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2021.5.29

 隣室で、ドアの開く音がする。音、といってもそれは、夢うつつに毛布の衣ずれを聞くような、自分の身体になじんだ懐かしい音だ。この部屋に引っ越して五年、この部屋での暮らしが心身にしみこんで二、三年、といったところ。それぞれの部屋で仕事に打ち込んでいるとき──日中の半分くらいは、窓の外の音も入ってくるから椅子のきしみみたいなささやかな気配は聞こえず、彼女が数十分に一度、煙草を吸いにベランダのドアを開ける音が壁伝いに聞こえてくる以外、おたがいに、何をやっているのかわからない。

 隣の部屋に誰かいるってわからないようなところがいいです、と私たちは駅前の不動産屋で訴えて、店員さんにずいぶん怪訝な顔をさせたのだが、しかしこうして自室にこもり、独りで静かで豊かに仕事をしていると、集中が途切れたときなんかにふと、凝り固まった頭をほぐすように思いつく。──はたして今この壁の向こうに、ほんとうに彼女はいるんだろうか?


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