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恋と帳面

 はじめて日記を書いたのは小学生のころだった。学校の宿題だ。一行目に薄く刷られた「せんせいあのね、」をなぞってから、その日の出来事を書く。どんなことを書いても先生ははなまるをくれたが、最終行まで埋めなければ叱られた。そのころの私にとって日記は、強制されて書くものだった。二年生になってあのね帳の宿題がなくなると同時に、日記の習慣も途絶えた。

 その後、進学で引っ越したときや、出版されている小説家──久生十蘭や内田百閒の日記を読むたびに、自分でも書き出してみては、二、三ヶ月で途絶するのを繰り返していた。それが、二年前の初夏、文芸誌の依頼をきっかけにまた書き出して、もう一年半が経っている。その日に起きたことや食べたものを書き、考えたことを書く。書かなければ忘れてしまったこともあるだろうし、書いたせいで記憶にこびりついてしまったこともある。書いたにもかかわらず読みかえすまで思い出せないことや、書かなかったのに忘れられないこともある。今回の日記が、私にしては長く続いているのは、書くことそのものよりも、書くことが私にもたらす影響を楽しめているからかもしれない。

『大菩薩峠』の主人公である机竜之助は、その冒頭から、行きずりの老巡礼を理由もなく斬り殺す。その後も江戸や甲府に居場所を変え、敵の攻撃を受けて失明しながらも、夜な夜な辻斬りを繰り返す。彼に寄り添うのが、甲府のお大尽の令嬢であるお銀だった。幼少期に顔に大火傷を負い、外見にコンプレックスを持っているお銀は、ぜったいに自分の顔を見ることのない竜之助に強く惹かれる。彼女と結ばれた当初は、竜之助の悪癖も収まっていた。しかし、かつて斬り殺した妻の生家や墓を目の当たりにして、また辻斬りに出るようになった。お銀はそのことを知っても、竜之助を受け入れる。「どこで、どんな人を幾人斬ったということまで、ちゃんと帳面に記してあるんですから」と胸を張る。

 この〈帳面〉は、二巻の終盤、竜之助の指示で書きはじめたものだ。竜之助がどこでいつ人を斬ったのか、相手の名前や性別、年齢、そして斬った部位まで書いた。竜之助はその帳面を、「死んだ人へ供養のためにするのじゃ」と言っていた。

 人を斬る理由について、竜之助はこう語っている。「拙者というものは、もう疾うの昔に死んでいるのだ、今、こうやっている拙者は、ぬけ殻だ、幽霊だ、影法師だ。幽霊の食物は、世間並みのものではいけない、人間の生命を食わなけりゃあ生きてゆけないのだ、だから、無暗に人が斬ってみたい、人を殺してみたいのだ、そうして、人の魂が苦しがって脱け出すのを見るとそれで、ホッと生き返った心持になる。」生の実感を得るために人を斬る。そしてその供養のために、女に帳面をつけさせる。彼が辻斬りをしていると知ったお銀は絶望して、「わたしはいっそ、あなたにここで殺されてしまいたい」と言った。竜之助は、「その帳面のいちばん終いへ、お前の名を書いて歳を入れずにおくがよい」と返し、お銀は、竜之助といる限り自分も悪人として生きねばならない、と覚悟をしていた。

 その後、帳面について描写されることはないが、お銀は記録を続けていた。彼が人を斬るたび、その様子を聞いて帳面をつけるたび、最終ページ──自分の名の記されたページが近づいてくる。いずれ竜之助が自分を殺す、という約束。

 竜之助に兄を殺され、復讐を誓う兵馬は、世話になった僧侶の頼みで、能登守に離縁されたお君を江戸まで警護する。愛妾としたお君が被差別民の出身だと暴露され、失脚した能登守を、地の文の語り手は、「魔が附いたと見るよりほかはない」と非難していた。恋愛を至上のものとは思わないにせよ、こうした身分違いの恋というのは、フィクションのなかでは称揚されがちだ。そういう価値観に慣れきっていて、〈魔が附いた〉とまで言い切る地の文に驚いてしまった。

 フィクションを読むときと実生活を送るときの価値観は違っている。『ローマの休日』を美談として観ていても、実在の王女が外遊先で脱走して一般人と恋をしていたと知れば、声高に非難はしなくとも、眉をひそめる人は多いだろう。失脚の原因になったお君と添い遂げるならまだしも、能登守は妊娠したお君を尼寺に放りこんで逃げたのだ。

 権力の座から離れたとはいえ、能登守あらため勘三郎は、洋行にそなえて髷を落とし、洋装で砲術の勉強や新造艦の開発に打ち込んでいる。勤番支配の地位にあったときより生き生きした彼と比べて、お君は消沈している。「殿様のお言葉一つによって、わたくしはこの場で死にまする」とまで言い、勘三郎が着々と洋行の準備を進めていると知って、彼から贈られた短刀の鞘を払って自害しようとした。すんでのところで押しとどめて兵馬が言う。「お君殿、そなたの身の上を頼まれたは拙者、殺してよい時はこの兵馬が殺して上げる、それまでは不足ながら万事を拙者にお任せ下さい、(…)それがいやならば、この短刀をお返し申す故、この場で改めて自害をなさい、兵馬が介錯をして上げる、介錯した後にはこの兵馬も、そのままではおられませぬ」。竜之助がお銀と交わしたのとよく似た約束を、兵馬はお君と交わした。

 兵馬は神奈川宿から、巨大な外国船が新造された横浜港をあとにするのを見送りながら、「壮快な感じから、一種の悲痛な情が湧いて来る」。そして船が見えなくなって、「自分は敵をうたねばならない身だと思って、雄々しくも、腰の刀を揺り上げて立ちました。」文明開化をもたらす西洋の息吹と、仇討ちという旧時代の剣士の風習の対比は、洋行に邁進する勘三郎と、武士が女と交わした二つの約束の対比でもあるだろう。

 しかし、竜之助がその後お銀と離れてしまったように、兵馬も、竜之助への復讐という大願を前にお君を持て余し、旧知の医者である道庵に彼女の身柄を預けた。彼は竜之助が通っているという吉原を訪れて、遊女の東雲に骨抜きにされてしまう。当初の目的を忘れて通い詰め、東雲がほかの太客に身請けされそうだと知って焦り、勤王派の知人の口車に乗って、金ほしさに新撰組の隊士を暗殺しようとまでする。その挙げ句、彼は人違いで別人を殺めた。兵馬は恋によって、進むはずだった道から逸れてしまった。

 目の見えない竜之助にとって、「ただ人を斬ってみる瞬間だけに全身の血が逆流する。その時だけがこの男の人生の火花」と地の文が語る。「恋せられたって、愛せられたって、それがどれだけも骨身にこたえるものでもあるまい。金で買われる果敢ない一夜の情に堪能して、それで慰められて行くならば、何のたあいもない!」という感嘆は、遊女の東雲に入れあげて、何の恨みもない人を殺してまで彼女を身請けしようとする兵馬との対比でいっそう強まる。

 竜之助は高尾山で、お徳という女に身のまわりの世話をされながら、徐々に視力を取り戻していく。お徳の準備した酒と飯を堪能しながら、竜之助は、〈久しく潜んでいた腥い血〉のたかぶりを感じる。「この時に、むらむらと人が斬りたくなりました。眼に触るる人を虐げて、その血を貪ってやりたい心持が、ようやく首を持ち上げ」る。しかしこのとき竜之助の手元には刀がない。逸る心を抑えて横たわると、「焚火にかがやくお徳の血色というものが、張り切れるほどに豊満な肉を包んでいました。」

 視力を取り戻した竜之助は、お徳の身体のゆたかさを見つめている。すでに、彼の心はお銀から離れている。視覚で性を感じている竜之助は、お銀と再会すれば、その目で彼女の顔を見るだろう。お銀にとっての思慕が終わる瞬間だ。そのときお銀は、末尾に自分の名の書きこまれた帳面をどうするだろう。


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