2021.11.3

ベラさんは宇野原さんを、ふだんはシンゴくんと呼んでいる。ウノさんというのは二人が交際をはじめる前の呼称らしいが、いまでもときどき、だいたいは笑いを帯びた声で呼ぶ。私たちはそのふたつしか知らないが、宇野原さんがベラさんをびぃちゃんと、私が恋人をみぃちゃんと、甘えるときだけ呼ぶように、ベラさんにも、二人でいるときだけの親密な呼称がきっとある。私たちはそれぞれの相手と場によって、呼称と人格を、無意識にであれ使い分ける。恋人と二人のときには顔を出さない人格が、みんなといるときは表に出てくる。頭のなかの、忘れそうになっていた回路が動いているのがわかる。

 列車の音。改札に向かって走る数人。松葉杖を突いた人と、その介助をする人。恋人の出勤の日に帰りを出迎えるときはよく、人の流れの慌ただしい構内ではなく、この時計台の前に立つ。もちろん寄り目や敬礼はせず、スマホを見下ろしたり、NHKの語学ラジオを聴いたりしている。小説家、という、なってみればたいして特殊でもないのに、名前や顔を出して仕事をしているからか、なにか浮世離れしたものと捉えられがちな職業に就いていると、やっぱり人間観察とか趣味なんですか、みたいなことをたまに言われる。観察、という表現は、高所から見下ろすようで不遜な気がするし、一人で街なかにいるときはだいたい、自分の考えごとをしているか、スマホなり本なりに没頭していて、他人をまじまじ見たりはしない。人々の営為をつぶさに見つめることで主題を見いだすような人もいるのだろうが私はそうではなく、かといって、趣味としての人間観察を他人に期待するような人にそれを説明しても、ああそれなら、自分との対話で思索を深めていくんですね、みたいな解釈をされるのがつねだ。それでつい、まあ人が何してるのかは見ちゃいますよね、と曖昧なことを言う。しかし実際のところ、見はしても、その先を考えることは滅多にない。改札に走る人は今来た便に乗りたくて急いでるだけだろう。松葉杖の人とその隣にいる人の関係も、考えようによっては短篇の萌芽にもなり得るとは思いつつ、わざわざ勘ぐることはしない。そんなこまごまと想像を走らせていたらきりがないのだ。ミツカくん乗ってるかな、と恋人が言う。時間までに来るならあれが最後だけど、と林原さんが返す。ほとんど他人の距離にいる宇野原さんを除いて、三十代半ばの男女が五人、みんなカジュアルな私服で駅前広場に集まっている。わたしたちを周囲の人はどう見ているだろう、ということも、わざわざ考えたりはしない。