コーヒーのブランドはどうでもよく、ただカフェインとにおいが摂取できればいいのだ。近所の専門店とか、スーパーのプライベートブランドとか、業務用食品の通販とかいろいろ試してみたが、いまはけっきょくブルックスに落ち着いた。電動ミルで挽いておいたものを冷蔵庫から出し、バルミューダのケトルで湯を沸かしながら、ケメックスのドリッパーを準備する。
バルザック、とコーヒーを淹れるときよく考える。バルザックを読んだことはない。読んだことはないが、彼もたいがい重度のカフェイン中毒で、しかしコーヒーを淹れるのを待ちきれないからか、もう豆を挽いた粉をそのままさらさら口に入れて食う、しかしそれではコーヒーのアロマを楽しめないからと、粉を鼻に詰めて執筆していたらしい。それで歴史に名を残しているのだから、バルザックがまともな書きかたをしていれば、いったいどんな優れた作品をものしただろう。バルザックはコーヒーを淹れる間も惜しんで小説を書いた。対して私は、湯はとっくに沸いているのにこうして文豪の、ぜんぜん本質的ではないことを考えて時間を浪費している、バルザックを読みもせず、と思考が自虐めいてきたところで、そもそも私にバルザックの逸話を教えたのは酔っ払った宇野原さんで、ということはたぶん嘘なのだ、と思い出した。ここまで考えてきたことがぜんぶひっくり返されたというか、おじゃんになったというか。
キッチンにコーヒーのにおいが漂う。USJで買ったスリザリンのマグカップに注ぐ。こぼさないようにそっと部屋まで運んだ。
明かりを消すと、十五畳のリビングはずっと先まで暗い。私の部屋から漏れる光だけでは照らせない場所がたくさんあって、怖いというより、その静けさが、その翳りが、さみしくなる。3LDKの広い部屋に引っ越して、恋人と、こんだけ広いといろんな人が呼べるね、と言いあった。宇野原さんとか(宇野原さんが居酒屋で粗相をしたとき、テーブルから落ちたぎんなんを、足腰立たない彼に代わって私が追いかけていった先に座っていたのがいまのわたしの恋人で、宇野原さんは七年経ったいまもそのことでうるさい)そのほかの共通の友人たち、ホームパーティみたいのはめんどくさいけど、月に一度、一人か二人を家にまねいて、お茶でもしながらおしゃべりしてさ。しかし当時は、ウイルスの感染拡大が落ちつく見込みもなく、当時の政権の、わざとじゃないとここまでできない、というくらいの酷い失政の連続で気も滅入り、思い描いていたこぢんまりしたにぎわいは、この五年の間に数えるほどもなかった。宇野原さんとベラさんとミツカくん、宇野原会下戸組の林原さんとルールー(FF Ⅹのキャラに由来する名前で、フルネームは黒薊ルールー、もちろんペンネームだ)、妻の美大時代からの悪友であるエリカとリン。仕事相手をのぞけば、私たちがふだん接するのはこの七人だけだ。それぞれに面識はあり、私たちが交際をはじめてからは、九人で井の頭公園とか多摩湖とか横浜の赤レンガとかまで行って無為に歩いたりしていたのに、それもこの五年ほど絶えた。ワクチンをようやく希望者全員が接種できるようになり、治療薬も開発されて、もう命にかかわるようなウイルスではないのに、他人の呼気に無防備に触れるのは躊躇われ、外出時のマナーとしてのマスクが定着してしまった。複数人で集まるのも、WHOが終息宣言を出して久しい今では何の問題もないはずなのにどこかしらうしろぐらく、集まって、でも何もしない、という無駄こそを私たちは愛していたのに、その無意味さに無心になれない。それでこの五年、もちろんそれぞれ単独で会ったりはしていたのだが、八人が一堂に会することはなくなった。あのウイルスで、幸運にも家族や友人の誰をも失わなかった私にとっては、それが何より残念なことだった。
自室の机に座り、ノートパソコンを開いた。スリープモードにしていた画面が点る。ログインすると、開きっぱなしにしていた原稿が表示される。コーヒーを飲みながら、冒頭から読みはじめた。毎日作業をはじめる前に、それがどんなに長い原稿でも、作品を冒頭から読み返す。それが私の、いくつもあるルーティンのひとつだ。この作品は中篇の予定で、いま三号目くらいだからまだましだが、一度四百枚の長篇を書いたときは、終盤には毎朝三、四時間かかってたいへんだった。それでも読み返す度に、細かな語句や句読点の位置のような、手を入れるべきところが出てくるし、自分が書いた文章のリズムに自分を合わせる作業は必要だ。それになにより私は自分の文章が大好きで、こうして読んでいるだけで機嫌が良くなる。何度読んでも飽きない文章を自分で書ける、というのは、私のいちばん幸福なところだ。
一時間ほどで読み返し、ちょっとカフェインが足りない気がしたのでもう一度コーヒーを淹れ、ようやく今日の原稿を書きはじめた。外はまだ暗い。部屋に時計はなく、パソコンも日時を表示しない設定にしていたが、たぶんまだ五時にもなっていない。冬の日は遅く、きっと外は冷えきっている。
そうやって集中していると、ふと、隣の部屋から人の動く気配が伝わってくる。音は聞こえないのだが、ベッドや椅子の上で身じろぎすると、その重心の移動が、床や壁を伝わってくるのだろう。私も椅子に座りなおす。気配がむこうに流れていって、すこししてからためらいがちに、壁が向こうからノックされた。
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