昼休みにジョン・ル・カレ 2025.10.15~2025.11.15
- 涼 水原

- 12月14日
- 読了時間: 64分
更新日:2 時間前
10月5日(日)曇。夜中に長めの地震で目が覚めた、がすぐまた寝。
九時起き。起床即ランに出。十・二五キロ、一時間四分十二秒。水湯水湯水を浴び、アイスコーヒーをごくごく飲む。ラン中に水分補給をしないので、家に戻ってくるころには喉が渇いている。暑さが落ち着いてきたからいいけど、さらに距離が伸びたりまた夏が来たりしたら、飲みものを持って走れる装備を導入したほうがいいかもしれない。
午後、昨夜いったん最後まで編集した公開用の日記を見直して五時ごろ公開した。「昼休みにジョン・ル・カレ」、また新しいシリーズだ。
六時すぎ、もうかなり暗くなった外に出。十分ほど歩いて銭湯へ。けっこう混んでいた。今日もサウナ、水風呂、露天風呂の床で呆然、と三セット。サウナにカバーをかけた文庫本を持ちこんでいる人がいた。私なら、暑さで頭が回らなくなって、本の内容が入ってこない気がする。何読んでたんかな。
二セット目の水風呂に入っているとき、女湯のほうから総身の力を振り絞って泣く赤子の声が聞こえはじめる。泣き声はそのあともずっと続き、三セット目のサウナから出てきても変わらずに響いていた。この銭湯にはととのい用のスペースというのがないので、露天風呂の脇の床で壁にもたれて座る。露天といっても街中のことだから高い壁に囲われて、空はずっと上にわずかにしか見えない。ときどき風呂から漏れてくる湯に身を委ね、遠くから響く泣き声を聞くともなく聞きながら狭い夜空を見上げているうち、この泣き声が見知らぬ赤子のものなのか自分のものなのか分からなくなってくる。あっちで泣いているのはもしかして私なのでは、とふと。今ここ、夜の底の露天風呂の床に座って呆然としているのは赤子のほうなのでは? それならなぜ私はあんなに泣いているのだろう。きっと私には、あれほど世界に失望したように泣き叫ぶだけの理由があったのだろう……。
やがて赤ん坊は泣きやんで、私も風呂の床に戻ってきた。いそいそと立ち上がり、ザッと身体を洗い直して出。
先週の銭湯後と同じラーメン屋へ。前回と同じやつを食い、今日は替え玉も頼んじゃう。この時点ですでに午後八時くらいだった、のに、スーパーに寄って寿司とカキフライも。めちゃくちゃ食べるではないか。もう動けない、というくらいの満腹になり、ベッドに打ち上がった。
10月6日(月)曇。十時ごろジョグに出。なんか便秘ぎみだったしまあ五キロくらいかな、と思って走り出したのだけど、けっきょく七・五キロ走った。
マンションに帰ってきて階段を上がってたら、近所の家から子を叱る母親らしい声が聞こえてくる。内容は聞きとれないが、片付けもできない人には〜〜する権利ないんだよ、と怒鳴っていた。声変わり前らしい子が泣きながら何かを、〜〜だもん、と言い返すとさらに激して、そんなこと言ってどうせできないくせに、と叫ぶ。子育てのNGフレーズをぜんぶ踏んでるな……、と思ったがしかし、私がそう批判的に考えられるのは部外者だからだろう。彼女だってこんなふうに叱りたくて子育てをしているわけではないはず、と思ったが、わたしだってこんなこと言いたくない、あんたがちゃんとしないからやむなく叱っているのだ、というのも、自分の感情の責任を子に押しつけるNGフレーズだよなあ。
晩めしは実家から届いたルー(まだたくさんあるのだ)を使ってクリームシチュー。食いながらバスケを一試合。
十一時ごろベッドに入った、が、なかなか眠気がこず、SNSを巡回する。なぜか最近、Facebookのフィードに、〈バイオハザード〉シリーズのプレー動画が上がってくる。それで眠れない夜に観つづけて目を冴えさせてしまっている。どうも外国のストリーマーやYouTuberが、自チャンネルの宣伝のために数分間の動画を大量にアップしているらしい。それが私のフィードに出てきた理由はわからない、が、私はPS2の『バイオハザード4』を十回以上プレーしているもので、たいへん懐かしくなり、『4』のリメイクである『RE:4』の動画なんかはついつい全部見てしまう。それでますますフィードに『バイオ』の動画が増える。
『RE:4』は『4』の十八年後に出た。技術の進歩によって映像はめちゃくちゃ鮮明になってるし、操作法も複雑になってそう。それでも、全体のストーリーは同じだし、敵やステージの形状はかなり似ている。『RE:4』やりたくなってきたな……。しかしPS4もPS5も持ってないのでプレー動画を観るしかない。
と思ったけど、こうやってプレー動画を観てる時間にセッセと仕事をしてしこたま稼いで、PS5を買っちまえばいいのでは?七、八万円ということは原稿料に換算すると何枚分か……、とまで考えたのだけど、しかしゲーム機というのは買って終わりではなく、そのあとの可処分時間をすさまじく浪費させられるものだ。なんせPS5には遊びたい作品がたくさんある、とここに列挙してみたのだが、列挙すると遊びたくなってしまったので消した。実際に買うかどうかは別にして、プレー動画を観ていても『バイオ』をやりたい欲求は満たされないことがわかってきた。しかしそう気づいたころには日付が変わろうとしている。寝ましょう。
10月7日(火)曇。今日も朝からジョグを、と思ってたけど散歩にする。駅前で『ビッグイシュー』の最新号(ノエル・ギャラガーが表紙、リアム・ギャラガーが裏表紙、特集は「人間と薬物。そのつきあい方」という、明らかにオアシスに宛てた内容)を買った。
正午ごろからとつぜん腹具合が急降下。十五分おきにトイレに立ち、しかし何も出せずに机に戻る、というのを繰り返す。
それでも午後一時にジョグに出。序盤はずっと腹が不穏な音を立て続けていた。聞こえないふりしてもくもく走る。
小説とランニングは似ている。一歩ずつしか進めないが、止まらなければいつかは終わる。急ぎたくなるときもあるが、ペースを上げれば後半で苦しむばかりで、けっきょく一定の速度を保つのが最終的には楽だ。そう自分に言い聞かせながら、しかしこの腹の圧迫感はどうすれば……と思いながらも、出る前に思い描いてた通りのコースを走った。八・八キロ。小説もこんくらいスムースにいければ……。
夕方にまたジョグ。二十分ほどかけて三キロ。ザッとシャワーを浴びて長谷川あかりレシピで黒胡椒唐揚げを作る。黒胡椒、こんくらいかな、の二倍は入れたのだけど、もっと入れてもよかったな……。昨夜のシチューと食いながらバスケを一試合。
10月8日(水)晴。ぐっすり寝、しかし回復はそこそこで、朝から足パンパンである。
それでも午後一時にジョグに出る。今日も朝から腹がギュルギュル鳴っていて何度もトイレに立っていた。だからまあ控えめに……と思っていたのに、一キロほど走って、これまだまだ行けるなあ!という気持ちになって、家から離れるほうにエイヤッと曲がってしまう。適当に路地に入ったら道に迷ったりもし、それでも歩きはせず走り続け、けっきょく十キロを越えた。
晩めしの前にもう一度ジョグ、今度は切りよく十分間。昼間と合わせて十一・九キロ。終盤は疲れ切って、あまりフォームのことを気にする余裕がなかった。今日はなかなかタフなランでした。
アラン・ギロディ監督『湖の見知らぬ男』が観たかったのだけど日本では何度か映画祭で上映されただけで円盤になっていないので北米版のブルーレイを買った、のが、昼のランの間に届いていた。晩めしを食いながら、と思ったが、モザイクなしのオーラルセックスや射精シーンがふくまれるとのことで、食事中にはあんまりよろしくないかしらん、と、けっきょく今日もバスケを一試合。
10月9日(木)曇。昨夜の二時半ごろ、友人からLINEが来ていた。水原涼公式サイトの日記を読んでくれたそうで、氏がかつてSNSに上げていた『オールド・ジョイ』の感想を送ってくれた。というか私は彼の投稿で『オールド・ジョイ』のことを知って、U-NEXTのマイリストに入れてたのだったか。
ウットを飲んで十一時に歯医者へ。今日は二ヶ月に一度のクリーニングの日。しかし、ここ二、三日は丁寧に磨いたものの、それまでは一、二分ザザザとブラシで撫でるだけ、みたいなやりかたをしていたせいで歯周ポケットからの出血がひどく、手抜きがバレて叱られた。
ウットの副作用か、午後はずっと全身に倦怠感があった。それでも一時にジョグに出る。昨日の疲れが残ってるしずっと腹がクルクル言っている、ので今日こそ五キロ。しかしとにかく疲れ切っていて、あまり力強いランができなかったな。今の私はまだ、十キロを走ると翌日まで引きずってしまう。
走れたのは良かったものの、気圧が低くて具合悪し。ベッドリネンを詰め込んだ洗濯機もなんだか不穏な音で回っている。今日は良くない日だったな……。自分の快復力で御しきれない疲労を抱え込むのは良くないことだ。
夜はバスケを一試合。これもぴりっとしない展開。こういう日もある。
10月10日(金)曇。午後三時、銭湯へ。今日もサウナを三セット。しかし今日はいまいちでした。一セット目はいい感じに心身が緩んだのだけど、二セット目では古株のサウナの主みたいなおじいさんが、口に手を当てずにくしゃみをした一見ぽいおじさんを咎めたことで口論がはじまり、三セット目でも、私が入ってた十二分の間ずっと全身を掻きむしってはその指をピッピッと払ってるおじさんがおり、なんせサウナなのでたっぷり出た汗もいっしょに飛んでいて、ボリボリピッピッの音が狭くて静かな空間で唯一の音として響きつづけてぜんぜんととのわず。それでも身体はたいへんに気持ち良かったです。
髪を乾かしていたら、脱衣所のテレビで、公明党が連立政権を離脱する、というニュースが流れていた。斉藤鉄夫代表の会見の、音声はドライヤーの音で聞こえなかったのだが、字幕では〈政治とカネ〉問題への対応で合意ができなかった、と表示されている。〈自民党は「検討」ばかり〉というキャプションが出て、身も蓋もなくて笑っちゃった。
帰宅して軽く昼寝、夜にバスケ。十月二日の静岡対福岡を観る。福岡、昨季は全試合を観たもので、ジョシュア・スミス(推し)がいなくても、なんだか他人の気がしない。
10月11日(土)雨。朝食にカロリーメイトだけ食って、霧雨のなかをジョグに出。十・四五キロ、一時間四分。
午前は原稿、午後は読書。執筆も読書もいまいち楽しめず、疲れ切る。夜にバスケを一試合。
10月12日(日)曇。
午後、広末涼子『ヒロスエの思考地図』(宝島社)を読む。古今東西の哲学者の言葉から思索を広げるエッセイ集。広末は、さまざまな箴言を引用しながら、それと響き合う過去の経験を紹介したり、フレーズの内容とは関係ないけどふと思ったことを綴ったりする。ヴィトゲンシュタインの〈私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。〉(P.62)という言葉に対して、髪型を変える、という非言語的なメッセージによって自身のパブリックイメージの変革に成功し、人気タレントの道を歩みはじめた、という実体験をもとに、〈言語の限界を超越できる何かが、私はあると思う。〉(P.66)と反論しているところなんかはたいへんにエキサイティングだった。
午後二時前、曇り空の下ジョグに出。今日は三キロ半。ほどよく速く、しかしキツすぎない良いペースだった。そのまま一時間ほど散歩した。
夕方から映画。まんをじしてAlain Guiraudie "Stranger by the Lake"を観。ハッテン場になっている南仏の風光明媚な湖が舞台。主人公のフランクは、ときどき全裸で泳ぎつつ、なんだか寂しげなノンケのおじさんとおしゃべりしたり、名前も知らない男と身体を重ねたりしながら湖畔の日々を楽しんでいる。そんななかフランクは、湖のなかで男二人が激しく揉みあい、一人はやがて岸に上がったものの、もう一人は沈んだまま浮かんでこない、という一部始終を目撃してしまう。岸に上がってきたのは、彼が最近ちょっと気になっている、ギリシャ彫刻みたいなイケメン(ミシェルという名だとあとで知る)だった、のだけどフランクはその色香にやられて彼と関係を結ぶ。やがて沈んだ男の死体が発見され、刑事が捜査を開始する……、という筋。綺麗な自然のなかでさほど綺麗ではない男どもが絡み合い、オーラルセックスや射精シーンもモザイクなしで鮮明に写し出される。その明るさと、不穏な夜の暗さの対比。たいへんに良かったです。
私は本作、日本では何度か映画祭で上映されただけで円盤になっていないのを、北米版のブルーレイを買って観た。だから字幕は英語しかなかった、のだが、まあ台詞の七割くらいは分かった、し、わからなくても十分に楽しめた。高校の英語教師が、長文読解の問題は、逐語訳を求められる場所以外は必ずしも一〇〇%理解する必要はない、意味を追うことができればいいのだ、と言っていた、のを思い出す。
そういえば私は"Mishima: a Life in Four Chapters"の映像特典も、フランスのテレビ局が作成したものに(北米版のブルーレイに収録するために)英語字幕がついていたところはおおむね理解できたのだった。日本語の円盤がなくても英語字幕があれば楽しめる、というのはうれしい気づきだったな。
そのあとは日付が変わるころまで読書。村上春樹『「これだけは、村上さんに言っておこう」』を読んでたら、読者からの、英語の小説を読もうとしても英語力が足りなくて、読んでるうちに何がなんだかわからなくなる、もう自分で訳しながら(日本語の文章として)読むしかない、と決意して、辞書と首っ引きでやっているのだけど、村上さんは翻訳をするときどういうスタイルでやってますか、という質問への、こういう回答があった。
本の読み方は人それぞれですので、それがいけないとかいいとか、簡単には言えませんが、そんな風に一行一行いちいち日本語にして訳しながら読んでいると、手間がかかるし、ものすごく時間がかかります。要するに非効率的です。あまり賢い読書法とは言えません。
いちばんいいのは、意味がよくわからなくても、筋の前後がぐしゃぐしゃになっても、とにかく最初から最後まで英語で読んでしまおうと覚悟を決めて読むことです。外国語なんだから、わからないのは当たり前です。そう思うと気楽になります。わけがわからなくても闇雲に読んでいるうちに、だんだん大筋がわかってくるもんです。
P.63
これはさっき私が"Stranger by the Lake"でやっていたことではないか!となんだかうれしくなった。
10月13日(月)曇。朝七時ごろにジョグ。さすがに肌寒かった、が、十キロ走るうちに温まる。帰ってシャワーを浴び、作業。
昼休みにジョン・ル・カレ『高貴なる殺人』(ハヤカワ文庫NV)を起読。区の図書館になく、国会図書館のデジタルコレクションで読む。
第一章の舞台はカーン校というパブリックスクール。冒頭で生徒たちの会話が描かれることもあって、なんとなく、『トーマの心臓』的に生徒の群像を描くのかしらん、と思ったのだけど、冴えない中年のスマイリーが主人公なんだからそんなはずがない。
落ち目の宗教誌『キリスト教の声クリスチャン・ヴォイス』の編集長ミス・ブリムリーのもとに、カーン校の教師ロード氏の妻ステラ(『キリスト教の声』読者でもある)から、夫に殺されてしまう、と手紙が届いた。ブリムリーは、戦時中に諜報部員をやっていたときの同僚にその手紙を見せてみよう、と思いつき、スマイリーに連絡を取った。──というふうにシリーズの主人公が登場してくるのだが、やっぱり描写が辛辣。
読みおえるとスマイリーは、それを電燈の光にかかげてみた。光線に照らし出されたそのまる顔に、真剣な表情がうかんでいるところは、むしろこっけいに感じられた。かれの真価を知らずに風貌だけを見ている人たちは、どのような印象を受けているのだろうか。彼女自身、まだ近づきの浅かった当時は、これほど凡庸な男も少なかろうと考えていたくらいだ。小肥りのずんぐりした体軀、分厚い眼鏡にうすくなりかけた頭髪。栄えない職業に従事して、いつまでもうだつのあがらない中年の独身者。その典型といったタイプがかれなのだ。
しかも、いたって内気なその性格が、服装にまで反映して、金をかけているくせに、吹きだしたくなるくらい不格好な様子をしている。要するにこの男は、服屋のいわゆるカモで、思う存分しぼりとられているにちがいなかった。
P.35
冴えない中年、ということを書くために、服屋にカモにされてることまで言わなくったっていいじゃないですか……。もしかしてこの、語り手がスマイリーをこき下ろしてみせるの、今後シリーズの定番になるのかな。
夜、U-NEXTでミシェル・アザナヴィシウス監督『グッバイ・ゴダール!』を観。何年か前に観たとき、〈35歳を超えた芸術家はマヌケだ〉という(三十六歳のゴダールが口にする)台詞が印象に残っていた、ので、三十五歳の最終日に。ゴダールの妻(この映画の原作者)であるアンヌ・ヴィアゼムスキー役のステイシー・マーティンがとにかくキュートでした。記憶よりメタっぽい演出が多かったな。
そのあと大町テラス『一緒にごはんをたべるだけ』(講談社)の三巻を、それはだめだよォ、と何度もつぶやきながら悶絶しつつ。今いちばん新刊を待望している漫画です。しかし巻末に、次巻で完結、との予告が。どうなっちまうのかもう怖い。刊行は来年の二月。41/264
10月14日(火)曇。三十六歳になった。松田直樹の享年を超えてから、歳を取ることに感情が動かなくなったような。
午後一時にラン。一時間八分、十・五キロ。気持ち良かった、が、疲れ切った。
今日は午前も午後もあまり休憩を取らずに作業をしてしまった。ランもまあまあ長距離で、誕生日なのにぐったり疲れた。
夜七時半からサッカー男子代表戦、日本対ブラジルを観。まあ負けるでしょう、と思っていたし、前半のうちにあっさり二失点した、のに後半でガラッと流れが変わり、日本が三点取って逆転勝利。
ブラジルは一・五軍くらい、特に守備陣は経験のあまりない選手ばかりだった、とはいえ、日本も主力(三苫さんや遠藤さん)を複数欠いていたし、サッカーにおけるブラジルというのはバスケでいうアメリカみたいなもので、アウェイでの親善試合であろうとも勝利を求められるものだ。実際、過去の対戦でも、日本が先制したとたんにブラジルの強度が上がってあっさり逆転、みたいな展開を観てきた。それが今日、フル代表の歴史上はじめてブラジルに勝った(これまでは〇勝二分十一敗)。ブラジルにとっても、前半を二─〇でリードした試合を落とすのは、一九一四年の代表結成以来はじめてのことらしい。ビックリしたなあ。
森保ジャパン、二〇二二年のワールドカップ(カタール開催)でドイツとスペインに、二〇二三年の親善試合(ドイツ開催)でドイツに、そして今回、東京での親善試合でブラジルに勝った。ワールドカップ優勝経験国に四連勝なんて、名監督みたいではないか。今日の試合も、前半は引き気味に守って消耗を抑え、後半で前線の守備の強度を上げて、スピードのある選手(今日は伊東さん)をサイドに投入して流れを変える、というのは、ワールドカップと同じ采配だったような。良い試合でした。41/264
10月15日(水)曇。夜のうちに雨が降ったらしく、地面が濡れ、朝刊にビニールがかかっていた。
昨日と打って変わって今日は捗らず。低気圧で体調も今ひとつだった。それでも午後一時からラン、十・六八キロ。寝不足だから、とか、腹具合が悪いから、とか、腰や肩が痛いとか、三十代も半ばを過ぎれば、今日はあんまり走れなさそう、という不安要素はいくらでもひねり出せる。それでも何度もエイヤッと走りに出たし、エイヤッをして走れなかったことはない。
これは私がパニック障碍から抜け出すためのヒントにもなる気がしている。考えてみればこれまで、もうどうしようも動けないほどのパニック発作になった回数は二桁に届くかどうかという程度で、あとは、発作が起きる不安で身を縮めてしまう、という感じだったような。たぶんそんなときも、エイヤッをやれば案外、ちょっとの緊張だけで乗り越えられたのではないか、と思う。すべて終わったあとだからそう考えられるだけかもしれませんが……。ともあれ、エイヤッすればだいたい上手くいく、というのは、メンタルの改善にたいへん有益な実感だと思う。
とはいえ、身を縮めてしまうほどの不安、というのはけっこうつらいものだし、このことに気づいたからといってパキッと解決!とはならないだろう。エイヤッで案外だいじょうぶ、を自分に言い聞かせながら、一歩ずつ良くなっていきましょう。
午後の作業はやや捗り、ひとまず今日のノルマを達成。ちょっとずつ手の走りがすべらかになっているのを感じる。書くことのジョイが戻ってきた感じ。ランも執筆もいい感じだ。
夜、U-NEXTでアンディ・ムスキエティ監督『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』を観(しかし"It: Chapter Two"がなんでこんな邦題になっちゃうのか)。いやもう、怖かったです。最初は部屋を暗くして観てたのに、怖すぎてすぐに明かりをつけた。
私はホラー映画、突然でかい音を立てたり前触れなくおぞましいもの(ゾンビとか)を画面いっぱいに映したりして怖がらせる、という演出が嫌いだ。でかい音や異形のものがいきなり飛び出してくればビビっちゃうのは当然で、そういうのを観ると(しっかりビビりつつ)、楽ちんな怖がらせかたしやがって、という気持ちになる。『IT』二部作にもそういう、いきなりこわいものがドン、という場面は多いのだけど、必ずその前に、画面端をへんなものが横切ったり空の色味が変わったり、前兆というか、ホラーの空気を念入りに構築しているのが好感が持てる。しかし二作目の、特に後半はホラーというよりモンスターパニック映画になっていた。とってつけたようなロマンスも不要だったと思う。これはたぶん、原作はなんせめちゃ分厚い本なので、そのへんも盛り込んで丁寧に描かれているのだろう。
観終わって日記を書いているうち、外から雨の音が聞こえはじめる。私は明かりを消して眠れるのだろうか。41/264
10月16日(木)霧雨。明かりを消して寝た、が、ゾンビの集団に襲われる夢を見た。素直だなあ。
昼休みに『高貴なる殺人』を進読。スマイリーはステラ・ロードが殺されたというカーン校に向かう。移動中に彼が読んだ新聞と、カーン警察のリグビー警部の話を通じて、読者にも事件のあらましが伝えられる。推理しながらミステリを読む人なら、わりに詳細に書かれたこの箇所を読むだけで真相が分かったりするのかしらん。
ここでもル・カレはまた、旧知の警察関係者からスマイリーについて話を聴いていたリグビーの目を通して、スマイリーの風采をこき下ろしている。
ベンの口からは、スマイリーは信頼してよい人物だと説明されれば、当然、そう受けとることになるのだが、ベンはそれ以上に、つぎのように伝えていた。
「外見は蛙みたいな感じで、風采は老書生といったところだが、その頭脳たるや、眼をみはるばかりのものがある。戦争中はあの男も、ずいぶんと苦労させられた。見ているのも気の毒なくらいだったよ」
なるほど、蛙みたいとは、うまく評したものだ。背が低く、小肥りなからだつき。度のつよい近眼鏡をかけているので、眼そのものが大きく見える。それに、服装が奇妙な感じだった。高価な品であるのはわかるが、上着の仕立てが一風変わっていて、なくてよいところにドレイプがつけてある。
P.49
スマイリーは元妻のアンにも〈ひき蛙さん〉と呼ばれていた。よっぽど似てるんだろうなあ。
のちにスマイリーが(彼のもとにこの事件を持ちこんできたミス・ブリムリーに宛てて)書いた手紙のなかでは、逆にスマイリーが見たリグビーがこう描写されている。
一見したところ、童謡に出てくるハンプティ・ダンプティとコーンウォールのこびとのあいのこ──吹きだしたくなるほど背が低く、肩幅ばかり大きい男です。それでいて、頭のほうはすばらしく切れると見ました。
P.70
わざわざこういうのを(手紙の冒頭に)書くの、スマイリーが自分の外見にコンプレックスを抱いているからかしら。
ステラ・ロード殺人事件、凶器はすでに見つかっているし、容疑者も絞られているそう。被害者も容疑者も大人、とはいえ、舞台が学校であるがゆえの特殊性にも言及される。とにかく学校は警察が生徒に接触することを拒むし、学園内への立ち入りも歓迎しない。寄宿学校の閉鎖性、というのは、学園ものでは定番のモチーフだ。たぶんこれからスマイリーは、その閉ざされた空間のなかへ入っていくのだろう。
午後一時にラン。昨日と同じようなコースで十一・三九キロ。
夜、乾いた洗いものをしまっていて、耐熱ガラスのコップを落としてしまう。破片を集めるときに指を刺してしまいもした。
気分転換にU-NEXTで映画。リース・フレイク=ウォーターフィールド監督『プー あくまのくまさん』を観る。〈はちみつに飽き、血に飢えたプーが、ロビンと楽しく過ごした森で惨劇を巻き起こす。〉という惹句がいちばん面白かった(しかし作中、プーはけっこうはちみつを舐めたりこれから殺す女の顔に垂らしたりしていたので、別に飽きてはいないのでは)。
二日連続でホラー映画を、と思って観たのだけど、こっちは何の美学もないスプラッタ映画でした。若い女性の肉を骨からこそげ取り、血をぜんぶ搾り出してそれを裸に剥いた婚約者(クリストファー・ロビン)にシャワーでかける、とかはもはや、“グロいことをやったろう”という、(プーではなく)製作者の露悪趣味以外の何でもないじゃないですか。79/264
10月17日(金)朝は快晴、次第に雲が出てくる。
十時から整体。顔を合わせるなり先生に、疲れてるようですねえ、と言われた。とはいえ、日々走ってる成果が出てきているようで、全身の筋肉が厚みを増しているそう。これはうれしかったです。
今週は月曜から四日連続で十キロ以上走ってるのだけど、昨日は九キロを超えたあたりから膝が痛かった、と相談したところ、それは筋肉不足でしょうね、とアッサリ言われる。膝回りの、だけでなく、全身の筋肉不足。私はもともと胃腸が弱く、とくに今はストレスと冷たいものの飲みすぎでかなり状態が悪い。弱ってる胃腸を守るためにお腹周りの筋肉に過剰な負荷がかかっている。日常生活を送るだけならそれで問題ないのだが、胃腸の保護にお腹の筋肉のリソースが割かれているため、ランニングという全身運動を一時間も続けていると、体幹をまっすぐに維持することが難しくなってくる。上半身の体幹が乱れるのをカバーするために膝への負荷が大きくなり、それが痛みとして表れる、ということらしい。で、ストレスと冷たいものの飲みすぎは対処できても、胃腸が弱いのは先天的なものもあるので大きく改善はしづらい。そうなると、膝やお腹、とりわけ下腹部の筋肉を強くすることで、ランニングの負荷に耐えられる身体を作ることが必要。つまり筋トレをするということ。明快でいい。
午後一時にジョグに出。鍼治療を受けた日は激しい運動はだめ、と言われているので、今日は五キロ、三十分ちょい。気持ちの良いジョグでした。
鍼治療とジョグの影響でめちゃくちゃ眠く、三十分ほどウトウトする。それでシャキッと目が覚めればいいのだけど、今日はそうならず。いまいち捗らないまま今日が終わった。
六時半からU-NEXTでスコット・マン監督『FALL』を観。フリークライマーのベッキーが、親友ハンターとともに取り壊し直前の電波塔に登った、が、てっぺんに着いて戻ろうとすると梯子が崩落、地上六百メートルの、一平米くらいの足場に二人で取り残される。
いやもう、怖かったです。電波塔といっても、東京タワーとかエッフェル塔みたいにがっちりした構造物ではなく、細いポールを組み上げたクラフト、くらいの頼りなさで、しかももう取り壊すくらい古いものなので、全体が赤く錆びて螺子が緩み、一段上るごとに軋みを上げる。どこかの崖でフリークライミングをする(ベッキーの夫が滑落死する)冒頭からラストシーンまで、ずっと手汗がビショビショ出続けていた。
いちおう、ベッキーが過去の傷を乗り越えるまでの過程が辿られてはいるのだけど、ストーリー自体はいまいち。しかし本作の主人公はとにかくこの塔──というかこの“高さ”であって、ストーリーは添えものにすぎない。ほぼ全篇にわたってその主人公の恐ろしさが強調され続ける、良いスリラー映画でした。
『IT』や『プー あくまのくまさん』とはまた違う恐怖映画だった、が、『FALL』が私はいちばん苦手でした。途中何度も、もう無理再生止めちゃいたい!となった。それでも止めなかったのは、途中でハンターがベッキーに言った、「ここで やめたら 恐怖に屈することになる」という台詞のせいです。二度と観たくない。79/264
10月18日(土)雲の多い晴。
午後一時に走りに出。途中、交差点で信号待ちをして横断歩道を渡りだした、ら、後ろから来たオレンジのウェアのおじさんにかなりのスピードで追い抜かれる。すごいなあ、と、ビルの陰、私が向かうのと同じコースに消えていく背中を見送る。しかし私がビルの向こうに行ったときには、おじさんはすっかりペースを落としていて、あっという間に追いついてしまった。近づくとかなり苦しげな息をしているのが聞こえた。横を抜いて先に行こうとした、ら、おじさんがまたグッとペースを上げて私の先に出る、がまたすぐ落ちる。抜きつ抜かれつ、なぞのデッドヒート(私は一定のペースで走ってるのですが)を繰り広げて、五百メートルくらい走ったところでおじさんが、ヒィ……と最後の声を漏らして走るのを止め、歩きはじめた。ぜえはあいう息が後ろに消えていくのを聞きながら、しかしたまにはああいう、闘争心みたいなものを見せる瞬間というのも人生には必要なのかもしれないな、今ではないと思うけど……としみじみ考える。
そのあと、Bank of America Chicago Marathon 2021 FINISHERのブルゾンを着た、同世代くらいのおねいさんが歩いているのを見かけもした。すごいなあ。おれもいつか……。
今日は陽射しも風も強く、けっこうキツかったです。それでも十一・三キロ。悪くないんじゃないでしょうか。
昼休みにミミ・ワインズバーグ『マッチングアプリの心理学』(尼丁千津子訳、早川書房)を読了した。スタンフォード大学で二十五年の臨床経験をもつ、元Facebook産業医でもある精神科医による本。タイトルや惹句から、マチアプユーザーは何を考えているのか、とか、コメディアンのクリス・ロックの「誰かと初めて会うときは、本人と会っているわけではない。その人の代理人と会っているんだ」という、本書で紹介されている言葉(P.66)のように、自分をよく見せたりワンチャン狙ったりするために着飾ったメッセージから相手の本質を見抜く方法を教える本かと思っていたのだけど、原題はSpeaking in Thumbsで、恋愛がいかにはじまり、育まれ、破綻して終わるのかを、テキストメッセージのやりとりを中心に分析した本、という感じ。マッチングアプリがフィーチャーされるのは三部構成の第一部だけで、第二、第三部は、矢継ぎ早なチャットのやりとりによって営まれる現代の恋愛の考察だった。
ワインズバーグは、人間は三種類の愛着スタイルに大別できる、という。ひとつは①〈親密な関係に心地よさを感じていて、自分自身の恋愛関係における満足度も高い傾向にある〉「安定型愛着スタイル」で、これが世界の人口の半数を占める。もうひとつは②〈いまこの瞬間を生きるのが苦手〉で〈ひとりになるのが怖〉くて〈自分の人生において果たしてほしい役割を、パートナーに対して過剰に求めがち〉な「不安型愛着スタイル」。そして最後が③〈周りの人と距離を取ろうとする〉こともあるし〈自分自身を守るために、先手を打ってパートナーとの恋愛がうまくいかないようにする〉ことすらある「回避型愛着スタイル」。
では、マッチングアプリのユーザーにおける、この三種類の愛着スタイルの割合は、世界の人口のものと同様なのだろうか? それはありえない。安定型愛着スタイルの人は安定型同士ですぐにカップルになり、しかも関係が長続きする可能性が高い。それが安定型たるゆえんだからだ。つまり、オンラインで相手を見つけようとする人の大半は、恋人のいない不安型と回避型ということになる。彼らは、安定型の人々はみなどこに行ってしまったんだろうと思いながら、さまざまなマッチングアプリを渡り歩いている。
P.188
ミもフタもない……、と思ったがしかし、ワインズバーグ自身もマチアプのユーザーであることを思えば、これはちょっとした自虐なのかもしれない。
しかしこう、著者は膨大な量の先行研究を参照・引用しているのだけど、巻末の文献リストを見ながらなんというか、世の中には恋愛というものについて研究してる人ってのがこんなにたくさんいるんやな……となる。そして翻訳も多い。たいへん興味深かったです。
読書は良かったが原稿は今日もあまり捗らず。まあこんな日もある。終わった日の進捗を振り返らないほうが精神衛生には良い……。
夜、長谷川あかりレシピで中華丼を作る。食いながら昨日の『ガイアの夜明け』の録画を観。Bリーグの改革に合わせて、全国各地にデカいアリーナが新設されている現象が取り上げられている。私はこの改革はあんまり良くないと思っているので、批判的な気持ち。大都市圏以外のアリーナはだいたい赤字になると思うし、経営破綻するクラブも出てくる気がしてるんですよね。そしてたぶん、リーグ側は、そういう犠牲はやむを得ないというか、ついてこられないクラブは切り捨てる、という意識でやっていると思う。私はどうしても(幼少期に横浜フリューゲルスの消滅を見ていたので)そういうクラブのファン側に立って考えたくなる、のだけど、このへんは経営者との視点の違いなのだろう。番組の半ばで止めて読書。十一時ごろベッドに入った。79/264
10月19日(日)小雨。今日は午前のうちにラン。今日は東京レガシーハーフマラソンの日だった。私もいつか出てみたいな、と思いつつ、まだそんな体力はついていないし、メンタルを病んで会場まで行くのも難しい、ので、今は自分のコースをタッタと走るのだ。
そのあとは一日読書。夕方に近所を回って買いものを済ませ、長谷川あかりレシピで鰆の照り焼きを作った。79/264
10月20日(月)曇。私はあまり名を知られていないプロレス団体の一員で、しかし試合に出るでもなく、ただ身体を鍛え続けている。それなりの期間の鍛錬のおかげで、薄手の服ならその下の筋肉の存在を、外見からも感じられるようになってきた。
あるとき、何のきっかけがあったのか、カルト教団の本拠地で演説することになった。私はかねてからその教団に批判的で、そんな私を論破してやろう、と、教団側が企画したもの。山口那津男によく似た教団代表(教祖というわけではないらしい)に紹介されて壇上に向かう私を、「ぺてん師!」「へぼ作家!」「いんちき野郎!」と、満場の野次とブーイングが出迎える。
内容は忘れたが、私は六十分にわたって一人でしゃべり、さらに四十分ほど教団代表と対話をした。野次はたびたび飛んだが、現実路線を歩もうとしてるらしい代表が社会に迎合するようなことを言えばブーイングが起きるし、私が彼らの教義に理解を示すようなことを言うと拍手が起きる。ギャグを飛ばすと笑いが起きるし、ブラックユーモアというか、教団の開祖に関しての良くない噂をもとにしたジョークに対しては、笑っちゃってから慌ててブーイングをする、みたいな反応で、代表も思わず苦笑いを浮かべていた。
私と代表の議論は、共通点もあるけど相容れないところも少なくない、という平行線を辿って終わった。握手をすると、また満場の拍手。最後にマイクを渡された私はこう言った。
「おれはきみたちに批判的なことを並べたてたが、しょくんは最後まで聞いてくれた。そしておれのユーモアには笑いを返す余裕を保ってくれた。おれはしょくんの教義には、討論を終えた今をもってなおまったく同意できない。しかししょくんのそのあたたかく開かれた姿勢は、世にも稀なものとして、きわめて高く評価するものである!」
この言葉にも聴衆は大きな拍手を返してくれた。拍手は私が講堂のドアを出るまで止まず、「ブルジョワ!」「へなちょこ!」「でたらめ作家!」と、入場時と同じような言葉の、しかしどこかあたたかみを帯びた声音の野次で見送ってくれた。
私は川沿いの細い道を走って帰った。もともと、教団批判の演説をするから帰路で襲撃を受けるかもしれない、と考えてこのルートにしたのだけど、ぜんぜん大丈夫だったな、と安堵しつつ。プロレス団体のジムに帰ると、仲間たちがトレーニングをしている。ドアを開けるなり、ムワッと熱気が押し寄せてきて、おう帰ったか、と汗まみれのイカツい顔たちがにっこりと笑った。カルト教団の本拠地での討論、なんて、私にとってはけっこうな冒険だったのだけれど、彼らはその間も日常をいとなんでいたのだ。なんだかホッとして、私もすぐウェアに着替えてバーベルを掴んだ。
そこで目が覚めた。まだ四時前。しかし三島みてえな口調だったな……と思いながら、忘れる前にメモを取る。映画『三島由紀夫vs東大全共闘』の影響なのだろう。あとそういえば、『グッバイ・ゴダール』に、五月革命のさなか、大学の講堂での集会に参加したゴダールが発言を求められる(失言をして満場のブーイングを浴びせられ、ほうほうのていで逃げ出す)シーンがあった。
今日も朝の散歩のあとはこもって読書。最近日々走って疲れが溜まってたので、良い休養日でした。79/264
10月21日(火)曇。午前のうちにラン。途中、自分がどこにいるか見失い、それでも立ち止まらず地図も見ずに走り続けた。そんな状況でもあまり不安に襲われなかった、のは、まあおれが走って行ける距離なんてたかがしれてる、という気持ちがあり、だから今のおれならどこまで行ってもこのまま走って帰れる、という自信を持てているからだ。けっきょく家に帰るまでに十四・一キロ、一時間半ほどかかった。これでまたひとつ行動範囲が広がった気がする。しかし疲れ切りました。
今日は午後二時から、『筏までの距離』と『恋愛以外のすべての愛で』、二作についてのインタビューを近所の喫茶店で受けることになっている、のでザッと復読。刊行から四ヶ月、というのはけっこう時間が経っていて、たぶん早いところではもう返本しちゃってるのではないか。こういう、刊行からちょっと経った本、というのは、(受賞やメディアミックスみたいなイベントでもなければ)ほとんど見向きもされないものだ。そういうタイミングで取り上げていただけるの、たいへんありがたい。しかし二冊ともいい作品だなあ、としみじみ思う。
記者氏は岡山県出身だそう。広島寄りの街だそうだから、私の地元の鳥取市からは隣県とはいえけっこう離れている、が、朴訥とした訛りに何か懐かしいものを感じる。それで、というわけではないですが、なんかリラックスして喋れたような。
晩めしは、空飛ぶヤコブさん、という、鶏肉やベーコンとバナナをトマトクリームタバスコソースといっしょにオーブンに放りこむ料理を作る。どんな味になるか想像つかなかった、のだけどたいへんに美味かったです。食いながらバスケを一試合。79/264
10月22日(水)雨。
昼めしに昨夜のヤコブの残りを食いつつジョン・ル・カレ、『高貴なる殺人』を進読。スマイリーは夜、ステラ・ロードが惨殺された家──今は誰もいない──の前を通りがかったとき、スマイリーは、そこに女がいるのを見る。
一秒ほど、女はじっとしていたが、やがてふりかえって、温室のなかへ走りこんでいった。いまは恐怖も忘れて、スマイリーはそのあとを追った。家のかどまで走りよると、意外なことに、女はドアのまえにつっ立って、子供がいたずらでもするかのように、ドアの板を押したり放したりしている。最初、スマイリーには背をむけていたが、急にこちらをふりむいて話しかけてきた。やわらかいドーセットなまりがきわだって、子供みたいな舌足らずだった。
「悪魔かと思ったら、あんた、翼がないね」
P.103
今回の事件を報じる新聞で〈気ちがいジャニー〉として言及されていた、カーン警察のリグビー警部によれば、ちかくの廃棄された寺院に住み、ときどきロード家の裏口に物乞いに来ていた人物らしい。
「みんなして、ジャニーのことを笑うけど」急に女の声に、不きげんな調子があらわれた。「その連中だって、悪魔の飛ぶところを見たわけじゃない。だけど、ジャニーは見たんだよ。ジャニーは見たんだ。おさかなみたいに、銀の翼を広げて、悪魔が飛んでいくのを!」
(…)
「悪魔だって、わるいやつじゃない。そうよ。わるい男じゃない」そして、しずかに笑って、「あたい、あれが飛ぶのを見たよ。風に乗ってね」そしてまた、大きく笑って、「お月さんがうしろから照らしていたっけ。ずっと! 飛んでいるあいだ、ずっと! あのふたり、姉妹みたいに似ていたよ。お月さんと悪魔は!」
スマイリーは衝動的に、建物の壁のツタをむしりとって、彼女にさし出しながら、徐々に近づいていった。
「ジャニー、おまえ、花が好きなんだろう? これ、ジャニーのための花だ。かわいいジャニーのためのかわいい花だ」
もう一歩で、手のとどくところまで行ったが、彼女は急に、飛鳥のように飛びのいた。それにつづいて、すさまじいスピードで、芝生の上を走りだした。見るまに、木々のあいだをかいくぐり、小径のほうへ駆けぬけていった。スマイリーはあとを追わなかったが、全身、汗びっしょりになっていた。
P.104-105
フィールディングの態度やスマイリーとジャニーの邂逅を長々と引用した。なんというかゴシックホラーっぽさが強い。『死者にかかってきた電話』のときも思ったことだけど、同じイギリスのスパイもののなかでも、ジェームズ・ボンドのスタイリッシュさとは対称的だ。調べてみたら〈007〉原作のイアン・フレミングもジョン・ル・カレも、時期は違うけどイギリスの秘密情報部(MI6)の諜報員だったそう。MI6というコインの裏表、と考えると、なんか腑に落ちるような。
そういえば、ジャニーだけじゃなくリグビー警部も、同僚のテッド・〈マンディと話すときは、ドーセットなまりが丸出しになる。〉(P.111)と書かれている。しかしその直前の彼の台詞は、〈「しかし、テッド。ジャニーはあそこでねむるのだろうか? ベッドの代用になるものがあるのかね?」〉(P.111)というもの。それ以外の台詞でも、まったく〈なまりが丸出しにな〉っていない。原文だとどうなってるんだろ、とGoogleブックスで検索してみると、〈'Does she sleep there, then, Ted? She got a bed there or something?'〉となっている。原文もあんまり訛っていない……? ここでいう〈なまり〉は綴りに反映されるようなものではなく、イントネーションのことなのかしらん。
訛りといえば『響きと怒り』、ということで、手元にある岩波文庫版(平石貴樹・新納卓也訳)とプロジェクト・グーテンベルクの原文を見比べてみる。
たとえば日本語版の冒頭ちかくの台詞。
「ちょっくら待つだ」とラスターが言った。「おめえ、またそのクギに引っかけただな。引っかけねえでくぐり抜けることができねえだかよ」
上巻P.9
同じ箇所の原文はこう。
"Wait a minute." Luster said. "You snagged on that nail again. Cant you never crawl through here without snagging on that nail."
意外とぜんぜん訛ってないな。私の英語力では、文法的には間違ってないけど標準語ではそういう言いかたはしない、みたいな微妙な違和感は読み取れないのですが……。とはいえ、ほかの箇所でラスターがめちゃ訛ってる人だと示されてなければ、Wait a minute.を〈ちょっくら待つだ〉とは訳さないよな。
ほかの台詞はどうかしら、と、たとえば黒人訛りとしてよく言われるdatで検索してみると、Louisという人物のこういう台詞がある。
"I cleant hit a little while back. You member when all dat floodwatter wash dem folks away up yonder? I cleant hit dat ve'y day. Old woman and me settin fore de fire dat night and she say 'Louis, whut you gwine do ef dat flood git out dis fur?' and I say 'Dat's a fack. I reckon I had better clean dat lantun up.' So I cleant hit dat night"
この箇所を日本語版(岩波文庫)で探すと以下の通り。
「ちょっくら前のことですだ。北のほうで洪水が出て、人をみんなさらっていっちまったときのことを覚えてるだかね。おら、ちょうどその日に掃除をしただよ。婆さんとおらが、あの晩暖炉の前にすわってたっけが、『ルイス、あの洪水がここまで来ちまったら、どうするだか』と婆さんが言うもんで、『まったくそのとおりだな。ランタンを掃除したほうがええだな』と言っただ。だからその晩、掃除しただよ」
上巻P.222-223
これはなんか、英日で訛りかたのつりあいが取れてる感じがしますね。しかし私は、方言についてはつい考えすぎてしまい、長々と日記を書いてしまうな。
午後一時、朝より強まった雨のなかを走りに出。学生時代は、雨の日に外出するのが億劫なあまり、雨が降ったら自主休講、とうそぶいていた(それで単位を落としたりもした)ものだ。そんな私がこんな雨のなかを……。
雨は強くなったり弱くなったり、しかし一度も止むことはなかった。さすがに末端、とりわけ手の指が冷え切って上手く動かせず、帰ってきて鍵を出そうとして取り落としてしまう。十三・八九キロ、一時間二十七分十四秒。
午後ももくもくやって、晩めしは鰤の照り焼きを作る。食いながらバスケを一試合。114/264
10月23日(木)曇。二日続けて長距離走ったので、疲労が残っている。しかし、ぜんぜん回復しなくて疲労が残ってるのに比べて、昨日運動をバンバりすぎて回復しきれなかった疲労というのは、朝に残っていてもあんまり不快じゃないですね。
やや気圧低めで、頭の巡り良くなし。午後一時すぎにジョグに出。一時間三十五分三十七秒、十五・七八キロ! 時間・距離ともに最長で、十キロ最速(一時間〇分八秒)バッジも。
さすがにくたびれて、午後の作業は捗らず。午前も捗らなかったですが……。
夕方から読書。百田尚樹『日本国紀』上巻(幻冬舎文庫)を進読。日本通史、という体裁ではあるのだが、歴史書ではなく、とにかく百田の独自史観が開陳され続ける本。足利義満は皇位簒奪を企んだために暗殺されたのだ、と書いたあとに〈もちろん証拠となる史料はありません。〉(P.199)と続けているのはずっこけたです。どんな学問においても、新説を唱えるには、先行研究の検証と、自身の主張の根拠となる資料の提示が必要だと思うのだけど、百田はその手続きを怠っている。定説とは違う自説を並べながら、こういうことを書くと「史料がない」とか批判してくるやつらがいるだろうけど、ちょっと想像力を働かせればおれと同じ結論になるはず、とうそぶく。 ほかにも、江戸時代の日本は同時代のヨーロッパとは比べものにならないほど治安が良かった、と書いてこう続ける。〈こういうことを書くと、江戸時代の犯罪記録を出してきて「治安はよくなかった」と批判する人がいますが、当たり前のことですが、現在のどんな治安のよい町でも凶悪犯罪は起こります。歴史を見る時に大切なことは枝葉に捉われず、大きな視点でものを見ることだと思います〉(P.298)。江戸時代の治安について考えるときに江戸時代の犯罪記録は〈枝葉〉なのか……。百田の本領が発揮されるのは下巻の、太平洋戦争(ネトウヨである百田はもちろん〈大東亜戦争〉と書いている)あたりだろう、と思っていたが、縄文から幕末までを扱った上巻でも十分に彼らしさが味わえました。
象徴的だったのは、江戸時代の日本が鎖国政策を取っていなければ、と想像するコラムの記述。百田は、きっと日本は東南アジアや朝鮮半島を支配下におさめ、明も滅ぼしていただろう、と書く。そして、いずれも苦戦を予想される、インドをめぐるイギリスとの、もしくは満州における後金(清国の前身)との戦いのいずれかに勝利すれば、世界史は大きく変わっていたはずだとして(百田は、前者の戦いではイギリスが、後者では日本が有利だ、と考えているが、その予想には彼の、中国蔑視の価値観が反映されているような)、〈膨張するヨーロッパ諸国に対抗しえた〉〈大東亜文化圏のようなもの〉の誕生を予測している(P.273-274)。そんなにうまくいくはずがないでしょう。井の中のひき蛙さんだ。しかし、ネトウヨ諸氏がやたらと戦争をやりたがるのは、このきわめて素朴な、自分たちにとって都合の悪いことは目に入らない想像力によるものなんだろうな。
夜にバスケを一試合、十月四日の琉球対横浜を観。面白かったです。均衡した展開から第三クォーター後半で突き放され、第四クォーター開始時点で八点差をつけられていた横浜が、終盤にドドドと点を取って逆転勝利! 私の(プレー面での)最推し・森井健太選手も躍動していたのでうれしい。114/264
10月24日(金)雨。午後二時すぎ、止み間にジョグ。さすがに今日は軽めにした。二十分、三キロ。けっこう足が重く、疲れが溜まっているのを感じる。帰るころにはまた降りはじめていた。
帰って風呂を溜め、浴槽のなかで谷口ジロー『犬を飼う』(小学館文庫)を読んで涙目になる。夕方までノンビリ作業して、夜にバスケを一試合。114/264
10月25日(土)曇のち雨。架空の妻の散髪に同行する夢を見た。坂の多い街で、上ったり下ったりを繰り返しつつ、おしゃべりしながら美容院に向かう。動物の毛も人の髪も切れる、ペットといっしょに散髪ができますよ、というのが売りの美容院。妻は幼少期にアルパカを飼っていたときから通ってるそう。お客は人間より動物が多く、最近はわたしもあんまり、自分以外の人間を見たことないかも、とのこと。
美容院は高層ビルの中層階に入っている。ビルは急な坂道のすぐ脇に立っていて、私たちは十階くらいの高さの入口から入った。自動ドアが開くとカラー剤のつんとする匂いが押し寄せてくる。しかし美容院には椅子も鏡もなく、着飾った男女が立食パーティをしているところだった。一人だけラフな、動きやすそうな黒いTシャツにデニムの三好南穂さん(二〇二一年の東京五輪の女子バスケ代表選手だけど、私は引退後の解説者・キャスターとしての姿しか知らない)が近づいてきて、妻に、お姉さまですか、と話しかける。妻は頷く。なるほどそういうコンセプトなのね、と夢のなかの私はアッサリ納得するが、三好さんは私には、お兄さまですか、と言ってくれない。ウエイターがシャンパンを差し出してくるのを、妻は慣れた感じで断ったが、私は(飲めもしないのに)受け取ってしまった。
三好さんに導かれて店の奥へ。パーティの人たちが私たちを目で追っているのを背中に感じる。内階段につながる自動ドアが開くと、すでにカラー剤の匂いに慣れた鼻が、動物園特有の、むわっとした匂いを感じる。
降りていくと、階段の踊り場ごとに椅子(美容室の、というよりは、歯医者の椅子やマッサージチェアみたいな、全身を預ける、リクライニングもできるような椅子)が二脚ずつあり、天井のダウンライトの真下で照らし出されている。鏡はない。それぞれに人間サイズのでかい犬がいる。みんな茶色だ。マルチーズ、チワワ、プードル。たしかに人間の姿は見えない。動物の匂いと細かい毛が舞っていて、そもそも階段というのは通り過ぎる場所だから、長く留まることを想定していないのだろう、換気があまりされておらず、どうも息苦しかった。
三、四階降りたところに空いている椅子がある。三好さんはそこに妻を座らせた。座った途端に、というか、ダウンライトの光を浴びた瞬間に、妻はアルパカに姿を変える。犬たちと違ってその毛は白い。こちらを向いて、二時間くらいかかると思う、と言うアルパカに頷きながら、たしかにだいぶ毛が伸びた、と思う。
そろそろ担当の者が参りますので。三好さんはそう言って階段を降りていった。
じゃああとでね。そう妻に声をかけるが、彼女はアルパカなので返事をしない。
階段を上がりながら、そういえば妻の担当の美容師がどんな人か知らないな、とふと気づく。さっきの部屋から降りてくるならすれ違うかも、と思ってたら、駆け下りてくる足音が階段に響きはじめる。踊り場の椅子のでかい犬たちがそちらを見るのにつられて見上げると、林芳正がドタドタと降りてくるところだった。三好さんと同じ、黒いTシャツとデニム。彼は私の脇を、ああどうもね、とぞんざいに言いながら駆け抜けていった。
あの人かあ、となんだか釈然としないものを感じつつ十階に着く。
自動ドアが開くと、またカラー剤の匂い。立食パーティはまだ続いている。ウエイターにシャンパンを渡されて、さっきのを飲み終わってもいない私は両手にグラスを持ったまま外に出た。
空は気持ちの良い秋晴れ。妻を待つ間、坂の上に行くか下に行くか、土地勘がないのでどっちが良いのかわからない。ともあれ、動物園やカラー剤の匂いから解放されて、ようやく息をつける気持ち。
深呼吸して、そういえば何ていう美容室なんだっけ、と振り返るとそこにはビルなんてなく、ガードレールの向こうは切り立った崖になっていて、その先には海が、道と同じ角度で斜めに横たわっていた。見下ろすとずっと下に狭い砂浜がある。海に近い街なんだ、とようやく気づいた。
このグラスどこに返せばいいんだろう、と考えながら、とりあえず飲めないシャンパンを流してしまおうと思いつき、波打ち際を目指して坂を下りはじめたところで目が覚めた。午前〇時半。長々とメモを取ったら目が冴えてしまった。諦めて起きて、明かりをつけて作業。
さすがに疲れて、昼のランはせず昼寝にした。夕方までやって辣子鶏を作り、食いながらバスケを二試合。
夜九時すぎ、雨のなかをエイヤッとジョグに出。四キロ、二十五分。走るうちにだんだん雨が強まって、びしょ濡れになった。気持ち良かったなあ。114/264
10月26日(日)雨。午前はもくもく本を読む。途中まで読んでた長谷川宏『ことばをめぐる哲学の冒険』(朝日新聞社)を最後まで。著者の好きな文学作品の一節を紹介しながらいろいろ考える本。
「平和」の章で著者は、小田実が「「難死」の思想」のなかで、一般市民の空襲による死を〈無意味な死〉であり〈難死〉である、と断じている箇所を読みつつ、こう書きつける。
それをわたしは、日常感覚に根ざした冷静な死の受けとめかただと言った。なぜ日常感覚に根ざすと、普通の人びとの死は「無意味な」死となるのか。
そうなる根本の理由は、わたしたちの日常生活が、生きること、生きつづけることを基本とする、という事実にある。すぐれた生きかた、立派な生きかた、正しい生きかた──そういうものがあるにはある。が、ただ生きること、生きてあることを意味のあること、価値のあることと考えるのが、わたしたちの暮らしの思想であり、暮らしの感覚なのだ。その思想と感覚からすれば、「死にたくない死にたくないと逃げまわっているうちに黒焦げになってしまった」というのは、どう見ても意味のあること、価値のあることとは思えない。その死をどう悼み、どう悲しんでも、どう手厚く葬むっても、そこに意味や価値を見いだすことができない。それが、わたしたちのありのままの日常感覚というものだ。それが日々の生活を大切に思う感覚であり、そういう感覚に支えられて日々の安穏な生活は営まれているのだ。
P.220
なるほどなあ、と思いつつ、しかし空襲に巻き込まれて〈普通の人びと〉が死ぬのが〈無意味〉なら、最前線の兵士が戦闘で死ぬのは有意味なのか?とも思う。それはちょっと揚げ足取りかしら。
この箇所で響いたのは、〈わたしたちの日常生活が、生きること、生きつづけることを基本とする、という事実〉という言葉です。すぐれた、立派な、正しい、とまでは言わなくとも、私は、何か良いもの──小説作品をこの世に残したい、と思っている。それができなければ大きな悔いが残るだろう、とも。でも、〈わたしたちの暮らしの思想であり、暮らしの感覚〉である価値観においては、べつにそんな、でかいものをおっ建てることは人生において必須ではなく、ただ生きるだけで命はじゅうぶんだ。もちろんそのことを、理屈としては理解していたけど、理屈として、という理解のしかたがもうすでにちょっと認知が歪んでいるな、とこの一節を読んで気づいた。私は生きてるだけでオーケイなのだ。
午後一時、ジョグに出。しかし二キロほど走ったところで膝がひどく痛み、止まる。歩いて帰宅。途中、カフェやパン屋で買いものをし、お高いスーパーにも寄り、一時間ほど散歩。終盤は雨が降って、冷えきった。
午後も夜までもくもく読書、バスケを一試合観てから寝。114/264
10月27日(月)曇。十月十二日の北海道新聞に久栖博季が『筏までの距離』の書評を書いてくれた、のが、集英社の担当者から届く。氏のあの息の長い文章で私の小説を描写した、といったような評で、うれしい。発売から三ヶ月以上、縁のある土地とはいえもう新刊棚には置かれていないだろうタイミングで書評を載せてくれるの、ありがたいな。
午後一時にラン、一時間十一分、十一・四キロ。四日ぶりに十キロを超えた。しかし今までの十キロ超えランのなかでもとびきりにキツかったな……。体調不良か寝不足のせいか、低気圧か、陽射しが強かったからか気温がわりに高くてコンプレッションウェアが暑すぎたか、と理由を探せばいくらでも見つかる。ちょっと無理をしてしまった、が、まあこういうこともある。明日は楽になってるでしょう。
ランのダメージで午後は捗らず。夕方、散歩がてらお高いパン屋へ。店に入ったとき、パンを選ぶとき、会計のとき、の三度にわたってこしあんパンを薦められる、が断る。
晩めしはまた空飛ぶヤコブさん。楽ちんで美味くてボリューミーで良い。食いながらバスケを一試合、十月五日の大阪対三遠を観。めちゃ良い試合、という評判を聞いて観たのだけど、大阪が調子良いのに対して三遠がすべて上手くいかず、それで前者が安定したリードを保って大差で勝った、という展開。良い試合、というのは私の場合、終始拮抗した展開とか二十点差からの大逆転勝利とか、最後まで勝敗の分からない試合、のことを指すので、この試合は(もちろん悪い試合ではないのですが)今ひとつ物足りなかったです。良い試合だった、と言っていた人は、昨季は圧倒的な強さで地区優勝した三遠が力なく負ける姿を観られた、という、判官贔屓の気持ちで評価してたのかもしれない。
試合後は眠くなり、抵抗せずスッと寝。しかし一時すぎにふと目が覚め、辛くてニンニクのパンチがすごいポテチを食ってしまい、目が冴える。そのあとは外がうっすら明るくなるまで起きていた。たぶん五時ごろ。114/264
10月28日(火)晴。午前は体調不良。昼にエイヤッと走りに出、五キロ走ったらだいぶ楽になった。
晩めしは昨夜のヤコブさんの残りを食う。たくさん作ったのでまだ残ってたのだ。食いながらU-NEXTで十月二十七日のエル・クラシコを観。さすがに強度高く面白い。守備陣形とか攻撃の連携とかの、戦術面のクオリティはもちろんのこと、シンプルに選手個々の技術と身体能力が高い。ビデオ判定でゴールが取り消されたりもしつつ、前半のリードを守ってレアルが勝った。試合終了時には選手同士が入り乱れて揉みあうひと幕も。いいぞもっとやれ、という気持ち。神戸生まれ鳥取育ち、生粋の江戸っ子なもので、大人同士の喧嘩を見るとうれしくなってしまうのだ。114/264
10月29日(水)晴。十一時からカウンセリング。今日からはこれまでの、過去の処理をするセッションから一歩進んで、できることを増やしていく段階に移行した。不安階層表、という、治ったらやりたいことを不安度のスコア順に並べたものを作成して、できることから一つずつやっていこう、という試み。
午後、走りに出。不安階層表のいちばん下、不安度五(最大で百)が、ふだんより遠くまで走ること、だった。べつに急いでやる必要はない、とカウンセラーは言っていたが、カウンセリングで高揚してもいたので、試してみる。
ふだんより遠く、といっても、何年も住んだ家の徒歩(ラン)圏内ではあるので、何の問題もなし。ずんずん走っていた、ら、向こうから見慣れた顔が近づいてきた。某社の元担当編集者。通り過ぎそうになったところで「Nさんッ!」と声をかけて、十分ほど立ち話した。電話での打ち合わせを除けば、最後に直接顔を合わせたのはコロナ前だった。たまたま打ち合わせで近くに来ていたそう。
水原さんってこのへんにお住まいなんでしたっけ。
走って十五分くらいですかね。
走って十五分っていうと……。
まあ二キロかそこらで。
おお。いつもどのくらい走ってるんですか?
だいたい十キロくらいです。
じゃあまだ序盤か。いいですね。水原さん、なんか顔色ヘルシーになりましたもんね。
氏はそう言って感慨深げに頷き、自分の頰を両手でこする。ヘルシーかあ、と私も頰に触れる。手が冷えていた。
また会いましょう、と握手して別れる。今では私と関わることがなさそうな部署にいる氏と、私の作品を間にせずに話したのははじめてだったな、と、走りながらふと思った。
そのあとも、引き続きはじめての道を走り続ける。今自分がどこにいるのかを見失って、それでもなんとなく、太陽があそこにあるということはこっちが南、あっちには高いビルが多いからたぶんデカい駅がある、と思いながら、家から離れすぎないルートを走った。
あとでNIKEのランアプリでコースを確認すると、一時間ほど、自分の居場所がわからない状態で走っていたよう。どうにか走り慣れた道に出て、マンションの前に着いてアプリを開くと、十八キロほどだった。あと三キロくらいでハーフマラソンじゃん、と気づき、また走り出す。近所の、繰り返し走ってだいたいの距離がわかってるルートを一周した、ら、二十一・四キロだったのでおしまい。二時間十四分三十五秒。ハーフの距離(二十一・〇九七五キロ)だと二時間十二分十七秒だったよう。悪くないタイムですね。十日ほど前には、ハーフマラソンの大会出てみたいけどまだそんな体力ついてないよなあ、と思っていたのだが、案外いけるのかもしれない。
しかし疲れ切ってしまい、マンションの階段を上がるのに時間がかかる。再スタート後の三キロは膝も痛かったし、今の限界に挑んでしまった感じ。
晩めしは長谷川あかりレシピの豚肉のトマト醤油シチュー。食いながらバスケを一試合。終わったあとは強い睡魔に襲われる。それはねえ、今日はなんせハーフマラソンを走りましたものねえ……と思いながらスッと寝た。114/264
10月30日(木)晴。さすがに疲れが残っている。散歩して始業、もくもくやる。
昼休みにジョン・ル・カレ、『高貴なる殺人』を進読。どうも時間がかかってしまっているな。『高貴なる殺人』は国会図書館のデジコレで読んでいる。ふだん目につくところに本がないせいで、なんとなく手に取る、ということがなく、読み進むのに時間がかかっている、のか?
一時からランに出。十一・四七キロ、一時間八分三十二秒。午後は捗らず。157/264
10月31日(金)曇のち雨。起きてしばらく、スマホの漫画アプリで『じゃりン子チエ』を何話か。主要登場人物の一人・百合根がお好み焼き屋をやってるもので、お好み焼きが食べたくなってくる。それで朝の散歩がてらスーパーに行き、惣菜のお好み焼きを買った。
一日作業、夜にバスケを一試合。157/264
11月1日(土)晴。一日家でノンビリ過ごす。
夕方、空腹というか、とにかくカツカレーが食いてえ!という衝動に耐えられず外出、家から歩いて十五分くらいのココイチへ。上京して最初に住んでたところも徒歩圏内にココイチがあって、二、三ヶ月に一度くらいカツカレーを食いに行っていたのだ。
テイクアウトして急ぎ足で帰宅、食いながらバスケを一試合。九時台に寝た。157/264
11月2日(日)曇。
一時すぎにジョグに出。今日はNIKEのランアプリの音声ガイドを聞きながら。三・七五キロの音声ガイドにしたのだが、規定の距離を過ぎてもトレーナーがしゃべり続けていた。さあ、ラストスパートです!の言葉のあとも延々メンタルに語りかけられつづけ、いつ終わんねん、とうんざりしてしまい、四キロを過ぎたところで止めた。あれは何だったんだろう。
シャワーを浴びて読書をし、六時ごろにまた走る。七キロ半。合計で十一キロ半、まあこんなもんでいいでしょう。
晩めしを食いながらU-NEXTで、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『MEMORIA メモリア』を観。アピチャッポンはじめての外国語(スペイン語と英語)映画で、ティルダ・スウィントンが主演。その影響か、序盤はわりに普通の文芸映画のような展開だった。主演はスウィントンだけど、この映画の中心にあるのは〈音〉だ。ジェシカ(スウィントン)が悩まされる幻聴や街の音、自然の声。後半、自然豊かな村の川のほとりで怪しい男と出会うあたりから、私の好きなアピチャッポンらしくなる(観たのは『世紀の光』と『光りの墓』だけですが)。評価の分かれそうな真相も含めて、私はけっこう好きでした。157/264
11月3日(月)快晴。午前はもくもく読書。『日本国紀』下巻を読了した。百田尚樹の本領が発揮されるのは下巻の太平洋戦争関連の記述からでしょう、と思っていたとおり、たいへんイキイキと書いている。しかしどうも、典型的な反共ネトウヨ言説を繰り返すばかりで、真新しさも面白みもなし。ちょっと期待外れだったな。
終章「平成から令和へ」のイントロダクションで、百田は〈未来の子供たちへ〉という見出しのもと、『日本国紀』上下巻の議論をこう振り返る。
日本人ほど平和を愛した民族はありません。他の大陸ではよく起きた、惨たらしい大規模虐殺や宗教による凄惨な争いがなく、人々は海に囲まれた島国で肩を寄せ合い、穏やかに暮らしていました。
ヨーロッパから見れば、極東に位置する日本は長らくその所在さえ不明であり、十六世紀に発見された後も、交流が限定され、閉ざされた謎の国であり続けました。その後、欧米諸国が、発達した科学技術を武器に、世界各地を植民地として、有色人種を支配していきましたが、日本は最後に残された狩場であり、市場でした。
アジア各地が次々と欧米の植民地となり、大国の清でさえ蚕食されていく中、土壇場で踏みとどまって独立を守った日本は、欧米の科学技術を凄まじい勢いで吸収すると、またたくまに世界に躍り出ました。そして明治維新からわずか四十年足らずで大国ロシアを打ち破ります。この勝利が、世界の有色人種にどれほどの勇気を与えたかは計り知れません。
その四十年後、日本は第二次世界大戦で、アメリカを中心とする連合国軍に敗れます。百年前、有色人種の最後の砦であった東洋のミステリアスな国も、ついに欧米の力の前に粉砕されたのでした。
しかし日本が敗れた後、アジアの諸国民は立ち上がり、欧米と戦って次々と独立を勝ち取っていきます。その波はアフリカや南米にも及び、世界四大陸で多くの新しい国がぞくぞくと産声を上げました。まさに日本という存在が世界を覚醒させたのです。もし日本という国がなかったなら、世界は今とはまるで違ったものになっていたでしょう。
二十一世紀の今日、世界中で「人種差別は悪である」ということを疑う人はいません。しかし百年前はそうではありませんでした。当時、絶対強者だった欧米列強に向けて、初めて「人種差別撤廃」を訴えたのは、私たちの父祖です。日本が世界のモラルを変えたのです。皆さん、どうか、このことを忘れないでいてほしいのです。
P.370-372
なんだか長々と引用してしまった。『日本国紀』上下巻の要約といっていい内容だ。とにかく日本人というのは素晴らしい民族であり、力強く歴史をいとなんで白人の抑圧にも負けず立ち上がり、列強の力に打ちのめされはしたものの、有色人種たちに独立運動のための勇気を与えて、世界を今あるような姿に作り上げた──という主張。とにかく偏っているというか、自分にとって都合のよい部分だけしか見ていない。これを“花畑史観”と呼びましょう。しかしこういう史観の人ってTwitterでしか見ない気がするが、この本がこんだけ売れてるのだから、たぶん世の中にたくさんいるのだろう。
うんざりしたので一時すぎにランに出。今日も十キロ。めちゃ天気が良くて気持ちの良いランだったな。
夜まで読書、バスケを一試合観て寝。157/264
11月4日(火)曇。朝からバスケを一試合、そのあとは一日読書の日。そういえばル・カレをしばらく読んでない、と思い出したが、今日も読まなかった。157/264
11月5日(水)曇。寒い。朝九時前にジョグ。二キロ半走った、が、長いインナーに半袖Tシャツ、ハーフパンツでは寒すぎた。帰宅即シャワーで温まり、始業。昼すぎまで。どうも集中できず。作業の進めかたか作業環境を抜本的に改善したほうがいい気がしてきた。今やってるの作品だけじゃなく、今後のためにも。
昼休み、久しぶりのジョン・ル・カレ。気がつけば『高貴なる殺人』ももう後半。スマイリーは、地元のブリーダーや教会を聞き込みに回る。このときの、世間話のふりをしてスッと事件に関する証言を引き出す手つきが巧みだった。元諜報部員の面目躍如、という感じ。
ロンドンではミス・ブリムリーが、真犯人に直接つながる証拠品を発見する。カーン校では、何か真相に深く関わっているらしい、学寮の生徒長パーキンズが失踪する。後半に入ってサスペンスが動きはじめた感じ。面白くなってきました。
しかし、あんまり書くとネタバレになりますね。私はこの日記、もっと細かく展開を書いているのだけど、さすがにこういうタイプの小説の終盤までの展開を、作品論と銘打ってもいない日記の記述として公開するのは躊躇われる。それで『死者にかかってきた電話』も本書も、後半になるにしたがって、曖昧というか思わせぶりな書きかたになってしまう。
一時からラン。十・五キロ、一時間二分三十五秒。
ランのあと、ふだんは窓に背を向けて作業してるのだけど、ディスプレイが光を反射してやや見づらかった、ので向きを変えてみた。目の前の窓から外の景色を眺めながらできるのも良い感じ。しばらくこれで試してみましょう。
夕方退勤、晩めしを食いながらバスケを一試合。そのあと本を読んでる間に日付が変わっていた。外から雨の音。192/264
11月6日(木)曇。ディスプレイの向きを変えたおかげか、まあまあ捗る。この向きが良いのか、単に気分転換になっただけかは、まだ分からず。
午後一時にランに出。河川敷の緑道を走る。舗装されていない箇所や階段もあり、ちょっとしたトレイルランの気持ち。大きな霊園のなかも走った。しかしさすがに、外周ならまだしも、舗装された公道とはいえ霊園の中を走るの、故人の静謐を乱してる感じがしちゃったな。
今日も道に迷った。まだメンタルが元気だったころに歩いた記憶がうっすらあるが、もうそれも数年前のことで、ほとんど何も思い出せない。諦めてもと来た道を引き返した。十六・六七キロ、一時間四十一分十七秒。今日はくたびれました。
シャワーを浴びて午後の作業。しかし消耗が激しく、捗らなかった。村上春樹はすごいな……、と、ランで疲れ切って作業が捗らないたびに思うことをまた思った。
晩めしを食いながらバスケを二試合。二試合目は十月十二日の広島対北海道。第一クォーターでもう三十八対十五とすごい点差がついた。その後もさらに差を広げて、もうこれ結果決まったのでは……?と思ってたら、第四クォーターに入っていきなり北海道がぐんぐん詰めて、最後は一点差で逆転勝利! ドワイト・ラモス(推し)は五ファウルで退場になりましたが……。三十二点差からの逆転勝利、は、Bリーグ史上最大の数字だそう。いいもん観ました。192/264
11月7日(金)晴。早朝に悪夢を見て目が覚めた。喉がひどく渇いたので炭酸ジュースを一気に飲んでカーッとなり、また寝。八時すぎに起きた。
十時から整体。近所の中学校の二年生が三人、職場体験に来ていた。体験、といっても、鍼とかの施術には免許が必要だからだろう、カーテンを閉めたり使用後の治療台を拭いたり、雑用的な仕事しかやらせてもらえていないようだった。
日々走ってるおかげで、だいぶフィットネスが整っているそう。いっぽう、一年ほどでかなり向上してきた筋肉とは違い、内臓が強くなるには時間がかかる、ということで、まだ胃腸は弱い。それで全身のバランスが悪くなっている。といっても、いい感じで筋肉がついてきているので、自覚されるほどのダメージにはなっていない、とのこと。良いんだか悪いんだか。
午後一時に走りに出。昨日の十六キロ半で左膝が痛いし、鍼のあとは激しい運動は控えるよう言われてもいる、ということで、今日は五・四四キロ、三十分三秒。
夜まで作業、晩めしは長谷川あかりレシピで豚肉とトマトのピリ辛炒め。食いながらバスケを観た、ら、第四クォーターが終わると同時にスッと寝た。鍼の効能だ。192/264
11月8日(土)曇。寒い。寝起き良くなし、腹痛し。
一日読書。しかしぜんぜん身体を動かないのも据わりが悪く、暗くなってからバッとウェアに着替え、四百五十メートルだけ、かなりのハイペースで走った。
スーパーで惣菜を買い込んで、食いながらバスケを一試合。Bリーグは来季から、「B革新」という大きな改革が予定されている。その目的に“クラブ間の格差の是正”があるけど、私は、トップリーグのチーム数を減らせばいいのでは、と思っている。今はB1が二十六、B2が十四、B3が十五で、B革新後は最上位カテゴリのBプレミアが二十六、二部のBワン(わかりづらい)が二十五、三部のBネクストが四。そもそも数字のバランスがおかしいではないか。それに、NBAは三十クラブあるけど、人口が少なく、北米ほどバスケが盛んでもない日本では、トップリーグのクラブ数は、二〇一六年にBリーグがはじまったときの十八くらいが適正なのでは。
B革新はクラブ数を削減するチャンスだった、と思うし、当初は最大十八クラブが想定されていたような記憶がある。それが、基準をちょっとずつ落としながら審査を繰り返し、二十六クラブまで増やした。そうするとBワンのライセンスを持ってるクラブが三つだけになる、のでBネクストのライセンスのクラブを大量に仮入会させて二十五にした。そうやって無理をしたせいで、Bネクストは、リーグ戦として成立させるのが難しいクラブ数になった。イギリスのシリー諸島には二クラブだけのサッカーリーグがありますが……。
五十五チームを、十八、十八、十九、に分ければバランスは良くなる。偶数にするなら、(ヨーロッパのサッカーリーグみたいに)Bプレミアクラブのリザーブチームを参加させたり、かつてのJリーグみたいにU-22選抜チームを結成してもいい。アメリカみたいに時差があるわけでもないのだから、(Bプレミアクラスのチームは遠征費も出せるだろうし)カンファレンスを分ける必要もない。
と、私は思うけど、大きな改革にはこんくらいの拙速さが必要なこともあるのかもしれない。このへん、経営者というのをやったことがない私(個人事業主ではありますが!)に欠けてる視点かもしれないな。いずれにせよ、今後時間をかけて改善していく予定なのだろう。192/264
11月9日(日)雨。北海道新聞のコラムのため、一日かけて難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)を読む。
午後一時、雨のなかをジョグに出。一昨日は五キロ、昨日は四百五十メートル、と短い日が続いたので、今日は復帰ランの気持ち。終盤、ミスドの看板を見かけて、無性にドーナツが食いたくなる。信号待ちでNIKEのランアプリを開くと、すでに十一・四二キロ走っている、のでもう今日はここまでとし、買い込む。ちょうどポケモンコラボをやっていた、ので、〈タマゲた!タマゲタケドーナツ〉とか、なんだかよくわからん名前のも買っちゃう。しかしドーナツ六個で一五〇〇円しないの、このご時世だとめちゃ安く感じちゃうな。
徒歩で帰宅。私は家から離れた場所を歩くのが苦手、というか、発作が起きそうになることが多い。その点、走ってるときは、景色が矢継ぎ早に変わるし信号や歩行者に気をつけないといけないし、運動して頭に血が上ったり身体と対話したりで、何かを不安がってる暇がない。でも歩いてるときは、よそごとを考える余裕がある。それでメンタルが揺らぎやすい、のだと自分では思ってる。しかし今日は、ノンビリ考えごとをしながら歩いて帰れた。さすがに身体は冷えたけど、気持ちの良い散歩でした。
夜までかけて『締め切り』を読了、そのあとバスケを一試合。192/264
11月10日(月)快晴、一時雨。
昼にジョン・ル・カレ。ある人物が真相を告白する。しかし、警察署へ向かうスマイリーが、その人物を〈かれがその長い一生ではじめて出会った完璧な嘘つきだと、つよい確信を抱〉いている(P.214)、という記述がある。もう一つどんでん返しがありそう。あと二十数ページ。次で読了できるかな。
一時からラン。十・九七キロ、一時間四分二十七秒。今日はなんかキツかったです。走り出してからフィットネスが整うまで二キロくらいは走りたいのだけど、今日は序盤からゆるやかな上りだった、のが大きな負荷として感じられた、ということか。
午後は『締め切り』についての書評エッセイを書く。なんだか手間取り、暗くなるまでかかった。
晩めしは市販のキットで麻辣湯にした。平太春雨を水に浸けて茹で、買ってきた肉とカット野菜といっしょに煮込み、パウチの調味料を突っこむ、という楽ちん料理。美味しかった。食いながらバスケを一試合。239/264
11月11日(火)曇。朝、厚手のダウンコートを今季はじめて着て散歩に出。
今日は午前からいい感じに捗る。作業時間はそれほど長くなかったけど、みっちりと書けた実感がある。
午後一時にランに出。図書館の返却ボックスに本を放りこみ、二キロほど走ったところで、大学院時代の恩師の一人が向こうから歩いてくるのを見つけた。センセッ!と声をかけた、ら、わあ!と悲鳴を上げられた。十一・九八キロ、一時間十一分二十三秒。
午後もたいへん捗った。晩めしは、昨日の麻辣湯のスープが残ってるので、具とトッポギを突っこんで煮込む。食いながらバスケを一試合。239/264
11月12日(水)晴。三日続けて十キロ以上走っていると、グッスリ寝ても回復しきれない。これが三十六歳ということだ。
昼間で集中してジョン・ル・カレ。案の定、というか、最後に予想外の真相が明かされる。その真相にまつわる、ある人物の過去も。同性愛、という言葉こそ決して使わないが、いくつかの記述からそのことを滲ませていく、情報量の匙加減が絶妙だった。
これで読了。読み終えてから気づいたけど、『高貴なる殺人』の原題は"A Murder of Quality"なのか。
午後一時にジョグに出。途中、紅葉がきれいに色づいているのを見かけて、立ち止まってスマホで写真を撮った。一時間半ほど走り、これで十三、四キロは走っただろう、と、満足してランアプリを見たら、四キロ半しか走っていないことになっている。走ったルートの画面を見ると、どうも写真を撮ったところで計測が止まっている。カメラアプリを開いたことで中断して、再開されないままになっていた、ということらしい。やや落ち込みつつ、それでも数キロ先の銀杏が画像フォルダに残っているし、なによりこの疲労がおれのバンバりの証だ、と開き直った。
シャワーを浴びて髭を剃り、何年も着てなかったスーツを引っぱり出してウットを服薬。革靴も抜いて名刺も準備。今日は夕方から某文学賞のパーティがあるのだ。
今日も原稿はよく捗る。二ヶ月くらい延々、書いては消し書いては消しを繰り返していた、あの停滞は何だったのか、というくらいの流れかた。これはランと同じですね。今日も走り出してすぐはキツくて、一、二キロで精いっぱいかな、くらいの気持ちだったのだけど、走ってるうちにフィットネスが整って、序盤のつらさは消えている。小説もそれと同じで、ウンウン言いながら書いて消して書いて消してをやってるうちに、だんだんその小説を書く身体になっていくのだろう。
没頭してるうちに、出るつもりだった時間を過ぎていた。慌てて着替え、シェアサイクルで出。電動アシストつきなのでグングン走れる。
数年ぶりの授賞式。パニック障碍を発症して以降、招待状が来ても失礼し続けていた場に、また参加するのだ、と、自分が登壇するわけでもないのに緊張してしまう。しかしウットのおかげか、発作への不安というよりは、あんまり得意じゃない社交の場に臨むことへの緊張、という感じ。
会場に入り、クロークにコートを預けたところで、後ろから「水原さん!」と声がかかる。旧知の写真家。入る前に知り合いに、それも利害関係がないというか、編集者みたいな仕事上の関係ではない、たいへん気の好い兄さんに会えて緊張がゆるむ。場内はすでにかなりの賑わい。式が進む間、身動きが取れないくらいの人混みのなかで立ち止まっているの、発作が起きそうで怖かったのだけど、氏が隣にいてくれる心強さもあり、平静に見られた。
式が終わり、歓談に移ったところで、大学院時代の知人が近くを通り過ぎる。思わずデカい声で名前を呼んでしまい、ワッと驚かれた。昨日もいきなり人に声をかけてワッと悲鳴を上げられたな。大学院のころから、ということは十年来の友人なので、ぜんぜん気負わずに話せる。それで完全に緊張が解け、あとはゆったり社交ができました。
数年ぶりの編集者や小説家、大学の先生、初対面の人も何人か。高校時代にめちゃ読んでいた、その作品のせいで私も小説家なんてものを目指しはじめた作品の著者、にも会う。しかしちょっと、会えたのがうれしすぎてあんまり上手く話せなかった。またいつか。
懇親会は二時間ほど。編集者に二次会にも誘われたが、断って出、歩いて帰る。会の途中、発作も起こさずその徴候もなく、旧知の人や初対面の人らとおしゃべりもした。文学賞のパーティなんて、パニック障碍を発症する前、二〇二〇年二月の古川真人さんの芥川賞授賞式以来だ。そこまで戻ってこられたことがとにかくうれしい。264/264
11月13日(木)曇。暗いうちに目がさめ、昨日の日記を忘れないうちに書く。楽しかったので長々と書いた。公開したものは一五〇〇字程度だけど、実際には六〇〇〇字ほど。これがぜんぶ文芸誌に載ったら……と考えてしまうが、勢いで書いたこんなテキストは載せるべきではない。
一時に走りに出。昨日はランの途中で記録が途切れてしまっていた、ので、まったく同じコースを走った。
午後はなんだか捗らず。またちょっとデッドロックに乗り上げつつある?
晩めしは長谷川あかりレシピ。鶏手羽中と長ねぎ、しょうがのご飯、と、牛肉、じゃがいも、ニラの韓国風スープ。手数が多くていい感じにマインドフルになった。食いながらバスケを二試合。
11月14日(金)快晴。なんだか疲れが溜まっている。半休日の気持ちで、ゆったり作業と読書。
一時にジョグに出。今日は三十分の音声ガイドを聞きながらゆっくり走る日。にこにこペースだ。途中、いちょうの並木のある公園にさしかかる。きれいに黄色く色づいていて、観光客が大勢いた。スマホの前でへんな踊りをしていたり、枯れ葉を束ねて薔薇の花みたいにしたのを手に持ってたりと、どのSNSの住民かがなんとなくわかるような。人の間を縫って走るのは大変だったが、気持ち良かったな。
音声ガイドが止まったところで徒歩に切り替え、カフェやスーパーに寄りつつノンビリ帰宅。気持ちの良い運動だった。こういう日が必要だったかもしれないな。
夕方からバスケを一試合。試合のあとは明かりを消してゴロゴロする。ウトウトしたりハッと目が覚めたり、はんぶん夢のなか。しかし日付が変わる前にとつぜん起き上がり、UFOのニンニクイカスミ焼きそばというご無体なカップ麺を啜る。ノンアルコールビールもやりつつ。
11月15日(土)快晴。午前は原稿をやる。昨日、ちょっと大きめの、水原名義ではない仕事が入ってきた。これから一ヶ月はかかる作業量で、そっちに集中してもいいのだが、水原の原稿のほうが自分にとっては大事なのだ。
午後一時に走りに出。二十一・一七キロ、二時間十一分五十七秒。さすがに疲れ切った……。
図書館に寄って本を借り、ドラッグストアでキレートレモンソーダと三色団子を調達。ゆっくりマンションの階段を上がって自室に入り、靴も脱がずに団子をかっ食らった。ソーダもゴクゴク飲む。炭水化物と水分、ビタミンをとにかく身体が欲していたのだ。
午後はくたびれ果てて捗らず。心身がヘロヘロになってしまった。
そのぶん、というのもヘンだが、晩めしは手数の多いものを作った。辣子鶏とやみつき大葉なす。どちらもネットのレシピですが、たいへんに美味しくできました。無印良品キットで栗ご飯も炊く。食いながらバスケを一試合観。ゲームセットと同時に眠気がピークに達し、食器をキッチンに運ぶので精いっぱい。水に浸けることもできずにパタリと寝た。
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