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糸魚川の北海道弁

 糸魚川市というのが新潟県のどのへんにあるのか私はよく知らない。高校の地理の授業で習った、フォッサマグナの境界である糸魚川─静岡構造線というののことは今も憶えているし、受験のために必死で頭に叩きこんだから今後もしばらくは忘れないだろうが、それだけだ。

 その土地で生まれ育った彼の名も忘れた。彼を〈フォッサ〉というあだ名で呼んでいたことは憶えている。札幌の大学に入った直後、なんとなく目が合った同士でつるんでるけどほんとうにこいつらと友人になるのかどうか確信が持てなかったころのことだ。まだ互いの呼び名が安定せず(ほとんどの人にとって生まれてはじめて見る鳥取出身者だった私は〈鳥取〉と呼ばれていた)、糸魚川出身だという彼の自己紹介を聞いて、誰かが「フォッサマグナじゃん!」と言い、それがあだ名になった。本人はせめてちょっと響きがカッコ良い〈マグナ〉と呼ばれたがっていたが、そんな希望はもちろん無視された。けっきょく春の連休より前に、こいつらじゃないな、と皆それぞれに理解して、フォッサとも、キャンパスですれ違えば、おう、と声は出さずに口を動かすだけの仲になった。

 そのフォッサと再会したのは二度目の大学四年生をやっているときだった。同期の友人のほとんどが卒業していった春、学生食堂でピリカラーメン(というピリ辛のラーメンを毎日食べていた)を啜っていると、鳥取の、と声がかかった。フォッサじゃん、と返すと彼は、久しぶりにそう呼ばれた、と笑った。

 我々は互いが食事を終えるまで話した。還暦に赤ん坊の服を着るのは干支が一回りして生まれたときに戻るからだが、私たちもほんらいなら四年で卒業する大学で五年目になり、入学した当時の気持ちになっていた。彼も留年したのだという。交際相手が一学年下だったから、これでちょうど同期だ、と冗談めかして笑った。フォッサの恋人は札幌の隣にある実家から大学に通っていて、最近では週に三日は彼のマンションに泊まっている。卒業したら結婚するんだろうし、だから就職は同じ街、たぶん札幌なんだろうな、おれの地元じゃ就職先なんて役所とかしかないから。いいねえ、と私は言った。鳥取はどうなの、と水を向けられて私は、おれんとこも似たようなもんだよ、と答えたが、今にして思えば彼は、鳥取市の就職事情ではなくて、私の恋愛について聞こうとしていたのだろうか。

 別れ際フォッサは、久しぶりに話せて嬉しかった、と大人みたいなことを言って、したっけね、と手を振った。おう、と私も振り返して、それから今日まで一度も会っていない。

 したっけ、というのは北海道弁で、「じゃあ」とか「それでは」くらいの意味だ。フォッサはたぶん、恋人から週に三度投げられるその言葉を耳にするうちに、自分でも口にするようになったのだろう。彼にとって「したっけ」は、方言ではなく、愛しい人の口癖のようなものだった。自分が北海道弁で喋ったことに、気づいてもいないようだった。


 中里介山は明治十八年、現在の東京都羽村市に生まれた。横須賀に住んでいた幼少期の二年間を除いて、没するまでずっと都内で暮らしている。彼の交友関係は知らないが、その生い立ちを見る限り、自分自身は多摩弁や東京方言の話者だったはずだ。

 いっぽう、彼の代表作である『大菩薩峠』は、北は青森、南は大阪までの広範囲を舞台とする。それぞれの土地に独特の訛りがあるはずだが、たとえば伊勢の出身であるお君や米友、八戸生まれの柳田平治の喋る言葉に郷里の訛りは見られない。主要登場人物で強い訛りがあるのはオランダ人水夫のマドロスが喋る日本語くらいのものだ。

 それに対して、彼らが訪れる土地の人々の訛りは強調するように描かれる。筑摩書房愛蔵版九巻のなかで、北上川の渡し場で舟を待つ田山白雲は、土地の荒くれ者が男を囲んで罵倒するのを耳にする。


「あぎゃん、こぎゃん、てんこちない、たんぼらめ!」

「渡し場には渡し場の掟ちうもんがあるのを知らねますか?」

「そぎゃん川破りをお達し申せば、お関所破りと同罪ぎゃん!」

「棹を出し申すまで待たれん間じゃござんめえ、とっべつもない!」

「けそけそしてござらあ。いってえ、こんたあ、どこからござって、どっちゃ行く!」

「わや、わや、わや」


 北上の出身者であればこの文字列を見ただけで、彼らがどんなふうにこれらの台詞を口にしたのか、そのイントネーションや、文字にはあらわれない微妙な音まで聞こえるのだろう。私にはわからない。〈てんこちない〉や〈たんぼらめ〉は、ばかやろう、くらいの意味なんだろう、と思うし、〈とっべつもない〉は〈とんでもない〉かな、とも思う、が、もしかしたら的外れなことを書いているかもしれない。

 でも、それは中里も同じだったはずだ。生涯のほとんどの時間を都内で暮らした彼にとって北上の訛りは、フォッサにとっての北海道弁がそうだったように親しい存在だったとしても、自分自身のものではなかった。そして彼は本作において、訛っているのが自然な登場人物にも、おおむね共通語に近い言葉を喋らせる方針を採っている。それでも彼はこうやって、数行にわたって北上の言葉を書き込んだ。あるいは、エキゾチックな雰囲気を強めるために、誇張しているかもしれない。

 私もよく、小説に鳥取の訛りを書き込む。私は中里とは異なり、鳥取弁ネイティブでない人には意味の取りづらい書きかたはしない方針だ。たとえば中里が鳥取出身の登場人物の罵倒を書くなら「こん、だらずう!」みたいになるところを、私なら、実際には鳥取弁ではない「このばかもんが!」とするか、「この馬鹿者が!」と書いて〈だらず〉とルビを振るだろう。

 東京から離れた土地の人と話すとときどき、訛りが強くて意味が取れずに戸惑うことがある。私が中里の文章を読んで感じたのはそれだ。正確な意味はよくわからないが、とにかく口々に罵倒しているのはわかる。いっぽうで、〈馬鹿者〉にルビを振る書きかたであれば、意味を理解できない読者は少ないだろう。戸惑うことなく先に進めるし、それが方言であることは十分にわかる。どちらが良い、ということではなく、スタイルの違いだ。どれだけ現実に沿った描写をするか。

 私が小説に描く鳥取は、架空の登場人物が生活して、実際には起きなかった出来事が起きる場所だ。そこで話される言葉が実際の鳥取弁と同じものである必要はない。小説化された言葉。「息もできない」という小説のなかで、流しの坑夫に、あちこちの訛りがチャンポンになった言葉を喋らせたのはそういう意図があった。言語という主題は、私が今後も根生いの地を小説に書くかぎり、ずっと考え続けることなのだろう。


 本巻のなかにはもう一つ、故郷、ということについての場面があった。加賀を目指す兵馬と福松の二人は、その途上で谷底の村落を通り抜ける。その村では、葬式があるわけでもないのに、人々は墓地に集まって、〈ある者は墓の前に額ずき、ある者は墓を抱いてみな泣いてい〉た。話を聞いてみると、役人からのお達しで、遠からず行われる治水工事で、この谷に山の流れを集める。村は湖底に沈むことになるのだという。村を出て二人は語りあう。


「いよいよ池になる時は、あの人たちはどうするでしょうね」

「そりゃ、他所へ移り住むよりほかはあるまいじゃないか」

「いいえ、わたしは、そうは思いません」

「どう思う?」

「あの人たちは、この谷が水になっても、この土地を去らないだろうと思います」

(…)

「そんなことがあるものか、一時の哀惜と永久の利害とは、また別問題だからな、そうしているうちに、相当の換地が与えられて、第二の故郷に移り住むにきまっているよ」

「それは駄目です、あなた」

「どうして」

「あなたという方には、故郷の観念がお有りになりません」


 幕末という時代に、先祖代々この村で生まれ育った人々にとって、村の外で暮らす自分はきっと想像しがたいのだろう。この場面でも、共通語で話す二人と、訛りのある喋りをする村人は対比的に描かれていた。

 故郷に殉じること。現代でも、たとえば先祖代々の土地で農業をやっている人のような、特定の土地とつよく結びついて生きる人のなかには、福松の言う〈観念〉に共感できる人もいるのかもしれない。

 そして──と私はまたフォッサのことを考える。連絡を取ってはいないし、SNSでつながっているわけでもないから、彼のその後は知らない。今も当時の恋人といっしょにいるのか、どの街に住んでいるのか、今でも言葉に札幌の訛りをまとわせているのか。

 東京に移り住んで以降、私がその訛りを耳にすることはなくなって、北海道弁の印象は更新されずに八年が過ぎた。いずれ北海道を舞台にした小説を書くとして、そこに訛りを書き込むとして、私が思い浮かべるのは、実際には糸魚川出身で、北海道には四年しか住んでないフォッサが口にした、したっけね、という、惚気まじりの声だと思うし、それはなんだかちょっと癪だ。


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