2021.1.6

 知りあってから交際をはじめるまでのそう長くない期間、私たちは外で会うこともあったし、互いの家──どちらも山手線の内側の、歩いて三十分くらいの距離にあった──を訪ねて、いっしょに夕食をとったり映画を観たりしていた。彼女のマンションは築年数の浅いデザイナーズ物件で、オートロックだった。私はエントランスのインターフォンを押して、ケンタッキーの箱とかマッドマックスの二作目のDVDとかをカメラにかざして変顔をした。五階に上がり、彼女の部屋のインターフォンを鳴らしてから、ドアをノックする。クイーンの、WE WILL ROCK YOUのリズムで。

 部屋のドアにはのぞき穴がないから、部屋の前にいるのがほんとうに私かどうかはわからない。オートロックとはいえ、私のあとについて誰かが入ってきたかもしれないし、同じマンションの住人かもしれない。だからクイーン。声を出して名乗ればいいとも私は言ったが、そういう関係になるまでわりあい早かったせいで、互いの声をまだ完全には聞きわけられない。それで、彼女の好きなクイーン。べつに部屋の前で〈きたよ〉とLINEするとか、電話するとか、合鍵をつくるほど心を預けあう前でもいろいろ方法はあったと思うのだが、私たちはその、秘密基地の暗号めいた合図を選んだ。クイーンの曲なら何でもよい、と言われはしたが、私は有名な曲しか知らず、しかしノックの音だけでボヘミアン・ラプソディを奏でるなんてできないので、けっきょくWE WILL ROCK YOUばかり叩いた。

 いまにして思えば、彼女がそんなにも、過剰なくらいに用心深かったのは、何か理由があったのかもしれない。若い女性が都会で独り暮らしをすることの危険性について、本やニュース、SNSで頻繁にシェアされる体験談なんかで知った気になってはいたものの、その恐怖の肌感覚は、私にはきっと一生わからない。その念入りな用心が、彼女の実体験に由来するものでなければいいと思う。彼女が話してこないかぎり、私はそのことを知らないし、知るべきでもない。

 いずれにせよ、私たちはいま同じ住所に暮らし、鍵にはおそろいのキツネのキーホルダーをつけ、用心のためのWE WILL ROCK YOUは、こうして、相手のことをいま考えている、という、やすらかなシグナルに変わった。

 三つ打ちのリズムだ。コンコンコン、コンコンコン、とくり返すノックの、三つめのコンに合わせて私もこちらから叩く。コンコンカン、コンコンカン。三拍めがあっちとこっちで高く響きあう。興が乗れば歌い出す。しかし私はいまだに歌詞を憶えていないから、歌うのはもっぱら彼女のほうで、私はサビのリフレインで合わせるだけだ。壁でなく、玄関のドアのあっちとこっちで叩きあっていたころ、高揚した彼女がフルコーラス歌って、昼間とはいえ冬の寒いなかで私がこごえたこともあった。満足した彼女がドアを開けてくれ、暖房の効いた中に転がり込んだ私に彼女は、やだ鼻めっちゃ冷たい!と笑って、私の冷えきった頰を、一曲歌って熱いくらい体温のたかまった手の平で挟んでくれた。あのころすでに彼女は、防犯のため、という本来の目的よりもノックの応酬を楽しみはじめていたようだったし、しかるべき言葉を交わしていなくとも、私たちは付き合いはじめていたのだと思う。

 防音がしっかりしているとはいえ、さすがに壁を挟んで向き合っていれば、かすかに声は聞こえる。すこし低めでハスキーな声だ。ふと思い立ち片手でスマホを引き寄せて歌詞を検索する。


Buddy you're a young man hard man

Shouting in the street, gonna take on the world someday

You got blood on your face, you big disgrace

Waving your banner all over the place

We will, we will rock you, sing it !


 こうやってみるとメロディのとおり、なんともいさましい歌詞で、私とちがって英語が堪能な彼女は、ドアの向こうの安全を確認してこの歌を口ずさみながら、いったい何を考えていたのか。そして何も知らずにウィーウェーウィーウェーロッキュ!とはしゃいでいた私の、なんとまぬけに無邪気なことか。

 一曲終わって、私たちが壁の前から離れるころには、私はさっきまで執筆しながらつかみかけていた波を逃したことに気づいた。もう一度机に座り、十分ほどがんばったものの、見えてくるのはクイーンの、というかフレディ・マーキュリーの胸毛とかのことで、これではいけない。スピッツのほとんどの曲で作詞・作曲を手がけているヴォーカルの草野マサムネが、あれは何のインタビューだったのか、自分がどんなふうに曲作りをしているのか、という話をしていたのを、こういうとき必ず思い出す。といっても私が憶えているエピソードはふたつだけで、そのうちのひとつが、風呂のなかとかで歌詞だかメロディが浮かんだとき、もちろん全裸だしメモ帳もギターもないから記録しておくことはできない、だからいそいで身体を洗って風呂を出るのだけれどそのころにはとうに忘れてしまい、しかし、そのくらいで忘れてしまうということはしょせん、リスナーにも忘れられるようなメロディだったのだからもう気にしないことにする、という話で、何百万枚も売れてるスピッツの人が言うのだから、きっと今私が逃した波も、じつはたいした波ではなかったのだ。そこまでひと通り自分に言い聞かせてから、彼女にLINEを送った。

 休憩!

 しかし彼女は寝なおしでもしたのか、メッセージは既読にもならない。なんだか寂しくなって、私はいそいそと、今日三度目のコーヒーを淹れにキッチンに向かった。