2021.10.23

もちろん、というか、入ってすぐ外す人は一定数いる。私のいるカウンターに本を借りに来る前につけ直す人がほとんどだが、たまに顔をさらしたままの人もいる。面倒だし、反論のために喋られるほうが嫌だから、こちらもわざわざ注意はせず、できるだけうすい呼吸で対応する。

 返すのって図書館こないとだめですか、とか、本見つかんないんですけど、とか訊かれると、ちょっとした会話が発生する。目を合わせて話をする。それはパンデミック前でも同じだったのだが、ほとんどの人が鼻から下を隠すようになると、ときどきマスクをしない人が来たとき、どうしてもその口元に目がいくようになった。化粧なんかしてるともうだめで、人間の、赤く塗られたりぷるぷるしてたりする部位が動いている、というか蠢いているのがどうにも気持ち悪い。禁断の果実を食べたイヴとアダムはこんな気持ちだったんじゃないか、とふと思う。二人が葉で性器を隠したのは、自分が裸であることに羞恥心を抱いたからではなく、相手の肉体に生々しさを感じてしまう自分に気づいたからだ。そんなことを考えながら、その本なら四階のDの棚ですね、みたいなことを喋る。向こうからしても、カウンターのなかの、マスクに隠れて表情のわからない男がやたら唇を見てくるのは不快だろう、とはわかりつつ、それならマスクをしてほしい、が、そう伝えるのは面倒だ。それで何も言わずに対応を終え、私の記憶に、蠢く赤い艶が鮮明にしるしづけられて終わる。退職から五年が過ぎてもこうしてときどき思い出す。マスクをしていないのはだいたい学部生か名誉教授で、五年経った今、あの学生たちのほとんどは、もう大学にはいないのか。