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大菩薩峠 2023.6.13~2023.7.12

6月13日(火)晴。蒸し暑い。朝からこまごま事務仕事。昼は上海風焼きそばにして、岩合さんの猫番組を観ながら食う。

 半身浴をして、竹下文子文、鈴木まもる絵〈黒ねこサンゴロウ〉一巻の『旅のはじまり』を読。全十巻の、小学校に入るかどうかくらいの時期に繰り返し読んでいた、人生ではじめて熱中した小説。サンゴロウがカッコ良くて、将来はこういう大人に(サンゴロウは猫ですが)なりたい、と思ったものだった。〈名探偵夢水清志郎事件ノート〉と同様、少年時代に大好きだった作品が今も魅力的なことがわかって、うれしくなる。

 今読むと、鈴木の絵がすごく良いのがわかる。輪郭線を欠いた、影を描くことで明るい場所を浮かび上がらせるような絵だった。輪郭線というのは漫画的な表現で、漫画というものを読んだことがなかった六歳のころは意識せずに見てたけど、毎日複数冊漫画を読んでる今は新鮮に感じる、ということか。

 午後ようやく本格的に書きものをはじめ、夕方まで集中。夜は飛騨牛を焼いて、ドラマの『サ道』を、最初から七話まで一気に観。私はサウナが好きで、友人とスーパー銭湯に行ったとき、一人でサウナ水風呂外気浴を三セットやってみんなを待たせたこともあるのだが、パニックを発症してから一度も行けていない。旅行も外食も人と会うことも、発症以来できなくなったことは多くて、そういうものを主題とする作品をみるのは、自分が失ったものの良さを目の当たりにするようで、けっこうつらい。とはいえ、そのつらさに慣れてしまえば、原田泰造の演技が良く、適度にばかばかしくて、楽しいドラマだった。途中でネイルを塗ったり、肉を食ったりしつつ、三十分ドラマをCMカットで七話ということは、三時間くらい観たのか。


6月14日(水)雨。寝苦しく、三時半ごろにようやく意識を失って、プルースト日記を私家版で出す夢を見た。私はプルースト日記をBASEで通販していた。プルースト日記も「明日から今日まで」も、商業出版の目がないなら私家版で、と思うのだが、それにも金がかかるから二の足を踏んでいて、けっきょくこのままお蔵入りになるのかしらん。

 夜、パスタを茹でて食いながら『サ道』を最終回まで観、二〇一九年の年末スペシャルも観。第十話、荒川良々の存在感がすさまじく、その回だけ別のドラマになっていた。

 寝る前に〈黒ねこサンゴロウ〉の二巻『キララの海へ』。本巻の書き出しはこう。


 港の灯台がみえてきたので、船は、すこしスピードをおとした。

 木のさんばしや、白いペンキぬりの建物が、ゆっくりゆれながらちかづいてくる。二週間ぶりにもどってきた港だ。

 カモメのむれがとんできて、きゃあきゃあうるさくなきながら、マストのまわりをとびまわった。

「わるいけど、たべものは、ないぜ。」

 おれは、カモメに手をふって、そういってやった。でも、カモメたちは、あきらめないで港までついてきた。

 おれのなまえは、サンゴロウ。この船、マリン号の船長だ。船長といったって、いまのっているのは、おれひとりだけどな。


 もうバシバシにカッコ良い。ちょっとホラーっぽい展開もあって、大人なのになんか怖くなってしまう。少年のときに夢中になってたからなのか、子供むけに書かれた本だからなのか、ページをめくるごとに、三十三歳の大人ではなく、小学校低学年の少年に戻っていくかんじ。


6月15日(木)朝は曇、午後から夜は雨。インスタントのフォーを啜って散歩に出。一時間ほどウロウロする。

 夕方、『サ道』の二〇二一年二月のスペシャル回。コロナ禍でサウナという娯楽の形態そのものが危機におちいって、そこから回復しつつある二〇二一年の作品だった、こともあって、妙にメッセージ性が強い。個人的には、おじさんがサウナでととのってめしを食う、だけのドラマでいいんですが。

 そのあとマラート・ガビドゥリン『ワグネル プーチンの秘密軍隊』を起読。表紙では著者や訳者(中市和孝)より監訳者・小泉悠の名前が大きく、この装幀は著者や権利者の許可を取ってるのか……?といらんことを心配してしまう。しかし読んでみると、ワグネルの一員だった著者の武勇伝、という感じの内容で、二〇一九年に退職した著者は二〇二二年からのウクライナ侵攻には参加してないしクレムリンに批判的な記述もある、とはいえ、全体的にロシアのプロパガンダに沿った立場から回想している。ワグネルについてのドキュメンタリーを撮ったジャーナリストによる序文で、これは〈お雇い兵士の冒険譚〉である、と書かれており、監訳者も「ガビドゥリンの物語はそのまま素直には受け取れない。」と念を押しているように、われわれ読者は、本書の記述を批判的に受け取る必要がある。そのうえで、〈壁の向こうの住人たち〉(というのはアメリカ右派がどういうロジックで共和党を支持してるかを分析した本の題だけど)の心理を観察するように読む。表紙で監訳者の名前を著者より大きくしてるのはそういう、著者の言葉を真に受けないように、というささやかな警鐘の意味があるのかもしれない。

 しかし本書、信頼できない語り手による荒っぽいハードボイルド小説みたいで、楽しく読めてしまう。それもまた危険な感じがしますね。良い本だ、が、寝るまでには読み終われず。

『サ道』に出てきた荒川良々のことがずっと気になっている。哀愁漂う中年サラリーマン(営業課長)。十五年くらい前(調べてみたら二〇〇七年から二〇一〇年ごろ)にやってたカロリーメイトのCMで、ブルース・リーみたいな黄色いタイツでへんな動きをしてる印象が強かった、のだが、荒川良々、ひとつひとつの表情が素晴らしかった。サウナでととのうことで日常のストレスを発散しようとして、しかし嫌なことばかり考えてしまって無心になれない、それでもサウナは暑く水風呂は冷たく、外気浴はスッとして気持ち良く心が洗われ、そうになるたびに、フラッシュバックのように悪い記憶が蘇る、その間で揺れつづけるさまが、表情だけで伝わってきたのだった。観てから丸一日経った今も、ずっと彼の表情を思い返している。


6月16日(金)快晴。今日は作業を進める日だから散歩はひかえめに、と思っていたのだが、けっきょく一時間ほど。汗だくになった。

 夕方、『サ道』の、荒川良々が出てくるエピソードをもう一度観。「私には、サウナについて語り合える仲間などいない。私は孤独だ──」というモノローグとともに登場する荒川は、取引先で若い男に暴言をぶつけられて予算より低い金額で契約を交わさせられ、それを知った(これも若い、女性の)部下は「え、課長バカなんですか?」と激昂して「もういいです、課長じゃ話にならないから部長に言います」と書類を引ったくってわざと荒川の肩にぶつかりながら去っていき、妻は「今日、大輔の模試が追い込みだから晩御飯外で食べてきて」「帰宅可能時間23時以降」とメールしてくる──という、職場にも家庭にも居場所のない中年サラリーマンの悲哀を一分半にまとめるテンポの良さ。大輔というのは高校受験を控えた息子で、ほかの子供に言及がなかったということはたぶん一人っ子なのだろう。私は高校の選択肢がほぼなかった(鳥取市内に十校もなかったし、学費のあまりかからない公立校、かつ進学校に進むよう言われていた)し、受験したのも定員が三百六十人で志望者は三百六十五人、みたいな高校だった、ので、父親の存在が邪魔になるほどの模試の追い込み、みたいな感じはよくわからないが、まあそういうこともあるのだろう。「私はもはや、ただ家に金を運ぶだけの存在に過ぎない。いや、妻を責めているつもりはない。結婚するとき、必ず君を幸せにする、とプロポーズした。ほんとうに幸せにしてやれているのか、自信がないが……」と述懐していて、悲哀悲哀!という感じ。

 彼の家は京王八王子駅から徒歩二十分。「時間をつぶすには、新宿では騒がしすぎる。笹塚あたりがちょうどいい」と考えて、笹塚のマルシンスパというサウナに行く。彼はサウナに、「日ごろの悩みを忘れるため」に通っているそう。

 しかし、サウナで「ほんとさ、うちの上司がさ、使えなくてさ」「うちにもいるわー、〈会社にいるだけおじさん〉」と若い客が話しているのを聞いて、その日の嫌な記憶が蘇ってくる。無心になりつつあっただけにネガティブな思考もよく走り、自販機の前で排水溝に小銭を落としたこと、何もない路上で躓いたこと、フリスクをこぼし、スマホを落として画面をバキバキに割り、公園で休んでたらサッカーボールが頭にぶつかっておにぎりを落とした、と、もはや嫌な記憶しか考えられなくなる。

 水風呂に浸かっても落ち着かず、またサウナに戻った彼はふと、「まてよ。ネガティブな思考を押さえつけず、汗のように、あえて出してみたらどうだろう?」と思いつく。熱波師が送ってくれる風を浴びながら、「彼もあんなこと言いたくないはず。立場上言ってるだけだ」「部下にあんな言葉遣いをさせてしまった私が悪いのかもしれない」と自分に言い聞かせる。「私が帰らないことが家族の幸せになるのならそれでいい」「家族の幸せ、それが全て。そのためなら、取引先に怒鳴られても、若い女子社員にバカと言われても、耐えられる。京王八王子駅から徒歩二十分、八十二平米、3LDKの三十五年ローン。まだあと二十年以上も、払い続けなければならないんだ。プライドなどいらない。どれだけ恥をかいても、石にかじりついても会社をやめない。これが、家族を守るということなんだ。いいか、おまえら若造どもに、おれの気持ちがわかるか馬鹿野郎!」感極まって号泣してしまう、が、なんせ汗まみれなので誰にも気づかれない。

 ネガティブな感情を〈汗のように〉垂れ流したのが功を奏して、外気浴をしながら、次第に思考が好転してくる。たしかに日々はしんどいし、出世レースにも乗れていない。それでも仕事があり、家があり、家族があり、そしてこうしてサウナに通うこともできているのだから、それだけでもじゅうぶんに幸せなのだ、と気づく。「そうだ、今の私のまま、ゆっっくりと生きていけばいい。今の私のまま。今はこれでいい。これで、いい──」という言葉を最後にととのって、トリップ映像のなかではじめて笑顔をうかべる。

 荒川良々は、「私はもしかしたら、サウナに泣きに来ているのかもしれない」と述懐してるけど、そういえば『サ道』の主人公たち(〈ナカちゃんさん〉〈偶然さん〉〈蒸し男くん〉の三人)は、サウナのよろこびを謳歌していて、こうやってデトックス効果が強調されることは少ない気がする。

 荒川は休憩室でオロポと酒を飲み、カレーをむさぼり食う。満足して帰ろうとしたがスマホを見るとまだ二十一時過ぎで、寝椅子に戻って仮眠する──と、ここまでがマルシンスパでの体験。

 後日、荒川は、本作の本拠地というか、主人公たち三人のホームサウナである〈北欧〉を訪れる。妻からの「帰宅可能時間22時以降」というメールを見て落ち込んだところで、主人公たち三人に話しかけられる。自分たち三人もサウナで知りあったんだ、と同席を誘われた荒川は偶然さんに、〈ツルピカさん〉というあだ名をつけられる。蒸し男くんが「いや坊主頭なだけでしょ」と突っこむが、荒川はどこか嬉しそうに、「いえ、いいです」と返す。「いいんですか?」というナカちゃんさんの気遣わしげな声に、「はい。それがいいです!」と微笑む。よかったなあ!と、私までうれしくなったですね。おすすめのサウナを訊かれてマルシンスパを挙げると、三人は「わかりますわかります」と頷き、楽しげに語りあう。そして荒川は考える。「いつ以来だろう。会社以外でこんなふうに誰かと、笑顔で話すのは。いや、会社だけじゃない。家でも、こんなに笑いながら話したことはない。わたしはもう、孤独じゃないのかもしれない──」

 こうやって振り返るとほんとうにウェルメイドというか、よくまとまった短篇だ。しかし次の放送回では、ナカちゃんさんたちはまた三人に戻っていて、荒川良々はその後、すくなくとも二〇二一年二月のスペシャルまで観た時点では、背景にすら登場しないのだった。

 夜は出汁で炊いたご飯と茹で卵だけにして、『ワグネル』を最後まで。本の大半が戦闘と短い中休みの描写で、それが戦闘を業務とする民間企業の日常ではあるのだろうけど、さすがに単調な感じ。じっさいにそこには危険があり、多くの命が失われている、にも関わらず〈単調〉という言葉が出てくるのは、小説みたいな読み味だったからだろう。


6月17日(土)快晴、今日も暑い。三十分ほど歩いてから、近所のタリーズへ。カウンセラーと話した、散歩の距離も伸びてきたし、次は飲食店でのイートインに復帰したいですね、というのの実践として。六月六日の日記に私は、「私は飲食店とかで座ってると発作が起きがちで、(…)もう一年くらい自宅の外で座ってない。」と書いていたが、今日は座った。グレープフルーツティーを飲みながら、河野貴代美『1980年、女たちは語りはじめた』を起読。最初の数分はすこし緊張していた、が、だんだん本に集中できて、四十分ほど座っていただろうか。発作はなく、その予兆もなし。

 家でつづきを読んでいると、外から銃声。なにごと、と思ったら、歓声も聞こえてきた。外に出、そのあとも数分おきに続く銃声の源を探してみると、近所の中学校で運動会をしているのだった。校庭のぐるりに保護者らしい大人たちが立っていて、歩道からでは競技の様子は途切れ途切れにしか見えず。ちょうどムカデ競走をやっているところで、子供たちが、「ワッ!セッ!ラッ!ソーレッ!」と声を合わせてリズムを取りながらすごい勢いで走り抜けていくのが、大人たちの隙間から見えた。

 そのあと〈サンゴロウ〉の三巻『やまねこの島』。サンゴロウと医者のナギヒコが、カレハ熱という死病が蔓延するやまねこの島に行く、という筋なのだが、どうも、このふたりのBLみたいに読んでしまう。行き先を告げずに船を走らせるサンゴロウを見ながらナギヒコが考える、「しかし、強引なところは、ちっともかわらないね。いいかげんに、行き先を教えてくれてもいいんじゃないか? おしえると、わたしがにげだすとでもおもってるのか? ねえ、この海のまんなかでだよ。」という述懐にすら、私のなかの腐女子が、親密な関係の相手にだけ許される甘えを嗅ぎ取ってしまう。こんな大人になるとは思ってなかったな。

 夜、『サ道2021』を七話まで観。第一シーズンに比べてゲスト出演が増え、そのぶんストーリー性がつよくなった、が、私はこのドラマに、ただおじさんがサウナで気持ち良くなる、のだけを求めているので、そういうストーリーはノイズに感じられる……、と思ったのだが、しかし私は昨日もさんざん、ストーリーがハッキリしていたツルピカさんのエピソードのことを考えていたのだった。そして最後、七話のあとの次回予告に荒川良々の姿が映っていた。モノクロ映像のなか、ナカちゃんさんたちと楽しそうに躍動していて、それだけで嬉しくなってしまう。コロナ禍を彼も生き抜いているのだ。


6月18日(日)晴。一日読書。

 昼ごろ、『大菩薩峠』の七巻を起読。図書館で借りた本なのだが、巻頭のあらすじの途中から登場人物紹介、本文の冒頭までが落丁している。最初から落ちていたのか、修理のときに抜けてしまったのか。やむなく、本文の、どうやら最初の一ページだけらしい欠落部分は青空文庫で読んだ。

 冒頭は駒井甚三郎が茂太郎に教育をほどこそうとしていることについての記述だった。航海術の前提となる天文学を教えるときに、空を指さして星座の話をすると、茂太郎は、どの方角にどの星座があって、みたいなことではなく、その由来である神話のほうにこそ興味を惹かれ、さらには満天の星空にオリジナルの星座を見出して遊ぶ。〈たとえば、拍子木座と言い、団扇座と言い、人形座と言い、大福帳と言い、両国橋と言い――〉。「つまり、今まで、禽獣虫魚を友としていたと同じ心で、日月星辰を友とする気になってしまいました。」楽しそう。私も国語の授業のとき、この脇役を主人公にしたらどんな話になるかしら、みたいなことを考える子供だったので、茂太郎の気持ちがちょっとわかる。

 今日はマドロス氏が村人たちに処刑される予定の日で、彼が捕らえられている山の明かりを見ながら、茂太郎は、「マドロス君も、いけないにはいけないが、焼き殺すというのはヒドい。」と考える。確かに悪さはいろいろした、が、いちばんの被害者であるもゆるお嬢様はすでに許しているし、焼き殺すほどの罪とも思われない。そんなマドロス氏を村人たちが殺そうとするのは、「マドロス君が毛唐であるからだ。」と語り手は言う。

 アメリカをはじめ〈毛唐〉たちは日本に開国を迫って、いくつかの藩は戦争もした。数年前には生麦事件もあって、〈毛唐〉への反感が民衆に広まっていた。とはいえそれは、いち水夫に過ぎないマドロス氏を焼き殺す理由にはならない。「いったい、人間同士というものは、そんなに憎み合わないでもいいじゃないの。そんなにおたがいにこわがらないでもいいじゃないか。人間はどうも物を怖がり過ぎていけない。獣や、虫なんぞでも、こちらが害心さえ無ければ、向うも大抵お友達気取りで来るものを、人間が彼等を怖れ過ぎるから、彼等もまた人間を怖れ過ぎる。」この章が発表されたのは一九三一年で、その年には満州事変が勃発している。そんなキナ臭い時代を報じる紙面にこの一節が掲載された、というのは、小説の外にまで広がる意味があった。

 甚三郎は、地域住民と敵対することを嫌って、洋行準備の拠点を学友のいる石巻に移すことにした。マドロスを救い出し、同行を誘われた七兵衛は、お松と登も連れて行きたい、と言って、二人を誘いに沢井の道場へ向かった。

 福島・勿来に着いた白雲は、測量士が紹介してくれた小名浜の名主の屋敷で芸術談義に興じ、さらに北へ。いっぽう、竜之助とお雪が逗留する飛騨・髙山の宿は火事に見舞われる。二人はなんとか無事だった、が、一切合切の荷物も路銀も焼けてしまって、これからどうするものか。

 午後、そろそろHDの残り時間が尽きそうな録画をいくつか観、ちょうどNHKでやってた『ひみつの絶景 ブルーキャニオン』という番組の、屋久島の渓谷を歩いてるのも観。高校二、三年は山岳部で、中国地方の山をいくつも登ったので、その経験のことなんかも思い出されてたいへん面白かった(中国山地の西のほうを縦走したとき、島根と広島の県境にある旧羅漢山という山の標高が一三三四メートルだったのだけど、いみみし!いみみし!と数字の語呂合わせで仲間たちとはしゃいだ、ことを十五年以上経った今も憶えていて、数字を暗記するのが苦手で富士山の標高も思い出せないのだが、一三三四だけはいつまでも忘れない)。とはいえ、私はこの番組みたいに、沢に飛びこんだり、滝をロープで下ったりしたことはない。楽しそうだったな。

 そのあと十五時からバスケ女子代表の日本対デンマーク。世界ランクにかなり差があって、大差で日本が勝つ。試合が終わるころには眠くなり、夕方までぐっすり寝。そのあとはもくもく本を読んだ。47/523


6月19日(月)曇。朝から『大菩薩峠』。竜之助とお雪は、うち捨てられた屋形船を避難場所とした。下男の久助を探しに行く途中、お雪は、川辺の草むらのなかに棺が置かれているのを見かけた。久助を使いに出して、先日まで滞在していた白骨温泉の人たちに救援を求める。街一帯が焼け、お代官所の役人たちが炊き出しをしていて、代官屋敷に逗留している兵馬も忙しく働いている。

 そしてその夜、竜之助は久しぶりに夜、頭巾で顔を隠して(これが竜之助が辻斬りをするときのお決まりのコスチューム)、一人でふらりと船を降りた。そして夜の川辺で男と行き会った、が、その男よりも、男がかがみ込んでいた長い箱──お雪が昼間見た棺のことが気にかかる。触ってみるとその蓋がズレて、なかに入っている遺体の顔が見えた。それは白骨で死んだ後家さんなのだが、目が見えない竜之助は気づかない。ただ、そこに置かれていた着物に触れて、男はこれを盗もうとしていたのだろう、と独り合点して、自分が持っていくことにした。

 翌朝、お雪が目覚めると、自分の身体の上に、白骨で後家さんが着ていたのと同じ柄の着物が掛けられている。読者にはそれが、竜之助が、お雪の身体が冷えることを心配して掛けてやったのだろう、とわかるが、お雪にしてみれば、一時は仲良くなったけど、お乳が黒くなった、と呪いのような言葉をぶつけてき、冷たい池に沈んで遺体となり、白川郷に向かう途中で搬送されてるのを見かけた、もはや悪夢のような存在である後家さんの怨念が、いま自分に追いついてきた、みたいな感覚。ゾッとするよなあ。

 仏頂寺たちやがんりきも、それぞれ髙山に集まってきた。前巻では登場人物たちが名古屋に集結しつつあって、何か名古屋で一山あるのかしらん、と思っていたのだが、その予兆だけで終わるのだろうか。

 午後、明るいうちに風呂に入って『サ道2021』のつづきを観。予告どおり荒川良々が再登場。彼の会社もリモートワークを導入しているのだが、前回「家に居場所がなくて……」と言っていたとおり、休憩室にPCを持ちこんで仕事をしている。しかし彼はなんせ仕事ができないので、オンライン会議の予定を失念していた。錯乱して、サウナのガウンの上に紺色のタオルをネクタイみたいに巻いてログインした、のだが、上司がやたらとツルピカさんのことを疑う。首にタオルを巻いてヴァーチャル背景をつかっているのを見て、「さては自宅じゃないだろ、どっかでサボってんな? サウナだろ、サウナにいるな?」とやけに鋭い。

 この俳優は岩松了という劇作家もやってる人で、ちょうど今日読んだ『走る?』という小説のアンソロジーにも寄稿していた、し、Wikipediaの出演作リストを見て思い出したのだが、『花束みたいな恋をした』で絹ちゃんの父親を演じてもいた。「絹ちゃんが朝帰りした!」という、娘の朝帰りに動揺した父親が、その場の雰囲気──というか自分の感情をごまかすためにつかう冗談めかした口調で囃し立てる台詞を、私は二年ちかく経った今も憶えていて、家族とそういうコミュニケーションを取る(そういうコミュニケーションしか取れない)父親が、職場ではこうやってあまり仕事のできない部下をいびっている、というのはありそうなことだ。しかし岩松はいま七十一歳、『サ道2021』当時も六十九歳で、もちろん演じた役が俳優と同じ年齢であるとは限らないのだが、もし同じ歳なら定年退職後の再雇用だったのだろう、だとしたら正社員だったときの癖で偉そうにしてしまう元上司、という感じでとたんに哀愁がただよう。ツルピカさんは要領が悪いから、そういう老人を適当にいなすことができず、会議に参加していたほかのメンバーが、二人のやりとりの間ずっと黙っていたのも、暴走する老人とその標的になった無能な社員を、またはじまったよ、と呆れながら傍観していた、ということかもしれない。

 けっきょくその場は、ナカちゃんさんがガラの悪い息子を、偶然さんがドッシリした声の妻を演じることでごまかせた。二〇一九年のツルピカさん登場時(放送は九月)、息子の大輔は高校受験を控えていた。その半年後、当時の首相の独断で一斉休校になって、大輔の卒業式はおそらく開かれなかった。高校入学は新型コロナ禍初期の混乱のなかで、『サ道2021』の時点(放送は八月)では、おそらくほとんど登校もしないままに二年生になっている。身近に高校生がいないから、今の彼らがどういう生活をしているか詳しくは知らないのだが、「オヤジぃ、邪魔だよ!」「てめえ臭えんだよ! あっち行けよ! 見てるだけでイライラする、まじイライラするぜ!」なんてことを言ってしまうくらいストレスが溜まっているのもわかる。だからナカちゃんさんが演じた息子がグレてしまっていたのはリアリティがあった。夫や子供がずっと家にいることによる主婦のストレス、というのもずっと言われていることだ。とはいえナカちゃんさんも偶然さんも実際にはツルピカさんのことが好きで、彼といっしょにいる時間を楽しんでいる。ツルピカさんと、演技とはいえ彼を「おやじ」「あなた」と呼ぶナカちゃんさんたちは、このサウナ〈北欧〉で擬似的な家族を築いている。ツルピカさんにとってはきっと、ほんとうの家族といるよりも彼らとととのってるほうが安らげるのだろう。彼はもう、孤独じゃないのだ。

 最終話のひとつ前まで観たところで眠気に耐えられなくなり、一、二時間寝て、カップ麺を食って深夜まで読書した。98/523


6月20日(火)曇、午後は快晴にちかい晴。朝から飛騨牛とカチョカヴァロを焼いて食う。満腹になって一時間も散歩した。

 昼休みに『大菩薩峠』、七巻を進読。髙山の代官屋敷に盗っ人(がんりき)が忍び込んできた。兵馬はそれが縁のある人間だと気づかずに追い払い、警戒のために見回りに出た、ら、代官に手籠めにされかけて逃げてきた芸者と出くわす。話してみるとそれは、一時期兵馬といっしょに行動していた松太郎だった! 偶然偶然。しかしちかくに潜んでいた怪しい男を捕らえて尋問してるうちに松太郎は、覆面姿の男(竜之助なのだろう、たぶん)に襲われ、姿を消してしまった……。

 いっぽう、お松は、迎えに来た七兵衛とともに甚三郎の待つ洲崎に行くことにした。が、とうぜんいっしょに行くものと思っていた与八は、自分は外国に行くのではなく、この国のなかを旅したい、と言う。流しの彫物師として、行く先々で仏像や何かを彫って路銀を稼ぎながら全国の霊場を回りたい、とのこと。けっきょく、お松と登(甚三郎とお君の息子)、ムクは洲崎に向かい、与八と郁太郎(竜之助とお浜の息子)は巡礼の旅に出ることになった。

 早めに終業して読書。途中男子サッカーの日本対ペルーを挟みつつ、遅くまでかけて三冊読む。しかしどうも、夜更かしをしたせいか、思考がどんどんネガティブになっていった、ので、気持ちが楽になる薬を飲んで寝。149/513


6月21日(水)曇。昨夜の思考を引きずって、起きてからしばらく鬱々としていた。また薬を飲む。朝食に海南鶏飯を作って始業。

 食事もほどほどに夜まで作業。腹に詰め込むだけの夕食のあと、寝るまでジャック・デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉 Ⅰ』。149/513


6月22日(木)朝は雨、いったん曇って午後も雨。低気圧で具合悪し。起きてすぐ三十分ほど散歩したあとは、午後二時過ぎまで、休憩も取らずに没頭していた。

 遅い昼を食って『大菩薩峠』を進読。弁信が白骨温泉に着いた直後、お雪からの手紙を携えた久助も到着する。髙山の火事で困窮してることを知り、数人で救援に向かうことになった。

 弁信はそのまま白骨に残った、が、彼のもとに夜、また〈ピグミー〉が現れる。弁信と対話しながらピグミーは、「わっしの見るところでは、お雪ちゃんの妊娠は事実だと思うんですよ、あの子はまさに孕んでるんでさあね」と言い、彼女に妊娠させたのは竜之助だ、とほのめかす。しかしなぜ妊娠したのか「御当人がわからないって騒いでいる」らしい。私が読んできたかんじだとお雪は、妊娠した気がする、ということを、弁信への、けっきょく差し出されないままに火事で焼けた手紙に書いただけで、誰にも話さなかった、と思うのだが、どうなんだろう。

 二人の対話にはさらに、〈戸板へ畳を載せて、その上へ荒菰を敷いたばかりの釣台〉に全裸で横たわる死体(後家さん)まで参加する。裸になったのはお雪に着物を取られたからだ、と彼女は言う。ピグミーは、じゃあ自分が取り返して来てやろう、と姿を消した。

 今日のところを読み終わったころには、午前の反動なのか、頭の回りが鈍くなっていて、いまいち捗らず。集中しすぎるのも考えものだ。

 早めに退勤して、ナシゴレンをつくって『サ道2021』の最終話と、昨年末に放映されたというスペシャル版を観。スペシャル版はナカちゃんさんが山梨県・上野原市にセカンドハウスを借りてDIYでホームサウナをつくる話で、おれもこういうサウナつくりたい!となった、のだが、ちょっと調べてみると、ナカちゃんさんが買ったMOKIというメーカーのサウナストーブだけで二十五万円くらいする。サウナストーンや煙突や、サウナ小屋の建材も必要だし、と考えると、二、三百万円くらいだろうか。

 第二シーズンにカメオ出演してたマイケル富岡の自宅にもホームサウナがあって、三百万円かかった!と真偽不明の情報を見たこともある。かつての職場である村上春樹ライブラリーにはオーディオルームがあって、その機材が総額二百万円くらいだった(『SWITCH』二〇二一年十二月号の特集〈GOOD SOUND, GOOD LIFE〉のなかで紹介されてる機材は総額百五十数万円だけど、二百万というのはケーブル類やその敷設工事なんかもふくめた額だと思う)ことを思えば、余裕のある中年男性の趣味、の金銭的な規模感がわかるような。200/513


6月23日(金)曇。散歩に出ると、近所で故紙回収をしていた。段ボールと新聞紙ばっかだったのだが、そのなかに一束だけ、何冊かの妊娠・出産体験記といっしょに『無痛分娩のすすめ』と『アクティブバース・サイエンス:自然分娩のすすめ』が括られていて、この本をここに置いた人はどっちにしたんだろう、となる。

 今日もほどほどの捗りで、どうも停滞気味だけど、最近体調が落ちてるからだろう。そのあと、餅井アンナ『へんしん不要』を読。とにかく生きてるだけで精いっぱい、みたいなことを、とくに序盤は延々書き連ねているのだが、しかしバイトしたり新幹線で遠出したり友人と外食したりと、どうも、今の私に比べるとだいぶ元気そうだ。もちろんこういうのは比べるもんではなく、それぞれ別種のつらさがある、というだけのことではあるのだが、どうも羨ましくなってしまう。

 こういう“現場からの報告”式の本は、書き手の現状にどれだけ肩入れできるかが要諦なのだと思うが、自分はこんなに弱く、それでも頑張って生きている!という主旨の本を、元気そうで羨ましい、と読んだ私は、たぶん想定された読者ではない。

 自分では、一年くらい前の、布団で身体を丸めていてすら辛かったころよりだいぶ回復した、と思っているのだが、私から見れば元気な暮らしが〈どん底に落ちないくらいの低空飛行〉と形容されているのを見て、だいぶ浮上したと思っていた自分がまだ〈どん底〉にいるような気になってしまう。元気なときに読むべき本だったな。200/513


6月24日(土)午前は曇、午後は晴。遅くまで眠れず、寝起きが悪い。今日は引きこもる日。〈黒ねこサンゴロウ〉の四巻、竹下文子『黒い海賊船』を読む。一巻は人間の少年ケン、二巻はサンゴロウ、三巻はサンゴロウの親友である医者ナギヒコが語り手で、本巻は一章ごとにサンゴロウと見習い水夫イカマルの一人称を行き来しながら進んでいく。子供のころ読んだときはあまり意識してなかったけど、〈シャーロック・ホームズ〉とか〈夢水清志郎〉は基本的に語り手が一人に固定されてることを思えば、シリーズものでこうやって視点を変えていくのは面白い企みだ。

 サンゴロウとイカマルが三日月島に交易に行き、帰路で海賊船に襲われてなんとか逃げる、と、シンプルな筋で、そのぶん文章とか構成のことを考えながら読んだ。

 サンゴロウは、「イカマルをみていると、ときどき、だれかをおもいだすような気がするな。」と考える。サンゴロウはうみねこ島に来る前の記憶を失っていて、一巻で語られたケンとの冒険を憶えていない。しかし、二巻ではケンの父親が設計したホテル(一巻の舞台でもあった)を訪れ、三巻でも本巻でも、記憶の靄の向こうにうっすらと、読者にはそれがケンだとわかる少年の姿を見出す。考えてみれば、二巻には(ケンの親戚らしい)ミリという少女が出てくる。ミリは三巻にも、ナギヒコの電話の相手として、声だけだが登場する。そして四巻にいたって、とうとう人間は最後まで現れなかった。

 猫のサンゴロウが主人公のシリーズなのに一巻の語り手を人間の少年にしたのは、幼い子供が中心であろう読者がとっつきやすくするためだった、と思う。一巻の読者は、語り手でもあり、存在としても自分にいちばん近いケンに自分を投影して読み、カッコ良い猫のサンゴロウを好きになる。そうやってシリーズに没入していく。二巻から四巻にかけて、ちょっとずつ人間の存在が遠のいていったのも、じゅうぶんに計算されてのことなのだろう。

 そのあとカリタ・ハルユ『究極のサウナフルネス』を読む。題は〈サウナ〉と〈マインドフルネス〉を合わせた造語で、サウナに入って良い人生を送ろう、みたいな内容だった。

 そして夜、U-NEXTでフィンランド映画『サウナのあるところ』(ヨーナス・バリヘル、ミカ・ホタカイネン監督)を観。『サ道』を全シリーズ観る間、たびたび〈あなたへのおすすめ〉に出てきた作品。『サ道』みたいなおじさんたちのほっこりサウナエンジョイ映画かと思っていたのだが、ぜんぜんちがった。いろんなサウナを舞台に、そこに集うおじさんたちが、だいたいはヘヴィな身の上話を語りあう。幼少期に継父から暴力を受けたトラウマを語る男がおり、離婚して娘に会えない男がおり、アフガニスタンに派兵されて母の死に立ち会えなかった男がいた。人生はままならないことのほうが多いから、彼らの語りは一様に暗い。男たちが、それもおおむね見栄えの良くない男たちが声を震わせ、涙を流して洟を啜る。そしてサウナから出たら、汗といっしょにぜんぶ流して、それぞれの人生に戻っていく。

 日本のサウナは本場・フィンランドとはぜんぜん違う、ということは、『サ道』でも『サウナフルネス』でも語られていた。じっさい、『サウナのあるところ』に登場するサウナには、テレビも温度計も十二分計もない。アロマ水のロウリュもバイブラつきの水風呂もない。ただサウナのなかでのおしゃべりと涙があるばかりだ。そう考えると、「私はもしかしたら、サウナに泣きに来ているのかもしれない」と呟いていたツルピカさんは、『サ道』ではなくこの映画に出演するべきだったのかもしれない。200/513


6月25日(日)朝は曇、だんだん晴れて暑い日。昨夜も入眠に失敗して、六時ごろにようやく寝た。起きたのは九時過ぎ。朝の散歩をしてるうちに、パニックの予兆が高まってしんどくなる。帰宅して気持ちが楽になる薬を飲み、鬱々とする。

 アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』を起読、半分くらい読んだところで心身が回復してきた、ので、午前発作が起きそうになった場所まで再び行く、が、またしんどくなってしまった。体調が悪いんだから今日は無理しなければよかったな。とはいえ、予兆があっただけで実際にはつよい発作もなく、たぶん傍目から見れば平静だった、と思えば、それほど失敗でもないのかもしれない。帰宅してカヴァンを進読、してたら、床でうとうとしてしまい、ベッドに移動して三十分ほど寝。頭がちょっとはクリアになった、が、どうも今日はだめだ。200/513


6月26日(月)湿度の高い曇。昨日の心身の良くなさが続いている。米を炊いて散歩に出た、ら、今日も発作の予兆でつらくなる。吐き気に耐えながらちょっとずつ作業を進める。

 夜、巣鴨・ファイト餃子の冷凍餃子を茹でて食いながら『ブリティッシュ・ベイク・オフ』を観。第三シーズンの中盤にさしかかり、そろそろ推しのベイカーも決まって、たいへんに楽しい。観てたらケーキとかが食べたくなってきて、回復してきたことだろうか。200/513


6月27日(火)曇、日中短時間小雨。起きたときからしんどくて、朝食もほとんど喉を通らず。時間をかけてちょっとずつ詰め込む。そのあと散歩もせずに始業。原稿を進めていた、が、どうも頭が回らない。スマホを見るのがやっとで、しかしスマホを見ることくらいはできるのだから、去年のどん底よりはちょっとはマシだ。

 気を紛らわせたくて、返却と貸出のために図書館へ。webシステムでは予約した本が四冊届いている、となっていたが、行ってみるとカウンターにあるのは三冊で、もう一冊は届いたばかりで整理前の棚にあるそう。係員さんが、少々お待ちを、と探しはじめたのだが、その場に立ってることすらつらく、今日は三冊だけでいいです、と息も絶え絶え言う。たぶん切羽詰まってるのが伝わったのだろう、急ぐような手さばきで三冊の貸出処理をしてくれた。帰宅したあとは身体を縦にしてるのもつらく、夕方まで伏せっていた。

 暗くなったころ、すこし身体が楽になって起き上がる。通販で買った乾燥ヴィヒタが届いたので、熱い風呂と冷水のシャワーで温冷交代浴をしてみる。白樺の匂いが気持ち良い、し、ヴィヒタで身体を叩く(ウィスキング、というらしいのだが、どうもこの言葉を憶えられず、思い出そうとすると必ず、えっとあのリスキリングみたいな名前の……と総理大臣の顔が浮かんで、とても不快だ)のがよいマッサージになる。外気浴はしなかったが、風呂と冷水シャワー、バスタブの縁に腰かけて休憩、を三セット。あまりに気持ち良く、へんな声が出た。

 こないだ観た『サ道2021』の第二話のなかでこういうやりとりがあった。ナカちゃんさんの、「でもどうして、サウナに入ると雑念が消えるんですかねえ」という問いかけに、偶然さんが「それは……野性に戻れるからでしょ」と返す。それを受けて蒸し男くんがこう言う。「あくまでぼくの論ですが……、サウナに入ると雑念が消えるのは、思考から感覚の世界に切り替わるからだと思います。日々の雑務や、やるべきことの意思決定。さらには、ミスをおかしたり、嫌なことを言われたり。一日のほとんどは、頭んなかの思いや考え──つまり、思考の世界なんです。でもサウナに入ると──」とナカちゃんさんを指さし、ナカちゃんさんが答える。「あつい、つめたい、きもちいい、だけの、感覚の世界に切り替わる?」蒸し男くんは頷く。「そうです! 余計なことを考えることが消え、今この瞬間に気持ちがフォーカスするんです」ナカちゃんさんと偶然さんが、つらいことがあったとき、美味いものを食べたら気持ちが向上した、という話をして、蒸し男くんは言う。「食だけじゃなくて、いい景色を見たり、美しい音楽を聴いたり。あと、スポーツもいいでしょう。感覚の世界に浸ると、生のよろこびのようなものを思い出すんです」

 このやりとりを観たときは、なにを小難しいこと言ってんだい、と思ったのだが、温冷交代浴をしている三十分ほどの間、私はかんぜんにパニックのことを忘れていた。〈あつい、つめたい、きもちいい〉だけの感覚の世界。自宅の風呂でこれなのだから、ほんとうにサウナに行けば、もうパニック障碍なんて治っちまうんじゃないかな!などと思った。まずは銭湯に行けるくらいまで回復しなければ。なんせ自宅なので、身体を拭いてパンツを履いただけでベッドに飛びこむ。気持ち良さのあまりスマホを見る気にもなれず、そのまま寝ていた。200/513


6月28日(水)曇。夜発作。200/513


6月29日(木)晴、夜は雨。午後カウンセリング。さっそく(というのもへんだが)昨夜の発作の話をした。よく乗り越えましたね、と言ってくれる。パニック障碍が良くなっていくとき、どうしてもバランスが崩れて、具合が悪くなることもあるそう。身体でいうと好転反応みたいなもので、だから昨夜のも、良くなっていくために必要なことだった、きっと上手く着地できますよ、と言われ、涙ぐんでしまった。

 そのあとも横になって読書。今日は作業をほとんどできなかった、が、それも回復のために必要な一日だったと思おう。

 夜、マクドナルドのテイクアウトで期間限定のご当地バーガーというのを食う。じゃがバターてりやきと、お好み焼き風てりやき。美味かった、が、これならじゃがバターとお好み焼きを食えばええ、となった。

 食いながら、昨日発作で中断した『ブリティッシュ・ベイク・オフ』のつづきを観。途中かなり息苦しい時間もあった、が、なんとか最後まで観られた。

 そのあと風呂に入り、タナカカツキ『サ道』(という題の作品をタナカは複数出してるが、今日は二〇一六年に講談社+α文庫から出たやつ)を読。

 そういえば荒川良々が〈ツルピカさん〉というあだ名をつけられたとき、彼は最初、「いえ、いいです」と言ったあと、ナカちゃんさんに「いいんですか?」と確認されて、「はい。それがいいです!」と答えた。「いえ、いいです」と「それがいいです」の間には大きな段差がある。消極的な追認ではなく、前のめりの受容。そういえばととのう寸前に彼は、「そうだ、今の私のまま、ゆっっくりと生きていけばいい。今の私のまま。今はこれでいい。これで、いい──」と述懐していた。〈今の私のまま〉に生きよう、というこの悟りが、主人公たちの輪に入る意思を表明する「それがいいです!」という台詞を引き出している。だから彼はほんとうは、〈サウナに泣きに来ている〉のではなく、しんどいばかりの人生を過ごす自分のなかから、それでも光を見つけるためにサウナに来ているのだ。200/513


6月30日(金)雨のち曇、一時晴。まだ腹具合は悪く、息苦しさもあるが、それでもちょっとずつ日常生活に復帰できた感じ。帰宅して軽めの作業。

 ここ数日緑色の便が出続けている。理由はよくわからないが、緑色の便が出るときは腹具合が悪く、それがパニックに繋がっている気がする。鬱々としながら、それでもちょっとずつ。『へんしん不要』のなかに、とにかく一日二時間だけ仕事をしている、というようなことが書いてあって、私も、ちょっとでも毎日やり続けることが大事、と自分に言い聞かせている。そういえば同書のなかには「この一晩をやり過ごせるだけの「大丈夫」でいい。」というフレーズもあって、ここ数日のしんどさのなかで、ときどき思い出していた。この一晩をなんとか終わらせれば明日になる、それを繰り返せば何はともあれ日々は続いていく。全体としては健康な人の不健康自慢に見えてしまった、読むタイミングが適切じゃなかった本だった、が、こうして、自分がしんどいときに手に取る言葉を得られたのだから、よい読書だったのかもしれない。

 身体を丸めて耐えるのと無理矢理散歩に出るのと本を読むのと作業をちょっと進めるのを何セットか繰り返して、るうちに夜。まだ料理をする元気はなく、夜はコンビニの弁当を詰め込んだ。200/513


7月1日(土)雨のち曇。朝、小雨のなか最寄りのスーパーまで行き、ヤクルトY1000を買う(入荷が安定してからあまり日記には書かなくなったが、ブームのころから毎日飲みつづけているのだ)。

 竹下文子の〈黒ねこサンゴロウ〉五巻、『霧の灯台』を読む。素晴らしかった。こういうのを書きたくておれは小説を書きはじめたのだ。

 そのあとスザンヌ・オサリバン『眠りつづける少女たち』を起読。しかしちょっと、心因性の疾患についての本で、私のパニックと通ずるところも多々あり、読んでるとしんどくなってくる。三分の一ほどで中断して神戸対札幌を観。イニエスタの日本ラストマッチ。さすがに感無量になる、が、そもそも今シーズンあまり試合に出られてなかったし、札幌の対策も効いていて、あまり決定的な仕事はできず。それでもさすがに、退団セレモニーはジンときてしまった。200/513


7月2日(日)晴。不調。とはいえ最近伏せってばかりで捗ってない、ので、腰を据えて作業はできないながら、ちょっとずつでも進めていく。

 夜、『眠りつづける少女たち』も読了。診断名を与えられたことで、その診断名に沿った症状を発症してしまう、その繰り返しで症状が強化されていく、という指摘は、メンタルクリニックでパニック障碍と診断されたとき、こんなときやこんな場所でも発作が起きるでしょう、と言われ、のちにその言葉どおりのシチュエーションで発作を起こした私にも当てはまる。やっぱりしんどくなった、が、私の症状の改善につながりそうな記述もちょっとあった。

 読了するころには眠くなっていた、のに、布団に入ると目が冴えてしまい、入眠失敗。四時ごろまで起きていた。200/513


7月3日(月)晴。今日も不調で、散歩は短距離。今日しめきりの地元紙のコラムを、思いのほかよいペースで書く。とにかく一個ずつ仕事をこなしていこう。

 書き上げて、遅めの昼休みに『大菩薩峠』。一週間ほど具合が悪くて、ぜんぜん読めていなかった。お銀はふと、弁信のことを考える。「今日まで自分の眼に触れ、耳に聞いているところの人間という人間は、二つの種類しかなかったのです。それは、愛する者と、憎む者の二つしか、お銀様は人間を見ることができませんでした。愛せんとして愛し得ざること故に、すべての人間がみんな憎しみに変ってしまったようなものでありました。」しかし弁信だけはその二分法から外れたところにいる。お銀は弁信のことを、愛しもしないし憎みもしない。

 しかしけっきょく今の段階では、竜之助への執着を捨てられずにいる。「あの人の身は冷たいけれども、骨は赤い焼け爛れた鉄のようです。あの熱鉄が、ひたひたとこの肌に触れ、この身肉がその時に焼かれる、あの濫悩この黒髪がどろどろの湯になって溶ける悩楽を知るまい。」

 江戸の神尾主膳は屋敷を地域の子供らの遊び場として開放していたのだが、そのうちの一人、発育のよい、軽度の知的障碍があるらしい娘を手籠めにした、と思ったら、その娘が吉原に売られたと知っておセンチになったりしている。

 その屋敷に暮らすお絹のもとを、かつて甲府で砂金を取っていたのを江戸に連れてきた、いっしょに金貸しをやってもいた忠作少年が訪れる。今は武器商人をしている忠作は、生糸や絹の輸出業に手を広げようとしていて、お絹が出入りしてる異人館に紹介してほしいらしい。洋行に邁進する甚三郎といい、新たな時代の胎動みたいなものを感じる。

 しかし誰もが新時代に備えられるわけもなく、甚三郎たちは、近所の住民たちの襲撃に遭う。「魔物」「天誅!」「切支丹バテレン!」「国賊、毛唐、マドロス、ウスノロ!」と口汚く罵られながら、這々の体で船を出し、もともと次の拠点にするつもりだった石巻に向かった。

 一方、流しの仏師として諸国を回ろうと旅に出た与八は、恵林寺の慢心和尚の紹介でお銀の生家に向かった。体格も人柄も良い与八は、火事からの再建のために重宝される。しかし当初は地の文で〈馬鹿の与八〉なんて言われてたのに、その設定は忘れられて、今の与八には思慮深さを感じる。そして工事人夫たちと形の良い石を探してるうちに、お銀の出立以降は忘れ去られていた悪女塚を破壊してしまった。今はこの小説、お銀を中心に回ってるような気がする、が、それは私がお君亡きあとの主人公としてお銀に注目してるだけだろうか。

 五十ページほど読んで、暑いなかを散歩。そのあと夕方まで作業。本調子じゃないので無理せず、ちょっとずつ。夜は風呂に熱い湯を溜めて、冷水のシャワーと温冷交代浴。コンビニの弁当を食って寝た。253/513


7月4日(火)曇。昨夜はヤクルトY1000ではなくアリナミンナイトリカバーというのを飲んだ。それが効いたのか、ぐっすり眠れて八時ごろ起床。

 ぜんぜん食欲はなかったが、昼食の支度。長谷川あかりレシピでオクラと鶏ひき肉の柚子胡椒クリームパスタ。私がどれだけしんどくても、湯のなかに乾麺を突っこめば十分くらいで茹であがる。料理をするときは料理のことしか考えない。蒸し男くんの言う「思考から感覚の世界へ」というのと似ている。ちょっと作りすぎて、時間をかけて食べきった。

 午後は少し楽になってきて、夕方まで作業。散歩に出ようかと思ったがどうにも億劫で、出なければ洗濯ものも増えない!と理由をつけて引きこもる。家にある食材をモソモソ食い、風呂に入って寝。253/513


7月5日(水)曇。どうにも寝苦しく、また遅くまで起きていた。

 昼休み、大量の野菜を炒めて『大菩薩峠』。屋形船に一時避難していたお雪と竜之助は、焼け出された人たちに開放されている寺に移った。

 お雪は、貸本屋の写本の制作の仕事を引き受ける。生まれてはじめて自分で金を稼いで、ウキウキしながら買いものに行った、が、そこで新任のお代官に見初められ、夜、竜之助が辻斬りで不在の間に誘拐されてしまった。

 翌朝、お雪を訪ねてきた貸本屋に、竜之助がとつぜん襲いかかり、首を絞めて気絶させた。目覚めた貸本屋を脅迫して、お代官の屋敷まで案内させる。

 その屋敷では、代官の妾のお蘭が兵馬に夜這いをしかけている。女で人生狂わされがちな兵馬だが、あんまり向こうから迫ってくる女は好みではないのか、お蘭が年上だからか、すげなく拒否して追い返す。酔ったお代官はお雪を手籠めにしようとする、が逃げられて、追いかけ回しているうちに、忍び込んできた竜之助にバッサリと首を斬られてしまった。

 そして翌朝、代官の生首が路上に捨てられてるし、屋敷の前では廃人のようになった貸本屋が縛られてるしで、街は騒然とする。お雪の手紙に応じてやって来た白骨からの救援が到着したころには、よそ者は全員ふん縛る、みたいな雰囲気になっていて、久助たちは怖れをなして引き返してしまった。

 午後、だんだん気圧が下がって、具合が悪くなる。薬を飲んでしばらく休み、ちょっと散歩をして十八時まで作業。

 終業後は日付が変わるまで読書。こいつとは恋仲にならないと思ってた異性の飲み友達からとつぜん結婚報告をされて動揺を隠しながら祝福してこっそり目元を拭う話、世の中になんでこんなにたくさんあるのか。304/513


7月6日(木)朝は曇、だんだん晴れて午後は快晴。起きてすぐ始業。作業に没頭してる間は不調を忘れられる。

 一時間強集中して、散歩に出。途中、交通事故を見る。青信号を渡っていたベビーカーに、交差点を曲がってきた、訪問介護らしい会社名の入った車がぶつかった。倒れたり血が出たりしたわけではなく、その車が数分後に別の場所を走ってるのも見たから、警察や救急を呼ぶような大きな怪我はなかったのだろう。少し心がざわつく。

 昼休みに『大菩薩峠』。髙山のキナ臭さが頂点に達したころ、すぐ近くの火山が鳴動をはじめる。地鳴りと地震。噴火の予兆だ。しかし、白骨温泉ちかくの神主によると、これは「山ヌケといって、こうして山が時々息を抜くのですなあ、(…)たいした事はありません」とのこと。実際、今日読んだ五十ページほどの間では死者が出るほどの噴火はしなかった。

 髙山では、お代官の屋敷に忍び込んだ竜之助は、けっきょくお雪を奪還することはできなかった、が、かわりとばかりに代官の愛妾のお蘭を拐かした。駕籠を走らせ、飛騨と美濃の国境である金山にたどり着く。そのころには、髙山では、仏頂寺と丸山の二人が、代官殺しの下手人として捕らえられていた。じっさいに代官を殺したのは竜之助なのだが、いったい何があったのかしらん。そんなことも知らず、協力して逃げてきて気を許したのか、そもそもそういう人なのか、お蘭は竜之助を「ねえ、あなた」と誘惑しはじめる。竜之助もこれには参ってしまう、のはわかるのだが、「なんにしても、この女も、今晩のうちに殺してしまわねばならぬ女だ。」とどうにも思考が殺伐としている。

 午後、炎天下を散歩。快晴で、外に出てすぐ汗が流れ出す。二十分ほど歩いて、耐えきれずにスイカバーを買って帰った。ひとしきり涼んでからまた作業。捗らなくてもつづけていれば原稿は流れていくのだ。356/513


7月7日(金)晴。ここ数日ほんとに暑い、し、体調が悪い。起きたときから心臓のあたりが痛かった。ちょっと怖い。朝の散歩は短距離にして、今日はもう諦めて全休日。午後十五分ほど散歩した以外は引きこもってずっと読書。

 夕方から暗くなるまで、ベランダに新聞紙と座布団を出して、外気浴をしていた。そのあと部屋に入って、明かりはつけずに蝋燭の光で本を読もうとした、が、さすがに暗くて読めず。せっかく点したんだし、と、火が消えるまでそのままボーッとしてたら、なんかリラックスできた。

 夕食にスーパーの弁当を詰め込んでザッとシャワーを浴び、日付が変わる前にベッドに入った。356/513


7月8日(土)曇。ぐっすり寝ていた。遅めの朝食に八角炒飯をつくる。しかしどうも、四、五口食ったあたりで気持ち悪くなる。録画してた『となりのスゴイ家』の逗子回を観ながら、昼過ぎまでかけてゆっくり完食。

 午後、バスケットLIVEで男子の日本対チャイニーズタイペイ。二時間ほど。観ながらネイルも塗った。五月末くらいからネイルを塗っている。甘皮をグイグイしたり爪のかたちを整えるほどではなく(私はだいたい週に二度、深爪して痛くなるくらい爪を切る)、ただベタッと塗ってるだけではあるのだが、自分の爪がきれいな色をしているのがふとした瞬間に見えると、それだけでなんだかうれしくなる。PCに向かってキーボードを叩くのが中心の仕事なので、そういう瞬間は頻繁にある。それで、はじめて塗ってからそろそろひと月半くらい、四、五日おきに除光液で落としては、ちがう色で塗り直している。今回はちょっとバタバタしてて、二日くらい前にオフして以来。深い緑のネイルにした。

 夕方、レイモン・ラディゲ『肉体の悪魔』を起読。ベランダで読んでたらぽつぽつ雨が降り出して退散。けっきょくすぐに止んだらしい。356/513


7月9日(日)晴、夕方ごろすこし雨。今日も不調、今日もゆっくりすることにして読書。午後、日本対チャイニーズタイペイの二試合目。二日続けて観てようやく、それぞれの選手を憶えてきた。試合が終わり、インタビューを観てるうちにウトウトして十五分ほど寝。起きたら目が冴えて、『統合失調症の一族』を寝るまで。

 一時間に一回くらい、爪を見てニコニコしている。爪に何も塗っていないのを見て、裸だ!と感じたのは、たしか塗りはじめてから十日くらい経って、二度目にネイルをオフしたときのことだった(ネイルをオフ、というのが表現として正しいのかは知らない)。除光液で塗料を落として、なんか爪の肌が荒れてる気がして一日くらい自爪のまま放置してたとき。しかし裸というなら、これまで三十三年あまり、もしかしたら高校とか大学のころに仲間内のノリで化粧をしたこともあったかもしれないが、基本的にはずっと裸だった、のに、たった十日で、そこがあらわになっていることに落ち着かない気持ちを抱くようになった。そのことにちょっと戸惑って、すぐに塗りなおしたのだった。

 そういえば、もともと極力マスクはしない派だったのが、新型コロナがはじまって以降、外でマスクをしてないと落ち着かなくなった、のも、それに近い変化だろうか。いまではマスクはなんか揶揄の対象みたいになってるらしい(〈顔パンツ〉というのはすごい言葉で、健康に気を遣ってる人への悪意を隠さない表現がここまで流布するというのは尋常なことではない)、が、とりわけ第九波がはじまってる現在、マスクをするかどうかは健康に、ひいては生命にかかわることだから、外してると落ち着かない、のは当然と思えるのだが、爪の色は生命には関係ない。爪がきれいなことよりも、自分のその変化のほうが面白くて、爪を塗っている。

 しかしこうやってキーボードを打ちながら爪を見ていると、やっぱり甘皮グイグイしたほうがきれいになるな、とか、たしかにこの爪に推しキャラがいたらうれしいだろうな、とか考えてしまい、沼にちょっとずつ引き寄せられているのを感じる……。356/513


7月10日(月)快晴、ひどく暑い日。ここ半月来の不調に加えて、じんわり頭痛もする。起きて薬を飲んで読書。昼ごろすこし散歩。また歩ける距離が縮まってきたので、少しずつ引き延ばしていきたい。ベランダに出て読書をはじめた、が、あまりに暑く、二十分ほどで室内に逃げこむ。

 しかしそのあと、再びベランダに出て『大菩薩峠』を進読。大菩薩峠文章は毎月十日に公開の予定、だけど、六月後半から先週くらいまでずっと伏せってたので、まあしょうがない。できることをひとつずつやっていきましょう。

 甚三郎は、無名丸(というのが彼の船の名前で、ほんとうは田山白雲に名前をつけてもらうつもりだったのが、トラブルで急遽出航することになり、やむなく仮の名をつけた)で石巻を目指す。船のなかでは、マドロス氏がみんなに英語を教えたり、茂太郎が歌ったり、お松が甚三郎の〈最もよき秘書を兼ねての助手〉になったり、もゆるとマドロスがいい感じになったりしている。日常だ。

 甚三郎はお松に世界地図を見せながら講釈する。「これが北亜米利加と、南亜米利加とです。今、日本人がメリケンといって怖れている国。(…)日本よりずっと国は新しいくせに、ずんずん開けています。それに引き替えて、この南亜米利加の方は存外開けていないのです。南亜米利加も土地は肥え、気候もいいのだが、北アメリカがずんずん開けるのに、南がそのわりでないのは、一方は剣や大砲でおどかしたおかげであり、一方は鋤と鍬を持って行って開いたからです。つまり今日のメリケンすなわち北アメリカという国を開いたのは、剣と鉄砲の力ではなく、鋤と鍬との力なのです。剣をもって開いた土地は剣で亡びると言います、それに反して、鋤と鍬で開いた土地は、永久の宝を開くわけですからね。私たちは国を開くのに、なるべく剣と鉄砲とを避けなければならないと思います」これはそんな〈北亜米利加〉からやってきたペリーが〈夥しい軍艦と兵隊〉に恃んで幕府に開国を迫ったことが念頭にあるのだろうが、ちょっと著者の思想が反映されてるような気もする。侵略ではなく開拓を。

 いっぽうもゆるは、そうやってお松が甚三郎に目をかけられてることに、どうも嫉妬しているらしい。もはや当初の狂女設定は忘れられてるような、と思ったが、地の文によると、彼女がかつて自分を暴行しようとしたマドロス氏と仲良くできるのは、〈病気のせいか、境遇のためか知らないが〉といいつつ、〈どこか厳粛なる貞操観念──とでもいったようなもの〉をもたないから、だそう。そういうもんかね。

 いっぽう、けっきょく船に乗れなかった七兵衛は陸路で、白雲を探しながら北上している。どうも足取りをつかみかね、ひとまず白雲の目的地らしい松島を目指すことにした。

 途中で冷房の効いた部屋に入り、身体が冷えたところで散歩に出、汗まみれになって帰って冷房で身体を冷やし、ベランダで漫画を一冊読んでから、冷水のシャワーを浴び、温水に切り替えて身体を洗い、最後にまた冷水で身体を冷やす。あつい、つめたい、きもちいい。最後は身体を拭いて、下着だけ身につけて床に寝。ととのった。パニックがひどくてサウナには行けない、代わりに、こうやって室内で身体をいたわるのだ。

 そのあとまた『大菩薩峠』を進読。甲州有野村の藤原家の普請を手伝っていた与八は、当主の伊太夫に気に入られて、奉公人として腰を据えて働くことになった。と、読んでたら、与八が悪女塚を破壊したとき、いっしょにいた人夫たちは、この悪女塚を作らせた〈暴女王の後日の怒りのほどを〉恐れて、彼の怪力について誰にも言わなかった、というところに傍線が引いてあり、〈?〉と書き込みがしてあって、さらに〈p.253〉と添えられていた。区立図書館で借りた本巻、ここまで、ところどころ傍線があったり、人物名が丸で囲われてその初出のページが書き添えられたりしていたのだ。二百五十三ページを見てみると、〈この人の築いた悪女塚をひっくり返しておいて、まあよかったとホザく百姓ばらを、それで許して置く人であるか、ないか──そのことを知り、その場合を想像した者が、このなかに一人もいなかったことが、幸か不幸かそれは分からないが、知っている者が一人でもいたならば、〉という記述があり、そのちょっと前にも、「ここに来合わせた者が、悪女塚の悪女塚たる由縁を全く知らない者ばかりでした。」とある。要するに、参照先の二百五十三ページの時点では、同行の人夫は誰も悪女塚を築かせたのがお銀だということを知らなかった、のに、今(三百八十九ページ)は、自分たちが壊したのだとお銀に知られるのを恐れて口を噤んでいた、ということになっていて、矛盾しているではないか、という書き込みだ。

 私は買った本や教科書、ワークブックにすら書き込みしない派だし、図書館の本に書きこむ人間は出禁にするべき、くらいに思っているのだが、こういう有用な書き込みは、図書館で働いてたころなら消さずに棚に戻しちゃったかもしれない。

 伊太夫はさらに、与八と郁太郎を養子にしたい、とも言っている。後妻とその息子を喪って寂しくなったらしい。いっぽう、名古屋を出立した道庵は、とつぜん雲助どもに攫われる。どうもこれは〈ぶったくり〉といって、人を送っていった帰路で駕籠が軽すぎると運びづらいから、重りとしてそのへんにいる人を攫うものらしい。すげえ迷惑だ。

 夕方、『ブリティッシュ・ベイク・オフ』を観ながら台湾のサンドイッチ屋の美味いのを食って早めの夕食とした、つもりだったのだが、夜中に空腹になり、ウーバーイーツでケンタッキー。満腹になって打ち上がり、日付が変わるころ寝。413/513


7月11日(火)快晴。今日も暑い。起きたときからタフな頭痛で、すぐにロキソニンを飲む。朝も昼も昨日の残りを食って、一日作業の日。

 昼休みに『大菩薩峠』。お角のお気に入りこと岡崎藩の美少年・梶川といっしょに、米友は連れ去られた道庵を追う。〈木曽路の脱線から、怠りがちであった里程表を、この辺から、名古屋を起点にはじめてみますと、〉と前置いて、久しぶりに〈名古屋より清洲へ一里半〉と旅程を書きはじめる。これはもしかして、旅程が書いてないぞ!と読者から指摘されたのかしらん。

 米友は途中、お角に頼まれて、関ヶ原に泊まるといって先行したお銀の元へ一人で向かった、ら、その関ヶ原の蕎麦屋の前で、雲助たちに蕎麦を配ってる道庵に出くわした。どうも道庵、ぶったくりに遭って、〈一言の挨拶もなく、いきなりふんづかまえて、手前物の駕籠の中へ押込み、約十里というがもの宙を飛んで、ところも嬉しい関ヶ原の野上へ持って来て、さあ、どうでもなりゃあがれとおっぽり出した度胸なんぞは、まことに及び易からざるものじゃないか〉と、彼らを気に入ってしまったらしい。で、たまたまこの関ヶ原で雲助どもの大集会がある、と知って、〈雲助の大将〉の座におさまって、関ヶ原の合戦の再現をやってみせよう、と目論んでるらしい。ヘンな人だ。

 いっぽう髙山では、竜之助がお代官の妾お蘭を連れて逃げたと知ったお雪は、兵馬と行動をともにすることにした。姉を喪って故郷を出て以来、いろんなことがありすぎて、どうも厭世的になっている。訪ねてきた弁信にも、「人という人が、恩を忘れ、慾のために人を売るようになってしまっては、全く神様や仏様が、人間に水だのお米だのを与えて、生かして置くことがおいやになるのも無理はありませんね」などと言う。

 変わってしまったお雪は、弁信に普段のように接することができない。弁信は、今ここにいるお雪ちゃんは〈本当のお雪ちゃん〉ではないと思われてならない、と言う。そして〈本当のお雪ちゃん〉を探して関ヶ原へ行く、という弁信に、お雪は衝動的に、荷物も持たず、着の身着のままで同行することにした。「弁信さん、わたしが死ぬ時は、あなたも一緒に死んで下さいますか」「死にますとも」と約束しあう二人。しかしこれは、愛というよりも、なにか投げやりになってるかんじがするな。

 いっぽう江戸の忠作は、お絹の世話で異人館の住み込みのボーイになった。異人館の支配人ホースブルとの会話。


「これから蒸気車の試験ある、あなた手伝うヨロシイ」

「承知いたしました」

「ソレから、マダム・シルクここへ来る、早く庭へ通すヨロシイ」

「はい」


 ここの表現は面白いですね。忠作は〈目から鼻へ抜けるように、イエス、イエスで片附けてしまいました〉とあるから、ここでの会話は英語だったのだろうが、テキストの上ではホースブルが片言で喋ったように書かれている。私ならこういうときは、どの言語で話したか、を示してから、会話文自体は訛りのない日本語で書く。まだ英語の拙い忠作のためにホースブルがわざと平易な言葉をつかった、のだとしても、そのことを明示したうえで、「今から、試験、蒸気車の。あなた、手伝う。オーケイ?」「はい」「そして、マダム・シルク、来る。あなた、庭、連れていく、すぐに。オーケイ?」「はい」と書く、と思う。中里はたぶん、会話の相手が〈異人〉であることを強調するためにこういう喋りかたをさせたのだろう。

 マダム・シルクといえば、プッチーニの『蝶々夫人』の原題はMadame Butterflyだ、と思ってWikipediaを見てみると、すくなくとも一九一四年には日本で上演されていた、から、一九三二年にこの記述をふくむ〈不破関の巻〉を発表した中里が『蝶々夫人』を観てた可能性はある(ちゃんと調べればわかるかもしれない)。

 忠作は、このマダム・シルクがお絹さんだ、と気づいて、〈そうだ、この絹だ、この絹をまとめて、外国へ売ってやることはできないか〉と気づいた、のだが、そもそも本巻の前半では、「日本中の絹と生糸を買い占めて、異人に売り込んだら、ずいぶん大仕事ができると見込みましたよ」と思いつき、お絹が異人館に出入りしていることを知って仲介を頼んだ、という順序だったはずだ。ここも昨日の〈p.253〉と同じで、矛盾らしいところ。しかしまあ、プルースト日記のなかでも書いたことだけど、「そりゃあこんな長いの書いてたら(完成前に亡くなったとはいえ)統一を欠くとこもあるよ」。

 甚三郎たちより早く石巻に着いた七兵衛は、仙台へ観光に行く。そこで仙台城を見てるうち、盗っ人の血がムラムラしはじめた。いっぽう、無名丸のなかではちょっと人間関係がギスギスしはじめる。茂太郎が甚三郎に、もゆるは「働かないで、遊んで食べています」とか、彼女を甘やかす「マドロス君もよくないと思います」、せっかく作ったものを浪費される金椎が「かわいそう」だ、と陰口を言う。そんなキャラじゃなかったはずの茂太郎がこんなことを言うくらい、船という密閉空間での長旅は、彼らにとって大きなストレスなのだろう。

 ようやく本文を読了して、炎天下を三十分弱散歩、汗まみれになって帰り、冷水シャワーを浴び。気分をリセットして、午後の作業(といってもその時点で四時過ぎてたけど)に取りかかる。退勤後に『大菩薩峠』の七巻を最後まで。

 そのあと熱い湯をためて温冷交代浴。今日はヴィヒタもつかった。三セットやって床に寝ていた、ら、もう一年以上毎日しんどくて良いことがない、今後もどうやら順風満帆な人生ではなさそう、だが、とにかくやりたい仕事をやれているのだし、私は私の生きられるようにしか生きられない、だから無理をすることはない、このままでいいんだ、今の私は、これで、いい──、と最後はツルピカさんみたいになってととのった。

 といいつつ、つらいものはつらく、遅めの夕食の途中でとつぜん吐き気がひどくなり、それにともなってパニックの発作にちかい状態になり、慌ててウットを飲んだ。523/523


7月12日(水)晴、しだいに曇って夜すこし雨。今日も不調だった、が、作業に没頭してたら楽になってきた。本来なら一昨日公開する予定だった、『大菩薩峠』七巻についての文章。本巻全部を復読する時間はなかった、が、今回は読んでるうちに何を書くか決まったこともあり、わりとテンポよく進む。日がかげりだす前にひとまず完成。

 そのあとは小説を進め、退勤後に散歩。近所の大きな交差点まで行って、まいばすけっとで夕飯のカレーを買って帰る。十五分程度だった、が、発作の予兆はまったくなく、ホッとした。村松美賀子・伊藤存『標本の本 京都大学総合博物館の収蔵室から』を読。小説の種になりそう、と思ったが、収蔵室のなかにひっそりと息づく標本なんて、もはや小説の種として手垢がついてるかしら。


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