2021.1.2


ベッドの上を手でまさぐったがスマホは見つからなかった。寝る直前までサッカーニュースを漁っていた記憶はあった。冬の移籍期間がはじまったばかりだった。チームとの契約がのこり半年を切った選手は、所属クラブに許可を得ずに他チームと契約交渉をすることができる。記憶にあるかぎり、昨夜さいごに読んだのは、そうやって自由交渉権を得た選手で構成されたベストイレブン──サッカーメディアはこのベストイレブンというやつが大好きで、ことあるごとに選定しており、日本でいう昭和六十四生まれベストイレブン、左利きベストイレブン、ナショナルチーム未選出選手ベストイレブン、ナイキのスパイクを履いてる選手ベストイレブン、そのポジションの選手が身につけるのは珍しい背番号をまとった選手ベストイレブン、とこれはいまサッカー専門ニュースサイトで〈ベストイレブン〉と記事検索した見出しを並べているのだが、こう毎日のようにベストイレブンを出されると正直いって食傷気味で、しかし私はこの手の記事を、ついつい欠かさず読んでしまう──を紹介する記事だった。リオネル・メッシとセルヒオ・ラモスがこのチームの目玉選手だ。二人ともスペインの名門のキャプテンだったが、そろそろ引退を視野に入れる年齢で、だから最後は自分の思い入れのあるチーム──メッシは十三歳まで所属していたアルゼンチンのニューウェルス・オールドボーイズへの愛着をたびたび口にしていたし、セルヒオ・ラモスは十九歳からずっと主力として活躍し続けているレアル・マドリーで引退したいとたしか言っていた──を選ぶだろう、と分析されていた。プロサッカーはシビアな実力主義の世界とはいえ、彼らクラスの選手が望むならどんなチームでも、よろこんで花道を用意するだろう。

 WOWOWかスカパーかDAZNか、海外サッカーの中継を観るには有料放送との契約が必要だが、私はそのために月々数千円を支払うのを躊躇している。私がライブで観られるのは日本代表戦と、日テレが地上波でやるクラブワールドカップ、合わせて年にせいぜい十数試合で、あとはすべて、ニュースサイトとやべっちFCで情報を仕入れており、だから、いちばん好きなチームは、と問われれば迷いなくACミランと答えるのに、私はミランの試合を、彼らが最後にクラブワールドカップに出場した二〇〇七年以来一度も観ていない。その間、私はあのチームについて、いくつかのゴールシーンをのぞけば、静止画とテキストでしか知らない。つまり、マルディーニが引退し、カカもガットゥーゾもセードルフも、インザーギもチアゴ・シウバまで放出したあとの凋落を、私は知らない。今の彼らがどんなスタイルのチームなのかも知らない。私にとってのACミランベストイレブンは、最後尾にジダがいて、ディフェンダーは右からコスタクルタ、ネスタ、カハ・カラーゼ、マルディーニ、中盤の底にピルロとガットゥーゾが並び、両翼にセードルフとカカ、最前線でシェフチェンコとインザーギが縦の関係をむすぶ、というメンバーで、これでは手堅すぎてつまらない。

 だからどうした、という話ではある。かたや試合中の姿しか知らず、かたや声でしか知らない、実際に会ったことなどない、という点で、自由交渉権をもつ十一人も、何人ものタクミくんやアカネちゃんやリョウも私にとってはほとんど同じだ。私はきっと、有料放送と契約することも、イタリアまで試合を観に行ったりメッシと面会したりすることもないし、窓を開けて路地を歩くたくさんのちいさな頭を見下ろすこともない。だから、きっと実在しているのだろう彼らは、私にとってはフィクションの登場人物とかわらない。

 ──などということを、寝起きの頭でつらつらと、延々と考えているのは、西原千博『作中人物は生きているか』を読んだばかりだからだ。もしかしたら昨夜、その本の内容でも初夢に見たのかもしれない。西原の、作中人物を〈生きている〉とする要件や、実作品にあたっての検討などは、私には牽強附会のように感じられ、同意できるところは少なかった(そもそも、「作中人物が生きているように感じる」という読者の反応を、それは作者の技術がすぐれているからだ、と片づけるか、もしかするとほんとうに生きてるかもしれない、と考えるか、という点で、私と西原の文学観は相容れないのだろう)が、西原の指導する学生が書いたレポートの言葉だけは、つよく印象に残った。その学生は芸能人を例に挙げていた。会ったこともない、遠くから見たことすらないタレントたちを、しかし、テレビでおどけてみせる姿だけを見て、私たちは、生きている、と確信している。そこには私たちの、実際には知らないものの存在を信じる〈想像力〉がはたらいている。そしてそのはたらきは、作品を鑑賞して「この人物は生きてるみたいだ」と感じるときとまったく同じだ。だから、芸能人が生きていると信じるのであれば、作中人物が生きていると考えることだって可能だ、と。

 私たちはアニメや吹き替えの洋画を観るとき、その声を発している声優の姿を見ることはない。私たちはそれらの声を、画面にうつし出された鎧塚みぞれやトム・ハーディが口にしたものとして聞き取る。声優の身体を忘れることも〈想像力〉のはたらきによるもので、それを敷衍すれば、芸能人やACミランの選手たち、そして窓下の子供たちこそほんとうは──作中人物がそうであるように──、“生きていない”のかもしれない。どちらかというとそのほうが私の文学観──というより、中二病というやつを引きずった私の感性に合っている。

 朝目を覚ますと、スマホが足のほうとかベッドと壁のすきまに落ちていて手が届かないことがよくあり、そういうとき、私はこうやってやくたいもない考えに頭を遊ばせて、すぐに忘れる。

 短針はまっすぐ右を指している。もう一時間くらい経ったのか。いいかげん飽きてきたので起きることにする。恋人は、たぶんまだ寝ているだろう。

 五年半前、勤務先の図書館が契約──また契約だ──を更新してくれないとわかって、私はそれを機に、ずっと目標だった専業作家になることにした。当時の私と同年齢で、単行本は一冊だけ、妻子を抱えながら、大学教員の安定した職をなげうって専業作家に転身した──そしてのちに自身の無謀さをふりかえり、「ようやるよ」と誇らしげにため息をついてみせた──ことに憧れを抱いていた小説家が、前年の二月に死んだことも、たぶん大きなきっかけだった。

 そして、いまにして思えば拙速にも、私は人生の転機を一時(いちどき)にまとめようとでもしたのか、恋人にプロポーズしたのだった。

 その求婚はあえなく断られ、しかし、彼女は、私のもうひとつの提案──家賃の安いところに広い部屋を借りて、いっしょに住もう──は受け入れてくれた。世界的に猛威を振るっていた新型ウイルスの、ちいさな恩恵として、彼女の働く外国映画専門の配給会社が、権利部門の社員の完全在宅勤務を認めたことも、その理由のひとつかもしれない。私は静かに文章を読み書きしたいし、彼女は大量のメールを打ち、日英の二言語で各所と電話をし、ZOOMやスカイプでテレビ通話をするのが仕事で、だから各自、防音のしっかりした部屋が必要、あとはダイニングと、喫煙者である彼女はぜったいにベランダがほしく、用を足しながら読書する習慣のある私はバストイレ別をゆずれない。そうやって条件を出すにつれて、新居の候補地は中央線を西へ西へとずれてゆき、そうしていまの、都内なのに緑ゆたかな丘陵の、大学のある街に行きついた。

 作家仲間の宇野原さんが、ほとんど演技してるようなコテコテの関西弁で助言してくれた──ええか、ダブルベッドを買うたらあかん、いまは仲ようにくっついて寝たいかもしれへんけどいろいろ事情でべつべつに寝とうなる日がきっとくる、せやからベッドはシングルふたつに限る、でくっつけて使たらええねん──通り、さして大きな諍いがあったわけでもないのに、数ヶ月で私たちは寝る部屋を分けた。仲が悪くなったとかではないが、なにか思いついたらすぐ書きはじめたい私や、いつだって世界各地にいる取引先の誰かが仕事中で、こちらの時間などおかまいなしにメールをしてくる彼女にとって、その環境がいちばん居心地がよい。朝の五時や四時、いまみたいに三時や二時に目が覚めて仕事をしていると、ふと隣の部屋から物音が聞こえ、間の壁をノックすると叩きかえされ、二人でなにか、いっしょに観た映画の主題歌とかクイーンのWE WILL ROCK YOUとかのリズムをとりはじめ、うれしくなってダイニングに合流して、いっしょにめちゃくちゃカロリーの高いカップラーメンなんかを分けあって食べる、というような夜が何度もあった。そのことを思い出して、壁をノックしてみたくなったが、寝ているのを起こしたら悪い。私はようやく、枕の下にもぐり込んでいたスマホを見つけ出した。午前三時十八分。二時間ほど前に、宇野原さんからの着信が入っていた。