、と思うが、きっとどこの街を選んでも、私は同じ感慨を得ている。
ニュースアプリを閉じてLINEを開く。おまえもまじめか!といきなり目に飛びこんでくる。エリカだ。ルールーが、本人は決してそんな表情をすることのない、涙を流して大笑いする顔文字を返している。すこし履歴を遡ってようやく、私が、宇野原さんのばか丁寧なメッセージに合わせて、くそまじめなコメントをしていたことを思い出す。遅れてきたつっこみだ、と思ったが、エリカの発言は私の一分後に送信されていて、遅れているのは私のほうだ。せっしゃまじめなペンギンに候、とペンギンが仁義を切るスタンプが頭に浮かぶ。元になった映画の決め台詞だ。でもすでに三時間ちかく過ぎ、みんなは、サルの話でひとしきり盛り上がったあと、リンの〈じゃああとでねー〉を最後に静かになっていて、リアクションをするには遅い。峠の茶屋を前にすごすご歩き去っていくペンギンの後ろ姿も浮かんだが、それはスタンプではなく映画のワンシーンだ。LINEをしていると、誰かからのメッセージへの応答が、言葉やジェスチャーではなくスタンプで思い浮かぶことがある。教育とか心理学的にはたぶん、何かゆゆしきことだと分析されそうだが、LINEを見ているとき以外はそういうことはないから、味方が敵のスライディングで倒されたら、レフェリーのいない草サッカーでも反射的に手を挙げてファールをアピールするのに、スタジアムで観戦しているときはそんなことしないのと同様に、LINEという行動に脳が適応しただけだ、と考えるのは、数分前に閉じたアプリをまた開いて、サッカーニュースを見ているからだ。この行動のほうが心理学的にはゆゆしき事態なんじゃないか。
Comments