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2021.1.7

 私たちが住んでいるのは角部屋で、物置にしているもと寝室以外の全部屋に窓がある。二棹の本棚の間からは、明るい時間なら大学の緑が見える。大学との間には平屋や二階建ての民家が並んでいて、やや離れた私たちの部屋からも、赤煉瓦の講義棟や、私がたまに利用する附属図書館の、本が日光で傷みそうなガラス張りの建物が見えるのだが、夜明け前のこの時間にはいずれも明かりを落として闇が深い。湯が沸くのを待っている間、ソファに寝そべってスマホを見ていた。この時間のSNSは、ほとんどの投稿が外国在住のひとによるもので、日本の知人の投稿は、たいてい眠れぬ夜の中身のないつぶやきばかりだ。ニュースアプリはほぼ動きがないが、ヨーロッパサッカーのテキスト速報だけは五分ごとに更新される。めまぐるしく情報の飛び交う昼間の風景とはまったくことなっていて、それを見ていると落ち着いた。

 三度目のコーヒーを持って部屋に戻った。スマホが震える。〈それ今日何杯め?〉〈二杯目からは数えてない〉〈やめるの早いよー、プロレスだって三まで数えるよ〉私はなにかのキャンペーンでもらった武藤敬司がリングインするときのポーズのスタンプを送った。何も返ってこなかった。

 コーヒーを啜りながら作業を再開する。今書いている中篇には、語り手の青年が書いた作中作が登場する。その作中作を、私はずっと書きあぐねている。私自身と重なるところもあるがまったくの別人である語り手による私小説。異世界ファンタジーとか、もっと自分から離れた作品であれば、あまりにも遠くてすべて構築的にやれるのだが、今回は近すぎて手が届いてしまう。自分との距離を常に測りながら綱渡りしているようなかんじで、私はこの作中作に、やや疲れていた。

 そうしていると、またスマホが震えた。恋人かと思ったが、画面に表示されているのは宇野原さんの名前だった。通話ボタンをタップして耳に当てる。

 はい。

 オッ起きとるやんけ。起きたん?

 起きとります、書いてました。

 はー勤勉やね。はかどった?

 いえ、まあ、ボチボチです。

 さよけ。ほな飲も。

 神楽坂?

 そらそやろ。

 イヤ遠いんで。

 カオルのアホウ! イケズ! おたんこなす! ほなまたね!

 宇野原さんは私を本名で呼び、快活に叫んで通話を切った。なんだいや、と私は呟く。私はふだん、ほとんど訛りのない言葉を喋るが、宇野原さんと会話をすると、彼の関西弁に引きずられて、山陰の港町である郷里の方言が顔を出す。私の家族は、父の転勤に遭わせて、西日本のいくつかの街を転々とした。私はいずれの土地の訛りも身につけられなかったが、私の家族──父、母、姉と妹──は、みな父の郷里である港町の言葉を喋る。私はなんだか自分が疎外されているようにも思っていたが、単に私に友人が少なく、人との交流ではなく本から言葉を覚えた、というだけのことだ。

 続きを書きすすめようとするとまたスマホが震える。今度はベラさんからのメッセージだった。

 リョウくんごめんね、ウノいま酔ってる。久保野くんが帰っちゃったから寂しいみたい。

 まあいつものことなんで。お相手できずすんません。

 ホンマやで! 私もさみしい! おたんこなす!

 あんたも酔っとるんかい!

 ベラさんは大口開けて笑うゴリラのスタンプを送ってきた。宇野原さんといっしょに住むだけあって、ベラさんも相当に酒が好きなのだ。二人そろって下戸の私たちからすると彼らの酒量はほとんど怪物のようなものなのだが、きっと彼らからすると、一滴も酒を飲まずに三十何年生きてる私たちこそ怪物みたいなものだろう。

 ちなみにおれは酔ってないぜ!とミツカくんからもメッセージが来ていたが、彼も怪物の一人なので、これは既読だけつけて無視しておく。

 今日はやけに作業の邪魔が入る日だ。こうなるとなんだかもう、小説を書く気分が途切れてしまう。私は原稿のデータを最小化し、メールチェックをする。先延ばしにしていたものをいくつか返信し、メールを見返しながらグーグルカレンダーの予定を編集した。いくつかのちいさなコラム類の締切があり、いま書いている中篇は月末までで、来月には小説家五人での座談会の予定がある。あとは空白だ。中篇がそのまま載ればいいが、没になりでもしたら、週三でマッククルーをしていた学生のころより収入が少なくなる。ようやるよ、と私は声に出して呟いた。自分に聞かせるためのつぶやきだ、これは。図書館を辞めたときは、スケジュールのだだっ広い白さに、武者ぶるいするような、先行きの見えない心ぼそさを感じた。そしてそれは今も変わっておらず、ところどころに飛び石のようにある締切と発売日にとりすがりながら、これからも書いていくのだろう。

 朝の六時になった。スマホの目覚ましが鳴りはじめたが、音を最小にしているので、しばらく止めずに、その軽快な──初期設定のままで、曲名も知らない──メロディに身体を揺らしながら、グーグルニュースを見ていた。年が明けて一週間が経ち、新年のイベントがひととおり終わって、ニュースの報道内容も落ち着いたころだ。トップページの見出しをざっと読み、政治とサッカーに関するものだけ内容を見てすぐ消して、記憶にはほとんど何も残さない。原稿を開きなおし全画面表示にしてから、パソコンのディスプレイを閉じた。

 立ち上がって明かりを消し、部屋を出る。今日の朝は、いつだったかSNSで見た、七草リゾットというやつを作るつもりだ。


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