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2021.1.3

 宇野原さんと知りあったのは神楽坂の下のほうにある四川料理の店だった。私が受賞した小説の新人賞は、当時は年に二度開催されていて、その都度一人か二人、佳作や選考委員奨励賞を出すときは三人が同時にデビューすることもあった。私も二人同時受賞で、しかしもう一人は遠方にいるため授賞式には参加できず、私は一人でスピーチをし、記念品を受け取った。私の前に、選考委員の一人が、祝辞めいたことを話してくれたのだが、彼はどうやら私に授賞することに反対していたらしく、ぼくときみは文学観が合わないから推せなかった、バツをつけたんだ、でもこうしてデビューしたからには、いいものをいくつも書いて、いつまでも書いてください、と、どうにもハッキリしない激励をしてくれ、私は緊張と反感でほとんどヤケになって、次は吉尾さんにマルをつけてもらえるようなもん書きますよ、と啖呵を切り、しかし吉尾さんはあたたかく受け止めてくれたりせず、イヤぜったいにマルはしない、と断言した。私は吉尾さんの作品を愛読していたから、売り言葉に買い言葉のその一言はけっこうこたえた。それでしょげかえっていた私を見かねたのか、編集者が、受賞祝いの席に何人か、同じ賞の先輩を呼んでくれたのだった。家が近く、そのとき暇で、かつ私と同年代だったのは、私の四回前、ちょうど二年前に同時受賞した宇野原さんと富士さんで、しかし富士さんは二作発表したところで筆を折って郷里の長崎に戻り、その後もコンスタントに作品を発表しつづけ、二年に一度は単行本を出している宇野原さんは、私の数少ない同業の友人だった。

 宇野原さんは下戸の私とちがって酒好きで、編集社に呼び出されたあの日も、ちょうど神楽坂のバーにいたらしい(というか彼は、そこにいない夜のほうが少ない)。酔っぱらうと人に電話をかける習性があり、その夜も何人かに電話をしていたのだが誰もつかまらず、岸和田の小学校からの親友であるバーテンのミツカくんに絡んでいるところに、思いがけず担当編集者から電話がきたのだという。酔っぱらった状態で、仕事中のはずのミツカくんを引きずるように入ってき、私が乾杯だけして残していた紹興酒を断りもなく一気飲みして、吉尾さんこないだの長篇なかなか悪くなかったっすよ!と叫んだ。ずっと静かだった座が良かれ悪しかれ盛り上がり、さすがに気分を害したらしい吉尾さんと、好物だという麻婆豆腐を飲み物みたいに一瞬で平らげたミツカくんが帰っていき、ちかくの席に飲み仲間を見つけた宇野原さんが編集部のツケで茅台酒のボトルを入れ、といよいよ収拾がつかなくなって、ようやく午前三時すぎ、ちょうどこうやって思い出している今くらいの時間に解放され、タクシーで上野の宿に帰るときにはもう、憧れの作家に文学観を否定されたことなんでどうでもよくなっていた。

 それももう、十年以上昔のことだ。宇野原さんはその後もときおり受賞祝いの会に参加しているらしいが、飲めない私にお声がかかることはなく、宇野原さん主催の作家の飲み会に誘われても、ほとんど全員アルコールが入ったなかではなかなか打ち解けられず、私を含めた三人が、〈宇野原会下戸組〉という、いかにも酔っぱらいが考えたネーミングのLINEグループをつくらされ、それなりに仲良くやっている。

 着信のあと、宇野原さんは私に何通かLINEを送ってきていた。〈おめあけ! いま神楽坂おるー? おったら反応して〉〈お〉〈ー〉〈い〉〈で〉〈て〉〈こ〉〈ー〉〈い〉〈イヤもう寝とるか、すまんね〉。文面でこれなら、電話に出ていたらきっと面倒くさいことになっていただろう。〈すんません、寝てました。あと神楽坂にはおらんです、徒歩六時間!〉。ちょっとふざけた返事を送ってしばらく待ったが、既読のマークは表示されない。宇野原さんは神楽坂の外れ、でかい神社の脇の傾斜を降りたあたりにパートナーのベラさんと住んでいて、終電関係なく帰りたいときに帰れる。もしかしたら今日はもう切り上げて寝たのだろう。私はスマホを充電器につないで立ち上がり、壁のボタンを押して、ようやく明かりをつけた。


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