはよくあると思うんですけど、あなたの場合それが気持ちに影響するんですね、ということを言い、健康な人でも理由なくおなかが痛いことあるのか、となんかびっくりしてしまった。

 カウンセリングが終わって昼休みに『大菩薩峠』。米友(とお君)の疑いは、すでに晴れていたらしい。墓もつくっちゃったからみんなびっくりするだろうけど、よかったらいっしょに帰らないか、とお杉に誘われた。

 いっぽう甲府では、自分の家を焼き、弁信にも去られて、お銀が鬱々としている。顔に火傷して外見にコンプレックスを抱き、卑屈な性格になっていたお銀は、目の見えない竜之助といるときだけは、自分の顔のことを意識せずにいられた。しかし、目の見えない者への愛着を自覚したことで、逆に、目の見える人への嫌悪感も育ててしまった。「わたしを可愛がってくれたのは、あの幸内と、それから目の見えない人が、わたしは好きなのです、目の見える人は、わたしは嫌いです、目の見えない人がわたしは好きで好きでたまりません」とまで言ったお銀は、弁信が去り、目の見える人に囲まれて、使用人たちに対して攻撃的、というか加虐的になってしまっている。

 お銀は森のなかの、家の焼けるのが見えたあたり、ということはたぶん高台に塚を築かせた。そこに祀るために、石工を呼んで、自分でデザインした〈悪女様〉という石像を作らせる。


 巨大なる蛸の頭を切り取って載せたように、頭頂は大薬罐であるが、ボンの凹には芼爾とした毛が房を成している。

 巨大な、どんよりとした眼が、パッカリと二つあいていて眉毛は無い。

 鼻との境が極めて明瞭を欠くけれども、口は極めて大きく、固く結んだ間へ冷笑を浮ばせている。頭から顔の輪郭を見ると、どうやら慢心和尚に似ているが、パッカリとあいた眼は、誰をどことも想像がつかない。

 だが、そのパッカリとあいた、力のないどんよりとした眼が、見ようによっては、爛々とかがやく眼より怖ろしい。かがやく眼は威力を現わすけれど、この眼は倦怠を現わす。威力には分別を含むものだが、倦怠は侮蔑のほかの何物をも齎もたらさない。


 というのがその描写で、〈一種異様なグロテスク〉であるのはわかるが、けっきょくどういう姿なのか。地の文は、「お銀様のこしらえたのはスフィンクスです。」と言いつつ、しかしそれはエジプトにあるスフィンクスとはまったく別物だ、と言う。「彼女のスフィンクスの怪奇の対象は、彼女自身の、むしゃくしゃ腹の具象変形に過ぎないと思われる。」

 本巻冒頭の〈ピグミー〉といい、外国の風物を名前だけ借りて、実際とはぜんぜん違うものを登場させて雰囲気を演出する、というのは、二巻で、お角の見世物小屋で米友が〈印度人〉の槍使いを演じさせられていたのとまったく同じ構造だ。〈印度人〉のシーンを読んだときは、差別的な言葉のつかいかたを描くことで幕末という時代を表現してるんかな、くらいに思っていたのだが、そういうエキゾチズムは、著者にとってはべつに古いものではなかったらしい。

 ともあれ、そんなお銀のもとをお角が訪れる。人に誘われて、名古屋の女流芸人たちの元締めをやることになり、視察に向かう途中で、かつて西洋風の見世物のパトロンになってくれた伊太夫に挨拶しようと立ち寄ったそう。お銀の後見も頼まれたそうで、お銀は彼女といっしょに名古屋を目指すことになる。

 江戸の神尾主膳は、眉間に〈錐のような形〉の傷跡があることから、近所の子供らに〈三ツ目錐の殿様〉とあだ名されている。良い二つ名だ。その屋敷に逗留していた七兵衛は、狙っていた徳川家の財宝〈竹流し分銅〉の一部が名古屋城の宝物庫にあるらしい、という情報を聞きつけ、暇乞いをして旅に出る。とにかくみんな名古屋に集結しそうで、ちょっとワクワクしてきますね。

 そして房州の甚三郎は、洋行のために、航海術の基礎である天文学の勉強をしている。動力になる石炭も必要だ。マドロス氏は水夫になる前は鉱山で働いていたそうで、その点でも戦力になりそう。そしていっしょに洋行船に乗るのは、航海に必要な技師たちのほか、金椎、茂太郎とマドロス氏、もゆる、白雲、そして場合によっては白雲の妻や子も乗せていい、技師たちの家族も、そして〈植民の将来の母〉としてお松にも乗ってほしい、と考える。甚三郎とお君の子供を、いまはお松が育てていることを思えば、自分の子も連れて行きたいと思っているのか、だとしたらずいぶん虫の良い話だ。しかしマドロス氏が、甚三郎や白雲の不在のうちに、また酒を飲んで大暴れする。茂太郎を縛り付け、もゆるを手籠めにしようとして果たせず、出奔してしまった。

 五十ページくらい読んでスマホを見てたら、早乙女ぐりこの単著が百万年書房から出る、というお知らせ。いいなあ。おれも本を出したい。私の本が講談社から出たのはもう五年前のことで、もちろんそれは良い仕事だったのだけど、さすがにその満足、というか達成感もとうに薄れて、今は次の本が出したい。

 夕方まで作業をして、牛ひき肉とニラのテキトウ丼を食いながら『鶴瓶の家族に乾杯』の葉山回を前半だけ。鳥取に住んでいたころは家から五分も歩けば小高い山(江戸時代までは鳥取城があり、今は麓の石垣の上に私の母校でもある高校がある久松山)に登れた、ので、高橋一生が思いつきで大峰山に登ってるのを観て、葉山には行ったことないのに懐かしくなる。

 そのあと、今日は何を読もうか思案して、そういえばうちに百万年書房の本あったはず、と中田考『13歳からの世界征服』を引っぱり出した。305/523


5月30日(火)曇。金曜日の打ち合わせ以降、脳がいい感じに働いていて、なかなか捗る。昼、いちばん暑い時間に三十分ほど散歩をする。汗まみれになった。午後も捗らせて、夕食は塩胡椒唐揚げ。たいへん美味しくでき、食べながら『家族に乾杯』の葉山回後半。昨日も思ったことだけど、葉山、なんか懐かしい感じがする。鎌倉に憧れを抱きつつ(クルミッ子もあるし)、観光客で騒がしそうだから住むなら逗子かな、と思っていたのだが、葉山もいいな。金銭と心身の状況が整ったら引っ越すかもしれない、が、まだまだ先のことだ。305/523


5月31日(水)曇。今日はなんだか寝起きが悪く、目覚めてからもしばらく布団にくるまって漫画を読んでいた。朝食はキウイだけにして、こまごま家事をやって散歩、昼ちかくなってようやく始業。そこからはたいへん捗る。長篇の序盤を独立した中篇として整えるためにワンシーン書き足すことになった、のが一日で終わった。十七枚くらい。

 夕方、五月の日記を読みかえしていて、二十二日に〈三島はキエーッと声ばかり威勢が良く、しかしじっさい刀の扱いは下手だった、と石原慎太郎がどっかで語ってた〉と書いているのを読み、思い立って調べてみると、正確には石原ではなく、石原がこう言っていた、と猪瀬直樹が振り返っている文章を読んだのだった。

 現代ビジネスオンラインの、猪瀬の著書『太陽の男 石原慎太郎伝』の抜粋記事で、三島はボクシングをさせれば「フックはまだ習っていないんだ」とストレートパンチしか打たなかった、居合の段位を持っていると言っていたが石原の前で披露しようとしたときは鴨居を斬りつけて刃を欠けさせてしまった、という、陰口みたいな内容。その記事のなかでは、三島はべつにキエーッと叫んではいなかった。叫んでたのは夢のなかで私と斬り合ったときだったのかもしれない。

 夜は中上健次『十八歳、海へ』、学部生のときに全集を読んだから本書の収録作も既読なのだが、一冊の短篇集として読むのははじめて。私が今日書いた場面と響き合うような作品もあり、今読んで良かった本だ。305/523


6月1日(木)曇、夜に降りだす。寝不足だからなのか、夜から週末にかけて天気が荒れるというからその前兆で気圧が落ちはじめているのか、起きたときから具合良くなし。それでもなんとか、一時間ほど作業をする。

 そのあと朝の散歩に出た、が、スーパーで買いものをしてる途中、とつぜんのパニック発作。急いで帰って薬を飲んだ、が、二時間ちかく立てず。それでも作りたい料理もあったし、なけなしの気力と底を打った自信をかき集めて身体を起こし、外へ。早足で回って無事終了。しかし心身の疲弊がひどく、作業が手に着かない。気がついたときにはもう昼を過ぎていた。

 薬が効いてきて、捗らないながら夕方まで作業。そのあと絶対に終電を逃さない女(という筆名の著者)の『シティガール未満』を読。著者は〈地方都市の公営団地に生まれ育ち、バスが一日二本しかない田舎で思春期を過ごし〉て、大学進学のタイミングで上京した。地元の鉄道路線については記述がなかった気がするから、もしかしたら鉄道の通っていない土地だったのかもしれない。たとえば(私にとって身近な鳥取県の、県内でいちばん人口密度が低い自治体を例に挙げるが)日南町の町営バスのいくつかの路線は、一日二本しかない(デマンドバスという、ワゴン車をつかった予約式の乗り合いバスはある)。朝七時と午後五時半、これは通勤や通学の時間に合わせているのだろう。これでは退勤後に終バスまで飲む、みたいなことはできないし、逃がしたところで、今の季節ならまだ明るい。そもそも自動車通勤がほとんどで、日常的に鉄道を使う人はそう多くないのではないか。著者の地元がどこかは知らないが、〈終電を逃す〉という出来事自体が東京的、というか都会的な、まさに〈シティガール〉の概念だ。東京在住の二十歳として、〈本気で終電を逃したくないと思っていれば逃すはずがないと決めつけ〉、〈終電までに帰るかのような意思を示しておきながら終電を逃すという茶番に対するカウンター〉としてこの筆名をつけた著者は、タイトルに反してすでに〈シティガール〉になっていたのではないか……みたいなことを考える。

 エッセイ集というより連作短篇集みたいな読後感で、それは収録されてるすべての章に移動と会話が含まれているからだ。

「歳をとることは怖くない、年齢なんてただの数字だ、などというのは人生が順風満帆な人の言葉なのだと理解したのは最近のことである。」というフレーズがあった。大人というのは金銭的に不自由のない、〈いちいち悩んだりしない生き物〉だと思っていた、でも今の自分は思い描いていた〈大人〉とはぜんぜん違う、歳を重ねるごとに悩みは増えている──というこの章の記述に共感していたこともあり、印象に残る。〈年齢なんてただの数字〉というと私の場合はズラタン・イブラヒモビッチがよくそう言ってるのを思い出すのだが、たしかに彼の人生は、一ファンから見れば順風満帆だ。ズラタンがあの華々しいキャリアを築くには懸命の努力があっただろうし、怪我で苦しんだりもしていて、本人にとっては、もっと上手くいったはず、みたいな思いもあるかもしれないが、成功をつかめなかった人が(僻み半分で)羨むためには、彼の苦悩に立ち入る必要はない。相対化と客観視をそのくらいのレベルにとどめておくことで読者の思考の余地を確保する、というのも、小説的なのかもしれない。そういう観点で「高円寺 純情商店街」という章がいちばん好きでしたね。今泉力哉が映画化してそうな……。305/523


6月2日(金)嵐。雨音で目覚める。朝食は柚子胡椒の鯛飯(これも長谷川あかりレシピ)。中篇の加筆を一昨日やった、のを推敲。改題してエピグラフも変えて、独立した中篇としての体裁を整えはした、が、作者としては、今回は発表しない部分にこそ、意欲的なギミックを仕組んだり自分にとって重要なモチーフを出したりしてる、ので、果たして前半だけでどれだけ強度のある作品たり得ているものか。まあ編集者(と読者)の感想を待つしかない。

 昼、鯛飯を食って、『大菩薩峠』を再開。沈没船のサルベージのあとも鹿島に残っていた白雲は、海岸で出会った測量士(江戸時代の測量というとどうしても伊能忠敬を思い浮かべるのだけど、彼は舞台となっている幕末にはすでに故人)との会話で、相馬や松島に良い画題がある、と聞き、そのまま北上することにした。洋行はどうなるんだろう。

 いっぽう白骨温泉では、なんだかお雪が落ち着かない様子をしている。相変わらず弁信には出さない手紙を書きつづけているし、もう今すぐにでも白骨を発ちたい、と竜之助に訴える。「来る人、来る人が、どうも、あなたを探しに来る人に見えたり、また、わたしをさぐりに来る人にばっかり見えて、たまりませんもの……白骨は、もう落ち着きません」とのことで、飛騨の平湯へ、あるいはさらに先の白川郷へ行きたい、と言う。読者はそれが、まさに竜之助を追っている兵馬の行き先だ、と知っている。

 名古屋を目指すお角とお銀は、無事に三河国に入った、ら、武士と町人が喧嘩をしてるところに出くわす。近くで巡業してた相撲取りも加勢に入り、武士は身ぐるみ剥がされて砂にされ(冨樫義博『レベルE』の一巻で、チンピラ高校生の筒井雪隆が、路地裏でナンパしてたやつらを宇宙人の王子が止めに入って殴られた、という話を聞いて、「上級者は無言で 止めに入った奴を 砂にして息の根を 止めます それによって 女の方も ビビリ ますからね/その意味で 彼らは まだ 紳士的と 言えるでしょう」とコメントしていて、その台詞のなかの〈砂にして〉に「いわゆる“フクロにする”と同意。」と註がついていた、のを、はじめて読んでから二十年以上ずっと憶えていて、自分の体験として砂にしたりされたりすることはないにせよ、フィクションや何かでそういうシーンを目にすると必ず思い出しているのだが、しかし〈砂にする〉という表現を他の場所で見たことがない)、川に叩きこまれた。ありゃやり過ぎだ、とお角が懸念したとおり、翌日、その武士たちが属する岡崎藩の侍たちが検問をしいて、事件に関係した町人たちを斬った。その部隊を指揮していた美少年の武士を、お角はなぜか旅の道連れに誘った。興行師としての嗅覚を感じる。

 いっぽう名古屋の米友は、お杉といっしょに里帰りする約束をしたものの、待ち合わせの船着き場に遅刻してしまう。錯乱してメチャクチャに走り回り、道に迷ってふらついている、と、宿から散歩に出ていたお銀と出くわした。お互い旧知の仲とは気づかないまま、二人はいっしょに行動することにして、またここで縁がつながった。

 午後も集中して、気がつくともう夕方、Bリーグのシーズンアワードの表彰式がはじまる時間で、最後は画面を二分割して式を観ながら作業していた。横浜BCの河村勇輝選手が、新人王とアシスト王、ベストファイブ、レギュラーシーズンのMVPに加えて、最優秀インプレッシブ選手と〈ココロ、たぎる賞〉というよくわからんのを合わせて計六冠。チームメイトや育成年代の指導者からのビデオメッセージ、はまだわかるけど、おばあちゃんからの手紙まで壇上で流されて、河村選手を、あわよくば視聴者を泣かせようというつよい意志を感じる。ルーキーイヤーにMVPは史上初、六冠も史上最多とかで、いやあ見栄えの良いわかもんを神輿に乗せて話題作りをもくろむのはどの業界も同じなんだな、となった、が、河村選手はたしかにめちゃ活躍してたから、(新人王、アシスト王、ベストファイブの三冠くらいにしとけばよかった、とは思いつつ)まだ納得感がある。361/523


6月3日(土)朝はまだ雨、午後は止んで日射しも出てきた。今日も起きてすぐテイラックを飲み、ちょっと作業。しかしどうも、薬を飲んだとはいえ気圧が低いのと、昨日の疲れもあってか、捗らず。昼休みに河野貴代美と信田さよ子の対談をオンラインで視聴。

 夜は河野多恵子『文学の奇蹟』を読。商業デビューから八年目の一九六九年、四十三歳の著者は、「私の創作世界」という一篇をこうはじめる。


 一生の仕事のうち既にどの程度したことになるのか、二割くらいはしたのか?──先日、私は作家としての自分の仕事について、文学とは無関係の人からそのような質問を受け、虚を衝かれたような気がした。

 虚を衝かれたというのは、私は即座に、とてもまだ二割には達していないだろうと思ったあとで、だが考えてみると死ぬまでに、今までの四倍分の仕事は出来そうにないと、急に気がついたからである。


 これは私も虚を衝かれた。河野は、八年で二割だとして、その四倍の三十二年後、自分は七十四歳になる、しかし三十代後半から四十代はじめの八年間のような働きかたをあと四回繰り返せる気はしない、と続ける。

 私はいまデビューから十三年目、十月には三十四歳になる。一生の仕事のうちまだせいぜい一割くらいしかできてない、と即座に思い、しかし今までの九倍分の仕事を、これまでと同じペースでするためには、百五十歳くらいまで生きていなければならない。健康をとりもどせばペースも上がるだろう、去年の二月で職場を辞めてから一年あまりで、すでにそれまでの二年間の倍の原稿を書けもした──と思いつつ、百五十歳になったときに同じ問いを投げられたら、きっと私は、まあ五割くらいかしら、と答えるのかもしれない。

 河野は一九六五年の「葬られた人々」でこう書いていた。


 ある作家が、もし真の芸術家であるならば、どうしても書いておくべき作品をことごとく書きあげるまでは生きられる。書き切ったうえで死ぬのだという、作家の死についての見方があるようである。確かに、日本の名のある作家の中では最も若死になのではないかと思われる樋口一葉などについてみても、書き切ったという感じは鮮烈である。

(…)

 従って、すべての作家は、作家としては死を恐れる必要はないのではないだろうかとも考える。真の芸術家であるならば死ぬときには書くべき作品は書き切っているのだし、どうしても書いておきたかった作品を書かずに死を迎えねばならなかったとすると真の芸術家ではなかったわけだから、いずれもそれまでだと、日ごろの私は思っているのである。


 私がこれを読んだときに思ったのは、このエッセイの五年後に自死した三島由紀夫のことで、たしかに三島も書き切った感じはする。しかし河野がすぐに、「ところが、現実に作家の訃報に接してみると、私はたちまち平素のそんな信仰の無力さを知らされる。」と書いているように、実際の死を前にしてしまえば、こんなニヒリズムに強度はない。『異族』を書き上げられなかった中上健次や『屍者の帝国』を冒頭だけ書いて没した伊藤計劃が〈真の芸術家ではなかった〉とも、その二作が〈書くべき作品〉ではなかったとも思えない。文學界新人賞を自分と同時に受賞して、受賞作の発表から十日ほど後に亡くなった山内令南さんを、彼女の書くべき作品を書ききったと(勝手に)思っているのだが、だからといってその死を惜しむ気持ちを慰められたりはしない。ともあれ、自分は自分の仕事を書ききるまで死ぬわけにはいかん、と改めて思った、し、そのうちどの程度を今までに果たしてきたか、という問いは、たぶん生涯のどのタイミングで自問したとしても、ぜんぜん十分じゃない、と答えるだろう。だから永遠に死ぬわけにはいかんのだ。361/523


6月4日(日)台風一過。朝はよく晴れていた、が、午後は曇。昨日の名残であまり具合よくなく、のんびり読書をして過ごす。

 昼休み、『大菩薩峠』を進読。米友とお銀、けっきょくお互いのことを気づかないままお銀の宿へ。そこにはお角がいて、さすがにお角は、お銀が連れてきたのが、かつて自分の見世物小屋で〈印度人〉を演じさせていた男だと気づいた。そうなると米友とお銀もお互いのことを思い出すはずだけど、今日読んだところではそういう描写はなし。

 いっぽう与八は、お経を教えてくれた和尚から、地域の名産品である梅をつかって、お松と三人で梅干製造をやって稼ごう、と誘われる。そしてお松のもとを、近くで百姓をしていた七兵衛(名古屋には行かなかったらしい)が訪れる。お松は彼に、房州・洲崎にいる甚三郎へのメッセンジャーを頼んだ。甚三郎とお君の息子である登を、「きっと立派な方に育ててお目にかけるつもりでおります」と伝えてほしい、とのことで、言葉の上では、お君への仕打ちに対する恨みなんかはなさそう。捨てた我が子を、まさに今いる沢井道場で育ててもらった、お松のことも自分の子供のように慈しんできた七兵衛は感極まって、「あの与八さんなんぞも、あれで親無し子で育ったということだから、ずいぶん、気をつけてやっておくんなさい。」と頼む。「おたがいに面倒を見て、助け合ってな、いよいよ立派な人になっておくんなさい」

 七兵衛からお松の言付けを聞いた甚三郎は、喜びつつも、洋行の予定を変えるつもりはない。悪さをしたマドロス氏を、ほっとくと外国人に偏見を持ってる地域住民に私刑を受けそうだからひとまず牢に入れていた、が、元は旗本とはいえよそ者の、異国の言葉をつかったり西洋船を作ったりしてる甚三郎への反感もあって、住民たちが、そのマドロス氏を牢から攫っていった。それを聞いた七兵衛は、自分がここに居合わせたのも何かの縁だ、とばかりに、マドロス氏奪還を名乗り出る。ドタバタの予感。

 午後もずっと読書をしているうち、だんだん具合も上向いてきて、終わってみれば気持ちの良い休日。411/523


6月5日(月)曇。シーズン最終節の試合後、イブラヒモビッチが引退を表明した。一時代の終わり。今季限りでACミランを退団することはすでに発表されていたこともあり、サン・シーロのゴール裏にはGOD BYEとコレオグラフが掲げられていた。私がいちばん好きだったころのACミランの選手がこれで全員引退してしまった。おセンチになる。

 今日もメチャクチャ読書の日。朝飯前に武良布枝『ゲゲゲの女房』を読了。とにかく貧乏で、しかし茂はひたむきに描きつづけ、成功を手にした、というのはNHKのドラマで観ていた。ひたむきに頑張れば成功をつかめる、というのは、生存者バイアス以外の何ものでもないのだが、それでもけっこう感じ入ってしまう。

 茂は結婚当初からゲーテを愛読して、その言葉を書きつけた紙を壁に貼っていたらしい。「当時、若者の中には、人間はなぜ生きるのかという哲学的なことを考えすぎて、自ら命を絶ってしまう人もいましたが、そういうひ弱な人間と水木はまったくちがいました。」と言い切ってしまえるのは、なんか羨ましかったですね。全体に優しく、やわらかな語り口なのに、とつぜん切り捨てるような言葉が出てきてギョッとしたのだが、それだけ心身ともに健康な夫婦だったということだ。鈴木涼美『8cmヒールのニュースショー』に収録されていた、「弱きものを嫌悪し続けた男、石原慎太郎逝去」というコラムのことをちょっと思い出す。

 夜までに三、四冊読み、そろそろ頭が疲れてきてたけど、『大菩薩峠』を進読。平湯の温泉宿でお雪は、竜之助が死ぬ夢を見る。そのあと、平湯から白川郷につづく山道では、白骨温泉でいっしょになった後家さんの死体を見る。若い男の性を吸い尽くし、お雪のお乳が黒くなった、と言い放ち、冬山の池で死体となって発見されたあの後家さんは、引き揚げられる前に沈んでしまい、ようやく今になって回収されて、在所である白川郷に向かっているところだった。なんとも不穏な道ゆきだ。

 彼らよりすこし早く白川に着いていた兵馬は、そこで出会った〈貴公子〉──どうも貴族につらなる人物らしい──に気に入られる。貴公子が滞在している屋敷に行くと、間もなく、その家の女主人、読者にはあの後家さんだとわかる女性の遺体が運ばれてきて、葬儀が執り行われる。滞在してはいるが関わりのない兵馬と貴公子は遠乗りに出、二人のいない屋敷では、葬儀の席で出されたキノコの毒にあたって、列席者たちがみんな半狂乱になり、喧嘩をしたり棺を開けようとしたり、笑いながら暴れたりしている。燭台も倒れ、それが障子に燃え移り、火事が起きてしまった。よく火事と喧嘩のおきる小説だ、と思ったが、せいぜい一冊に一、二度で、まあ小説としては平均的な頻度かもしれない、火事と喧嘩は江戸の華だし……。

 読み終わったころにはまた日付が変わっている。もう頭がしおしおで、日記も書けない、から明日加筆する。462/523


6月6日(火)曇、夕方から雨。重めの頭痛。風呂のなかで植本一子、金川晋吾、滝口悠生『三人の日記 集合、解散!』を起読。ゴーヤチャンプルーを作って四十分ほど散歩して、家事をやって茶葉蛋を仕込みながら昨日の日記をゴリゴリ書く、だけでもう昼になる。日記書きすぎなんですよ。

しかし、三人の日記と比べて、というわけではないのだが、私の日記は描写が少ない。それは登場人物と出来事がめちゃくちゃ少ないからだと思う。起きて、散歩して、めしを作って食って、読んで書いて、何か観て。私は飲食店とかで座ってると発作が起きがちで、外では常に移動している。止まるのは信号やレジを待っている、長くても二、三分くらいのもので、もう一年くらい自宅の外で座ってない。こないだ公園で読書したくらいか。誰かと会った、どこかへ行った、そこで何が起きた、みたいな記述がなく、毎日が同じことの繰り返しだから、自然と描写は少なくなる。良い悪いではなく、それが私の生活で、私の日記だ、ということなのだが、しかしどうも味気ない気がしてきた。

 昼食はチャンプルーの残りを食って『大菩薩峠』を進読。けっきょく米友とお銀は互いを思い出したのか、わからないまま、米友が朝寝坊してるうちに、お角とお銀は名古屋に発った。一人残された米友は、親を殺され売られようとしている子熊をあわれんで、親熊の毛皮を買い取り、子熊の乗せられた荷台といっしょに名古屋を目指す。

 先行していたお角たちは、熱田神宮にお参りしていとき、巡業中の相撲取り同士が喧嘩するのを見る。大男たちの大喧嘩はすぐ噂になる。幕末、黒船来航はもちろん名古屋でも脅威と思われていただろうし、徳川御三家のお膝元であることを思えば、幕府が脅かされることの恐怖は、ほかの土地より大きかっただろう。噂は、大男の喧嘩の裏には異国人が暗躍しているはずだ、と不穏な方向に変化した。

 いっぽう道庵は、名古屋の医者や医学生の前で講演をすることになった。講演中、いつもの脱線癖が顔を出し、収集がつかなくなりそうになったところで、米友の子熊が飛びこんできて、どっちらけになる。

 予報では夜の十時ごろから、となっていたが、まだ明るいうちに雨が降りはじめる。気圧性の頭痛がだんだん耐えがたくなった、ので閉店して焼きそばを作り、『憧れの地に家を買おう』のシアトル回を観。そのあと風呂に入り、『集合、解散!』を最後まで。523/523


6月7日(水)雲の多い晴。今日もずいぶん寝ていた。最近ずっとそうであるように、朝はまったく食欲なく、生野菜をモソモソ食う。一日読書の日。起きてすぐに『集合、解散!』の特典ペーパーを読み、『大菩薩峠』を、もう一度通読する時間はなさそうだから、メモを挟んだところを中心に拾い読み。

 午後、「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』を読む。現代日本の凶悪事件を取材した短篇ノンフィクション集。とびきり下世話で、こういう胃に悪そうなもんを読むのもたまにはいい。夜は賞味期限切れのシーフードヌードルを食う。一日家に籠もって、外出は朝刊と夕刊を取りに二度郵便受けまで降りただけの日。


6月8日(木)曇、午後から夜にかけてときどき雨。昨日は風呂に入らなかった、が、外にもほぼ出てないし、シャワーも浴びずに散歩に出。四十分ほど歩いて、スーパーで食材を買い、その近くのタリーズへ。ここ最近、ある程度の距離を安定して歩けるようになってきて、カウンセラーさんと、じゃあ次は飲食店とか、外で一定時間座る、というのに復帰できたらいいですね、その前段階としてまずは、カフェのテイクアウトとか、精神的負荷のちいさいことからはじめていきましょう、という話になったのだった。誰も並んでなかったし、注文したのもアイスのグレープフルーツティーだから作るのに時間もかからず、発作の予兆を感じる間もなく受け取って帰る。あまりにも負荷が小さい、とも思ったが、しかし、いきなり無理して失敗体験になるよりよほどマシだ。ちょっとずつ良くなっていきましょう。

『大菩薩峠』文章を起筆。ウンウン唸りながらゆっくり書いていく。夕方、ちょっと中断してカレーと塩胡椒からあげを作って、『ガイアの夜明け』のサウナ回を観、そのあと風呂に入ってまた進筆、夜完成。明後日まで寝かせる。


6月9日(金)朝は弱い雨、午後は曇。起きたときから低気圧。昨日のカレーを温め、キウイを剝いて食う。最近キウイを、毎日複数食べている。

 書評とコラムを書く日。どちらもそれほどの分量ではないが、そのぶん凝縮させるのに手間がかかる。夕方までやって完成、片方が今日締め切りなので、三十分ほど置いてから即送稿。

 そのあと、いとうせいこうと星野概念の対談本『ラブという薬』。編集者との打ち合わせで、いとうさんも昔パニック障碍を発症してらして、みたいな話を聞き、調べてみるとたしかにいろんなところで公言してた、ので本書を読んでみたのだが、パニックの話はほぼなく、生きづらい世のなかでいかにしてやっていくか、みたいな本だった。「お互いに傾聴し合うことが愛」といとうが言っていて、〈ラブという薬〉はつまりそういう関係性のことであり、それを職業としているのが精神科医やカウンセラーだ、ということ。私もカウンセリングを受けているので、なるほどなあ、と思うことしきりであった。

 パニック障碍を発症した初期、近所のメンタルクリニックを受診して、「パニックはしょせん錯覚にすぎないんだし、発作が起きても十分くらいで楽になるんだから、ちょっと我慢すればいいんじゃない?」と言われたのがずっと尾を引いていて、とにかく精神科医というのにあまり良いイメージがない。が、星野が言うには、(一定のルールに従って治療をする大病院の勤務医と違って)個人経営のクリニックは院長の裁量が大きく、〈「え、こんな治療でええんかい」と突っ込みたくなるような〉クリニックもあるそう。私はいきなりそういうところに行ってしまったんだな。とはいえ、当時よりパニックが悪化した今、決まった時間にどこかへ行き、一定時間座って話す、ということ自体ちょっと怖くなってしまい、他のメンタルクリニックに行くのも難しい。まずは飲食店のイートインができるようになってからだ。焦らず焦らず。

 それから金川晋吾『いなくなっていない父』を読。題のとおり自身と父親との関係が主題なのだが、写真論的な記述も多かった。


 写真を撮る上では私は父に対して実際に何らかの判断を下す必要はなくて、何も答えが出ていなくてもどこかのタイミングでとりあえずシャッターを切ればそれで事足りる。父にカメラを向けてシャッターを切れば、私が父に対して何らかの判断を下していようがいまいがそんなことはおかまいなしに写真というのは勝手に撮れてしまい、父の写真は出来上がってくる。

 もちろん写真を撮るときに、「ここでシャッターを切る」という判断を、つまり、「今、目にしているものをイメージにしよう」という判断を下してはいるのだが、それは言葉によって導き出そうとする判断とはかなり質がちがうものだ。何も考えなくても、何も決定しなくても、シャッターを切ることはできる。すでに撮るべき写真が完全に頭のなかにあり、それを具現化するために完全にセットアップして撮影するという場合であれば、また話はちがうのかもしれないが、基本的にシャッターというのは「とりあえず」切られるものだと思う。少なくとも私が父を撮るときは、いつだってシャッターを切るのはとりあえずでしかなかった。とりあえずでいいのでシャッターを切ってしまえば、父のイメージは出来上がる。

 極端なことを言うと、別に父のことをよく見ていなくても、父の写真を撮ることはできる。見ることと撮ることは実はまったく別のことなのだろう。撮ることは見ることなしに成立する。父のことをよく見なくてすむように、父の写真を撮っていたと言うこともできるだろう。シャッターを切るというのは、見ることをそこでとりあえずいったんやめることでもある。その場で見ることをいったんやめて、あとでイメージとして見るために写真に撮る。そんな言い方もできる。


 ここを読んで、安田和弘のことを思い出した。どこかで書いていたのだったか、イベントで登壇していたときか、もしかしたら早稲田の喫茶店GOTOとかで会ったときに聞いたのかもしれないが、安田くんは、シャッターを切るときはファインターを覗かないという。

 ごめんなさいっ、と彼は、胸のあたりでカメラを構えるような仕草をしながら言った。ごめんなさいっ、みたいな感じで撮るんだ、被写体の、ある瞬間を盗むような感覚。ボタンを押せばそれで写真というのは撮れるのだし、必ずしも構図が完璧に決まっている必要もなく、ただそのとき何か撮りたいと思った、から撮る。彼は一度しかシャッターを切らないし、その場で画像を確認してもう一枚、みたいなこともしない。あとでプリントしたりして見返すこともあるが、そのころには、撮ろうと思った瞬間から時間が経っていて、自分がどこで何を思ってそれを撮ったのかは思い出せない。ただそこに写真がある、それだけでいいんだ。

 こうして書きながら、どこまで安田くんが実際に言ったことだったか、どこからが彼の話を聞いて私が解釈したことだったのか、わからない。彼と交わした言葉をすべては憶えていないし、何度も振り返るうちにそれが自分の考えでもあるように錯覚していることもたぶんあるし、自分の考えを彼の言葉として思い出すこともある。彼や彼の作品、言葉について、もうあまり正確なことは思い出せない。私はあまり安田くんについて書くべきではないのかもしれない。元気でやってるだろうか。

 そういうことを、『いなくなっていない父』をいったん閉じて書いてから、また本に戻る。「やっぱり生きていくのが面倒くさい」という、著者の父親の書き置きが印象に残っている。著者は、父の家に置かれていたメモ帖の、その言葉だけが書かれたページを撮影して、その写真は『father』に収録され、筆跡がそのまま帯に転写されてもいた。そして『いなくなっていない父』のなかでも、その書き置きは再び言及される。そして著者はNHKの取材を受けているとき、カメラの前で喋りながら菓子パンを食べる。そのだらしない態度を著者は、「カメラの前で話をしながら菓子パンは食べないほうがいいに決まっている。それはわかっているのだが、ついやってしまった。撮られていることを一方では意識してはいるのだが、疲れからか頭全体はぼんやりとしてきて、どうでもよくなってくる。」と振り返っていた。

 普段の生活の様子、自室で作業をしている様子を撮ってもいいか、と打診されたとき著者は、「自分の部屋を見られるのは恥部を見られるようで若干抵抗があったが、断るほどのことでもないので来てもらうことにした。」それは、父が息子に写真を撮られることを承諾したときの、「写真を撮られるぐらいたいしたことじゃないので、それでよろこぶのならばやってやろうという親切心。」と通ずるところがあるような。父について考え、語るはしばしからときどき、その父と似た性向が見える、という気づきを、書評のなかには書きこめなかったので、ここに書く。


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