10月8日(日)雨。具合良くなし。午前中は薬を飲んで安静にしている。午後、書評書き。ひとまず文字数のことを考えずに書いて、明日削ることとする。夕方までに、依頼された文字数の一・五倍ほど。
そのあと小野正嗣『あわいに開かれて』を読了。水と陸の境──あわいというモチーフを、この著者はずっと描き続けている。それは国と国の、人種と人種の、言語と言語の、そしてもちろん人と人とのあわいのことでもある。これまでの多くの著書がそうであったように本書でも、庭にマグノリアのある家のことやKさんのことが描かれているのだけど、小野のテキストに繰り返し登場するそれらのモチーフの描かれかたがどう変遷してきたか(あるいはいかに変わらなかったか)、というのを、これまではもちろん、今後も続いていく小野のキャリアのすべてを通じて検討してみたら、面白い研究になる気がする。
夜、ラグビーワールドカップの日本対アルゼンチン。アルゼンチンの勝ち。でも、一方的な試合だったわけではなく、双方に見せ場があって、ハットトリックや背面キック、意表を突いたドロップゴールなんかも見てたいへんエキサイトした。満足して寝。
10月9日(月)雨。夜中に何度か目が覚め、寝不足。朝から薬を飲んで、昨夜書いた書評を刈り込んでいく。午前のうちに送稿して、昼から『大豆田とわ子と三人の元夫』を観。三時半から六時ごろまで休憩をして、カレーラーメンとかウーバーイーツの寿司とかを食いながら、十一時までかけて全十話。田中八作というキャラクターがどうも他人事とは思えず、がんばれ、と応援しながら観てしまう。計七、八時間、終わったころには疲れ切っている。食器を洗って寝。
10月10日(火)曇、夕方時雨。今日の夜に大菩薩峠文章を公開する予定、なので読み返す。糸魚川から札幌に進学した友人が、道内出身の恋人と半同棲生活を送るうちに、〈したっけ〉という北海道弁を口にするようになっていた、というのがその導入だった。神戸で生まれて鳥取で育った私は、大学で札幌に引っ越すまで、日常的に北海道弁に接することはなかった。高橋しん『最終兵器彼女』のヒロイン・ちせが台詞のなかで「だべさ」と言っていた、くらい。しかし、この「糸魚川の北海道弁」というエッセイを書いて思いだしたのだが、私は北海道に行く前に〈したっけ〉と親しんでいた。
私はもともと、同じ本を繰り返し読む習性があって、小学生のころ、『ヤング・インディ・ジョーンズ』のノベライズや真保裕一『ホワイトアウト』を繰り返し読んでいた、し、安能務版の『封神演義』も、文庫で全三巻の長さなのに十回は読んだ。そうやって何度も復読したなかに、ドラマ『TRICK』の小説版である『TRICK the novel』があった。そういえばドラマや映画は一度も観たことがないし、だから小学生の私がそのノベライズを欲しがったとも思わないのだが、なぜか部屋にあったその本のなかに〈したっけ〉が出てきたのだ。
そう思い出して最寄りの図書館で借りようとしたら、二十年以上前の本だというのに貸出中だった。予約したものがちょうど今朝届いてて、昨日も一昨日も引きこもっていたことだし、と小雨の降るなかを図書館へ。
一篇目の「母之泉」のなかで、主人公の山田奈緒子と上田次郎が訪れた新興宗教団体〈母之泉〉の本部で、女性信者の木田が二人にこう言う。
「さ、どうぞ中にお入りください。みなさん、それぞれ悩みを抱え、ビッグマザーに会いにここに見えた方々です。あ、したっけこれね、これは体を清めるお飲み物なんだわ。いいかい、いいかい? 必ずひと息で飲んでね、はい」
木田がどこの出身者か、は明かされていない。本部の所在地も、〈人里離れた山ン中〉としか書かれていないが、都内から自動車で向かって明るいうちに到着する、し、事件が解決したあと遺体が〈県道〉を通って運び出されている、ので、少なくとも北海道ではない。木田の口にする〈したっけ〉を私は、方言というより、ヘンな小説のヘンな登場人物のヘンな口癖、くらいに捉えていた。この四文字がなくても文意は通るし、私はこの台詞を何度も読みながら、そのたびに意味がわからないまま読み飛ばしていた気がする。
当時はぜんぜん意識してなかったけど、表紙や奥付の著者は〈蒔田光治/林誠人 監修:堤幸彦〉となっていて、扉裏に、三人の名前とともに〈ノベライズ──百瀬しのぶ〉と書いてある。「母之泉」はWikipediaによると蒔田が脚本を書いたそうだが、引用した木田の台詞は蒔田によるものか、木田を演じた俳優のアドリブだったのか、百瀬がつくったものかもしれない。
と、思って調べてみるとU-NEXTで配信されてた、ので、熱中して読んでたころは観なかったドラマをついに観。木田はたしかに「したっけ」と言っていた。この俳優(台詞があるのだからエンドロールに名前が出てるとは思うが、誰かわからない)は、自分の口にした四文字が、ドラマを観てもいない子供の記憶に二十年以上残りつづける、日記に書かれて公開される、とは思ってなかっただろうな。この木田の「したっけ」について、大菩薩峠文章に加筆しようか、とも思ったが、冗長になるしフォッサのエピソードだけで充分か。
昼休みに『大菩薩峠』、筑摩書房愛蔵版の最終十巻を起読。最終巻にもなると巻頭のあらすじだけで五ページ、登場人物紹介だけで三ページある、のを読んでてふと、中里が、この作品をここまでの大長篇にしようと思った(実際にはもっと長くなるはずだった)のはいつだったのだろう、と思う。何ページも一人で語りまくる弁信や、あれもこれも長々と歌にする茂太郎を登場させたときにはすでに、その長広舌をふくみうるだけの長さを書こうと決めてはいたのだろう。そういうこと、日記とか随筆に書いてるのかしら。
前巻のラストと同じ夜、琵琶湖に舟を出して竹生島を目指していた伊太夫とお角は、心中をこころみたとおぼしき侍と若い女を引き上げる。二人とも息があるようなので、そのまま竹生島に連れて行って介抱することにした、というところまで読む。
夕食は蕎麦を食った、が、録画してた『おんな酒場放浪記』を観てたら肉が食いたくなって、ウーバーイーツでケンタッキー。満腹になった。
そのせいか深夜になっても寝付けず、ウットを飲む。心の病の薬ってのはギプスみたいなもんだからな、というフレーズをふと思いつく。骨折したとき、今日は痛みがマシだからってギプスを外して過ごしたりしないように、心の病が落ち着くまでは薬を飲みつづけるのが大事。46/600
10月11日(水)曇。朝、散歩をしてからベランダで夏のスリッパを洗う。このとき、私はTHE YELLOW MONKEYを聴いていた。虫の知らせ、というほどのこともなく、いつも聴いてる曲を今日も聴いた、というだけのことではあるのだが。
帰って『大菩薩峠』。お銀の王国を差配する関守は、お銀を琵琶湖の対岸の宿に移動させ、自分もその近くの大谷風呂というところに腰を落ち着ける。風呂で関守の背中を流してくれる三助には片腕がない。がんりきと同じだ、と思ってたら入浴中に関守の胴巻が盗まれていて、がんりきじゃん!となった、のは、なんか楽しかったな。
お銀は世間知らずのお嬢様、関守はちょっと理想家であるのに対して、王国の留守を守る青嵐は〈もっとずっと着実家〉だという。青嵐は王国に集う五十人ほどを甲種から戊種の五つに分類している。
甲種─胆吹王国の主義理想に共鳴して、これと終始を共にせんとする真剣の同志
乙種─現在は、まだ充分の理解者とは言い難いが、やがてその可能性ある、いわば準同志
丙種─主義理想には無頓着、ただ開墾労働者として日給をもらって働いている人
丁種─食い詰めて、ころがり込んで、働かせられている人
戊種─好奇で腰をかけている人
甲乙あわせて十人程度、丙種が二十人以上で、丁種が十数名、戊種は十名足らず。この五種類の人間をどう操っていくか、と算段していて、どうもキナ臭いというか、青嵐がこの王国、というかお銀の理想の破壊者なのではないか、となんとなく思う。
いっぽう仙台の無名丸には、村娘のお喜代を連れて七兵衛が戻ってきた。坊主になったのに若い娘といっしょとはどういうことだ、と面白がられている。これでようやく乗員が揃った、ということで、物資を調達して出航。船長の駒井甚三郎は、船を蝦夷地に向けるか、それとも亜米利加を目指すか、と、外洋に出てもまだ悩んでいる。
午後は控えめに作業。短篇を見直したり、その次に書く中篇ふたつ(の創作ノート)に手を入れたり。退勤後、『スーパードンキーコング2』をやる。ゲームをやるのはずいぶん久しぶり。本休日のために、何か外に出ずにできる趣味ないかしら、と考えてみたところ、そういえば私はゲームが好きだったのだ、と思い出して、しかし家にある、もう何年も使ってないゲーム機は、起動はできたもののコントローラーがだめになっていて、十字キーが反応しないしなんかキャラがずっとジャンプし続けてるので使いものにならなかった、ので注文した中古のコントローラーが今日届いたのだった。『ドンキー2』をやるのはたぶん中学生以来とかで、なんか熱中してしまう。その間は、ここ一週間くらい常に感じていた不調、を忘れていた。思考から感覚の世界へ、とドラマ『サ道』の蒸し男くんが言っていたが、思考の暇を強制的に奪ってくれるアクションゲームというのは気分転換に最適なのかもしれない。
そういえば、パニック障碍を患っている、と言うとけっこう、スポーツするといいですよ!というアドバイスをもらい、そのたびに、徒歩十五分圏内の散歩しかできないのにスポーツなんて……と思っていたのだが、これはeスポーツではないか。
夜ベッドに入って、THE YELLOW MONKEYのヴォーカル吉井和哉が喉頭癌だった、というニュースを見る。しばらく眠れず。88/600
10月12日(木)快晴、不調。朝の散歩のあと、なんとか作業をしようと思ったが諦めて、昼ごろまで『ドンキー2』をやる。
昼、『大菩薩峠』を進読。蝦夷地へ北上するか亜米利加を目指すか思い悩んでた甚三郎は、蔵書をめくり、メイフラワー号の事績を確認して、ひとまず亜米利加のあるほうに船を走らせることにした。とはいえ、すでに発展しきった国に行っても甲斐がないので、あくまでも太平洋を東に進む、というだけで、目的地はまだ未定。
いっぽう、旅の道連れだった米友をお銀に奪われた道庵は、大阪には江戸者を敵視してるやつが多いから、そういう手合いとも渡り合えそうなお角といっしょに大阪入りしたい、と思って、お角がパトロンの伊太夫の接遇をやってる間は本草の研究に没頭する。この場面では酒も飲まず夢中になっていて、いつも酔いどれてトラブルばっか起こしてる道庵の基礎的な教養の高さ、を感じる描写。その道庵を学友の健斎が訪ねてきた。彼は、お角と伊太夫が琵琶湖で引き上げた心中の女性──お雪の治療のために呼ばれたそう。彼女は健斎の在所である京田辺で療養をすることになり、道庵も二人について田辺へ。
いっぽう、お雪といっしょに引き上げられたはずの竜之助は、一人街道を歩いて京都を目指している。いつの間にか目が治って見えるようになっていたり、ふと肩に触れた白い手(身体は見えず)の示唆で目的地を島原の遊郭に定めたりと、なんか夢のなかのような雰囲気。
午後の散歩から帰宅して、りんごを食いながら『文藝春秋』最新号の、角川歴彦「わが囚人生活226日」を読む。人質司法を告発する、というのが主題だった。人質司法、カルロス・ゴーンの事件のときにも問題視されてた、し、その事件をもとにした『白竜 HADOU』の〈カリスマを撃て〉萹ではより強調して描かれていた。角川のテキストは、自分は高齢で持病もあるのにこんなにひどい対応をされた!という記述が中心。いや実際、八十歳で全裸に剥かれて男根に玉を入れてないか確認されるというのはほんとうにいやだ。悪いことはするもんじゃないな。
そのあとベランダに椅子を出して大江健三郎を読んだり、『ドンキー2』を進めたり。夜はまた長谷川あかりレシピの出汁炊きお揚げご飯にして、目玉焼きと生野菜といっしょに食いながら、NHKの小野文惠アナの『ブラフミエ』という番組の鳥取カレー回を観。私が鳥取に住んでたころ(二〇〇八年の春まで)も、鳥取は一人当たりのカレールー消費量日本一!ということは言われてたけど、とりたててたくさん食べてた印象がない、のは、我が家のごはんを作ってた母が山梨の出身だからか、札幌で大学生になってからのほうがカレー(学食の、ぜんぜん具がない安いやつ)を食べてたからかしらん。129/600
10月13日(金)快晴。夜中何度か胸の痛みで目覚める。食道炎。朝起きてからもあまり具合良くなく、胃薬を飲んでシャワーを浴びる。今日は療養日として大江を読む。
午後散歩。図書館と公園。帰ってすぐ『ドンキー2』をラスボスまで進めて、すぐさま『スーパードンキーコング3』。三作目がいちばん好きだ。しかし私は、これは大学生のときに気づいたのだけど、熱中すると頭痛がするまでゲームをやってしまう、ので、ほどほどに。三十三歳最後の一日を、不調と読書とテレビゲームに費やしていいのか、とふと不安にもなったが、まあべつに、切りがよいというだけで、昨日と明日と同じ一日だ。療養療養。
夕方に卵を茹で、夜は胡麻豆乳鍋と昨日の出汁炊きご飯を食いながら男子サッカー、日本対カナダを観。
そのあとはどうも寝つけず、吉井和哉についての記事をいろいろ読む。吉井が喉頭癌だった、というニュースを見たのは、そのニュースが出た一昨日の夜のことだった。その日の朝スリッパを洗いながらTHE YELLOW MONKEYの曲を聴いていて、一日頭のなかで、結成三十周年記念シングルの「DANDAN」が流れていたのだった。
吉井は二〇二一年末のライブで喉に違和感をおぼえ、年明けにポリープの診断を受けた。ツアーを途中で打ち切った、というニュースはうっすら憶えている。二月に切除手術を受けた、が、夏に再びポリープが見つかり、九月にまた手術。それでもまだ腫瘍が再発して、十月に三度目の切除手術を受け、検体を大学病院で検査したところ、早期の喉頭癌だった、と判明したそう。癌自体は今年の一月には根治して、夏には新曲のレコーディングもしていた。しかし喉の調子はまだ良くなく、今年の十二月のライブも中止、とのこと。
二〇一六年の再結成時はライブを観に行ったし、それ以前もそれ以降もいちばん好きなバンドであることに変わりはない、が、以降のTHE YELLOW MONKEYには私が好きになったころの焦燥感みたいなものはない。THE YELLOW MONKEYの活動休止中(翌年そのまま解散)、吉井が作詞して、ベーシストの廣瀬洋一のバンドHEESEY WITH DUDESに提供した「ならず者アイムソーリー」のなかに〈ベッドでギターばっか弾いて 夜明けとともに眠ってた どっかですれ違っても あの頃はあのままで〉というフレーズがあるが、すれ違っても、再結成しても、新しい音源をいっしょに作っても、〈あの頃〉のTHE YELLOW MONKEYは戻ってこない、し、それは悲観的な感情ではなく、そうやって彼らがTHE YELLOW MONKEYという物語を過去に送ったことを、その物語に熱中することで十代を乗りきった者としてうれしく思う。〈どっかで元気ならいいぜ〉というフレーズも「ならず者アイムソーリー」にはあるが、私が今のTHE YELLOW MONKEYの四人に対して思うのはそれだ。どっかで元気でいればいい。私は彼らに救われたのだ。根治してほんとに良かった。ということを書いてるうちに日付が変わって、私は三十四歳になった。129/600
10月14日(土)晴。誕生日。三十四歳の抱負も〈健康〉です。とにかく元気でいたい。食道炎は一過性のものだったらしく、起きたら楽になっていた。
午後二時に散歩に出、それなりの距離を歩く。帰宅して『ドンキー3』を裏ボスまでやって、ベランダに椅子を出して読書。それなりに歩いた、と思っていたコースが、ベランダからほとんど一望にできる距離に収まっている、と気づき、やや消沈。
誕生日に読んだのは谷川俊太郎『写真』だった。著者が撮影した五十二枚の写真と、それぞれに附された数行のエピグラフ。〈ほとんどの写真は通りすがりに撮っている。いま自分が本拠にしている日本・東京とは異質な場所を観ると、ここで生まれていても、私は詩を書く人間になっていただろうかと思う。〉というフレーズが印象に残る。
旅先で私もよくそういうことを考える。ほとんどが国内で、外国もソウル・台湾・シンガポール・バリ島、しか行ったことのない私なんかよりも、谷川のその感覚は強いだろう。癖でもあるし、そうやって造形した、その土地で生まれた私、は小説の語り手にしやすいので、ちょっと職業的な思考でもある。そしてどの土地で考えたときも、そこで生まれた私は小説なんて書いてない。神戸で生まれて鳥取で育ったから、ということではなく、友人に誘われたから書きはじめた私は、人間関係ができていない旅先ではあまり、ここでも小説を書いていた、みたいな思いは抱きづらいのだろう。息をするように書く、とか、書かないと死んでしまう、みたいなことを言う書き手なら、おれはどこで生まれても小説家になっていた!と胸を張れるのだろうか。
夜は昨日の鍋にサリ麺を突っこんで食いながら『おんな酒場放浪記』。おねいさんが場末感のある酒場でパカパカ飲む、というだけの番組なのだが、下戸の私はこの番組で訪れるような、客は酒以外注文しちゃいけない、みたいな店に行くことができず(下戸なんで烏龍茶を、と言ったら追い出されたこともある)、異世界ものみたいな感覚で観ていて、ついに毎回録画するようになってしまった。129/600
10月15日(日)午前は雨、午後は曇、だんだん晴れる。低気圧。強雨なので散歩はせず、読書をしたり、こまごま書きものをしたり。朝も昼も一昨日の鍋に米を突っこんだ。
そのあと、こないだ読んだジャック・デリダ『生きることを学ぶ、終に』をパラパラ見返す。デリダの死の二ヵ月ほど前に発表されたインタビュー。
私の言うことをどうか信じていただきたいのですが、私は、同時に、次のような二重の感情を抱いています。一方には、笑みを浮かべつつ、そして慎みを欠いた仕方で言うならば、私はいまだ読まれ始めていないという感情、確かに、多くの、とてもよい読者(おそらく世界で数十人の、やはり作家にして思想家であり、詩人である読者)がいるとしても、本当には、あれらすべてが現れるチャンスはもっと後のことなのだという感情があります。しかし、同様に、他方には、つまり、同時にこんな感情もあるのです。私の死の二週間か一月後には、もはや何も残らないだろうという感情も。図書館に法定納本され保管されるものをのぞいて。誓って言いますが、私は本気で、そして同時に、この二つの仮設を信じています。
この二つの感情はまったく矛盾するものではない。自分の文章は真の読者には届くことなく消えてしまうだろう、という諦念。最晩年のデリダにおいてすらそういう感覚があるんだな。もちろん、彼の死の十九年後の読者として、少なくとも後者の〈仮設〉は誤っていたことは知っているのだが。
雨の止み間に散歩して、そのあとは『ドンキー2』と『ドンキー3』の裏ボスや隠し要素をコンプリート。手元のゲームはもうおしまいで、新しいのを買うほどでもない、のでゲームの日々は終了。よい気晴らしになった、し、また心身がグラついても逃げ場がある、というのはちょっと安心できる。129/600
10月16日(月)快晴。いい天気だけど窓を開けると肌寒い。しばらく療養日を続けていたので、朝は暖機運転という感じ。中断してた短篇の立て直し(なんか中断してた短篇の立て直しばっかりしてる気がするな)。
昼、レトルトカレーを食いながら『ねほりんぱほりん』を観、それから『大菩薩峠』を進読。竜之助・山崎・田中の三人は、今度は斎藤一や伊東甲子太郎といった、幕末史に明るくない私でもなんとなく知ってる面々と会う。が、話してた人が目を逸らした刹那に消えてしまったり、描写はいよいよ夢めいてくる。どうも本巻に入ってから、一時は完全に忘れられていたような新撰組が前景化してきた印象がある。舞台を京都に移して、これからそういうエピソードがはじまるのかしらん。
順調に回想録の執筆を続けている主膳は、勝海舟の父・小吉の自叙伝を友人に借りて読み耽る。小説より面白い!と評判のその自叙伝『夢酔独言』が長々と、主膳のリアクションを挟みつつも三十ページちかく引用されていて、たしかに、不良の〈おれ〉のろくでなし行状録として楽しい。ろくでなし旗本であるところの主膳も、〈これはおれを書いているのではないか〉と共感することしきり。『夢酔独言』、全文読みたくなってきたな。
風があまりないからか、日中は窓を開けててもちょっと汗ばむかんじ。ゆっくり作業と読書。今日は比較的調子が良い、が、ここで図に乗ってまた反動で寝込む、というのを何度もやってるので、無理せず。
夜、植本一子がトラウマ治療の記録を綴った『愛は時間がかかる』を読む。登場してくるうち二、三人と面識があるので、やや解像度高めで読めた。カウンセリングの終盤で、植本はこう書いている。
ここまで五年間、パートナーとのことで何かあるごとにカウンセリングに通ってきたけれど、今ある問題を話すだけでは根本が変わらないとわかった。もっと自分の深いところを見ないと、自分がそういう行動をとってしまう意味に気づけない。そこに気づくことができれば、きっと変えることができるはず。
これは私もけっこう身に覚えのある記述で、私は月に一度のセッションで、日々のパニックのしんどさを処理するので精いっぱいになっていて、なぜこうなってしまったのか、何が影響して自分はそういう思考の癖を身につけてしまったのか、まではカウンセリングの手がおよんでない、気がする。私には必要な読書だった。植本のカウンセリングが、なんかスムーズにいってええなあ、と感じたのも、私も〈自分の深いところを見つめ〉よう、と思った理由かもしれない。つらさも脱出法も人それぞれなので、違いますね、という当たり前のことを確認しただけではあったのだが。
ともあれ植本は、ずっと抱えていた〈相当重たい荷物〉を、〈その荷物のことはここに散々書いたし、もう手元には残っていない〉と本文の末尾で言い切れるくらいに処理しきった。かつて枡野浩一が、書くことで癒やされる程度の悲しみなんて読みたくない、と書いていた。そのことに反発を覚えた、と私は以前の日記にも書いたのだが、植本の結語は、書くことで癒やされた、という宣言でもある。いいですよね、べつに。書くことで癒やされたって、それを発表したって。
ウーバーイーツでフレッシュネスバーガーを頼んで、食いながら『突撃!ストリートシェフ』のマラケシュ回。先月の地震より前に放送されたものなので、この人たちは無事なんだろうか……みたいなことを考えつつ。なんだか疲れた一日。風呂には入ったけど髪も乾かさず歯磨きもせず、洗濯機も回さず洗いものもせず、明かりも消さずに寝。こういう日もある。174/600
10月17日(火)快晴。ちょっと暑い。夜中、なにかにうんざりしながら目を覚ました記憶があるから夢見は悪かった、と思うのだが、内容は憶えてない。ふだんの朝とは違う久しぶりのコースで、三十分ほど散歩。スーパーに寄って帰る。
昼休みに『大菩薩峠』を進読。『夢酔独言』を読み耽ってる主膳のところを金助が訪れる。〈帝国芸娼院〉にパトロンがついて、実現のはこび。「毛唐に対しても、日本にはこのくらいの芸術があるてえところを、見せてやりてえのが芸娼院の本意でげす」とのことで、次は「日本の文学をひとつ、海外進出てえ方面にウンと馬力をかけてみよう」と思っているそう。で、「その小説という段になりますると、まず長篇大作というところから見廻しまするてえと……日本に於きまして、上古に紫式部の源氏物語──近代に及んで曲亭馬琴の南総里見八犬伝──未来に至りまして中里介山居士の大菩薩峠──」と言っていて、やかましいわ、となる。ここまで本作につきあってる読者ならこのくらいのメタなギャグも笑ってくれるだろう、という甘えを感じる、し、私もちょっと笑ってしまった。不覚。
金助によると、「長篇大作が必ずしも優れたりという儀ではがあせん、中篇小萹に優れたものが多くこれ有るんでげすが、とりあえず、長編大作をペロに(ペロとは外国語ということ)書き改めて、毛唐に見せてやる」という計画を立てているそう。前巻の注解では、金助の帝国芸娼院は執筆当時に設置された帝国芸術院のパロディだ、と説明されていた、が、日本文学の翻訳推進、というのは、今では国際交流基金がやっていることだ。
しかしいきなり源氏物語や八犬伝(や大菩薩峠)みたいな、単巻では出せないような大長篇を翻訳する、というのはすごくチャレンジングなことで、売れ行きによっては二、三巻で打ち切りになったりしちゃうのではないか。むしろ最初は〈中篇小萹〉の優れたものを雑誌に載せるとかからはじめたほうが……。
と、ここで「京の夢おう坂の夢の巻」という章が終わる、のだが、その前に、〈上来、この「京の夢、おう坂の夢」の巻に、書き現わし得たところと、書き現わそうとして現わし得なかったところを、ここに個人的に収束してみますと──〉と、この章のふりかえり、みたいな一節が用意されている。前巻あたりから、このことについてはあの巻のあのへんに書いたけど、みたいな記述が出てくるようになったし、だんだんリーダーフレンドリーになってきているような。さらに末尾には、一字下げて、著者の言葉らしい文章が置かれている(先の〈個人的に収束〉したのも著者の言葉ではあるのだろうけども)。
かくして明治の末に起稿し、大正の初頭に発表し、昭和十四年の年も暮れなんとする。わが「大菩薩峠」も通巻無慮九千三百二頁、四百七十万字、悪金子の口吻によりてこれを前人に比較すれば、すでに源氏物語の六倍、八犬伝の約三倍強の紙筆を費やしてなお且つ未完。量を以てすれば哀史、和戦史も物の数ではないということになる。
起稿の時、著者青年二十有余歳、今年既に春秋五十五──霜鬢ようやく白を加えんとするが、業縁なかなかに衰えず──来年はこれ、皇紀の二千六百年、西暦千九百四十年、全世界は挙げて未曾有の戦国状態に突入しつつある──頑鈍一事の世に奉ずるに足るものなきを憾みつつも、自ら奮うの心を以てここにこの巻の筆を置く次第になん。時恰も臘八の日。
とのこと。書きも書いたり、というかんじ。二十代で書きはじめて五十五歳になってもまだ書きつづける。けっきょく未完に終わったことを知ってる者として、この発奮の言葉には、妙なものがなしさを感じてしまう。
いっぽう、米友と弁信は連れ立って京都を目指している。と、どこかから歌が聞こえる。
宮さん
宮さん
お馬の前の
ピカピカ光るは
何じゃいな
あれは朝敵
征伐せよとの
錦の御旗じゃ
ないかいな
トコトンヤレ
トンヤレナ
という歌詞を見ると山陰で育った者として思い出すのは錦味噌のCMだ。レトロなアニメーションで、お侍の行列が歩いている。そのうちの一人の持つ旗印が、しんがりを歩く騎馬の目の前で揺れている。そこへ幼い歌声。
宮さん
宮さん
お馬の前で
ひらひらするのは
何じゃいな
幼いころの私は〈宮さん〉ではなく〈みなさん〉だと思っていた記憶がある。そして歌の問いかけに馬が、存外低い声で「にしきのお味噌じゃ知らないか」と答え、微笑む。そして会社のロゴが映し出され、女性の声が「いい朝いつも、錦味噌」と言ってCMは終わる──。
というのを今、YouTubeとかで動画を確認せずに描写できるくらいには、幼いころ繰り返し観て刷り込まれている。坂本龍一が「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の、たしか連載初回の文中で、癌手術後の譫妄のなかで、ずっとタケモトピアノの「車売ってちょうだい」のCMソングが脳内でループし続けていた、という地獄みたいな体験を語っていたが、私が同じ状況になったらこの錦味噌が流れるのではないか。しかし味噌というのはそう頻繁に買うものではないし、子供に選ばせるようなものでもないから、錦味噌の実物を見た記憶はなく、CMしか知らない(坂本もたぶん、タケモトピアノで売ったり買ったりしたことはないだろう)。
註によると米友たちが聞いたのは「トンヤレ節」という曲で、〈一八六八(慶応四)年一月、鳥羽伏見の戦いで勝利した官軍が江戸へ進軍していく際にうたった軍歌〉とのこと。原曲に〈錦の御旗〉というフレーズがあるから錦味噌がCMソングとして採用して、幕末の歌だからお侍の行列だった、ということか。今さらながら由来を知ってうれしくなる、が、それは『大菩薩峠』とはいっさい関係のないことだ。
『大菩薩峠』のなかでは、お銀が買い取ったという山科の光悦屋敷に、お銀と胆吹王国の関守、米友と弁信が終結する。お銀の父・伊太夫は、与八と郁太郎を養子にとって家を継がせることを同意してもらうために来たという。お銀が承諾したことで、親子の対面はトラブルなく終了。いっぽう、胆吹王国に迫っていた一揆の軍勢も、青嵐居士にいくばくかの金を見せられ、ほかの土地に矛先を向けさせられ、さらにそこへ代官のお手入れが入って、あっけなく去っていった。あれもこれも波乱のないままに落着した、のは本作のなかで繰り返されてきたことだ。
午後の作業は控えめにして、今日は世評の高い小野寺拓也田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読む。とにかく実証主義的な、史料と先行研究にあたることで、ナチスのやったことのなかに〈良いこと〉なんてないよ、と論証する本。第七章の最後に、〈第二次世界大戦を引き起こし、環境面でも多大な損害を与えたナチ体制の環境政策から一部を抜き出して、「ほら良いこともしたではないか」と主張することに、いったいどれだけの意味があるのだろうか〉とあって、ほんとうにその通りだ。とにかく歴史修正主義への怒りの滲む、しかしきわめてロジカルで読みやすい本だった。
夜、ちょっと外に出て、マックの三角チョコパイ二種と、近所のフルーツサンド屋さんの美味いやつを食いながら男子サッカーの日本対チュニジアを観。そのあとは眠くなるまで読書、と思ってたらなかなか眠くならず、もう日付が変わっている。215/600
10月18日(水)晴。十時ちょうどに販売開始の、白バラ牛乳タンブラー、を、友人に贈るために注文して、ついでに我が家のぶんも。帰宅してエアコンのフィルターを掃除、卵を茹でたり角煮を作ったり。家事をしてる間に昼になっていた。
昼休みに『大菩薩峠』。伊太夫との面会を振り返りながらお銀は、「自分で理想の──好むところの事業をやることには、胆吹の経験で、いま考えさせられているところがあるのです、ここへ来たのを機会として、事業というものに見直しをしなければならないと考えている」と述懐する。この口ぶりだとお銀は、もう胆吹に戻るつもりがないよう。
いっぽう竜之助は、あの夢のなかみたいな時間のあとで、斎藤一と山崎譲に酔い潰され、島原遊郭の一室に放置されていた。ここの描写を見る限り、彼の目は失明したまま治っていない。外に出てウロウロしていると、夜廻り中の斎藤一がやってきて、いま拠点を置いている(新撰組から離脱して〈御陵衛士隊〉というのを結成したらしい)月心院に竜之助を連れて行った。
二時ごろ散歩に出、近所の公園で薄田泣菫『独楽園』をちょっと読む。ふと庭に休み、瓢箪(本書では和語で〈瓠〉と表記される)の鳴る音から思索をめぐらせ、一篇をものす。優雅というか、こうありたいものだ。三島由紀夫がどこかで、〈自分を故意に一個の古風な小説家の見地に置いて、いろんな世界を遊弋しながら、ゆったりと観察し、磨きをかけた文体で短編を書く〉ことのダンディズム、を語っていたが、古風な詩人であるところの薄田は、これを随筆でやっているのだ。いいなあ!
帰宅して、今日は具合が今ひとつなので無理せず、ゆっくり作業。スタバのドーナツなどを食いつつ。夜はウーバーイーツの良い寿司を食って千葉ジェッツ対台北富邦ブレーブスを観。257/600
10月19日(木)晴。一時間弱散歩。帰ったら疲れ切っていた、のでちょっと休憩して始業。
昼休みにパン耳を食って『大菩薩峠』。月心院にたむろする御陵衛士隊の面々が、幕末の政情について延々議論している。そのなかに、「幕府の無条件大政奉還などということは、いくら自省が行詰ったって、これは夢だよ、それこそ書生の空論だよ」という主張があって、それに対して誰かが反論する。「ところが、存外、痴人の夢でないということを、僕はある方面から確聞した、それに大政奉還は徳川の家をつぶす所以でなく、これを活かす最も有効の手段だということなんだ、そこに、徳川家と土佐とには、ある黙契が通っているらしい、大政奉還将軍職辞退の名を取って、事実、新体制の首座には、やっぱり慶喜を置く、そうして天下を動揺せしめずして新体制を作る、というのが眼目になっているらしい」とのこと(ここのやりとりは発言者の名前が出ていない)。
歴史に明るくないので、この〈黙契〉が実在したかどうかは知らないのだけど、すくなくとも実現はしなかった。この噂は実際にあったことなのかしらん。明治十八年生まれの中里介山は幕末を経験しなかった、が、周囲には江戸時代生まれの大人が大勢いただろう。
噂は書き記されなければ歴史に残らない。私は祖父母が戦争を経験していたし、小学校の修学旅行では広島の原爆について、実際に被爆した語り部の話が聞けた。でも、二〇二三年に生まれた子供が修学旅行に行くころには、当時の記憶を語ることのできる人はもっと少なくなっている。それは、今はあまり過去のことと思えない東日本大震災や新型コロナについても同じで、電車が止まって三時間歩いて帰った足のひどい疲労感とかワクチン接種後の十五分の待機時間の手持ち無沙汰な感じとか、私たちが体験したディテールは、きっとほとんどが歴史に残らない。それでも今は、誰でも文章を発表できるようになったのだから、書き残すことはできる。それが読み継がれるものになるかどうかは書き手次第だ。
ともあれ、〈黙契〉についての主張は、「現状維持をやりながら維新革新をやろうとしたって、そりゃ無理だよ」と反駁されて、こう続く。「徳川はいったん大政を奉還し、慶喜は将軍職を去り、諸大名は国主城主の血を捨てて藩知事となる──そこにまず現状破壊を見て、しかし革新を断行しようというのだ」ここで中里は〈藩知事〉という、明治維新後の言葉をつかっている。もちろん、名古屋で道庵が、当時は〈まだ生まれていたかどうか〉という森槐南の話をしていたり、地の文で菊池寛の衆院選出馬を腐してみたり、金助は帝国芸娼院で外国に紹介する作品として『大菩薩峠』を挙げてたり、と、メタフィクショナルな悪ふざけに満ちた本作で、〈藩知事〉という言葉ひとつを取り上げて云々しても甲斐はない、のだが、「未来は常に現在よりも強い」とクンデラが言っていたように、この言葉を投入したことで、隊士たちの議論が過去の、弱いものになってしまった感じがする。
二時に散歩、白米を買って帰る。あとは夕方までもくもく作業。短篇がようやく流れはじめた。焦らず。
夜、どうも目が冴えて眠れず、東畑開人『聞く技術 聞いてもらう技術』を読む。〈孤立〉と〈孤独〉についての記述が印象に残る。〈心の世界に悪い他者がウヨウヨしているか、一人でポツンとしているか、それが孤立と孤独の差異です。〉どちらも(物理的に)一人でいることに違いはない、が、〈孤独〉は心のなかでも一人で、鍵のかかる安全な個室にいる。いっぽう〈孤立〉した人の場合、〈みんなから馬鹿にされているとか、自分なんてダメ人間だとか、死んだほうがいいとか、心の中には自分を責める声が吹き荒れてい〉る。自己充足か自己否定か。〈会社を休んで、布団の中にいたとしても、「みんなに迷惑をかけている」「きっとダメなやつだと思われている」って頭の中に雑音が響いていたら、「休養」になりませんよね。〉とあって、私は完全にこれではないか。もっとアグレッシブに休んだほうがいい、おれは。299/600
10月20日(金)晴。早めに目が覚める。三十分ほど散歩、今日は金を使わない日!と決めたのでスーパーには寄らず、図書館で本を借りて帰宅。
午前はもくもく作業をやって、昼休みに『大菩薩峠』。福松が福井の知人の世話で、芸者屋の経営をさせてもらうことになった。それで兵馬は彼女と別れて、本来の目的──竜之助への仇討ちのために京都へ向かうことにした。しかし福松は、すでに兵馬に対する強い執着を拭いがたく抱いてしまっている。すぐにでも発ちたがる兵馬の袖を引いて、せめてあと一晩だけ、と懇願する。根負けした兵馬と二人、あわら温泉に投宿。
福松、というのは源氏名なのだが、兵馬がまた会いに来たときにわかりやすいように、どこに行っても、何をするにしてもその名を名乗り続ける、と言う。芸者屋は兵馬の姓の〈宇津木〉から取って〈うつの家〉という屋号にする。一、二年で金を貯めて、兵馬と最後の夜を過ごすこの温泉街に宿を開く。二人の名前を組み合わせて〈福馬屋〉とか〈福馬館〉はどうだろう。そういうことを、兵馬の反応はほとんど描かれないままに福松は語る。「いまさら一緒にお風呂を浴びたからとて、落ちるようなあなたでもなし、落すほどの腕を持ったわたしなら何のことはないわ、ああ、あのお湯が鉛なら溶けてこの身をなくしてしまいたい……」
そして〈女は、煙管を抛り出して、やけを繰返したかと思うと、衣桁から浴衣をとって、兵馬のドテラの帯に手をかけました。〉この描写のあと節が変わって、翌朝のまだ暗いうちに出立する兵馬の姿を描く。これはもう、二人は一緒にお風呂を浴びたのだろうし、兵馬は落ちてしまったのだろう。本作ここまででいちばん艶めいた場面だ。
と、ここまで書いて不意に、『封神演義』の〈雲雨幾度。〉のことを思い出す。安能務版の『封神演義』のなかで、殷の君主・紂王の妃である妲己(正体は狐狸の精で、女神である女媧によって殷を滅ぼすために送り込まれた)が、紂王を堕落させるため、妹の胡喜媚を王に紹介した場面。
紂王に見つめられて喜媚は、嬌羞を含んで心持ちうつむく。両眼、秋波を転じて、隻湾(唇)活水を誘い、嬌媚滴々として、跪拝を迎える風情である。紂王は満身これ香汗、心猿按え難く、意馬疆(地の果て)を馳け抜く。すべての言葉は、もはや不要である。紂王は喜媚を抱き上げると、偏殿の戸を足で蹴とばして、殿内に駈け込む。
偏殿で、雲雨幾度。頃合いを計って妲己が姿を見せた。紂王は機嫌麗しく起き上がって身づくろいする。喜媚は両脚を擲げ出したまま、気喘吁々として、起きるに起き上がれない。
「お行儀が悪いのね」
と妲己があきれかえる。
雲雨幾度、というのが、要はめちゃくちゃセックスをしたという意味だ、ということは前後の文脈でわかった。なんせ血気さかんな男子中学生のときに読んだもので、〈うんういくたび〉というルビの平仮名すらなんだかエロティックに感じられたものだった。
で、翌朝、京に向かう兵馬は道中、胆吹から福井に帰るという青年と知り合って、笠を交換しないか、とヘンなことを言い出す。「拙者がその笠へ一筆書きますから、君はそれをかぶって福井へ着いたならば、その笠をそっくりひとつ、僕の名ざすところへ届けてもらいたいのだ」と言って、〈うつの家の福松〉に宛てて、李白の詩の〈思君不見下渝州〉という一節を記す。「君を思えども見ず、渝州に下る──思われた君というのが、つまり、そのうつのやの福松君ですな、福井の城下で、あなたとお別れになって、友情綿々、ここ越前と近江の国境に来て、なお君を思うの情に堪えやらず、笠を贈って、その旅情を留めるというのは、嬉しい心意気です」と青年は快く引き受けた。
しかしどうも、はじめてのセックスの翌朝、兵馬がこうやって笠を〈うつの屋〉に宛てて贈る、というのは、なんというかマーキングみたいな感じがしてしまう。とはいえ、当初は竜之助への仇討ちだけが目的みたいに登場して、しかしそれが何人かの女に惹かれてぐらついていた、もしかしたら本作でいちばん芯の弱い人間だった兵馬が、こうして帰る場所を見つけたのは良かったですね。
主膳はまだ勝小吉の『夢酔独言』を読みつづけている。
よく世間には、偽らずに自分を写した、なんぞというけれど、眼の深い奴から篤と見定められた日には、みんなこの四つのほかを出でない──極度に自分を買いかぶっている奴と、無茶に自分を軽蔑したがる奴、それから自暴に自分を安売りする奴と、イヤに自分をおめかしをする奴──自分で自分をうつすと、たいていはこの四つのいずれかに属するか、或いは四つのものがそれぞれに混入した悪臭のないという奴はないのが、このおやじに限って、どうやらこの四つを踏み越えているのが乙だ。
というのが主膳の『夢酔独言』評で、これはなんか、毎月エッセイや日記を公開している者として耳が痛かった。増長したり自虐したり、過剰に赤裸々になったり見栄を張ってしまったり。書いて発表していると、こういう欲望を感じることはけっこうある。自分のことを書いて公表するくらいには自分に愛着があるし、同時に嫌なところもある。自分の感情とそのよって来たるところを知ってほしいとも思うし、ちょっとは良く見られたい。かといって、バランスを取ることに腐心した文章というのは往々にしてつまらない。引用されているものを読むかぎり、『夢酔独言』は、まんま書いとる、という感じで気持ち良いんだよな。さすがに全文は引用してないだろうし、『夢酔独言』、どっかで読んでみよう。
主膳もどうやら、この不良者の自叙伝に、ろくでなし旗本である自分を重ねて読んでいる。ひょっとして中里は、神尾主膳のキャラクターを造形するときに、この『夢酔独言』を参考にしでもしたのだろうか。そしてこんなに引用するというのは何か、あまり知られてないけどめちゃ面白い本を読者に紹介しよう!みたいな意図もあったのかもしれない。
夕方、ちょっと大江を読んでからU-NEXTで『孤狼の血』を観。ギンレイホールで働いていたとき、「あんた狂うちょる!」「おう狂うちょる。警察じゃけえ何やってもええんじゃ」という予告萹のやりとりを、それこそ気が狂うんじゃないかというほど繰り返し聞かされた、し、広島出身の、『仁義なき戦い』がめちゃ好きな常連さんが上映後、いたく興奮した様子で出てきて、いやあ、あの広島弁はすごいね、まさに『仁義なき戦い』の再来でいやあ滾った滾った、ねえきみ、きみたしか鳥取だったよね、同じ中国地方出のモンとしてあれは観るべきだよぜひ、とテンション高く絡んでもきた、ので気になっていたのだった。
役所広司について私は、子供のころ『Shall we dance?』を金曜ロードショーで観たことしかなく、昔のロマコメの人、みたいなイメージで止まっていた、のだが、すごかったですね。狂気。しかし夕食に豚の角煮を温めて食いながら観はじめたら冒頭、脱糞する豚の肛門と、その糞を無理矢理食わせる拷問の場面からはじまっていて、ちょっとご飯が喉を通らなかった。345/600
10月21日(土)晴。今日は本休日。バスケットLIVEで横浜BC対琉球を観、SR渋谷対長崎を観。インタビュー含めて五時間くらい。終わったのはまだ七時ごろだった、けど、脳がしおしおになる。
蕎麦を茹でてはやみねかおる〈名探偵夢水清志郎事件ノート〉の第十一作『あやかし修学旅行』を読む。題のとおり、主人公の修学旅行の様子が描かれる。が、どうも本巻にはチューニングが合わず。謎とその解決、がいくつも出てくるのだけどどれも小規模な感じで、むしろ中学三年生の青春群像の描写に力が割かれている印象だった。疲れているのにぜんぜん眠れず、夜中の一時にチンする米を食い、二時ごろにようやくベッドに入った。345/600
10月22日(日)晴。午前は作業をやって、昼休みにきのこの炊き込みご飯を作って『大菩薩峠』。有野村に〈わが生涯が居ついたという感じ〉を抱いた与八は、地域の子供たちの教育に尽力しはじめた。ここらへんは、捨て子として竜之助の父親に拾われた自身の出自が影響しているよう。そしてこの、「山科の巻」という章の最後に、また作者が顔を出す。「さて大菩薩峠第十二巻「山科の巻」はこれを以て了りとします。念のため、本巻に現れた人の名と、その所在の地名とをここに挙げてみます。」と、山科新居・福井より近江路・根岸・京洛市中・甲州有野村、の五ヶ所、十六人のリストが出てくる。さらに「山科の巻」には登場しなかった面々のリストも。リーダーフレンドリー! そしてこう続ける。
この「山科の巻」の稿を起すの日時は昭和十五年の九月十日──稿を了るの日は同年十月十六日。これを大菩薩峠全体から見ると、起稿は明治四十五年、著者二十八歳の時、本年即ち昭和十五年より、またまさに二十八年の過去にあり、最初の発表はそれより一年後の大正二年。分量は前巻にも申す通り、開巻「甲源一刀流の巻」よりこの「山科の巻」に至るまで二十六冊として一万頁に上り、文字無慮五百万、世界第一の長篇小説であることは変らない。読者は倦むとも著者は倦まない。精力の自信も変らない。
なんだか総括してる感じ。二十八歳で起稿して二十八年、人生の半分を『大菩薩峠』を書いて過ごして、次の「椰子林の巻」を最後に本作は未完に終わる。〈読者は倦むとも著者は倦まない〉、こういう強い言葉を書くのって、私の場合はむしろ自信を失いつつあるときのような気がするけど、中里はどうだったんだろう。386/600
10月23日(月)晴。午後カウンセリングなのでややナーバスになっていて、朝から服薬。効いてくるまで、昨日の日記に加筆するなどして過ごす。薬が効いて、副作用で二時間ほど寝。正午に起きてすぐウーバーイーツのモスバーガーを食い、三時のカウンセリングまでのんびり過ごす。
カウンセリングでは、オーバーカップリング、というのを教えてもらった。外食するとか電車に乗るとかの実際には何でもないことが、心身の不調や誤作動と過剰に結びついてしまっている、ということ。だからその結びつきをほぐしていく必要がある。そしてオーバーカップリングは、もちろん本人にとってはつらいことではあるけども、それだけ頑張って生きてきたってことなんですよ、と言われて、ウルッときてしまう。
夕方、キノコ鍋を食いながら『おんな酒場放浪記』を観。この番組に出てくるおねいさんたちは、それぞれに芸があって華もあって、だからこうやってテレビ番組にレギュラー出演しているのだけど、どこかこう、自分の居場所を探してさまよううちに場末の酒場に流れ着いた、という雰囲気がある。386/600
10月24日(火)晴。ガバリと起きてすぐ始業。ひとしきりやって散歩をしてから、裾がほつれた服を繕う。
昼、『大菩薩峠』。甚三郎の無名丸は一ヶ月の航海の果てに、〈東経百七十度、北緯三十度の辺〉の無人島に上陸した。その座標を地図で見るとちょうど日本とハワイの中間地点で、南鳥島あたり?と思ったが、南鳥島は北緯二十四度、東経百五十三度だそう。架空の島かしらん。だとしたら、日本各地を舞台にした本作で、はじめて架空の場所(それも日本の領土の外の)が描かれることになる。
どうも熱中症っぽく目眩がした、が、散歩に出。あまり歩けず、近所の公園で過ごす。夜、『突撃! ストリートシェフ』のウランバートル回。モンゴルを舞台にした小説を書いた(未発表)もので、たいへん興味深く見入る。428/600
10月25日(水)曇。今日は外出せず。地元紙のコラムのしめきり。やや難渋。ともあれカリコリ書いては削ってを繰り返して、午後のまだ早めの時間に完成。夕方まで寝かせて送稿した。
夜、早めに風呂に入って、ウーバーイーツでマックを頼む。ハッピーセットのおまけで『水木しげるの妖怪ずかん』が選べるのだ。ついでに今日からはじまった期間限定のアメリカイメージのやつも。食いながらBリーグの横浜ビーコルセアーズ対サンロッカーズ渋谷を観。
そのあと『妖怪ずかん』のAR(妖怪が飛び出してしゃべる)で遊んで、今度はレバンガ北海道対千葉ジェッツ。札幌に住んでたころ、働いていたバーの常連のひとりがレバンガのファンクラブに入っていて、一度だけ一緒にレバンガの試合を観に行った。そのときの私はまだバスケが嫌いで、ルールもぜんぜん、あの半円の外から決めたら三点、ということくらいは知ってたけど、内側から決めたら何点かも分かっていなかった。わりと良い席のチケットを用意してくれたのにあまり楽しめず、今では対戦相手も憶えていない、が、試合前の選手入場で、当時選手兼CEOだった折茂武彦氏がほかの選手とハイタッチをしたり跳ねながら身体をぶつけ合っていた、のはときどき思い出す。
今日のレバンガ対千葉はそのときとおなじ北海きたえーるが会場。壁とか客席の感じとかはなんとなく憶えて。けっこう良い試合でレバンガが惜敗。試合中に雷の音がして、ほどなく豪雨が降りだす。六本木では雹が降ったそう。428/600
10月26日(木)快晴。散歩してウットを飲んで、そのあとはもう療養日。読書をしたり、メールを打ったりして過ごす。
昼、白米を炊いて『大菩薩峠』。島で過ごすうち、甚三郎とお松が互いを異性として意識しはじめる。本作ここまで、竜之助がお松の祖父を斬り殺し、お浜をレイプしてその夫の文之丞を剣術試合にかこつけて殺す、という殺伐とした幕開けだったことを思えば不思議ではないけども、恋愛の要素は強くなかった。かつての兵馬とお松、今の兵馬と福松、そしてこの甚三郎とお松、くらい。去年読んでた『失われた時を求めて』の語り手がずっと色恋で頭いっぱいだったのとは大違いだ(あっちは一人称、こっちは三人称の語りなので、恋愛を含めた感情の描かれかたが違うのは当然ではある)。
甚三郎が旗本だったころの名残で、お松は彼を今も〈殿様〉と呼び、自分をその〈家来〉だと言う、が、甚三郎は、「わたしはもう疾うの昔に、人の主人足る地位を逃れた、同時にただ一人の人をも家来とし、奴隷とするような僭上を捨てた」と返す。そして彼は、「わたしは極めて平静の心を以て、これを言いますが、お松さん、あなたはわたしと結婚しなければなりません、駒井甚三郎は改めて、お松どのに結婚を申し込むのです」とプロポーズをした! 〈しなければなりません〉に殿様だったころの名残を感じるが、ともあれお松も、「承知いたしました、わたくしは、あなた様のお申出を、このまま素直にお受入れ致します」と返す。わりに尋常な恋愛、が、こうして日本を遠く離れた架空の島でなければ描かれなかった、ということが、『大菩薩峠』の恋愛観を示しているような。
二時に散歩に出、家から三番目に近い公園で薄田泣菫を進読。この時間、一番近い公園は学校おわりの小学生が暴れ回ってるので、だいたい二、三番目の公園で過ごす。
近くでご高齢のご婦人がなわとびをしていた。私が公園にいたのはせいぜい十分程度だったが、その間ずっと。二、三回跳んでは休み、何か思い詰めるように足元を見て、また跳びはじめる。健康法、というより、リハビリ、という言葉がふさわしいような切実さを感じた。一人で公園に来て、飛び跳ねるような運動ができているのだから、わりに健康なほうなのだろう、と思いつつ、老いへの抵抗のしんどさを感じる。
縄が地面を叩く途切れ途切れの音を聞きながら読んでいた『独楽園』は著者の死の十年ほど前に出た随筆集で、パーキンソン病を患い、晩年には口述筆記を強いられていた薄田は、この時点で〈家に引籠つてからかれこれ十年近くにもな〉り、〈この二三年門外へは一歩も踏み出したことのない〉という生活を送っていた。読んでる本と身を置いている場、ごく近所を散歩するのがやっとの自分自身の現状、が響き合って、どうも参ってしまう。
午後、異動して新しく私の担当になった編集者から挨拶のメールが来る。デビューから十二年経つのでそれなりに編集者の入れ替わりを経験していて、いろんなタイプの編集者、相性の良い人や悪い人、めちゃ読める人やそうでもない人、読みすらしない人、と仕事をしてきた。新しい人とやるときはいつでも手探りで、ちょっと緊張します。
鍋を作って、バスケットLIVEで昨日の琉球対川崎。昨年の王者・キングスのホーム開幕戦で、試合後にはチャンピオンリングセレモニーもやった、のに、二十一点差をつけられてキングスが負けた。サッカーのフランスやドイツのリーグは、一チームやたらと強いのがいるせいで二位争いがいちばん面白くなってしまっている、が、こうやって、王者があっけなく負けるほうが、どこのファン、というわけでもない者にとっては楽しい。試合が終わるころには眠気が限界で、まだ九時台なのに寝てしまう。468/600
10月27日(金)晴。八時ごろ起きる。十一時間睡眠。昨日は寝不足だった、とはいえ、久しぶりの長時間睡眠で、首の痛みがかなりマシになっている。メンタルも昨日よりは回復。朝の散歩のあとは夕方までもくもく作業、淡々とした一日。468/600
10月28日(土)曇。五時台に起きる。昼まで作業をやってから『大菩薩峠』。ずっと根岸の屋敷でお絹とねんごろに過ごしていた主膳はさる筋から、京都で内外の様子をスパイしてほしい、と打診を受け、お絹と移住することにした。
いっぽう、京を目指していた兵馬は、琵琶湖畔で心中の供養塔と、竜之助とお雪の卒塔婆を見つけた! 近くにいた猟師から、舟だけ見つかって遺体は揚がっていない、と聞かされる。旅籠の女将にさらに詳しい話を尋ねると、どうもその卒塔婆と供養塔は、胆吹王国の〈女豪傑の大将〉がつくったものだという。しかしこのへんの会話を見るかぎり兵馬は、心中した二人のうち男が仇の竜之助であることは察したようだが、女がお雪で、供養したのがお銀だ、ということには気づいていないよう。胆吹に行ってみても手がかりは見つからず、しかし夢のなかで、覆面姿の〈暴女王〉が竜之助を殺した、と直観している。
いっぽう甚三郎は、無人島だと思ってた島で先住者と出会った。フランス人らしい三十代の白人で、〈鉄と石炭〉によって堕落したヨーロッパに失望して文明を離れ、太平洋の孤島に小舟でやって来た、という。文明の信奉者である甚三郎との議論のなかで、彼はロバート・オーエンの試みについて語る。甚三郎と同様、同志を集めて集住し、新しい社会を築こうとして、しかし失敗に終わったウェールズ人。
「およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって、失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も、事業も、その轍を踏むにきまっています、失敗しますよ」
この台詞は甚三郎への呪いであると同時に、本書後半で展開されてきた、お銀、甚三郎、そして与八を中心に築かれる理想の共同体、という主題そのものへの痛烈な批判ではないか。議論は平行線に終わり、先住者は島を去るという。しかしこの先住者の語る、「鉄と石炭が欧羅巴を進歩せしめたというのは、近眼の見ている虹です」という言葉は良かったな。単なるレトリックではあるのだけど、文明を盲信することの危険性をよく表している。
午後二時に散歩に出、帰宅して午後は読書。夕方は気圧が下がってきたらしくやや不調、テイラックを飲む。513/600
10月29日(日)朝は雨、そのあと曇。昼前に散歩に出、三十分ほどぷらぷらする。そのあと二時間ほど作業。とにかく体力が落ちていて、なかなか集中できず。
昼に白菜と水菜と鶏の無水鍋を食って、午後二時にまた散歩、一時間弱。その間パニックの予兆もほぼなし。何が良かったのかはわからないけど、とにかく良かったのだ。こうやってまた、ちょっとずつでも伸ばして行きましょう。
まだ昨日の寝不足が響いているのか、夕方から観たBリーグの長崎対三河が終わったころには眠気が耐えがたく、風呂に入らず歯も磨かずに寝。513/600
10月30日(月)快晴。一日籠もって作業の日。朝食も抜きで始業して、もくもく書いていく。
昼休みにカップヌードルを食って『大菩薩峠』。竜之助は寂光院という寺に勝手に上がりこんで、尼僧の布団で勝手に寝。しかし勝手に上がりこんで勝手に布団を使ったのに、客人として迎え入れられることになった。〈無制限の逗留と、無条件の寄食を許されて……〉、仏心だ。と、思ったのだがどうも集中できず、十ページほどで今日はおしまい。
午後もカリコリする。今日の進捗は八枚ほど。五十枚前後の予定だったのが、まだ予定の半分も書いてないのに三十枚に達した。六、七十枚くらいになってしまいそう。削らないといけないかも。
夕食に蕎麦を茹でてバスケットLIVEで、土曜日にやってたB1の名古屋ダイヤモンドドルフィンズ対宇都宮ブレックス。試合中にまた空腹になったので、ウーバーイーツでケンタッキーを頼んでしまう。525/600
10月31日(火)曇。寝不足。昼まで作業をやって、白米を食って『大菩薩峠』を進読。京に発つ前に、主膳が江戸を巡っている。その場面の後あたりから、わりに小刻みに場面を切り替えて、主要登場人物たちの様子が描かれていく。何か長篇漫画の最終回の、いっしょに旅をしてきた仲間が目標を達成したあと、それぞれの故郷に戻ったあとの日常を描くエピローグ、みたいな雰囲気。本作は未完に終わったのだから、これが終盤というつもりはなかったのだろうけど、「椰子林の巻」の終わりが近いからかしらん。
弁信は京都・大原の来迎院を訪れる。与八は有野村で、住民たちに食糧の増産を働きかける。道庵は心中から生還したお雪の治療を続けている。そしてこの、主要人物たちを矢継ぎ早に描く流れのなかに、勝海舟(麟太郎)の受爵の場面が現れる。父親の小吉の自伝も長々と引用していたし、岩倉具視たちの暗躍も描いていた、新撰組もまた頻繁に出てくるようになっていたし、中里はこのあと、海舟を中心に幕末から明治の政治風景も描こうとしていたのかもしれないな。
そして新撰組の近藤勇と土方歳三の短い会話を挟んで、無名丸で島に渡ったうち、〈書き漏らされた存在〉についての記述がはじまる。恐山で修行した居合抜きの名手、しかしここまでそれほど目立った活躍をしてない柳田平治が、田山白雲といっしょに海水浴をしたあと、金椎が木蔭で祈ってるのを見かける。
もうちょっと読み通せないんじゃないかってくらい長かった『大菩薩峠』はこの場面で終わる。あまりにも呆気ない終局。未完の小説、というのを、私は中上健次の『鰐の聖域』と『異族』くらいしか読んだことがなかった、のだが、いつもこうやって何か、放り出されたような寂しさがある。もうええわ、というくらい長かったのに、これで終わっちゃうのか、と惜しむ気持ち。
夜、白米を二杯という大学生みたいな夕食のあと、これではいかん、とレトルトカレーといっしょに三杯目。それからバスケットLIVEで日曜の名古屋D対宇都宮を観た、が、寝不足がたたって、どうもウトウトしてしまった。寝不足、と思ったけど、もしかしたら、心身が回復に向かっているのかもしれない。
井上雄彦『バガボンド』のなかで、ふくらはぎを深く斬られた武蔵が深く深く眠り続けたことを、傷を負った野生動物がそうすることに似ている、みたいに描写している場面があった。と書きながら、なんかおれ前にも日記にこのこと書いたな、と思って見返してみると、新型コロナのワクチンを接種した夜に十時間も寝た、去年の十月二十七日に書いていた。今年も十月二十七日は十一時間睡眠をしてますね。十月末はよく寝ちゃうのかもしれない。なんとかバスケを最後まで観、あとは泥のように寝。567/600
11月1日(水)晴、日陰は肌寒い。七時ごろ起きる。バスケを観終わったのはたぶん九時ごろだから十時間睡眠、なのだが、第二クォーターあたりからずっとウトウトしてたので、十一、二時間寝たような感覚。実家から送られてきたぶどうを食って始業。
午後の散歩のあと、『大菩薩峠』の注解や解説を読む。全十巻、これで読了! 十一ヶ月かかった。この期間中はかなり心身の状態が悪く、一ヶ月お休みもしたし、どうにかこうにか、という感じではあるけれども、それこそ大菩薩峠に登ったような感慨がある(登ったことはない)。あとはエッセイを書いて日記を公開したら、このプロジェクトはおしまい。次はジョン・ル・カレかな。600/600
11月2日(木)晴、夏日。昨夜は一度ベッドに入ってからまた起きて、けっきょく二時ごろまで眠れず。朝から吐き気がする、が、夜更かししたせいだとわかってるので気が楽、楽ではないが……。
それでも散歩をしてからゆっくり作業。昼食はセブンのブリトーを食って『ゴルゴ13』を読む。もう『大菩薩峠』を読まない昼だ。といいつつ図書館で、神尾主膳が読んでた『夢酔独言』の取り寄せ予約をかけてるし、安岡章太郎の『大菩薩峠』論である『果てもない道中記』も読みたい。プルーストのときにも思ったことだけど、まだまだぜんぜん読み終われていないのだ。
午後二時よりちょっと早い時間に散歩に出。最寄りの公園で読書でも、と思ってたら、最寄りの公園では子供らが賑やかにかけっこをしていて、二つ目の公園ではサッカーをしていた。三つ目の、いつもあまり人のいない公園ではウーバーイーツのバッグを傍らに置いたおじさんが寝ていたり、私がいた十数分の間ずっと黒い布の袋を裏返したり表に戻したりし続けるおじさんがいて、まあ静かではあったので私も薄田泣菫を読むおじさんとしてベンチに座る。
そのあとはすこし楽になって、日が陰りはじめたころ閉店。夜は松屋のマッサマンカレーや麻婆豆腐のテイクアウトを食いながら、昨日の男子バスケ・イーストアジアスーパーリーグ、の、TNTトロパンギガ対千葉ジェッツを観。観終わったころには十時に近くなっている。寝不足だったわりに今日は一日あまり眠くなく、ただ寝不足由来の不調だけがあった。明日は祝日。
11月3日(金)快晴、夏日。また寝不足、やや不調。早く起きて風呂に入り、ちょっと読書をしてまた寝。
昼前に起きてウーバーイーツのハンバーグやカレーを食いながら録画してた番組を観、読書。二時に散歩して、午後三時五分からBリーグの東京対渋谷。あとは読書の休日にした。
夜、古川真人から電話。氏がこないだ知人と大長篇小説の話になって、プルーストやドストエフスキーなんかはけっこう読了した人多いけど、『青年の環』とか『死霊』とか、日本の近現代文学はあんまり、チャレンジする人も少ないですよね、『大菩薩峠』とか、みたいな話をしてさ、と言っていて、オッおれちょうど一昨日読了したとこだよ!と返した。
大長編小説を一作ずつ読んでるんすよ、ちょうど『大菩薩峠』読み終わったんで、次なに読もっかな、と話すと、あーじゃあ『チボー家の人々』とかいいんじゃないっすかね、と返された。じゃあそうするね!と言って電話を切った、ので、ジョン・ル・カレはまたいずれ。
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