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彼が話そうと思わないこと


 もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。


 サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、アメリカ西部の街の病院で静養するホールデン少年の、こんな独白ではじまる。彼にとってそういう話題は退屈だし、両親も、とりわけ父親は、自分たちのことを息子がべらべら喋るのを嫌うのだという。

 私が書く小説のなかには、私小説的なつくりのものも多いし、ここ二年ほど日記を書いていて、その日記を加工して公開してもいる。読んだ本や観た映画のこと、家族や知人、友人とのやりとり、散歩中の空の色や犬の鳴き声、日常生活で印象にとどめたいろいろなことについて、これは小説に織り込もう、これは日記に書くだろう、これはさらに手を加えて公開用の日記に残せるかもしれない、と考える。もちろん、他人のプライバシーにかかわる情報はその人と特定できないほどに改変するし、どうしても書きこまなければ作品が成立しないときは(そういうことはこれまでなかったが)本人に許可を取る。私の小説や日記に自分が登場していると知ったときのリアクションは何パターンかあって、よろこぶ人もいれば、苦笑いしながら苦情を言う人もいる。私に書かれたこと自体を自分の日記やSNSに書く人もいる。ホールデンの両親は、そういうとき「めいめいが二回ぐらいずつ脳溢血を起こしかねない」そうだが、私は誰かにそのことで怒られた経験はない。そういう人は黙って縁を切るのだろう。

 私の両親は私の小説を読んでいるし、父には作品の構成の甘さを指摘されたこともある。私が地元紙に毎月書いてるコラムを、母は友人たちの間で回覧して、その感想を送ってくれたりもする。そんな母が、何のことだったか──シンクの掃除とか、食材の水抜きの仕方とか、生活の、あまりお行儀が良いとはいえない効率化についてのことだった気がする──、私に手本を示しながら、小説に書かんでよ、とぽつりと呟いたことがある。私はそのことも小説に書いたが、それについては彼女は何も言わなかった。

 ホールデンが先回りして拒否しているように、人は、他人の人間性の由来を確認したいという欲求をもっている。『大菩薩峠』の冒頭、たまたま峠の上で行き会った老巡礼を何の理由もなく斬り殺し、その後も行く先々で辻斬りを繰り返す机竜之助の姿を見ながら、私はときどき、彼はなぜこんな人間になったのか、を知りたくなった。凶悪犯罪が起きると、犯人の生い立ちや経歴が詳細に報じられるが、その偏執狂的な報道を支える視聴者と同じように、自分や自分の身近な人間はそんな非道な人間ではあり得ない、と考えて安心したいのかもしれない。沢井──現在は東京都青梅市に属する──の剣術道場に生まれ、〈音無しの構え〉で無敗を誇る剣客だというから、幼少期から剣術修行に打ち込んでいたことくらいは想像できるが、そういう子供がみんな辻斬りになるわけではない。

 そう考えてみれば、『大菩薩峠』の主要登場人物はほとんど、小説がはじまる前にどんな幼年時代を過ごしていたかが説明されていなかった。お銀が十歳のころ、父親の後妻の手によって顔面に大火傷をし(少なくともお銀はそう信じている)、そのことで自分の外見にコンプレックスを持っている、ということくらいだろうか。七兵衛はなぜ盗賊になったのか、お松はなぜ祖父と二人きりで巡礼の旅をしていたのか、捨て子だったという与八やお若の両親はどんな人で、なぜ彼らを捨てたのか。

 その一部が、筑摩書房愛蔵版の五巻に収録された「みちりやの巻」の冒頭沢井の道場ちかくの寺で交わされる噂話として明かされていた。その寺の、竜之助の幼なじみだという禅僧によると、竜之助は九歳のころ、はじめて人を殺したのだという。「ある時、あだ名をトビ市といった十三になる悪たれ小僧が、それがどうしたことか、竜之助さんの言うことを聞かなかったものですから、竜之助さんが手に持っていた木刀で、物をもいわず、トビ市の眉間を打つと、トビ市がそれっきりになってしまいました……」そして竜之助は、十二、三歳のころには、道場を訪れる武者修行のほとんどが敵わないほど強くなった。「そうしてもし、自分より上手の者が来ると、幾日も、幾日も、その人を泊めておいて、その人を相手になってもらい、その人より上にならなければ帰さないというやり方ですから、ぐんぐん上達するばかりでした」幼少期から彼は非情な人間だった。そしてかなり強引なやり方とはいえ、ひたむきに強さを求めていた。それはもしかしたら、「竜之助さんの修行半ば頃から、お父さんが病気にかかって、起き臥しが自由にならなかった」ことが影響しているのかもしれない。

 とはいえ、それが分かったところで、血に飢えた辻斬りまではまだ飛躍がある。幼少期にどんな過酷な経験をしても、非道な人間になるとは限らない。

 その例がお銀とお松だった。前述のとおりお銀は義母に大火傷を負わされた。人と会うときは極力顔を隠し、目が見える人を嫌い、見えない竜之助を、彼が視力を失っているが故に愛した。それでもお銀は本巻で、盗賊に身ぐるみ剥がされて全裸で木に吊り下げられていた青年僧の弁信を、それが旧知の人だとわからないうちに、木から下ろして介抱してやる人の良さを示した。竜之助同様に目の見えない弁信は、彼女の外見コンプレックスのむこうに、「本然の、春のように融和な、妙麗なお銀様の本色」を見出してもいる。お松も、理由もわからず旅先の山中で祖父を惨殺され、頼った江戸の親類には売られ、京の遊郭にまで身を落とした。しかし本巻では、祖父の仇の生家と知りながら、主を失った沢井の道場に拠点を置いて、地域の子供たちに勉強を教えてやったり、各地に地蔵を建てたりして過ごしている。二人が過去のつらい経験を克服したかどうかは、全十巻の半ばでしかない今の段階ではわからない(お銀は本巻の最後で実家に火を放ち、義母とその息子を焼死させていて、お松も今後、ここまでに明かされていない人間性が露わになる瞬間があるかもしれない)。

 本作の一巻では、かつて七兵衛が妻に逃げられ、ひとり息子を「里へ預けて来た」と言っていた、というエピソードが描かれていた。それが本巻では、街道沿いに捨てられていたのを竜之助の父親に拾われ、兄弟のように育てられた与八こそがその息子であることがほのめかされる。その事実によって、七兵衛がこれまで、祖父の死体の傍らで泣いていたお松を我が子のように見守り続けてきた理由もわかる。長大な物語も半ばにきて、ようやく、各人物の人間性の深みが見えてきたような気がする。

 生い立ちは、その人の人間性だけでなく、教養にも大きく影響を与える。本巻では画家の田山白雲が、お角から西洋風の絵を依頼され、それには西洋の風物を、原書を読んで学ぶ必要がある、と一念発起して、〈エイ、ビー、シー〉から言語を学びはじめる。幕末の庶民階級が幼少期から英語を学ぶ機会はほぼなかっただろう。いっぽう、元旗本の駒井甚三郎は英語を流暢に扱う。「全く世の中は儘にならないもので、田山白雲はああして狂気のようになって、いろはからその知識を探り当てようともがいているのを、駒井甚三郎は何の予備もなく、何の苦労もなしに、かくして読み、且つ訳している。」と地の文の語り手は言っているが、外国語を修得できるほどの教育を受けられるかどうかは、本人の才能よりもその家庭環境によるところが大きい。

 江戸の老医者・道庵と、もとは伊勢・間の山の芸人であった米友という、本巻では中仙道の旅の道連れである二人も、教養の違いが描かれている。米友は、木曽川の観光名所である〈寝覚の床〉のことを知らない。「事実、米友は、風景をながめんがために旅行をしているのではないとはいいながら、沿道の風景を無視していることがかなり甚だしい。道庵は道庵だけに、軽井沢の夕暮の情調を味わうことも知っていれば、浅間の湯治場の祭礼気分に、有頂天になるほどの風流気もあるし、木曾路へ入ってからでも、夜間、暇を見ては読書もするし、かなり四角な字を並べたり、色紙、短冊を染めてみたりしているのですが、米友にはそれがない。」同道していながら、二人の旅の体験はまったく違う。

 人はそれまでの人生で経験したものでできている。だから人は、自分の理解のおよばない人物を前に、その生育歴を知りたがる。凶悪犯やフィクションの登場人物、好きな人や著名人。日記文学というのが成立するのも、この欲求によるものだろうか。

 クリスマスのころに体験した出来事を振り返り終えたホールデンは、最終章をこう語り起こす。「僕が話そうと思うのはこれだけなんだ。うちへ帰って僕がどうしたかとか、どうして病気やなんかになったかとか、この病院を出たら秋からどこの学校へ行くことになってるかとか、そういうことも言ってもいいんだけど、どうも気が進まないんでな。ほんとなんだ。いまんとこ、そういうことにはあまり興味がないんだよ。」彼の韜晦を、はじめて読んだ高校生のころからずっと愛し続けているのに、私は今日も日記を書いて、自分の体験を小説にしつづけている。


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