2021.12.24

 恋人とルールーが、ルールーの新作について話している。宇野原さんが林原さんに、今月の文芸誌に載った君島さんの短篇の一節を口ずさんでいる。リンとエリカは私の知らない誰かについて陰口のトーンで交わしていて、ミツカくんとベラさんはそれぞれ一人で静かにグラスを傾けている。窓の外では学生の一人が「氷の世界」を歌っている。外はよほど寒いのだろう。私は立ち上がってトイレに向かった。ドアの、便座に座ると目に入る位置に、バイト募集の貼り紙がある。出勤は週に三度で五時間以上、時給は最低賃金より数円高いだけだが、必ずまかないが出るという。学生のときに週三で本格イタリアンが食べられるのはいいな。

 席に戻るとフリットが届いていて、窓の向こうの曲は山下達郎に変わっていた。おかえり、と恋人が言う。うなずいて、私も小声でワンフレーズ歌うとルールーが、今日イブだもんね、と苦笑した。窓に近い私たち三人には彼らの歌声がよく聞こえるが、いちばん奥の宇野原さんやミツカくんまでは届いていないだろう。聞こえていたらあの酔っぱらいのことだ、大声でサイレーンナーイとやりかねない、などと考えていると、外では違う声が歌いはじめる。山口百恵か。ワンコーラス終わると次は女性の声で大滝詠一、なるほど、陽水ではじまったから懐メロ縛りなのかな、と納得していると、今度は「空も飛べるはず」を合唱しはじめた。今の学生にはスピッツは懐メロなのか、と、彼らとの年の差を考えて落胆するが、考えてみればあれは私が五歳のときの曲なのだから、そりゃそうだよな。

 さすがに全員で歌う声は店の奥にも聞こえたらしく、バイトの学生さんが外に出て注意している。スンマセッ!すぐ行きますッ!と謝る声は、反省してないのがありありとわかるほどに大きく、店員さんが引き上げるとすぐに誰かが、ちょっと前なら憶えちゃいるが、と語り出した。店員さんが困ったように厨房を見、コックの一人が首を振る。煙草を吸い終わったのだろう、ここにゃあたくさんいるからね、と語る声がゆっくりと店を離れていった。学生さんがほっとした顔をしているのがわかる。あんた、あのこの何なのさ、とかすかに聞こえ、一拍おいてたぶん全員で、みなとのヨーコヨーコハマヨコスカー!と叫び、それで何も聞こえなくなった。

 主人公の男が、姿を消した〈あの子〉──ヨーコを探して、横浜から横須賀の歓楽街をさまよう、というストーリーの歌詞だ。〈あの子〉は髪が長くジルバが上手く、おそらく猫が好き。〈一年前〉にいた店、〈半年前に辞めた〉店、〈三月前までいた〉店のあと、子猫を連れて一ヶ月で〈オサラバ〉した店を経て、最後の聞き込みでは〈たった今まで座っていたよ〉と、男は次第に〈あの子〉に近づいていく。彼女が働くのは、おそらくどこも女性が男性を接待するタイプの店だ。

〈半年前〉の店では彼女が〈マリのお客を盗った〉ことで大騒動が起きたという。この時点では、せいぜい隣に座って酒を飲む程度の店、おそらくクラブやラウンジの類いだろう。たとえば性風俗店であれば、基本的に密室で一対一だから、同僚の客を奪い、それが騒ぎになることは起きづらい。

 その事件で居場所を失った〈あの子〉は、〈ハマから流れて〉次の街、横須賀で働きはじめる。〈ジルバがとっても上手くってよ〉というのは、店のフロアで客と踊っていたのだろうか。しかしその店も、言及するほどのトラブルがなかったのに、三ヶ月ほどで〈とんずら〉した。〈あの子〉にとってはそれほどにストレスの多い仕事だったということだ。

 しかし逃げ出していった次の店で彼女は、心に傷の残るような経験をする。〈ガイジン相手じゃ可哀相だったね〉という口調からは、外国人(横須賀という土地と、この曲がリリースされた一九七五年という時代を考えると、あるいは米軍人なのかもしれない)が店員を〈可哀相〉な目に遭わせることへの諦めめいたものも感じられる。その言葉に、給料を前借りしたまま逃げたことへの怒りが込められていないのも、被害者である〈あの子〉への同情によるものなのだろう。これは、〈半年前〉まではクラブかラウンジで働いていた〈あの子〉が、次第に店のランクを落とし、性風俗店に流れついた、ということなのではないか。そして〈ガイジン〉にされたことがトラウマになった彼女は、再び隣に座って酒を飲む程度の店で働きはじめたが、客に身体を触られただけでパニックに陥るようになった。

〈一年前〉から〈たった今〉まで、次第に接近してきながらも、〈あの子〉にはまだたどり着かない。たった今店を飛び出していった、と聞かされた〈あんた〉は、きっと礼もそこそこに立ち上がり、彼女のあとを追うだろう。サビ前にくりかえされてきた〈あの子の何なのさ〉というリフレインが、ここへきて〈あの子に惚れてるね〉に変化したのも、再会を目前にした〈あんた〉が安堵の表情を浮かべたからだ。

 この歌詞が面白いのは、全篇が、〈あんた〉や〈あの子〉ではなく、聞き込み先の情報提供者たちの台詞で構成されている点だ。ストーリーは〈あの子〉を探し求める〈あんた〉に寄り添って展開していくのに、二人が姿を現すことはなく、けっきょく再会できたのか、それこそ子猫みたいにスルッと逃げられたのか、物語の結末すらも曖昧に開かれている。本作の語り手はFFなんかのゲームでいえばNPC──主人公たちにヒントを与えるだけで消えていく、単なる村人Aにすぎない。一人称を欠いた小説、主要人物が誰かの台詞のなかにしか登場しない小説はいくつか思いつくが、脇役の台詞だけで構成されたものは読んだことがない。そういう小説が書けないか、何度か試みてはみたのだが、単に情報量が少なく独りよがりなものになるか、あるいは説明過多になるかで、けっきょく書き上げられたためしがない。

 リョウくんそろそろお会計、と恋人の声がして、私は我に返った。なんか考えごとしてた?

 ああ、うん、ちょっと。

 このあと予約いっぱいなんだってさ。ルールーが言う。

 イブですもんねえ。ベラさんが軽口を叩き、テーブルのちかくに来ていた店員さんが申しわけなさそうに頭を下げる。

 そうだった、今日はクリスマスイブだ。私はなんでイブに延々と「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の歌詞分析をやっているのか。これもぜんぶあの学生たちのせいだ。一方的に憤りながら、ミツカくんがスマホの電卓で計算して読み上げた金額を、尻ポケットで潰れた財布から出す。けっこう高かったな。